第弐章・表/5
未だ雨は降り続いている。
もう四日は過ぎただろうか。それとも五日か。
馬鹿げた世界との関わりを持ちたくない光琉が幼馴染を避け始めてから、そのくらいは経っていた。
光琉の避け方は多少露骨でもあった。
朝、昼、夕の食事の時以外は殆ど顔をあわせない。会話も一言、二言の挨拶程度のものだけ。
小矢も、あの夜から彼とは間を空けて接するようになり、必要最低限以外に彼の前に出てこない。
季夕も同じなのだろうか。やはり、光琉同様に小矢を避けているのだろうか。
そういえばここ数日、顔を見たことがない。電話の一本もない。
普段であれば、2、3日に一回は小矢の携帯電話にメールなりなんなりが着信され、
オリコンチャートにランクインしている有名なメロディーが着メロとして聞こえてきたのだが、それも、ここ数日聞いた覚えが無かった。
陰鬱だ。
この家の中全体が、陰鬱な空気の底にある。
自分の部屋でベッドに横になっていても、息が詰まりそうだ。
息苦しくて重たい雰囲気に潰されそうだ。
ふと、窓から外を覗くと、ぱらついていた小雨は止んでいた。
部屋にいても気分が重くなるだけだった。久しぶりに外に出てみるのもいいかもしれない。
気分転換になるか解らないが、この陰鬱な空気の底で窒息しそうな思いを味わっているより随分気が楽になれるだろう。
この家の中に、たった一人でいると、本当に窒息して死んでしまいそうだ。
・・・いや、他の誰かが家に居ても、息苦しさは変わらないだろうし、圧し掛かるような重たい空気も、変わるものでもない。
ベッドから飛び起きて、ハンガーに引っ掛けてあった薄手のシャツをTシャツの上から被って部屋を出る。
シンと静まり返った廊下は、全く人気が無かった。
一階に降りてドアの隙間からキッチンを覗く。
何時もどおり、テーブルの上には朝食がサランラップを被せて並んでいた。
昼食は冷蔵庫の中に作り置きしてあるだろう。こちらも何時もどおりに。
食事の用意はされていたが、とても食べる気にならない光琉は、テーブル上の料理をそのままにして玄関を後にした。
雨上がりの町は、雨の残した独特の匂いが溢れていた。
灰色の空はそのままに、雨だけが止んで、かなりの湿気を含んだ空気が嫌になるほど肌にべたつく。
時折吹いてくる風も、妙に生暖かく、不快感を誘う。
半ば衝動的に町へと飛び出してきたが、だからといってやりたい事などなかった。
気分転換の散策も、濁って、くすんで、沈殿したような重たい灰色の下では、気分など晴れよう筈がなく・・・。
自分の胸の中を見せられているようで・・・気分が悪かった。
頭上を見上げれば、落ちてきそうな空の色・・・とでも言うのだろうか。
重く重く、空に立ち込める灰色の分厚い雨雲は、まるでそれ自体が空であるかと思えるほどに広がっていて、内に含んだ水分の重さ故に、今にも落ちてきそうだった。
何もかもが気分を悪くする。
風も、雨空も、灰色の街並みも、心を軽くさせる要素など含んでいなかった。
部屋に居ても、外に出ても、変わらず、心は重い。
息苦しさだけは、少しばかり薄くなっていたが。
一体、なにをしたらいいのだろうか・・・。
そればかりを、考えている。
どうすればいいのか、なにをしたら楽になれるのか。
このまま何もせずにいるのが平穏を護ることになるのだろうが・・・
それは、何か違うと思えてならないのだ。
このまま何もせずにいる。
聞いたことを、見たことを、洗い浚い忘れて、眼を瞑って、背を向けて・・・。
最初から無かった事にして・・・・。
それで全てが元通りに戻るとは思えなかった。
現に、あの出来事から背を向けているが、心が晴れる兆しすらもないではないか。
家の中では蟠りを沈殿させた重苦しい空気を吸って、顔も合わさずに避け続けて・・・。
家の外でも嫌な気分を抱えて、気分の悪さは募る一方だ。
では、だったら、どうしたらいいのだろう・・・。
最早何度目になるかさえも解らない問い掛け。
答えのない禅問答と向き合っている気分だ。
「はぁ・・・・」
溜息は無意識に漏れた。
気が滅入る。
数日振りに雨が止んだ町に、人の数は徐々に多くなってきた。
光琉と同年齢の男女が、雨を回避してどこぞの屋根の下で退避していた猫の群れのようにフラリフラリと姿を見せ始める。
梅雨なんて当に空けたにも関わらず雨が続いた天気に顰め面を浮かべ、
散々に愚痴る彼等と彼女達は、ようやく振りに雨音が跳ねなくなった町に繰り出し、さて、どこに行こうか、と、楽しそうに喋っている。
通り過ぎる6人ほどの男女のグループを、光琉は立ち止まり見送っていた。
通り過ぎた彼等の笑顔が、なんだか別世界のもののように思えてしまう。
彼等と自分の間には有刺鉄線が境界を分け隔てているように感じてしまう。
自分は、この数日間で笑い方など忘れてしまったかと思えるのに、普通に笑える彼等が羨ましい。
何の不安もなく、何の心配もなく、ただ、日常を謳歌しているから笑えるのか。
自分とは違うから・・・不安と悩みだらけで、窒息するような空気に押し潰されそうになっている自分は、笑えない。
彼等は、自分とは別の世界の空気を吸って生きている住人なのではないか。
そんな事を考えるのさえ普通じゃない気がして、更に気分を落ち込ませた。
なんとなく喫茶店に入り、なんとなく時間を潰し、なんとなく町をぶらついて、気が付けば日は傾いていた。
半日近く町をフラフラしても、居場所が見つからない。
人数の多い場所に出ると喧騒が五月蝿くて溜まらず、人気のない場所に行けば、静か過ぎて寂しい。
と、その時だった。
突然耳鳴りがした。
金属を擦り付けたような甲高い音が脳に直接響いてくる。
「・・・つぅ」
なんだっていうんだ。
時折訪れるこの耳鳴りは一体なんだと言うのだ。
「くそ」
片手を額に沿え、苛立ちを吐いて捨てる。
治まる気配のない耳鳴りは今の精神状態にとっての雑音でしかない。
キィィ・・ンと何処までも尾を引くような反響に苦しめられる。
不快だ。不快極まりない。ただでさえ気分の悪い時に、なんだってこうも苛立つものが聞こえるのか。
大体、この耳鳴りは何が原因なのだ。
訳も解らずに走り出す。
とにかくもこの場所から離れたかった。
傍から見れば随分奇妙な光景に見えたことだろう。
周囲にいた同年齢の若者達が、突然駆け出した光琉に奇異の視線を投げかけている。
「なんだ、アイツ?」
「ちょっとオカシイんじゃない?」
「アブナーイ。ヤバイ薬やってんのかな?」
クスクスとした笑い声が背中に響く。
バカにする会話も、狂人に向けるような視線も、気にしている余裕はなかった。
ただ、ここから少しでも遠ざかる為に両足を必死で動かせるだけだった。
まるで逃げ出すようにして・・・いや、実際に光琉は逃げ出したのだ。
喧騒から、人波から、耳鳴りから、不快感から、気分の悪さから・・・
「はぁ・・・・はぁ・・・・はぁ・・・はぁ・・・・」
肺が休みなく働かされ不平を鳴らして鈍く痛み出している。
蒸し暑い最中を走ってきた所為で、シャツは肌に張り付くようにベッタリと重く不快だった。
滲んで垂れ落ちる汗を吸った前髪が重く額に張り付かせていた。
「はぁ・・・・・・はぁ・・・・はぁ・・・・・はぁ・・・・・」
どれくらい走ったのか。
気が付けば町の中心部からかなり遠ざかって、周囲は静かなものだった。
表通りから道三本以上も離れれば、流石に人の気配はない。
代わりに、売り地の看板が掲げられた空き地や、テナント募集の広告がガラス窓に張られたコンビニ跡、それに小さな個人経営の飲み屋が立ち並び、閑散とした空気がある。
この辺り一帯だけが夏休みの騒がしさとは掛け離れた空間であるようだった。
まだ明るい時間、裏通りに並ぶ飲み屋の類いは準備中の看板を掲げてオープン前で、人通りは少ないのが当然なのだろうが、些か静か過ぎたとも言える。
幾らなんでもおかしい。変だ。幾ら日がある内とはいえ、この静けさは異様だ。
薄気味悪い雰囲気に、光琉は知らず知らず固唾を飲み込んでいた。
人の気配がまるでしない街角は、さながらゴーストタウンといっても過言ではなかった。
一体どこの穴倉に身を潜めているものやら、人っ子一人、人間の姿など影も形も見えやしない。
吹き付ける風さえも、虚しく通り過ぎるだけだった。
只ならぬ薄気味悪さに一つ身体を震わせる。
空虚な景色は、まるで本当に、この裏通りの一角だけが世界から忘れ去られてしまったかのような静けさだ。
静寂の底に沈んだ場所にも関わらず、耳鳴りだけがまだ聞こえていた。
否。先ほどよりも高い音量で鳴り響いている。
「なんなんだよ・・・コレは・・・」
軽い眩暈を覚え、立ち眩む。
「・・・ぅ」
頭を抱えてその場に座り込んでしまった光琉の耳に、不意に呻き声が聞こえた。
耳鳴りが甲高く鳴り響き、前後不覚にすらなっている彼には、それは最初自分が漏らした声だとも思えた。
「・・ぁ・・・・」
二度目に聞こえた小さな呻き声で、自分以外の人間がこの界隈にいるのだと解った。
か細く聞こえて来た声は余りにも小さく、低かった。男のものか女のものか判断できないくらいに。
病気や怪我で苦しんでいるような感じの声ではあったが、別に無視しても良かった。
それなのに、光琉の足が呻き声の聞こえた方に向かっているのは、聞こえて来た声に聞き覚えがあった気がするからだ。
立ち並ぶ居酒屋とバーの一角。奥に入った薄汚い路地裏を、胸騒ぎに似たものを抱えながらついっと顔を覗かせる。
依然鳴り止まない耳鳴りに苛まされながら視線を滑らせると、狭苦しい路地裏に一つの影が横たわっていた。
いや、影は一つではなかった。良く良く目を凝らして見れば、二つの影が重なって一つの不恰好な影に見えただけであった。
傾いた日の光が路地裏に垂れる薄暗闇の幕を薄地にさせていた。
視界に入る影の顔を識別した瞬間、彼は咄嗟に物陰に身を隠れ踵を返そうかと思った。
建物と建物の隙間、壁に上半身を預ける格好で倒れているのが、今、最も会いたくない相手だったのだ。
今、どんな顔を下げて小矢に会えというのだ。
その思いが、半ば反射的に物陰に身体を引っ込ませようとするが、出来なかった。
「ぁ・・・・っ・・・・」
弱々しく呻く小矢は殆ど意識のない様子で、倒れている彼女の上に人間の子供ほどの大きさもある何かが乗っかっていた。
グルル・・・と喉を鳴らす異様に馬鹿でかい猫だった。ソイツが妙に人間臭い冷酷な表情を浮かべ、意識のない小矢のシャツを器用に噛み千切っている。
ドクン。
鼓動が一つ高く跳ねた。
物陰から覗いている光琉にも気付いているらしく、一度こちらの方に顔を向けたが、
「死にたくなかったら向こうへ行ってろ」とでも言うような嘲弄めいた表情で、「フン」と小さく鼻を鳴らしたに過ぎない。
ドクン。
呼吸が、やけに苦しい。
気を失った小鳥に向き直ると、巨大な猫は小矢のシャツを噛み裂いた。
布切れと変わり果てたシャツの下から、青と白のストライプのブラに包まれた下着に包まれる小振りな胸が現れる。
満足気に醜悪な笑みを浮かべ、異様な猫は喉を鳴らして獲物、やけに長い舌を伸ばす。
露になった少女の白い胸元から喉にかけてペロリ舐め上げる。
「ぅ・・ぁ・・・・」
唾液塗れの舌の感触に、彼女の唇から嫌悪の呻きが洩れた。
小矢の反応の良さがいたく気に入ったのか、悦に入った笑声をくぐもらせ、今度は喉元から胸にかけて舐め下ろした。
ドクン。
小矢の声に、心臓がまた跳ねる。
「ぃ・・・や・・・」
嫌悪感を身を捩らせる小矢の様子に、化け猫は加虐趣味を満足させる笑みを零していた。
悦に歪む口に、ゾロリと甘味を味わった舌を引き戻す。
上質のワインを舌の上で転がすように、舌先に残る獲物の味を確かめているようだった。
「う・・ぁ・・・・」
ドクン・・・・
身体中の血が沸騰しそうだ。
苛立ち、怒り、憎しみ・・・・
そんな言葉では表せやしない激情が血液と共に全身を駆け巡っている。
苦しい。痛い。辛い。
・・・・気に入らない。
「っ・・・あっ」
迸る叫びが塊となって喉を塞ぎ、声が出ない。
ただ、胸の中が焼き付くほど熱く・・・痛かった。
心の奥底から、凶暴なモノが目覚める。
鎌首を擡げる蛇のように・・・・・毒牙を剥いた。
視界一面が紅く染まる。
真赤に・・・。
「はぁ・・・っ」
クッと眉を顰めさせ、下から覗き込むように化け猫を睨む光琉の瞳は、言い知れない凄惨な灯火が灯っていた。
まるで、爛と輝く鬼火が波間に揺らめいてでもいるかのようだ。
「・・・・・!!」
声にならない叫び。ヒュゴッと鋭い呼吸音だけが喉かた矢となって放たれた。
身体は既に動き出していた。最早自分の意思ではない。本能が動かすままに化け猫に向かって突進していく。
歯牙にもかけていなかった人間の特攻に、化け猫は目を剥き威嚇の雄叫びを上げたが、
意識のない獲物を蹂躙する事にのみ気を取られていた所為か、迎え撃つ体勢を整えるのは一瞬遅れた。
仮に万全の体制を整えていようがこの時の光琉には関係なかったが。
やるべき事をやる。望むべき事を実行するだけだ。
毛を逆撫でさせた化け猫に腕を伸ばすと、子供ほどの大きさのある猫の頭を無造作に鷲掴みにして、小矢から引き剥がした。
夢中で暴れる猫の頭を掴みながら、そのまま振り子でも振るように、建物の壁に猫を渾身の力で叩き付ける。
「フギャァ!」
叩き付けられた猫が血と苦痛を吐く。
五月蝿くて堪らない。
反動を付けて次は反対の壁へ打ち付けた。
「ギャァッ!」
子気味のいい音が鳴った。
実に感触の良い手応えが掌に広がる。
更に左右の壁へ。
叩き付ける。
打ち付ける。
掌から猫の暴れる感触が完全に消えるまで繰り返す。
光琉の表情は凄惨な色そのままで、原始的な凶暴さだけがやけに強く現れている。
爛として輝く両眼は凶悪な光が鬼火となって灯り、怒りや憎悪を超越した歪みが顔全体に広がっている。
口元を歪ませているのも、怒りなのか、憎しみなのか、定かではない。
口端は笑っているようにも、憤怒しているようにも見えた。
10回以上は左右の壁に叩き付けて、ようやく抵抗はなくなった。
壁に減り込む猫の頭を両手で掴み、ゴリィっと押し当てながら光琉は駆け出した。
「ギャァァァッ!!」
コンクリートを削るようにして猫の頭を押し付け引き摺る。
壁の破片と一緒に赤黒いものが飛び散っていく。
それは光琉の腕にも、服にも、顔にもビチャビチャと飛んでくる。
猫の顔面から引き剥がされた皮と肉と血だろう。
生臭い臭いを鼻の近くで嗅ぎながらも、飛んでくる肉片混じりの返り血には全くの無関心で、引き摺り続ける。
最初こそガリリと壁を削る音が響いていたが、後は肉が抉れ潰れる音となっていた。
10mも引き摺っただろうか、叫んでいた声に血の音が混じってきている。
段々と猫の叫び声は小さくなっていた。もう叫ぶ元気もないのだろう。
暴れる気力も無くした猫はグッタリとなっている。
壁から引き抜いても抵抗すら見せず、さながらヌイグルミのように四肢をブラリとさせ、借りてきた猫のように大人しい。
顔の半面の皮が完全に捲れ上がり、赤黒い肉からは繊維の走る状態さえ覗え、血に濡れた白い頬骨が覗く。
そこにコンクリートの細かい破片が突き刺さり、異様さを超えてグロテスクですらあった。
血塗れ。顔の半分がまさしくも血塗れの状態。
光琉の目線にまで持ち上げられた化け猫は瀕死半生の浅い呼吸を繰り返しながら怨嗟の眼差しを彼に投げ付けていた。
「・・・・ふっ」
息も絶え絶えの猫を、人形でも扱うかにして、大きく振り上げると硬いアスファルトへ向けて一振り。
グシャリと鈍く響いた。血が赤い花火のようにアスファルトに花弁となって広がった。
「ギャァッ!」
更に持ち上げてもう一振り。
血が飛んだ。
「ギャッ!」
持ち上げて一振り。
肉が弾けた。
「ブギャ!」
持ち上げて一振り。
潰れた眼球が一つ飛んだ。
「ゲゥ・・・」
持ち上げて一振り。
骨の砕ける音が響いた。
「・・・・」
持ち上げて一振り。
ビクリと大きく猫の全身が跳ねた。
もう、微かな呻きすらもあげなかった、
一振り・・・。
一振り・・・。
一振り・・・。
一振り・・・。
一振り・・・。
一振り・・・。
一振り・・・。
一振り・・・。
何度繰り返しただろう。化け猫は最低限の猫としての形すらも止めていない。
挽き肉。グチャグチャに潰れた血塗れのミンチ。トマトをベースにしたフリカッセ。
ソレを何と形容するのか、ソレは最早、猫ではなかった。
完膚無きまでに破壊の限りを尽くされた後、残骸だ。これは。猫だったモノの残骸。
壊し尽くされた破片の数々が散らかっている。
辺り一面、吐瀉物を巻き散らかしたような赤黒い汚物の池。
血、肉、皮、所々に点々と見え隠れしているのは頭蓋骨の欠片だろうか。
猫の残骸がそこいら中にぶち撒かれている。
光琉の視界にまず入ったのは、そんな紅い景色だった。
視線を下げれば、左右の掌に握られた肉片。
前脚だろうか、後ろ足だろうか、それとも、尻尾の部分なのかもしれない。
とにかくも、紅く塗装された細い肉の一部を両手は握り締めながら、狂人のキャンパス同然に極彩色の真紅で彩られた狭苦しい路地裏で、壁を背に座り込んでいた。
本当ならば、両手に握るモノを放り投げ、この惨状に嘔吐感を込み上がらせ口元を押さえて蹲るのが正しい反応かもしれないが、光琉にそんな余裕はなかった。
いや、余裕云々ではないのかもしれない。妙に心身共に疲労していて、目の前に広がった惨劇の生々しい傷跡などどうでもよかった。
鈍重な動作で左右の掌の中にある肉の一部を放り捨てる。
ただ、芯に疲れが残っているような頭の片隅で、「これは俺がやったのか・・・・?」と、ぼんやり考えていた。
両手に千切れた足だか尻尾だか解らない肉を持っている以上、自分がやったのだろうが、記憶が曖昧だった。
あの手応えを掌は覚えている。
振り上げて叩き付けた確かな感触を。
肉が潰れる音も。
血が飛び散る音も。
骨が拉げ砕けていく音も。
砕けた頭蓋骨から脳漿が泥のように流れ出す様も。
覚えている。記憶している。
脳の神経を焼くほどの灼熱した激情と共に。
全て、自分がやった事だと。
それなのに、奇妙に現実感を欠く希薄な感覚が付き纏っている。
頭の中にも、神経にも、薄い霧が入り込んでいるような、曖昧な感覚・・・
気分だけが妙にクリアだった。透き通っているとでもいうのか。爽快な・・・ものだ。
いや、そんな事はどうでもいい。
とりあえず、小矢を何とかしなければ。
壁に手を付いてバランスを取りながら重い腰を上げて、気を失ったままの彼女へ近寄ったが、目のやり場に困った。
小矢の服は先ほどに引き裂かれたままの状態になっており、当然ながら、胸元の白い肌は外気に晒されている。
控えめすぎる胸と、小さな胸を包む青と白のストライプに彩られたスポーツブラを隠す布地は殆ど申し訳程度で、意識しなくても目を向けるだけで見えた。
一応、ざっと見渡す程度に傷の確認だけしたが、外傷はなかった。
家に戻ってからきちんと調べなければ何とも言えないが、どうやら気絶しているだけのようだ。
とりあえず、Tシャツの上に着ていた薄手のシャツを彼女に着せてやる。
彼の背後では、挽き肉にされた化け猫の死骸をそのままにしておく事に気が咎めないでもなかったが、どうする事もできなかった。
この前のように霊符など彼は持ち合わせていないし、後始末をする余裕も無い。
何よりも、肉片と血が飛び散った範囲が広く、一人では始末も無理だった。
後で通りかかった通行人が驚愕して、警察に通報するかもしれないが、そんな事まで面倒見ていられなかった。
そこまで考える精神的な余裕が、この時の光琉には欠落していた。
夕暮れに染まる道を幼馴染を背負って帰路につく。
背中の少女は、やけに小さく、やけに軽かった。
華奢な身体。それこそ力を入れれば容易く壊れてしまいそうなほどに。
ガラスのように儚い・・・
こんな身体で・・・・
こんな小さな身体で、あんな化物とやりあうなんて土台無理な話なんだ。
中学生程度にしか思えない少女は、それでいて、確かに温もりを背に感じられる。
トクン、トクンと規則正しく脈打つ鼓動も、触れ合った場所から伝わってくるようだ。
時折、首筋に吹きかかる吐息がくすぐったく、仄かに甘い香りに鼻先を擽られた。
「女の子・・・・なんだよな・・・・」
場違いかもしれない感想を、やや感慨深く呟く。
今まで意識した事ない無かったが、こうして背負い、小矢の体重を感じていると、自然と感じてしまう。
自分は男で、小矢が女である事を。幼馴染だけど、幼馴染ではなく、一人の少女だと。
胸が・・・・痛かった。
一人の女の子に、無茶をやらせ、押し付け、男である自分が見て見ぬ振りをして、手を貸そうともしなかったどころか、放っておこうとさえした。
彼女と距離を取り、自分だけ危険から遠ざかって、安全な場所でヌクヌクとしていた。
そんな考えから来る痛み。だが、それだけでもないような気もする。
他にも、何か、別の理由から痛みを覚える気がする。上手く説明できないが、他の理由があるのではないのだろうか。
説明も出来ない痛みに、胸が締め付けられた。
それを堪えるようにして、クッと唇を噛み締める。
ポケットから取り出した携帯電話で季夕に連絡を繋ぐ。
コール音が5回続いた後、ブツリと接続音が聞こえた。
「あ、季夕か?」
『・・・なに?』
やたらと暗い声がスピーカーから返って来た。
彼女も、あの日以来考えて、悩んで、困惑しているのが覗える。
光琉と同じように、今まで親友だった幼馴染にどう接していいか苦悩しているのだった。
「すまないが、今から家に来てくれ」
『どう・・・して?』
「小矢が・・・・ちょっと、な」
『えっ・・・・?』
向こうから息を飲む気配が伝わってくる。
「あ・・・いや、大した事はないと思うんだけど・・・一応な。
詳しい説明は家でするから、頼む」
『・・・・・・』
無言の反応は、躊躇っているのだろう。スピーカーの向こうから思案気ない気遣いが聞こえていた。
だが、躊躇の時間はそれほど長くなかった。15秒ほどだろうか。
幾ら色々問題があるとはいえ、親友の事を放っておける性格ではないのだ、季夕は。
『うん・・・解った。
とりあえず、そっちの家に行くわ』
「悪いな・・・じゃあ」
先に此花家に向かう旨の了承を得て、通話を切った。
背後から射す黄昏た夕日を浴びて、路上には長い長い影が落ちている。
自分の影を追うように、軽すぎる少女を背負いながら帰路を歩いていく。
やけに身体が重かった。