第弐章・表/4




19時頃から降り始めた雨はパラパラとした小雨だったが、21時を回ろうかと時刻から本格的に降り始めた。
降り始めた雨は夜気から熱気を奪ったが、代わりに多量の湿気を運んでくる。
分厚い鉛色の雲と、容赦なく大地を打ち付ける雨のヴェールが夜空と月を人々の目から隠している。
季節が梅雨時に巻き戻されたかと思うほど空気はべたつき、不快感を肌に纏わり付いてくきた。
夏の夜に相応しくないほど陰鬱な夜の姿を見せる今夜は、
町の何処を見ても遊びに出歩いている人影は少なく、除湿と冷房を効かせた部屋の中で大人しくしている事だろう。

白城神社の本殿に、光琉、小矢、季夕は集まっていた。
瑠香は先に家に帰っており、今頃はベッドの中、疲れて眠っているだろう。
彼等だってそうしたい気分だ。今夜はとにかくも色々ありすぎた。
肉体的にも精神的にも疲労している。だが、このまま休むのはどうにも気分が悪い。
この状態で床についても余計な事を思い出し、解らない事を考えて、眠れそうにはない。
誰かに、それこそ誰からでも構わないから説明が欲しかった。
疑問を打ち払う為の白羽の矢は親友であり、幼馴染でもある少女、小矢に立ったのだ。

あの怪異を目撃してなお、彼女は冷静さを失ってはいなかった。
季夕などは完全に取り乱し、二度目だった光琉にしても動揺と困惑を隠せなかったのに、だ。
それは、小矢が、アレを知っていたからではないか、アレを、二人よりも身近なモノとしているからではないか。
何もかもとまではいかないまでも、自分より彼女の方が理解しているに違いない。
と、思考がそう導き出すのにそれほどの困難は無かった。
今まで見えていたものを見て、聞こえていたものを聞けば、誰に疑問をぶつけるべきかは決まっていた。

三人の中で一番奮戦したのは光琉だっただろう。
両肩に負った爪痕、両腕に残る内出血がそれを如実に物語る。

傷口を洗浄し、消毒液を塗り、滅菌ガーゼを当て、肩を包帯で巻く。
小矢の単なる応急手当に留まらない治療は実に手際が良かった。
慣れているとしか思えないほどで、彼にますますの確信を与えさせ、ついぞ疑問の矢口を言わせるものであった。

「知っているんだろう、アレが何なのか」

と、光琉が言った時、驚きを表情に浮かばせたのは小矢ではなく、むしろ季夕の方だった。
だが、それすらも殆ど一瞬の変化であり、彼女もまた彼と同じ思考の軌跡を辿り、ある程度は勘付いていたようであった。
今夜体験したものの答えは親友から得られるものである、と。

説明と回答を求められた幼馴染は、数瞬以上口を噤んだが、黙して逃げるのを彼と、もう一人の少女の目は許さなかった。
季夕にしても何の説明もなしで打ち切られては堪らなかったし、光琉にすれば、看過するなど到底できそうにない。
二度の体験が、好奇心以上に知る事を求めさせていた。

「忘れた方がいいよ」

答えを求められた少女は幼馴染に対し、そうは言わなかった。
口にしなかっただけで、望んでいるのは、二人を見返す小矢の目と表情が語っていた。

何処か翳りを見せる小矢の顔に光琉も季夕も頑なな視線を浴びせ、彼女の願いを拒絶したのだった。
ややあって、小さく溜息に似た吐息を吐き出して、小矢は折れた。

木造の室内は木の除湿作用によって清涼とまではいかないものの、不快感は和らげられている。
無闇に広い室内は薄暗い。立ち込める闇を削るのは昔ながらの蝋燭の灯火だけだった。
改装と補修を何度かしてきた神社ではあったが、電気配線は境内の数箇所に灯る電灯だけで、本殿の中には一切通電していなかった。

救急箱の蓋を閉めた小矢が、季夕と光琉から少し間を取って正座する。
三人が三人ともそれぞれの表情で硬く真剣な顔になっており、重苦しい雰囲気を作っていた。
その中の二人、光琉と季夕は口を少し開きかけたかと思えば、閉じ、何かを言い淀んでいた。
さて、聞くにしても何から聞くべきか、そして、どのような言葉を発するべきかを掴みかねているようだ。

「・・・アレは、何だ?」

充分な時間を費やして光琉が口にした台詞は殆ど何の工夫もない直線的なものだった。
飾った言葉よりも一言で中核に触れる言葉を彼は選んだようだ。

「・・・・・」

突き刺してくるような幼馴染の視線を受けながら、軽く瞳を閉じた小矢。
返答を待たされると考えていた光琉だったが、思いの外速く小矢の口は開き、簡潔な言葉が返ってきた。

「見たまま・・・よ・・・」

「・・・まさか、本当に・・・正真正銘の・・・」

・・・・化物か?
息が詰まったように光琉は口を動かしただけで、最後の一単語は言葉にならないでいた。
彼の言わんとするものを察し、ただ小矢はコクリと小さく頷く。
十二分に予想していた答えではあったが、改めて答えられて唖然としただろうか。
険しい表情を更に険しくして、光琉は呻くように小さな息を吐き出して押し黙ってしまう。
いや、そんな、まさか・・・・と、内心で信じきれない部分が、実際に体験していても、シコリとなって残っていた。

互いに穏やかならぬ視線を交し合う光琉と季夕は未だ半信半疑の気持ちを引き摺っていたからか。
それとも、小矢にアレがそんなモノではなく、ただの野犬だと否定して欲しかったのだろうか。
いずれにせよ、聞いてしまった以上は納得のいくまで追及するしかなかった。

「それで・・・・サヤは・・・。
 昔から、そうゆう化物と、今日みたいなことを・・・・?」

恐る恐ると言った感じの季夕に、小矢はやや間を空けて、コクリと頷いた。

「家の家系は、昔から、そういった家系らしくて・・・私も、その、やっぱり、普通とは違ってて・・・・・」

たどたどしく説明するが、言葉を重ねるごとに小矢は俯いてしまっていた。
やはり、自分の事を自ら普通ではないと白状するのは抵抗があるようだった。
それも、長年の付き合いがある幼馴染の前でとなれば、快い気分になれないのも当然だ。

「あの、最後の方で口にした歌・・・みたいなものは?」

獣の歯に両腕を挟まれ、あわや圧し折られる寸前までいった時、小矢から小難しい言葉が聞こえた。
歌うような音楽的リズムを口にし、両手を打ち鳴らした途端、獣の動きが止まった。
あのシーンが、光琉の脳裏に思い起こされている。

「あれは・・・祝詞よ・・・」

「のりと・・・?」

聞き慣れない言葉を耳にして、反覆する。

「そう、祝詞。
 神道で祝辞を祝い、神仏に感謝したりする祈りの言葉。
 同時に厄払い、破邪の言霊でもあるの・・・
 キリスト教の聖書と一緒・・・」

納得できたのかできないのか、心持ち眉を顰めたままの光琉は、祝詞というものがどうやら一種のお払いの言葉であるのはとりあえず理解できた。
だが、いよいよ現実味というヤツが輪郭を失ってきているようだ。
化物が現実にいて、ソレを退治するらしい者がいて、呪文がある。
こうなると古臭いファンタジーだとしか思えない。それとも、馬鹿くさい与太話だろうか。
どちらにせよ、信じるには到底値しないものだ。
言ったのが小矢ではなく、光琉自身も実際に目の辺りにしていなければ、発言者を精神病院に連れて行くところである。
いや、むしろ、病院にお世話になって済む事態であるなら、そうしたかっただろう。
小矢がおかしいのか、光琉自身が変になっているのか、どちらかを隔離すればそれで済むのだから。
しかし、どうやら現実は彼の願いを聞き届けてくれそうになく、馬鹿げたファンタジーがリアルであるらしかった。

「じゃ、獣が火吐きだして焼かれていたのも、消し炭になったのも、その、のりと、ってやつの効力か?」

「それは、違う。あれは霊符の効果よ。
 祝詞は呪文でも魔法でもないの、ただの音。
 だから、唱えただけで火の玉が出たりとかはしないの」

「・・・?」

「えぇっと・・・光琉も、黒板を引っ掻いたり、金属が擦れ合う甲高い音は苦手でしょう?
 それと一緒。祝詞の音律はああゆうのにとって、苦手な“音”なのよ。
 霊符はその名の通り、御札・・・こうゆうのよ」

スカートのポケットから何種類かの紙切れを取り出し、ついっと光琉の方へ差し出す。
光琉の前に並べられた紙切れは完全な正方形から良く見かける細長い御札、
横に広がったやつまで紙の形状は色々で、手にとって見ると、朱や碧、青といった具合に墨で記号めいた文字が書かれている。
手触りも何もかも、普通の紙切れだ。
こんな紙切れ一枚が獣を内部から焼き殺しただなんて到底信じる事が出来ない。

「えっと・・・サヤのお父さんが事故で亡くなったっていうのは・・・もしかして・・・」

「あっ、あれは、本当。
 そうゆうのも・・・うん、やっていたけど、でも、原因は事故だよ」

現実に対する呆れのようなものを感じている光琉の横で、季夕は変に勘繰ったが、取り越し苦労に終わったように思えた。
こうなってくると、小矢の父親が実は単純な事故死ではなく、怪物と戦って命を落としたのかもしれないとも疑ってしまうものも可笑しくは無い。

「そう・・・・じゃ・・・・お母さんは・・・・」

「うん・・・やっぱり、同じかな・・・・
 霊符だって、お母さんから教えてもらった物だし・・・」

「そう・・・か・・・・海外に居るのも・・・その所為?」

「うん・・・・・・」

納得はしたものの、それ以上の言葉を季夕は持ち合わせていなかったようで、呟いたきり口を噤んでしまった。
光琉にしてもそれは同じであったのか、何となくだんまりになって、薄暗い本殿に降りる沈黙に雨の音だけが混ざっていた。
三人が三人とも口数少なく、無為に時間だけが刻まれていった。

20分も過ぎた辺りだろうか、ずっと正座をし続けていた小矢が急に立ち上がり、本殿奥の片隅にある襖を開けた。
其処からは屋根のある廊下を伝い、家の方へ行けるようになっている。いわば、裏口である。

「もう、晩いわ。
 今日はもう休みましょう・・・」

開いた戸口の横に立つ小矢の声にも姿にも、何時もの雰囲気など無かった。
疲れたように頭を項垂れせ、声音も弱々しい。
本当に疲れているようだった。

立ち上がり、光琉と季夕が裏口から自宅へと歩き出したその後姿へポツリと囁かれた。

「ごめんね・・・巻き込んで・・・・」

大地を打ち付けてくる雨の音の中、声は余りにも小さいものだった。
殆ど掻き消えそうな言葉の破片は、光琉の背中に辺り、彼を振り向かせた。

「・・・・?」

声が聞こえた気がして振り向いた光琉の視線の先で、小矢は微笑んでいた。
困っているような、疲れているような、儚い笑みで。
微笑みが視界に映っていた時間はほんの数秒ほどで、気付けば、開いた引き戸を閉めている彼女の背中を見ていた。
一瞬垣間見た弱い微笑に込められたものを知りたかったが、戸を締めて横を通り過ぎようとした彼女の顔には笑みは浮かんでいなかった。

「なにしてるの? 風邪引くわ。
 速く部屋へ戻りましょう」

立ち止まっている光琉を斜め下から見上げた小矢だった。
元気のない口調ではあったが、普段どおりの気遣う台詞に、彼は「あぁ」と曖昧に頷いた。
あの微笑の意味を、彼女に聞くことは無かった。

「季夕、これ・・・」

「いらないよ。歩いて帰る。家、近いし」

「でも」

「じゃ、ね」

季夕を玄関まで見送った小矢が傘を差し出したが、親友はそれを断って、雨の中を走っていった。小矢に止める暇もなく。
50mほどと離れていない距離といっても、激しい雨だ。家につくまでには全身濡れ鼠になるだろうが、季夕は構わないようだった。
むしろ、雨に打たれたいと思っているのかもしれない。光琉だって同じ気分だった。
冷たい雨に頭から爪先までを捧げて、頭の中と胸の中に蟠るものをいっそ全部洗い流して欲しい。
そうすれば、もう少し気分が落ち着くかもしれないのだから。

雨に濡れた夜に季夕の姿が見えなくなって、小矢は静かに玄関を閉めた。
ピシャリと閉ざされ、鍵をかける音を、階段で聞いた光琉は沈黙したまま部屋へと向かった。
今夜は誰かと話したい気分にはならない。とにかくも一人になりたかった。

くそ重たい気分を引き摺るようにして、ベッドに身を投げる。
苛立ちだか何だか解らないモヤモヤが心を充満してて、どうせ寝むれやしないだろう。
仰向けに寝転がった彼の目は、明かりもつけない部屋の天井だけを見つめていた。
やけに近い雨音は一向に止む気配を見せず、夜の色だけが深まっていく。

今夜の一件を、どう受け取るべきか。
恐らくは、季夕も、それを悩んでいる。
その答えが出ないから、胸にシコリが残って、モヤモヤとさせている。

彼等を取り巻く世界は、それほど変わってはいない。
むしろ、何も聞かなければ、何も知らされなければ、僅かにも変化しなかっただろう。
微塵も変化のなく、世界は何一つ変わる事なく其処に在ったはずだ。
だけど彼は、もう知ってしまった。知りたいと願ったのは自分の意思だった。
知った後は、聞かなければ良かったと一握の後悔を噛み締めている。

知らない方が幸せな場合もある。
何時か読んだ小説の一説が何気なく脳裏を横切る。
皮肉なことだ。まさかそれを実感する日が来るとは。
知らなければ、以前と変わらない世界の中に居られた。知った後で世界はその色を僅かに変化させた。
ほんの少しだけの変化。微かな色違いを気にしてしまう。

化物が実在する。そんな事はどうでもいい。眼を背け、見て見ぬ振りをしてれば済む。関係ない。
問題は、それに自分の知り合い・・・それも、一番身近な人間が関わっている事。
世界の色違いを無視することは、彼女をも無視し続けることになるのだろうか。
今までの三人の関係が心地良く、できれば変えることなく存続させていきたいが、どうにも難しい。
彼女が、そうしたのからすっぱり手を切れば良い。それで全て解決する。
訳の解らない事には付き合わずに済むし、馬鹿げた事ともサヨナラだ。
これまで通り、普通でいられる。面倒ごとに関わることなく。

それが叶わない時は・・・・。

「・・・・正義の味方にでもなれってか」

と、天井に向かって嘯いた声にはあからさまな嫌味の成分が込められていた。
人命救助も、世界の平和も、また結構なことだろう。
そんな事は英雄願望と博愛精神に溢れる人間が勝手にすればいい。
したいヤツがやれ、でしかない。
彼はそんな高尚な趣味の持ち主ではなかった。

「くそっ・・・」

胃重に似た気分を味わっているようだ。
瞼の裏に獣の顔が思い浮かび、ジクリと両肩の傷を痛ませた。

あんな世界に進んで関わりを持ちたいとは思わない。
今夜の一件だけで充分だ、充分過ぎる。正直なところ、二度とご免だ。

小矢との距離を少し開けるべきだろうか・・・。

一向に纏まる気配のない思考野の一角で、そんなことを考えた光琉だった。
理解もできない、したくもない異常な出来事と出くわすよりも、平穏な生活を。
例え何の起伏も変哲もない日常であっても、オカルトな世界よりはずっとマシだった。
何より、明日からどんな顔して会えばいいのか解らないでいる。
顔をあわせたとして、どんな事を話せというのだろう。

接し方が解らない以上、時間の共有は、双方にとって苦痛しか齎さない。
お互いにぎこちなさを感じつつ、普通に振舞い、今までどおりの日常を演じられるほど、彼は器用な人間ではなかった。
小矢も、そして、季夕も。

平穏などというものを求めるとは、彼自身、苦笑する思いであった。
物心付く前から二親とも死に別れ、親戚中を盥回しにされ、それまで聞いたこともない親戚の名前が浮かび、此花家に引き取られた。
幼少時から余り平穏とは呼べない時間を過ごし、此花家に落ち着いてからも、もっと違う何かを期待していたものだ。
同じ毎日を繰り返すだけのような学生生活に浸りながら、もっと別のものを、もっと違うものを求めていたのではないか。
刺激的な、と、言う何かかもしれないが、物足りなさを感じつつ、暮らしてきたのではないか。

彼の望む変化が訪れた。
奇怪な獣に、普通とは異なる世界。
しかし、訪れた変化を一向に喜べない。
それどころか、疎ましがっている。忌避している。気分が悪くなるほどに。
この変化に戸惑ってしまって、付いていけない自分がいる。
こんなモノ、望んでいない、と。

「忘れよう・・・」

ゴロリとうつ伏せに寝転がる。枕に顔を押し付けて、瞼を閉ざす。
こんなことならば、聞かなければ良かったんだ。
こんな不快な気分を味わうのなら・・・・。

窓の外には、分厚い鉛色の雲が夜空を覆い隠している。
まるで、彼の心から抜き出たかのような灰色の空だった。
雨音だけが、徐々に激しさを増し、強く大地を打ち付けていた。




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