第弐章・表/3




「逃げて!!」

小矢が叫んだのと犬が飛び掛ってきたのは同時だった。
立ち上がって逃げ出す考えさえ光琉には無かった。
視界の中、襲い掛かる犬が大きく口を開けて人血に染まる牙を覗かせる映像が映り込む。

牙が間近に感じた時、犬は横っ面を透明な鞄に殴り付けられ、軌道を横に逸らされた。
咄嗟の判断で小矢が持っていた鞄を投げ付けたのだ。

「速く! 逃げて!!」

窮地を救ってくれた小矢の二度目の叫びで、ようやく光琉の頭にも思考が流れる。
背後でビクリとして肩を竦めただけの季夕の腕を半ば反射的に掴んで立ち上がる。
犬に視線を向けたままで動かずにいた瑠香の手も取ると、駆け出した。

後ろを振り返る余裕もない。
ただ、この場から少しでも遠くへ逃げなければ。
足を縺れさせる幼馴染を無理矢理引き摺るようにして引っ張って逃げる。

一歩でも遠くへ、少しでも遠くへ。
それだけを頭の中で繰り返す。

「ま、まって・・・!」

腕を掴んで走らせていた季夕の声が聞こえたが、立ち止まらない。
今はアレから遠遠ざかるのが先であって、文句を聞いている暇はなかった。
返答は言葉の代わりに彼女の腕を掴む手に力を込めて強く引っ張った。
余計な口を叩かずに足を動かせ、と。

だが、彼女は引っ張り返しながらもう一度「待って!」と叫ぶ。
次に出た言葉が光琉の足を止めさせた。

「サヤは!?
 サヤがいないよ!」

動きを止めたのではなく、止めさせられた。
逃げてきた道を振り返れば、遠くから音と声が響いてくる。

あのバカは、またそうやって一人で危険を背負い込むつもりなのか。
自己犠牲の精神も程々にしやがれ!
と、内心吐き捨てたが、その時間も僅かなものだった。
怒気に任せた舌打ちを喉の奥へ流し込んで、走ってきた道へと踵を返す。
季夕達に向かって「先に行ってろ!」と叫ぶと、後は脇目も振らずに走り出した。

こうなる事は充分予想出来たはずだ。
小矢の性格から、一人だけ残って自分達を先に逃がそうとするくらい。
一体何年一緒にいたのか。小矢の考える事くらい気付くべきだったのだ。
迂闊。それ以外の何物でもない。
走りながら、光琉は口の中で己を罵った。

赤の他人が犠牲になっているなら、犬の牙なり爪なりに四肢を引き裂かれようが食い殺されようが背を向けて逃げ出している。
関係ない。見も知らない他人が何人犠牲になろうが、心など痛まないし、罪悪感も感じない。
が、幼馴染が自分達の為に一人残っているのだ。このまま助かっても後味が悪すぎる。嬉しくも何ともない。
それで万が一の事があれば、「余計な事をしやがって!」と後日、故人の墓に向かって愚痴るだけだ。
脳裏に浮かんできた生者と死者の双方の心を痛ませる想像に唾吐いた。
出口の無い怒りと悲しみを物言わぬ墓や位牌にぶつけるなど、光琉は望んでもいなかった。

「くそったれ!」

もしかして自分は阿呆ではないのか。
自分一人が行ったところで、無事に小矢と一緒に逃げる事が出来るのか。
自分は、折角助かった命をあの犬コロの腹を満足させる為にわざわざ引き返しているのではないだろうか。
一体自分に何が出来る!?

「くそったれっ!!」

音が近くなってくる度に不安が内心で競り上がってくる。
しかし、今更考えても仕方が無い。ここまで戻っておきながらもう一度引き返せる訳が無い。
自分の命を犠牲にして誰かを救うなどという安っぽい英雄願望の真似事はご免だったが、もう、走り出してしまった。
走り出してしまったのだ。

「くそったれがっ!!」

再び吐き出した叫び声は、半分は小矢に対して、半分は自分に向けて放たれたものだった。
内心で湧き上がる不安と思考を吹き飛ばす為に必要なもののように響く。
余計な事は一切考えずにこのまま戻り、バカ女の手を引っ張って逃げ出す。それだけだ。
役にも立たないくだらない未来予想図を想像している場合ではない。

「小矢!!」

色濃い夕闇の向こうに確認できた影は一つ。
一瞬、脳裏に最悪の予想が像を結び、恐怖が彼に叫ばせた。
心身共に凍て付く思いを、刹那の間に味わう。
だが、それは正しくも刹那の間だった。
薄闇のヴェールを掻き分けた先で、幼馴染の姿を見つけられた。奇怪な犬と一緒に。

「どうして!?」

名を呼ばれた小矢が目を見開いていた。
彼女の考えでは、彼はとっくに離れている筈だった。
そうでなければ、先に逃した意味が無い。
それなのに、安全な場所まで遠ざかった筈の人間が目に見える場所にいたのだ。
ここに戻ってきた考えが信じられないとでも言うように、見開かれた小矢の目が語っている。
どうして戻ってきたのか、と、驚きと怒りを内在させ、投げ付けられる視線は詰問していた。

言葉として言い切る事は彼女には出来なかった。
彼女の鼻先にはナイフよりも鋭い凶器が迫っていたのだ。
朱に彩られた牙は少女の上でガチガチと嫌な音を立てている。牙の進行を防ぐだけで精一杯だった。

仰向けに倒れている小柄な少女の上に犬が覆い被さり、強靭な顎を閃かせて牙を突き立てようとしている。
白い両腕で突き付けられる顎を押し上げ、頭を噛み砕かんばかりに迫る凶暴な牙を必死に防いでいるが半瞬毎に状況は悪化していた。
非力な女の力では獣の牙を抑えるのに限度がある。
渾身の力を込めて犬の顎を押し上げている腕が徐々に力負けしだし、低い呻きを漏らす。

「あぐ・・・ぅ」

「くそっ!!!」

状況を理解した光琉の思考は恐怖より怒りが勝った。
脳裏で怒気が弾けると、考えるより先に身体が飛びかかっていた。
小矢に覆い被さる獣の横っ腹を容赦なく蹴り上げ引き剥がす。
野生の苦悶が聞こえたが構わず今度は顔面を蹴り付ける。
子気味いい打撲音が鳴り、目頭をしたたかに蹴り付けられた犬が短く呻きながら横に飛びのく。

「大丈夫か!?」

倒れていた小矢に手を差し伸べると引き起こす。
光琉の声の勢いに押されたように立ち上がった小矢が頷いたが、それが反射でしかない事は一目瞭然だった。

洋服の袖には爪痕が残り、薄く血が滲んでいる。
白い顔は泥に汚れ、所々切り裂かれ、朱色が浮かぶ服にもスカートにも泥と土は付いていた。
光琉達が逃げる時間を稼ぐ為、色々無理をしていたでだろう事は、彼女の姿を見れば解る。

「バカヤロウが・・・・」

言いたい文句は幾らでもあった。怒鳴りつけて気が済むまで怒声を浴びせ、怒号で叱りつけたい。
しかし、今はそれどころではない。文句を言うのは後回しだ。とにかくも逃げなければ。
思う存分叱り付けるのは無事に逃げ延びてからだ。

「逃げるぞ!」

彼女の腕を掴んで駆け出そうとしたが、その場に踏み止まろうとする抵抗を引っ張る腕から感じ、勢いが殺される。
肩越しに振り返ろうとした視線が肩先と同じ方向を向いた途端、引き戻された。
頭上から急に影が落ち、黒い影を視線は無意識に追った。
それは身軽に二人の上を飛び越えて、彼等が逃げ出そうとしている道へと降り立つ。
横腹と顔面に蹴り付けられた獣がまるで弱った様子も見せず、息巻いて逃走の進路上に立ちはだかったのだ。

肉食獣の獰猛さを誇示するしているのか喉を鳴らす獣の足元に、先ほど放り投げてきた人間の手が転がっている。
それを咥えると、大口を開けて光琉達の目の前で悠長に音を立てて喰らい始めた。
バリリ・・・と骨が肉ごと噛み砕かれる音が赤く濡れた牙の隙間から流れ出ていく。
不気味な異音は見えざる鎖となって光琉の自由を縛り上げた。
立ち尽くす見物人の前で、獣はゴクリと嚥下し、恐らくは最後の肉を飲み込む。
直後に路面上に唾を吐き出すと、アスファルトの上を小さな物がカラカラ音を立てて転がり、遊歩道の石畳外縁に当たって止まった。
腕がはめていた腕時計だった。食っても美味くもないモノを、獣はご丁寧にも吐き出したのだ。

ザワリと戦慄の波が押し寄せた。それは恐怖であったか、憤怒であったか、精神が一瞬にして単一色で塗り潰されたのを自覚した。
叫びそうになるのを奥歯をきつく噛み締めて堪えながら石畳を蹴り付ける。後先もない。感情の求めるままの行動だ。
走り出す光琉の横をもう小柄な影が先に出た。小矢だ。

驚く間もなく、頭一つ飛び出た少女に向かって獣は吼えて飛びかかってくる。
予め相手の動きを予期していたかと思われるほど、流れる動作で小矢は身を屈めると襲ってきた犬の下を滑る。
飛び掛ってきた獣の腹の下を潜って、小矢は石畳からペン入れを拾い上げた。
光琉や季夕達を逃がす際、犬に投げ付けたバッグから散らばった道具の一つだ。

拾い上げたまでは順調だったが、その後が続かなかった。
小矢が思っての事か、ペンケースを拾い上げると同時に、攻撃を避けられた獣の第二撃が襲ってきていた。
やり過ごされた直後に着地した足でそのまま小矢に向かって飛んできたのだ。
厚手のナイフを思わせる鋭利な爪が獅子のように強靭な前脚ごと振るわれる。

風を切り裂く爪を上体を捻って躱そうとする。
小矢の取った行動は光琉の眼を疑わせた。
彼女は自分から獣の腕の方へ肩を突き出したのだ。

「あぐっ!!」

低く叫んで華奢な身体が跳ね飛ばされる。
横倒れに飛ばされながらも、小矢はすぐに立ち上がってきた。

仮に後ろに下がれば、完全に爪の範囲から逃れられはしなかっただろう。
爪先で肩の肉を持っていかれるくらいは覚悟しなければならない。
爪ではなく前脚が当たるよう攻撃のポイントをずらし、攻め手を斬り付けるから単純な打撃にさせたのだ。
咄嗟の判断でそれを可能にする小矢の精神力と行動力は光琉にしても驚嘆する思いだった。

それでも獅子の膂力を肩に喰らったのだ。立ち上がった小矢は小さい呻き声を押し殺しながら肩を押さえる。
ガクリと膝を落とす少女に、獣は雄々しく吼えながら第三撃を見舞う。
小柄な身体で鈍器で殴り付けられる衝撃を二度耐えられるか、それ以前に足腰に力の入っていない様子の小矢では立て続けに攻撃を捌く事は出来ない。
既に動き出していた光琉だったが、間に合うかどうか。天に祈るのみ。

「――――――――――っ!!!」

衝撃が背中を斜めに打ち抜いた。一瞬ではあるが背骨が圧し折れるかと思うばかりの衝撃。
噛み締めて口を閉ざしていなければ苦痛と共に内臓を吐き出していたかもしれないと錯覚する。

小矢を庇うようにして腕に抱きながら横飛びした光琉の背を、振り下ろされ、噛み付いてくる獣の顎が直撃したのだ。
凶悪な爪を閃かせられるよりはマシであったが、太い樹木の幹ぐらいは粉々に噛み砕けそうな力強い顎の一撃は思わぬ痛打となって背中から胸へと突き抜ける。
声にならない痛みを噛み締めながらも、小矢の肩を離すまいとした光琉が紙人形同然に石畳に叩き付けられ転がる。

「か―――――はっ」

咳き込んだ光琉の顔は苦悶に歪んでいる。背中に受けた一撃は肺の酸素を全て吐き出させるに充分過ぎた。
思考を手放してしまいそうになる苦痛の最中、助け出した幼馴染が無事なのを確認してもう一度咳き込みつつ新しい酸素を求める。

呼吸を充分に立て直す時間は与えられない。獲物を横から攫われた獣が憎悪の一鳴きを放ち、突進してくる。
苦しい呼吸を繰り返し、腕に抱いた小矢を突き飛ばすと、反対の手が先ほどから触れている硬い感触に意識がいく。
この際は石でも板でも構わなかった。手に触れた感触がなんであれ、猪突してくる獣に対して振り下ろすだけだ。
握り締めた掌に確かな手応えを感じた。思わぬ幸運。彼の手にした物は細長い棒状であるらしい。

「グオォ」と猛々しい咆哮を上げながら眼前に迫った犬目掛けて振り翳し、振り下ろす。
額に打ち下ろされた棒切れから会心の感触が伝わった。光琉の顔に薄い笑みが零れる。が、一瞬でしかない。
獣の眉間を殴打した木の棒は直後には衝撃に耐え切れずに圧し折れてしまったのだった。
確かな手応えを感じる光琉の視界の中で、砕けた棒の先端は何処かへ飛んでいく。
自分の前に広がった絶望を垣間見る時間があったとしても長くは無かった。勢いを殺されぬまま向かってくる獣の牙の輝きが光琉を正気に戻らせた。

「くぅ――――つっ!!

最早無我夢中で人血を啜った牙から逃れようと肘を打ち上げる。目の前で赤く染まる刃の列がガチンッと凶悪な音を鳴らせ上へスライドする。
上半身だけを起き上がらせた姿勢の光琉の上に、獣が覆い被さる状態は先ほどの小矢の立場と入れ替わっただけでしかない。
なまじ光琉の方が腕力がある分、顎を打ち上げられた犬の前脚は大地から浮き、自由に振るわれる。
ここをもって鋭い爪の一撃が弧を描けば、軌跡上にある身体の部分は容易く引き裂かれてしまう。

そら恐ろしい事を想像して自身の肝を冷えさせる光琉の視界の中で、予想は現実に向かっていた。
獲物の喉笛を食い千切れる瞬間を何度も邪魔されて激怒した獣が、遂に強靭な前脚を閃かせた。

直感的に死を感じた。思わず来るべき衝撃に備えて眼を瞑る。
叫びを上げる暇もなければ、泣くだけの余裕もない。
ミイラ取りがミイラになるとは・・・笑えねぇ、と、理性とは無関係に脳裏に自分の声が過ぎった。
殆ど咄嗟、無意識で眼前に輝く放つ、死を運ぶ凶な光から眼を背けただけに過ぎない。

衝撃と死を混濁のシャワーにして待ち構える光琉に、だが、予想した痛みは襲っては来なかった。
不気味な静寂が匂う中、恐怖を抱きつつ眼を開ければ、小矢が映った。
振り下ろされようとしている獣の足にしがみ付いている幼馴染の姿が。

「バ・・・ッ!?」

バカヤロウ、と口は言おうとしたのかもしれないが、半分、何をしてやがる、が混じり、言葉にならない。
ただ、小矢は投げられた言葉にならない声に対し、必死の表情で目配りをさせた。
恐らく、今の内に逃げろと言っているのだろう、それを素直に聞く性格をしていたのなら、光琉は初めからここに戻ってきてはいなかった。

「どっちが助けられてるんだから・・・」

情けない言葉を内心吐露して表情を改めた。
殆ど生気の失せた顔の中に不敵なまでに歪む唇を浮かばせると、手に残る棒切れの残りを振りかぶる。

「ここなら痛いだろよっ!」

単純な打撃を幾ら繰り返しても無意味。直撃した蹴りも棒切れも何ら効果はなかった。
それなら、と、光琉は圧し折れた棒切れで犬の顔面を突き刺す。

下ろされた夜の帳を引き裂くばかりの絶叫が空に放たれた。
折れて尖った棒切れの先端が獣の腐りかけの左目を更に貫き刺したのだ。
ここぞとばかりに光琉は手首を捻らせると、潰れた眼球ごと眼窩を抉る。
脳髄にまで凶悪な痛みが乱反射して、放たれた絶叫が薄闇の帳を二つに裂いた。

引き抜くと渾身の力を込め、血塗れの先端で犬の顔半面を突く。
身体の上で猛り狂っている獣の腹に膝を叩き込み、間隙を縫って足を止めずに回す。
眼球を抉り潰され、顔半面をなおも細かく尖る棒の先端部で引き裂かれながら蹴り飛ばされたのだった。
神経網で暴れる熱を伴う痛みに踊らされ、何の身構えも出来ないところへ蹴りを叩き込まれたのだ。堪ったものではない。
情けない声を上げて飛びのいた犬の下から脱した光琉は即座に立ち上がった。傍らに小矢が近づく。

何とか危地から逃れられたものの、この後どうするか、だ。
逃げ出す方向に犬は転がり、皮が裂け、肉が抉れ、血塗れになった半面を上げ、激痛にもがきながら、憎しみと怒りに紅く染まった片眼で睨んできている。
ここまでやったからには素直に逃げさせてくれる訳が無かった。石畳の上で暴れる横を素通りなど出来よう筈も無い。
かといって背中を見せて逃げ出せば、無防備な背に狂ったように飛び掛ってくるのは必至。

激しく頭を振りながら立ち上がった犬は既に犬ではなかった。
光琉にとっての悪夢の具現化したモノが、視線の先にいたのだった。
顔全体が未知の恐怖に塗り潰され、出された声も罅割れている。

彼等の視界に映るのは犬だった。
一匹の犬。だが、普通の犬とは異なっている。それは犬の姿をした異質だ。
凶眼は赤く血走り、顔半面は血で真赤に染まらせ、開け放たれた口からは人血に染まった凶暴な牙が突き出ていた。
鋭く並ぶ口の奥からシュウシュウと二股に分かれた蛇の舌が唸っていたのだ。

冷たい汗が額から頬を伝って流れる。鼓動を刻む心臓の音がやけに耳に五月蝿い。
千路に乱れる思考を必死に繋ぎ止めようとするも、一瞬の気の緩みで全てのピースが吹き飛びそうだ。
動揺が荒れ狂い、恐怖が精神を絡め取るように触手を伸ばす中、自分自身に落ち着けと言い聞かせる。
自分一人であるなら当に冷静な精神なんて放り出して、混乱の激流に身を投げ出しているに違いない。
しかし、この場に小矢も一緒だった事が、彼の精神を繋ぎ止める楔となっていた。

どうやって、ここから二人とも無事に逃げ出すか。
それが重大な命題だった。何にしてもまずはそれが最優先事項だ。
獣の餌になりたいとする願望は砂粒ほどにもない。
しかし、これからどう動けばいいのか。
充分な冷静さを持てない精神状態で今後の行動を決めるのは不可能でないにしても無理な部分が多数あった。

次の行動を決めかねる光琉の傍らにいた小矢が、野生の殺意を滾らせて睨んでくる獣の片目を見据えたままそっと耳打ちしてくる。

「私が注意を引き付けるから、その間に光琉は」

囁く言葉を言い終えるまで光琉は黙って聞いてはいない。「ふざけるな」と呟き、彼女の言葉を途中で一言の元断じたのだった。

「いいから! 聞いて!」

くだらない自己犠牲の精神で親切の押し売りを持ちかけてくるものだとばかり思っていた光琉に、思わぬ大声を小矢は張り上げた。

「私がアレの注意を逸らすから、貴方はペンケースを拾って」

そう言われたが、一瞬、何を言われたか理解出来ない。
「人を呼んで来い!」「助けを呼べ!」の類いなら理解も出来ようものだが、ペンケースを拾ったところで状況が好転するとは到底思えない。
怪訝そうに眉を顰めた光琉が幼馴染に向けた目は殆ど正気を問うものに近いものであった。
こんな状況で何を? そんな物拾ってどうする?
声に出してはいなかったが、彼の目付きは内心を如実に語っている。

訝しがる視線を向けられた小矢だったが、彼の方に目線を合わせる事なく、前のみを見据え、小さく笑う。
「大丈夫。心配しないで」
と、そう言う時に何時も見せる笑みだった。

納得は出来なかったかったが、その笑みで少し安心は出来た。
どうやらまだ正気を手放した訳ではなさそうだ。
ペンケースの中にカッターナイフの刃物類が入っているのかもしれないな。
そう思い直し、光琉は屹然と表情を改めた。

「解った・・・」

「うん。お願いね・・・」

小声で囁き終わった直後、小矢は石畳を蹴り付けた。同時に光琉も駆け出す。
左右に分かれて走り出した二人だが、手負いとなって憤怒に塗り潰された獣の行動は彼等の考えを完全に裏切っていた。
灼熱の激痛に身を焼かれる咆哮を迸らせ、狂ったように頭を振るう獣は、漂わせていた人間臭さをかなぐり捨て、野生そのものへ変貌していたのだ。

塵風を巻き起こすまでの凄まじい速度で獣は撃ち出された弾丸となって強襲する。
眼を見張る小矢の懐に飛び込むと頭突きを腹に突き刺し、そのまま頭を振って小さな身体を弾き飛ばす。
直後には向き直り、陣風の勢いで光琉に駆け寄るや否や、跳躍して飛び掛る。
視界一杯に黒い影が広がったと思った瞬間、背中を痛打が駆け抜けていた。

「げほっ」

酸素を吐き出し咳き込んだ後気付けば、獣に圧し掛かられている。
頭上から低い唸りが落ちる。生臭い血の臭気が息吹となって顔に当たる。
鋭い爪が両肩に食い込み、神経を駆ける痛みでそれを理解した。

息つく暇も無い。砂時計から数粒の砂が落ちる僅かな間に、今までの善戦など嘘のように追い詰められてしまった。
決して敵を侮っていたわけではない。単に二人の予想より凶暴な野生が勝っていただけだ。
獣の怒りと憎しみは、光琉と小矢の予想を遥かに上回り、少女の考えを一蹴して打ち砕いてしまったのだった。

牙を剥いて生臭い息を吹きかけてくる獣の口を両手で押し上げる光琉だが、状況は刻々と悪く傾いていた。
両肩を押さえられた状態では腕を満足に動かせはしない。
圧し掛かる獣の腹を押し上げるようにして、迫ってくる牙から必死に背けた顔にベチャリと犬の唾液が落ちた。

「ひか・・る・・・」

か細く小矢が彼の名を呼んだ。
先ほど受けた腹部への一撃が余程効いているらしく、顔中で脂汗を垂らし、肩で呼吸しながら、両手両足で以ってようやく起き上がっていられる状態。
殆ど這うようにして光琉の元へ寄っていこうとしているが、それまで光琉は耐えられそうになかった。
仮に、牙の餌食となる前に近づけたとして、その後の算段が彼女にある訳でもない。

「きゃぁっ!」

現状を打開する道を見失い、脳裏の舞台で悪寒を伴う未来図が現実とチークダンスを踏み、侵食の根を伸ばした時、悲鳴が上がった。
必死なものと焦るものの二対の視線、それに血走った一つの視線がそちらに向けられる。
と、全身を強張らせる季夕が20mほどの距離を挟んで立っていた。

「何しにきやがった! このバカッ!」

罵声は張りと勢いを欠いていた。肩に置かれた獣の爪が食い込み、光琉の言葉を呻き声の中に消してしまったのだ。
苦痛に顔を顰める彼の上で、獣は悠然と顔の向きを変え、新たな闖入者を不吉極まるルビーの眼光で貫いた。

「・・・・季夕! 季夕!」

小矢としては精一杯声を張り上げたつもりだったが、呼ばれた者には掠れ声程度にしか聞こえいなかった為、
親友の声に季夕が気付いてやるまで小矢には更に8回近くも努力させねばならなかった。
風の囁き程度の声を聞きつけた時、一瞬、季夕は「ひっ」と息を呑んで身を縮めたが、声の主が小矢だと解ると顔に浮かんだ怯えの色を薄れさせた。

「え・・・なに? なんなの、サヤ!?」

「ケー・・・スを・・・ペ・・ン・ェー・・ス・・・・を」

喘ぐように声を紡ぐ小矢は必死になって季夕に何事か伝えようとしているが、如何せん声が小さく、二人の間に距離が開きすぎている。
呼吸器系を患う患者のように咽返りながら口から滑られる声と、必死に石畳の向こうを指差す小矢を見て、何を伝えようとしているのか理解できた。

ついっと伸ばされた小矢の細い指先が指すのは、光琉の位置より向こうにある石畳。
その上に転がっている何ら変哲もない青いペンケース。

親友がそのペンケースを求めている事は解ったが、季夕は真意までは洞察できなかった。
こんな場合に!? との疑念が頭の隅から吹き抜けてくる。

ただ、疑念と信頼は別であって、躊躇する時間は5秒もなかった。
異様な状況下にありながら、親友が求める物も異様だったが、それを信じた。
今までの長い付き合いから、このような場合で意味も価値もないような事を言うような小矢ではないと解っている。
小矢の視界の中で小さく頷くと、校内最速ランナーと謳われるしなやかな足で路面を蹴り付けていた。

猛る呼吸を吐き出すと、獣は光琉の上から一足で飛び上がった。
疾駆していく季夕を追い、凄まじい勢いで駆け出す。

距離はざっと見積もって200m。平坦な石畳は季夕にとって走りやすい条件だったが、それは獣も同じ事だ。
加え、幾ら季夕が速いとはいえ、それは人間の世界での話でしかない。獣、ましてや奇怪な化物同然の獣に勝るはずが無かった。
徐々に二つの影が差を縮めていく。もし、走っているのが光琉や小矢であれば、とっくに追い付けれ肢体を食い散らかされていただろう。
だが、それも長くは続かない。全力疾走で走る季夕の息が100mを超えた時点で乱れ出し、速度は落ち込んでくる。元々短距離を得意とする選手なのだ。

前を走る季夕と、それを追う獣。一人と一匹の距離が2mもなくなった時、獣は強靭な後ろ足で地を蹴り付け飛び掛った。
唸りを上げる獣の牙が季夕の背に向けて閃く。背中から突き立て、容赦なく背骨を噛み砕かんばかりの攻撃に対し、季夕の取った行動は瞠目に値する。

大口を開けて飛び掛ってきた獣の牙を、身を屈めて中空に身を投げ出すと、腰を捻って実に際どいところで躱す。
季夕の身体と獣の身体が交差する一瞬、牙は背中から腰にかけての服一枚を切り裂いた。
クルリと一回転しながら石畳上を転がっていく。恐らくは考えなしの咄嗟の行動であっただろうが、無意識の判断が彼女の命を救う結果となった。
二回、三回と転がった先で跳ね起きた季夕の手には、ペンケースがしっかり掴まれていた。

「サヤ!」

季夕が笑みすら浮かべて、手に握るケースを掲げながら親友を呼ぶが、ほどなくして息を詰まらせる。
攻撃を躱され、勢い余って無様に顔面から石畳に突っ伏してしまった獣が、彼女の背後でその身体を起こしたのだった。
唸り声を聞いて肩越しに振り返った季夕は、毛細血管が破裂し、血色を湛えた真紅の片眼を直視する事となる。

「っ!!」

人間では到底出せない形相が目の前に浮かんでいた。狂相とも言うべき夜叉のような顔。
残った片眼だけに灯る紅い火は、いっそ鬼火と言うのに相応しかった。
短いが鋭い悲鳴が季夕の口から洩れる。だが、石畳を蹴った獣の巻き起こす風に吹き飛ばされてしまった。

半ば反射的に両腕で頭を庇おうとする彼女の前で、跳躍した獣の影は更に横から飛び出した影に体当たりされた。
思わぬ邪魔が入って伸び切らずに振り回された獣の腕は、突き出された季夕の腕に掠り、持っていたペンケースを弾き飛ばした。
間一髪を救ったのは光琉だった。圧し掛かっていた獣が飛び退いた後、すぐに起き上がると彼も走り出したのだったのである。

「はやくっ!」

両腕を獣の首に回し、更には両足を胴体に巻き付ける。
自由を奪われた獣は無論抵抗したが、背後から両手両足で以って捕り付かれては流石に易々とは抜け出せずにいる。
雄叫びを発する口は何とか首に巻き付く光琉の腕を噛み千切ろうとしていたが、腕は顎の真下に回されており、牙が届く範囲ではなかった。
代わりに無我夢中で振り回される四本の足から伸びる爪が、所構わず暴れ狂って光琉の身体を切り裂いた。

「はやくっ!!!
 まだか! 季夕!!」

幾ら動きを封じ、制限された自由の中で振るわれる爪で傷は浅いとしても、何箇所も何十箇所も切り付けられては堪ったものではなかった。
偶然なのだろうが、同じ場所を数回に渡り切られる痛みは最早言葉にならない。
剥き出しになった痛覚それ自体に爪を立てられているかのような鋭い痛みが全身の神経を駆け巡る。
語尾の震えを、口調の荒々しさを、隠す事など出来はしなかった。
一分一秒でも速くこの事態にピリオドを打って欲しいかった。
両腕を、両足を切り付けられる痛みに耐える光琉の、心の底からの願いだった。

「待って!!」

切羽詰った訴えに、窮地を救われた季夕は一瞬の呆然から立ち直り、自分の手に慌てた視線を向ける。
が、掌には握っているものとばかり思っていたケースが無かった。
掌から視線を引き離し、遊歩道の上を見渡す。手を伸ばせば届く石畳上に、ペンケースは中身をぶちまけて転がっていた。

シャープペン、15cmのプラスティック定規、消しゴムとボールペン、色マジックにコンパス・・・。
季夕の表情が愕然となる。ペンケースが撒き散らしたものは、凡そ普通の文房具だった。何の変哲も無い、そこら辺のコンビニでも買えるような品物だ。
これらを用いてどうやって奇怪から産み落とされたような異端の犬に立ち向かえというのだ。
コンパスを握り締め、針先を相手に向け、風車に立ち向かったドン・キホーテになれと言うのか。

絶望の淵に転がりそうになった季夕の精神に、遠くからの声が流れ込んでくる。
呼吸が苦しい最中、必死に声を張り上げた小矢の声は、季夕の耳に届いた。

「霊符を!」

喉から血反吐を滲ませるほどの思いの言葉であったろうが、聞く方の行動を促すには充分ではなかった。
一瞬、鳩が豆鉄砲を食らった呆けた表情になり、次に季夕はあからさまに眉を顰める。
親友の言うものが、札、つまりは紙であると察するのに5秒ほど必要だった。

こちらの言うものを季夕が察したと確認し、小矢はすっと瞳を閉じる。
慎重に、慎重に、呼気を吸い、吐く。
まるで吐息するのに全身全霊を傾けるように。
深く、長く、ゆっくりと。

「はやくしろぉっ!」

痛みが色濃くなった光琉の声に急かされた季夕の眼が遊歩道を這うように見渡す。
撒き散らされた文具の中、シャープペンと消しゴムの間に四つ折にされた小さな紙切れを、左右に飛ばされた眼が見つけた。
彼女がソレに手を伸ばし掴んだ時、逆に光琉の腕は乱暴に暴れた獣の首から振りほどかれた。

「ちぃっ!」

しまった、と、自身を罵倒する舌打ちを口内で響かせた。
再度組み直そうとするが、警戒して暴れ牛同然に荒れ狂う獣の首を締め直すのは不可能に近い。

―――くそっ!

脳裏に率直過ぎる意見が過ぎ去る直前、逃れようともがく獣の口と、捕らえようとする光琉の腕が触れ合う。
「やばい」。そう思えるだけの余裕が光琉にあったかどうか。
腕の肌に牙の先端が触れた瞬間、咄嗟に手を引き抜こうとしたが獣が口を閉ざす方が速い。

「うあああぁぁぁっ!!」

肉を噛み千切る為に鋸状になる前歯ではなく、噛み潰す為の奥歯であった事がいっそ幸いだったに違いない。
そうでなければ、彼の腕など当に噛み切られて、獣の腹に収まっているか、石畳の上に転がっている。
だが、人間では考えられない圧倒的な咬力は、腕の骨が圧し折れそうなほどだった。
肘から下と永久に別れを告げなくてはならなくなるのも時間の問題のように思われた。

骨が軋む不快な音が脳髄に直接響いてくるようだ。耐えかねる激痛が神経網を容赦なく蹂躙している。
気を抜けば一瞬で精神ごと白い世界に持っていかれそうになる。
歯を食いしばり、きつく噛み結んだ唇が切れて鉄の味が舌先に広がった。

目の前が白く反転しそうだ。
ギシリと骨が軋むたびに、脳髄を薄い刃が斬り付けるような鋭い痛みを覚えて思考が吹き飛ぶ。
くそったれが、くそったれが、くそったれが、くそったれが・・・っ!
今夜何度目になるか解らない罵倒が途切れがちになる頭の中で反覆される。

―――メキリッ。
やけに鈍い音を自覚した。神経の中を鈍い音と鋭い痛みが伝達されていく。
骨に亀裂が走ったのかもしれない。それとも、その一歩手前だろうか。
どちらにしたって時間の問題だ。このまま状況が変わらなければ、まだ砕けて無くても、いずれ噛み潰される。

一瞬反転しかけた光琉の脳裏に、凶暴な影が首を擡げる様を垣間見た気がした。

「高天原に 神留坐す神漏岐  神漏美の命以ちて(たかあまのはらに かむづまりますかむろぎ かむろみの みこともちて)
 諸神禊の大水時に生坐せる神(もろかみみそぎの おほみときに なりませるかみ)
 八十枉津日神 大枉津日 神直日神 大直日神(やそまがつひのかみ おほまがつひのかみ かむなほひのかみ おほなほひのかみ) 
 底津少童神 底筒男命 中津少童神(そこつわたつみのかみ そこつつをのみこと なかつわたつみのかみ)
 中筒男命 上津玉積神 表筒男命 及・・・(なかつつをのみこと うはつたまつみのかみ うはつつをのみこと および・・・)」
 
不可思議な音律が響いた。
やや不鮮明な声音だったが、夜気に凛として溶け込んでいた。
それが小矢の唇から紡ぎ出される音律に、光琉ははっとなった。
精神を吹き飛ばすほどの激痛を味わい、一瞬ではあるが意識を喪失していたようである。

「祓戸の諸神々 諸の障穢を(はらひどのもろかみがみ もろもろのさはりけがれを)
 祓ひ 清むる事の由を平けく 安けく 御諌み給ひて(はらひ きよむることのよしをたひらけく やすらけく みいさみたまひて)
 聞食せと 畏み畏みも白す・・・・(きこしめせと かしこみかしこみもまをす・・・・)」

歌声のような音律の唱和が「パァン・・・」と手が打ち鳴らした音によって弾けた。
途端、暴れ狂っていた獣がビクリと硬直して、活動を止めた。
それは真実、数秒にも満たない時間でしかなかったが、手を拱く事は無かった。
間隙を突き、光琉は口に挟まれる腕にありったけの力を込め、中から抉じ開ける。
直後、季夕が殆ど無我になりながら掴んだ紙切れを、光琉が抉じ開けた獣の口の中へ放り込んだ。

「グォォオオォォォォン!!」

耳を劈くばかりの絶叫を追うようにして、片眼しかない血走った獣の眼が破裂する。
暴れ狂う獣は光琉を振り解き、石畳の上を転がり回り、狂ったように頭を打ち付けた。
開け放たれた口からは絶叫の代わりに火花を纏わせる肉片が飛び、引き裂かれたように広がった口の両端からは、黒い煙がシュウシュウと音を立てて吐き出されていた。
獣は身体の中から焔に燃やされ、焼け爛れた臓物の一部を、炎に焼かれたままの状態で吐き出しているのだ。

やがて、のた打ち回っていた獣の動きが止まり、ドォっと石畳に横倒れに倒れ伏す。
繰り返す呼気は苦痛に満ちて、沸騰し泡立つ血と煙が呼吸するたびにヒュゴウ、ヒュゴウと、やたら耳に絡みつく嫌な音を鳴らしていた。
傍目から見て、それと解る瀕死。虫の息の状態で、何度か痙攣していたが、それさえも絶命の瞬間、断末魔の苦しみから逃れようとする悪あがきでしかなかった。
最早、獣の肌表面を覆う毛並みは臓腑を焼く炎によって黒ずみ、半ば灰と変わり、覗く地肌からは生命が感じれるような張りと艶は完全に失われていた。
肌の色もさながら木炭も同然で、それだけに獣を焼いた火力を思い知らせてきて、助かる見込みなど万に一つもありはしない。
この状態でなおも立ち上がって動き出せば、それこそ正真正銘の不死身の化物と言えるに違いないが、そうはならないかった。
幾ら犬の姿をした奇怪な化物といえど、臓物を焼かれ、体表面の半分以上を炭化していては、虚ろな穴を開ける死の淵に転がるだけのようだ。

「オ・・・・ノ・・・レ・・・・」

罅割れた不気味な声で呻くように呟いた獣が、それっきりピクリともしなくなる。
絶命の瞬間まで、獣の心に強くあった憎悪の炎に照らされた隻眼が、死した後も憎しみの火によって赤く燻り、三人を睨みつけていた。
その眼を見ていると、本当に、この世には「呪い」が実在している気さえして背筋に薄寒い感覚を覚える。

肩で息をして、両腕で身体を支えることでやっと上半身を起こす光琉、季夕、小矢の前で獣は呼吸を停止させる。
危地から完全に脱した彼等だが、生を勝ち得た喜びを感じられはしないでいた。
空気が重圧となって両肩を重くしているのを、三人共が感じていた事だろう。

脱力して、完全にその場にへたり込んでしまった光琉と季夕の横で、小矢がのろのろと立ち上がる。
石畳に撒き散らされている霊符の一枚を拾い上げると、おもむろに広げ、絶息した獣の頭に貼り付ける。
途端、紙の札は化学反応を起こしたように火を噴く。それは獣の全身を緩やかに包み込み、激しく燃え上がっていった。

火の勢いはどこまでも強くなり、獣の肉が溶け、眼球が流れ出し、血が沸騰していく。
鼻を刺す刺激臭が空気を汚染する。肉が焼ける臭いに季夕は思わず口に手を当て、光琉でさえ、眉を顰めた。
無残極まる光景を、小矢は冷徹なほどに感情の見取れない瞳で眺めていた。

燃え盛る炎。後には黒ずんだ炭が残っただけだった。
獰猛な獣が存在した証拠は消え、代わりに焼け爛れた生き物の残骸らしき物が残された。
最初から、そんな化け物は存在していなかったとでもいうように、残骸はただ無残なだけだった。

「・・・・」

一連の光景を眺めていた光琉は消し炭になってしまった獣を、声もなく、ただただ見つめるだけだった。
呻きの言葉さえなく言葉を喪失したかのように沈黙して、束の間、肩の傷の痛みさえも忘れ、焼け焦げた場所に見入っているようだった。

狐に抓まれる思いだったに違いない。
全ては夢か、幻か。リアルとフィクションの境目はいつから脆弱に成り果てたのだろうか。
20分近い出来事が、白昼夢が見せた刹那の夢幻だったのか。

そう自問自答した光琉の肩と腕が、思い出したようにズキリと鈍く痛んだ。
傷の痛みだけが、先ほどまでの事が現実であったと告げているようだった。
紛れも無い現実であった、と。
何よりも、絶命した獣に火を放った小矢の横顔が深く記憶に刻み込まれている。
この先、幼馴染の見せた、あの残酷なほどに冷たい表情を忘れそうになかった。




NEXT
BACK
TOP

風俗 デリヘル SMクラブ