第弐章・表/2
食事を取り終えて一度自室に戻った光琉だが、さて準備するにしてもそれほど時間はかからない。
普段は使っていないバックをクローゼットから引っ張り出してきて、その中に水着とタオルを入れ込んで完了だ。
ものの三分ほどで用意を整えてリビングに向かうと、やはり一番最初だった。
「相変わらずこうゆう事だけは速いな・・・」
素早い行動は、テレビでお昼の番組を眺めていた季夕を呆れさせてしまう。
毎日の登校でもこれくらい迅速に行動してくれればサヤの苦労も減るのにねぇ。
そう愚痴る小言を丁重に無視して待つ事10分、やっと身支度を整えた小矢と瑠香が姿を見せた。
「ごめん、お待たせ」
スケルトンの手持ち鞄を持った小矢の後ろで、青色の小さなショルダーバックを肩に下げる瑠香。
このショルダーバックは去年の誕生日に瑠香が季夕から贈られた物である。
プレゼントした品物を使う少女に季夕は顔を綻ばせたが、少女は恥ずかしがっているのか戸惑っているのか、対応に困った様子で俯いてしまっていた。
「んじゃ、行こうか」
家を出た彼等の上で真夏の日差しは強く降り注ぎ、暑くなる予感を覚えさせた。
強烈に照り付ける熱気から逃れようと、考える事は誰もが同じらしい。
料金の安く、かつ広い野外の市営プールはかなりの人込みで賑わっているだろうが、光琉達が向かったのは別のプールだった。
屋内型の温水プール。市営の料金よりもやや割高でプールの数も少なく、広さも最大で50m程度。
市営プールの客層が子供対象だとすれば、こちらは少し年齢層が高く、10代後半から20代前半が主な客層となっている。
客の年齢層に合わせた内装も落ち着きを重視しており、緩やかなメロディーが空間を満たしている。
光琉にせよ、季夕にせよ、小矢にせよ、余りに人気の多いところは苦手だった。
瑠香にすれば人の多すぎる場所は嫌悪感さえ示すのである。
その意味で、この屋内プールは市営の入場数に比べて人の数が少なく、実に居心地が良い。
2時を少し回った頃に到着して中に入ってみても、20人ほどの客しか見受けられなかった。
ここでも一番最初に着替えを終えた光琉がプールサイドに設置されているチェアに座っている。
炎天下の下を徒歩でここまで来た所為で流れていた汗は先ほど浴びたシャワーで流し落とされ、肌にプールに冷やされた室内の空気が心地良い冷気を感じさせる。
天窓の遮光ガラスで天上からの強すぎる日差しも和らげられて、室内に射し込む光は春の陽光のようだ。
穏やかな光の帯を見上げ、眩しく目を細める。
女の準備には時間が掛かると良く言うが、光琉が待ちくたびれて暇を持て余す前には来てくれた。
シャワー室を通って姿を現したのは小矢と季夕の二人。
「待った?」
「ん・・・いや。別に・・・」
などと何時ものように声をかけてくるが、どうにも気恥ずかしく返事にどもってしまった。
彼に釣られて照れているのか、水着姿の彼女達も普段とは雰囲気が違っているように感じられる。
水着を着ている所為もあるだろうし、彼の視線を感じて落ち着いていられないのかもしれない。
幼馴染からの無言の視線に耐え切れなくなったのだろう、唐突に、ぶっきらぼうに、季夕が口を開く。
「・・・なに黙ってるんだよ」
「・・・新鮮だな、と」
「・・・・・」
「良い意味でだぞ?」
「・・・・・」
「似合ってるし」
「・・・・・・」
「本当だぞ?」
季夕の問いに率直に答えてみせる光琉である。
しかし素直に答えられたら答えられたらで、どう対応してよいものか判断に困ってしまう小矢と季夕は片や照れ笑い、片や頬を染めて無言のまま視線をきつくする。
高校には残念ながらプールがない為、夏になっても体育の授業で水泳は無い。
加え、去年は一度もプールや海に足を向けなかったから、二人の水着姿は光琉にとっても実に新鮮だった。
小矢の白地のワンピースタイプの水着が素肌の白さとマッチしている。
線の細い・・・と言うより、華奢で幼い体付き。到底同い年には見えない。
自己主張も何も無い平坦な胸から腰の括れにかけたラインは頼りなげなほどであって扇情さよりも保護欲を掻き立てられる。
少女の域を脱していない彼女の姿を見れば、衝動的にその小さな身体を小脇に抱えて、そのままテイクアウトしようとする男もいるに違いない。
やはり成長の兆しが見受けられない身体はコンプレックスなのか、小矢はしきりに季夕と自分の体型を比べ、情けない表情になっている。
情けなく唸っているような表情さえ、傍から見れば愛嬌たっぷりで可愛らしく、それもまた一つの魅力になっているのだが、本人にそうした自覚はないようだ。
光琉や周囲の視線より、自分と親友との体格差が気になっている様子である。
元々肌の色素が薄い所為か、陸上をやっていながら焼けていない季夕の体を飾るのは、薄い青で染められたツーピースの水着。
流石に陸上で鍛えられただけあって、無駄のない引き締まったボディラインをしている。
大人びた性格に相応しく体型も女性のものかと思われがちだが、水着姿を見る限り平均的なものか、平均よりやや上といったところである。
それでも全体的にスマートな容姿は女性らしさと少女っぽさを同居させた健康的な色気があった。
こちらは小矢とは異なり、周囲から向けられる男性の視線、というより、光琉個人の視線が気になるようで、無遠慮な眼差しに抗議しているような表情になっているが、顔が赤いのは怒っているからだけではないのは一目瞭然である。
常として冷静さと余裕を忘れない彼女だが、男性に対する免疫が無いに等しいので視線一つにも大げさな反応を示す。
解っていながら、中学生も同然な季夕の様子をさも面白そうに眺める光琉は少々意地が悪いと言えた。
「こうやって見ると・・・うん、綺麗だな」
自然な感じで出た光琉の発言だったが、その言葉が二人の幼馴染に与えた動揺は大きかったようだ。
瞬間的に身を強張らせたかと思うと、次に勢い良く顔を蒸気させる。
一瞬の変化が顕著だったのは小矢より季夕の方だった。
「そう?」と、はにかんだ笑顔を見せる小矢とは対照的に、季夕は過剰なまでに真赤になって俯いて、
そこから上目遣いで睨んでくると「プール以外の場所にすればよかった」と、恨み言まで呟く始末である。
素のままサラリと心にあるままの言葉を言えてしまえる辺り光琉は素直だったが、少女達の反応を楽しんでいる辺りは確信犯である。
更にからかおうと考え、殊更意地悪い笑顔を作って季夕に向けると、幼馴染の悪童のような企みに勘付いたのか、それとも恥じらいが限界を超えたのか、
季夕がとうとう実力行為に乗り出した。
しなやかな素足が鞭のように空気を切り裂くと、次の瞬間には激しい水音が響き水面から水柱が立った。
薄ら笑みを浮かべた光琉を冷たい水の中に蹴落としたのである。
「頭冷やしなさい!」
内心にある照れと反比例した声の大きさで場違いな叫びを上げるが、そんな怒りを向けられても怖いどころかくすぐったいだけである。
「プハァ」っと勢い良くプールから顔を出した光琉の顔に笑顔が消えていないのを知ると顔を茹で上がらせた。
顔色に負けずに熱くなった声帯を振るわせる前に、横で大人しくしていた小矢が楽しそうに笑う。
「・・・・照れてる。
季夕、カワイイ」
「なっ!?」
「ふぎゃっ!」
本人は何気なく言った発言だったが、火の付いた季夕の精神回路にダイナマイトを放り込んだのと同じである。
小矢も余波を食らい、小柄な身体をプールに突き落とされて、笑った直後には二つ目の水柱となっていた。
「ヒドイよぉ・・・」
思い切り良く水面から顔を出して泣き言を漏らす親友にさえ、「うるさい!」と一喝する。
噛み付いてきそうな季夕の勢いに小矢と光琉は顔を見合わせ、水中で肩を竦めると可笑しそうに笑みを吹き出していた。
幼馴染達の笑い声が唱和する中、三白眼になった表情でもう一度「うるさい!」と叫んだ季夕だった。
叫び声の残響が終わらない内に、ようやく着替えを終えた瑠香が遅れて来た。
光琉が運良く見つけなければ、無言でいる少女に誰も気付かなかったかもしれない。
姉と同じ白地のワンピースの上にウィンドパーカーを羽織っているが、
ウィンドパーカーは小柄な少女の身体には大きめで服を着ているより服に着せられているといった表現が似合う。
大きめのパーカーから伸びる手足は和らげられた陽光を浴びて白く透き通っていたが、一点の不純物さえ許さない素肌は病的な白さでもあった。
童話に出てくる空想上の妖精のようだ、と言えば聞こえはいいが、何処か人ではないような印象さえ覚えさせられる。
無邪気な子供が物怖じしない様子とは異質で、時折周囲から注がれる好奇の視線さえ冷ややかに排している。
幼い少女に似つかわしくない冷たく落ち着いた雰囲気を纏い、恥じらいもなく、笑顔も見せない様は、真実、人形と錯覚する。
少しでも微笑みを浮かべていたり、恥らったり、何かしらの表情が端麗な顔に浮かんでいるのならばまた違った印象を受けるのだろうが。
じゃれあっている姉達に視線を横切らせたがこれといった反応はなかった。
水に濡れたプールサイドを音もなく移動して、デッキチェアに腰掛ける。
一連の動作一つ一つとって見ても洗練されており、外見の幼さと相俟っていっそ妖艶なほどである。
彼女はどうやら泳ぎに来たのではなく、涼みに来たようで、ここでも子供らしくない行動に、眺めていた光琉は苦笑した。
無理にプールの中に誘おうとしないのが、彼なりの気遣いではあるが、幼馴染の妹を一人前の女性として扱っているのか、単に接し方に悩んでいるだけなのかは微妙なところでもあった。
とりあえず光琉は仰向けで浮かんでいた。
適度に冷たい水に身を浸し、天窓から降り注ぐ暖かな陽光を仰ぎ、小波に揺られていると頭の中から余計な事が飛んで真白になる。
不思議なほど落ち着ける。この頃余計な事に気をとられ、何かと考え込んでしまうのが癖になっていたものだから、穏やかに水に揺られていると余計に落ち着けた。
隣のコースでは季夕がゆったりと背泳ぎで水面に浮かんでいる。身体を動かすのを好む彼女は水泳も得意なスポーツの一つだ。
小矢は・・・と言えば、姿が見当たらない。
そういえば何処に行ったのだろう、と薄ぼんやりと考えていると、突如として水中から何かが競り上がってきた。
「うわっ!?」
驚いた光琉は勢い余って体勢を崩し、水中に沈んでしまった。
思わず水を飲み込んでしまい咳き込みながら水中から驚かせてくれた相手にきつい眼差しを放つ。
と、目の前で首から上だけを水から見せていたのは小矢であった。
「あ、ごめん。驚いた?」
「お前なぁ・・・
こんな場所で潜水してんじゃねぇ・・・」
深く酸素を吸い込んで失敗。また咳き込んでしまい、光琉は涙目になっていた。
小矢は慌てて駆け寄って、苦しげにしている光琉の背中を擦る。
「だいじょうぶ?」
「あぁ・・・なんとか」
返事をして咳き込んだ。落ち着きを取り戻したのは20秒ほど背中を擦ってもらってからである。
まだ少し咽てはいたが、やっと呼吸を整える事ができたが光琉の声が不意に止まった。
それまで息苦しさで涙を堪えていた目に不審の色が被さり、怪訝そうな視線は小矢に向けて送るのだった。
「え・・・? なに?」
「・・・あ、いや」
視線に気付いて小首を傾げた小矢に、半瞬ほど遅れた光琉の反応は戸惑ったように言葉を濁している。
「別に何でもない」
頭上にクエスチョンマークが浮かんでいる表情で小矢はもう一度小首を傾げた。
彼女の訝しがる視線に見送られて光琉はプールサイドまで水を掻き分けていった。
はしごに背を預ける格好で凭れかかる。奇妙な表情をしながら「ふぅ」と小さく吐息したが本当は深呼吸のように深く吐き出したかったのかもしれない。
今までは気付かなかったが、間近で見た小矢の素肌には小さな傷が幾つも跡を残していた。
切り傷、擦り傷、四本の線が平行して並んでいるのは鋭い爪で切られた傷跡だろうか。
幼い外見の小矢には凡そ不似合いな沢山の傷跡を、光琉は見てしまったのだ。
一つ一つは決して大きくも深くもないようだが、細かい傷跡がかなりの数だった。
正直気になる。気にならないわけが無かった。
傷の理由を聞こうかと考えたが、言葉としては出なかった。
軽々しく聞いてよいものか判断できなかったし、何より女性が身体にある傷跡を見つけられるのは良い気分はしないだろうと躊躇もする。
水に濡れて額に張り付く前髪を掻き揚げ、光琉は天上を見上げる形で後頭部もはしごに預けた。
喧嘩や苛めの類いではないと思える。小矢は幼い外見と容姿とは反対の責任感の強さでクラスの男女からも人気のある。それこそマスコットのような存在だ。
それに、もし仮に小矢が苛めなどの被害を受けていれば季夕が知らないはずは無い。
だが、今までクラスメイトからも季夕からもそんな話は聞いた事が無かった。
こうなるといよいよ解らなくなってくる。
当の本人はまだプールで泳いでいるが、今から聞く訳にもいかない。聞くのであれば先ほど傷跡を見つけた時に聞けば良かったのだ。タイミング的にも。
一度タイミングを逃してしまうと、聞き辛い。流石に今すぐは無理のようで、時期を改めなければいけないだろう。
今は傷の理由を尋ねるのを諦めた光琉の耳に静かな水音が流れ込んできた。
ふと見上げると、いつのまに居たのか瑠香がプールサイドに腰掛け、片足だけをプールに中に入れている。
白く細すぎる足がゆっくり動くたびに水面が揺れて小さな波が出来ている。
向けられている光琉の視線に気付いていないのか、無視しているのか、少女は無表情のまま水と戯れる。
揺れる水をハープに、微かな水音をメロディーとして奏でている。小春のように和らげられた日差しと相俟って幻想的ですらあった。
「あのさ・・・」
未だに瑠香の事をどう呼んでいいのか光琉は解らなかった。「瑠香ちゃん」と季夕のようにちゃん付けで呼ぶにはこの少女は何かが違っていた。
「瑠香」と呼び捨てにするにも、何故か躊躇われる。光琉の中で小矢や季夕に対しては殆どない境界線みたいなものが年下の少女にはあるのだった。
名称を抜かした呼びかけに帰ってきた反応は無かった。
予想していたことなのでそれでも構わずに続ける。
「小矢の身体に・・・さ」
或いは妹ならば、と考えてはみたものの、いざ聞くとなるとはっきりとは口にしづらいものだ。
口を淀ませて言葉を選んでいる光琉だが、瑠香は相変わらず水と戯れているだけで一欠片の関心さえ向けてはいないようだ。
中々に言葉を選べずにいると声は唐突に向こうからかけてきた。
「傷跡・・・・・は」
「えっ?」
まさか瑠香の方から疑問の中心を突いてくるとは思わなかった光琉が素っ頓狂な反応をしたが、少女の方はやはり彼の反応に対しノーリアクションで言葉を続ける。
「・・・姉さんの傷跡は、悪夢の現われ。
境界線に踏み込んでしまった・・・いいえ、自らの意思で侵したモノ・・・・」
途中で遮っても良かった。彼が聞きたいのは禅問答のナゾナゾではなくて説明の言葉だったのだから。
ストップを言えずにいるのは少女の声の所為だ。まるで魔法。いや、占い、か。
不思議な音律で流れる言葉はそれ自体に呪いのかかった旋律だった。
薄気味悪さと奇妙なリアリティを背筋に感じつつも呆けたように耳を傾けるしかなかった。
まるで意味が解らない言葉を並べられ困惑しながら静聴する光琉を余所に、玲瓏と声は紡がれる。
「日常の代償・・・
自分達の世界にいれば無関係でいられる。
知らずにでも知っていても、有刺鉄線の向こう側に入ればそれなりの代価を支払わなければならない・・・
でも、それだけじゃ・・・ない」
「なんの・・・・ことを・・・」
「・・・・」
聞き返した声の震えるを自覚しただろうか。
だが、返答はなく、それっきり少女は黙ってしまう。
謎掛けのような言葉の真意を光琉は掴み損ねたままになってしまった。
水音だけが耳に響く・・・
頭を一つ振る。脳裏に蟠るもやもやとした靄を追い出そうとして。
遊ぶ為に来た場所でまで訳の解らない事を考えるのはうんざりだった。
気を取り直すと、勢い良くプールに飛び込んで小矢や季夕の輪の中に加わっていく。
空には黄昏のカーテンが引かれ、夜への傾斜を深めている。
光琉達がプールから出たのは5時を回った頃だった。
プールから出る際、時計を確認した時は流石に唖然としてしまった。
2時少し過ぎに到着してたっぷり3時間も遊んでいたことになる。自分の子供っぽさを露呈したようで光琉は苦笑するしかなかった。
時間を忘れるほど夢中になるとは・・・。そう思うと照れ臭くて口元から苦笑を消すのは出来なかった。
「うそ? もうこんな時間?」
時計を見上げる光琉の背後から同じように時刻を確認した季夕の第一声である。
彼女もどうやら同じ感想を持ったようで、少しばかり苦く笑っていたが表情は満足げでもあったのが見て取れた。
部活や部員のこと、それに大会の出場取り消し、色々と溜まっていたものを解消できたのだろう。
何も彼女に限ったものではない。光琉にしても良い気分転換にはなった。
久々に時間を忘れて身体を動かして、久々に心地良い疲れを感じている。
このまま帰宅してベッドに横になればさぞかし良く眠れるだろう。
眠る前に、空腹をしっかり癒してからベッドに入れば。
と、考える。
黄昏に染まる街路を歩く。背中から来る陽光が路上に長い影を落とし、それを追うように彼等は帰路に付いている。
今はまだ夕暮れだが、徐々に色が濃く、深く移り変わりつつあった。街を包む夕闇が薄いヴェールを一枚一枚と重ねていく。
夏の日は長いといっても無限ではありえない、必ず朝から昼、昼から夜へと変わっていく。それは少しづつだけど、確実に。
蝸牛が茨の上を躊躇い無く、緩やかに進むように。時に慈悲深く、時に無慈悲に。
このまま近くの店に食べに行こうかとも思ったが、家に帰って小矢の手料理の方が良いなと考え直す。
尤もそのシェフも一緒に半日も遊んでいたのだから疲れて夕食を作る気が薄いのであればその時はその時、光琉自身が作るか、瑠香が作るか。
季夕に作らせるという手もある・・・・と考えた途端、顔色を青くさせて即座に打ち消す。
八月も始まってまだそう経過していない、休みはまだまだこれからだ。なのに、季夕の手料理を食べて、残りの夏休みをベッドの上で過ごすのだけは回避したいところである。
テレビドラマや残っている宿題、他愛もない会話で笑いながら帰路を歩いている。
大通りより近道になる裏道を歩いていく。一級河川の遊歩道。車の行き交う道路とはルートが別となっており、高低差があって上を行く道路を見上げる形となっている。
学校がある時の夕方の遊歩道には数人の人影もあるのだろうが、長期休みに入っている現在は殆ど無人の野だった。
遊歩道といっても町の中心からは離れており、殆ど開発もされていないから当然か。町の中心部に近づくにつれ公園としての設備が整い、綺麗に整備された道になる。家族連れやカップルの姿もあるだろうが、光琉達の進路は残念ながら全く逆であった。人気のない方へ、乱雑となっている方へ進む。
道の左右は雑草が伸び放題に伸び、人間の背丈に届かんとばかりに伸びている。子供くらいなら全身隠れてしまいそうだ。
何かと寂しい道だ。車の音は遠く、人の気配もなく、街灯に至っては電球が切れて明かりを灯してないものまである。
河川に沿って緩やかなカーブを描く10分ほどの道のりを河を眺める。一級河川に指定されるだけあって水は綺麗だ。
流石にそのまま水を手ですくって口に入れる事は出来ないが、ゴミは滅多に浮いておらず、魚が水流を泳いでいる。
口数も少なくなってきた頃には遊歩道の終わりが500mほど先に見えた。
その時だった。不意に光琉の足が動きを止めたのは。
「ん? どうしたの?
はしゃぎすぎて気分でも悪くなった?」
「・・・」
追いついてこない彼を振り返る季夕の台詞に返ってきたのは沈黙。
小矢と顔を見合わせながら首を傾げ、歩いてきた道を少し戻る。
顔を覗き込んでくる季夕にも反応を示さず、光琉は眉間に皺寄せ、額を押さえていた。
―――――あの感覚。
奇妙な感覚が脳裏で轟いている。
金属が擦り合ったような甲高い音。
思考の地平にまで鳴り響いてこびり付く不協和音。
「・・・ホントに大丈夫? 顔色悪いよ?」
茶化していた季夕も光琉の只ならぬ雰囲気を感じたのか真剣な口調になっている。
奇妙な音律が頭の中を駆け巡っていて、気遣う声に応える余裕はなかった。
いっそ不快な耳鳴りであったのならはっきり口にできたのだろうが、不思議と不快ではない。奇妙な感覚ではあるが。
ふとした瞬間、それは聞こえた。耳鳴りは相変わらず消える気配を見せない。
甲高く鳴り響く中で、別の音が外から混じってきたのだ。
明らかに不快な音が新しく。
ずっと前から音は鳴っていたのかもしれない。だけど、気付いたのはその時だった。
最初は草が擦れる音。カサカサと小さな物音。
よくよく耳を澄ませば草音の中に別の音も混じっている。
それが何とも言えずに不気味な音だった。
いや、言葉として表現できる音だが、それを言うには躊躇いがあった。
だが、確実にその音がどのような意味を持つのか知っている。
「ねぇ・・・
へ・・・変な音、聞こえない?」
季夕の表情も変わっていた。
不気味な音に身震いするように両手で自分の肩を抱き締めている。
気丈な彼女であっても身を竦ませるほど気味の悪い音は薄暗い雰囲気の中、小さく響いていた。
カリリ・・・
グチャ・・・・
肉を啄ばむ音だった。噛み締める音だった。味わう音だった。咀嚼する音だった。
肉料理を食べる音だ。品性のない飢えを満たす音だ。
「・・・野犬・・・?」
お昼に見たニュースを思い出したらしい季夕が弱く囁く。
人間が相手ならば強盗犯であっても痴漢であっても、正義感の強い彼女の事だ、多少の怯えは見せても振り払うように勇んで飛び込んでいくだろう。
しかし、野生に戻った犬が相手では素人に出来ることはない。精々自分が傷を負わないように退散し、後は交番なりどこへなりと連絡するだけである。
素人の手に負えない事柄は専門家に任せておけばよい。
心持ち不安そうな季夕の問いに応えず、光琉は音の出所に険しい視線を注ぐ。
脳裏にはあの時の光景がざわめきながら浮かび上がっていた。
忘れるはずも、忘れられる訳もない奇怪な感触。
何故こうも訳の解らない事に出くわさなければならないのか。
蒸し暑い季節に、蟲以外のものでも発生したのか。
ユーモアをかます余裕はなかったが、頭の片隅で皮肉屋の精神が吐き捨てていた。
「戻ろう・・・」
小さく呟いた小矢の言葉に頷く。
誰もが不吉な予感を覚え、引き返すのが一番良い選択だと感じていた。
好奇心を携えて様子を見に行くには辺りは不気味すぎた。
正義の味方になるつもりはないし、警察官でもない、一階の高校生に過ぎないのだから。
野犬だろうが、狼だろうが、立ち向かわなければならない理由など無い。
ここから離れなければ。
心の何処かで自分の声が聞こえる。
焦り、急かす声が。
だけど足は心ほどに急げなかった。
重い。足枷をされ獄に繋がれた咎人のように足の動きは重い。
一歩後ろに下がるだけでどれだけの時間がかかったのか、考える余裕もなかった。
汗がじっとり滲んでくるが、肌は肌寒いほどに冷えている。
呼吸を潜め、一歩一歩確かめるようにあとずさる。慎重に、慎重に。
クチャクチャと嫌らしい音は以前変わらず、その場から遠ざかっていく彼等に気付いた様子はない。今のところは。
うかうかしてはいられない。何時気付かれるか解らないのだ。その前にここから逃げなければ。
そのままでいろ、と念じながら、ゆっくり、物音を立てず慎重に、かつ、出来るだけ素早く足を後ろに運んでいく。
15歩も下がれただろうか。
一体どれくらいの時間を掛けて15歩なのか解らない。速いのか、遅いのかさえ。
とにかくも音は先ほどよりは遠ざかりつつあった。
突然、風向きが変わった。
それまで河川から一般道路に向かって吹き、横っ面に感じていた風が、顔面へと流れを変えた。
風は独特の臭いを乗せていた。
「っ!」
思わず声を出しそうになった自分の口を咄嗟に抑えた。
臭い自体は微かなものだったが、だからといって悪い驚きが薄れる訳ではなかった。
―――血の、臭い。
風に乗って流れてきた臭気は忘れるはずもない独特のもの。
鼻先が錆びた臭いで擽られる。臭いがもっと強く、はっきりとしたものが流れ込み、吸い込んでしまっていたら恐らくは嘔吐感を覚えただろう。
幸いにして風を彩る朱色は薄かった。いや、幸いといえるかどうか解らないが、味覚にさえ触手を伸ばしてきそうな明確な臭味よりはマシだ。
「これって、血!?」
光琉が反射的に抑えた声を肩代わりするように季夕が発してしまう。
異様な状況下で一瞬とはいえ、神経の手綱を緩め、冷静さを手放してしまったのだ。
慌てて口を噤んだが時既に遅し。
貪る音が止まり、風の音だけが流れる。
不気味な静寂が肌を刺激する。
やばい、や、気付かれた、と、考える暇もなかった。
ギクリと鼓動が飛び跳ねると、瞬間的に思考が凍結してしまった。
息を潜め、耳を澄まし、目を凝らして、ただ、その場所だけを見つめる。
微かな異変さえ見逃さないように。
そして、それは待つ事無く起きた。
鬱蒼と生い茂る草むらから風切り音が鳴ったかと思えば、アスファルトに何かが叩き付けられ、黒い塊が季夕の足元に転がってきた。
中途半端に長細い奇妙な塊は光琉の位置からでははっきりと何であるのか確認できない。
凝視して、ソレを確認した刹那・・・
「きゃぁぁぁっ!!」
悲鳴が夕闇に放たれた。
季夕の叫びを光琉は制止させる事など出来なかった。
草むらから投げられた物を確認した直後に、彼自身も悲鳴をあげていたのだから。
手だった。
肘までで食い千切られた人間の手だった。
ここで逃げ出せれば良かったのだろうが、放り投げられた手は光琉達の足を竦ませるのに充分過ぎる効果を持っていた。
両足が剣で大地に縫い止められてしまったかのように、一歩も動かない。
いや、千切られた人間の手を見て縫い止められたのは足ではなく、彼等の精神の方だったか。
そして、精神を持ち直させるに必要な時間も無かった。
投げ込まれた手の次に草むらから別の塊が飛び出てきたのだ。
黒い影は獰猛な動きを見せ、季夕の頭上に落ちようとしていた。
殆ど無意識の内に光琉は飛び出し、上を見上げて立ち竦む季夕の腕を掴んで横に倒れた。
二人の頭の間を白いモノが上下からガチンと鋭い軌跡を描いて挟み込まれる。
季夕を飛び出してきた影から救った光琉が顔を上げた。
そこで彼の表情は固まった。
「え・・・・い、ぬ・・・?」
低く喘いだのは、アスファルトに転がった季夕だ。
大きさだけ言うなら街中で見かける野良犬とさほど変わりは無い。
それなのに、何処か異質な雰囲気を漂わせるのはその表情にあった。
顔に浮かぶ怒りは人間臭く、怒気に歪む人の顔を見ているようだ。
人の感情としての怒りが、犬の顔に広がっている。
パーツとしてみれば、普通の犬の顔を構成するものと何ら変わりは無い。
姿形が犬そのものであるだけに、顔を歪ませる怒気は余計不気味なモノとなっていた。
一つの視線を投げてくる犬の左目。
右目は黒ずんで変色し、腐りかけた眼球が突き刺さる石と共に見えた。
片眼だけの犬を見てまさか、と、光琉の思考に雷鳴に似た思いが轟く。
これは、そんな、まさか・・・!?
上半身を起こした状態で固唾を飲み込む。
思考はとうに正常な機能を放棄して、真新しいシーツよろしく白紙。
光琉には、その犬に覚えがあった。
忘れられる事なく記憶に焼き込まれた犬。
この犬は・・・まさか、あの時の・・・・・。
逃げる事も忘れ、光琉は犬の姿をした何かを凝視していた。
本当なら目を離したいのかもしれなかったが、吸い寄せられて視線は動かない。
彼の後ろにいる季夕も同じようで、光琉のシャツの裾をギュッと握ってくるだけで一言も発しようとはしない。
目前の怪異の前では、彼女の気丈さなど糸屑となって吹き飛んでしまったかのようだ。
無理も無い。男である光琉でさえ、誰かに支えて欲しかったのだから。
犬は一つの目で光琉を、次に小矢を眺め、「クク」と口端を吊り上げた。
どうにも人間らしい愉悦の表情は犬の顔に浮かぶと不気味以外の何物でもない。
「逃げて!!」
小矢が叫んだのと犬が飛び掛ってきたのは同時だった。
立ち上がって逃げ出す考えさえ光琉には無かった。
視界の中、襲い掛かる犬が大きく口を開けて人血に染まる牙を覗かせる映像が映り込む。