第弐章・表
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中天の座に近づく日はいよいよ苛烈の勢いを見せ、一面の色を塗り替えるほどに空を照り付け、地に無慈悲な熱気を降り注いでいる。
天空の高みから無数の矢となって降り注ぐ陽光をアスファルトが反射させ、熱波を撒き散らして空気を著しいまでに加熱させていた。
容赦のない暑さであったが、空気は心地良さを伴っている。

梅雨明け前だからこそ湿気混じりの空気が人と街並みをじっとりと濡れた腕で包み込んでいたが、
完全に夏の装いに衣を変えた空と空気と太陽は、大気から余分な湿気を吹き飛ばし、
照り付ける日差しを乾いた空気が吸い込み、熱は肌の上を滑るように通り過ぎていく。
過剰な水気を含まない乾燥した大気は纏わり付く不快感とは無縁であった。
時折、街並みを望む山から吹き抜けてくる風もあり、汗を滲ませる肌の火照りには心地良い清涼剤となって街中を駆け抜けている。

学校は何処も夏休みに入っており、学業から解放された生徒達が街並みに繰り出し、陽気な声が街角に溢れ返っていた。
陽気さは賑やかさではなく、むしろ、騒がしいほどであったが、元々の人口が少なく、遊べる場所など限られた町である。
自然、賑わいは特定の場所に限定され、若い年齢層の人口密集地を作っていたが、それ以外の場所の人口密度にはさほどの変化はない。
人の数が過密した場所の茹だるような暑さは太陽からの日差しばかりではなく、人の群れからにも、原因の半分はあるようだ。

学生達が長期間の休みで浮かれる季節。
カレンダーの日付は八月二日。
まだ夏休みは始まったばかりであり、新しい季節と新しい悩みを迎えるのはまだまだ当面先の事だ。
差し当たり学生達の問題はいかにだされた課題、宿題を処理して休みを無駄なく満喫するかにあった。

蝉が短い命に後悔を残すことのないようにと喧しいほど喚き散らし、アスファルト上は熱波が空気の層を曲げている夏の街並み。
中心街を南に離れ、緩やかな傾斜の坂道を登りった先にある白城神社は小高い丘にある為、街中に比べれば気温が低く快適だった。
山から吹く冷涼な風も通り過ぎるので、涼むには良い場所だが、残念ながらと言うべきか、当然と言うべきか、境内に涼みに来ている人間はいなかった。

窓も扉も締め切った二階東側の部屋中は冷房を効かせて快適な温度に保たれている。
窓際のベッドに身を投げ出している光琉は、別段する事もなく寝転がっているだけだった。

休み前に出された課題、宿題の類いは六割方終わらせてある。
古文、世界史、日本史、数学などの教科は得意なのだが、科学に滅法弱く、理系の課題は誰かの手を借りない事には終わらせる事ができないのだ。
数式が古代文字に見える季夕と同じ意味で、光琉には科学式が火星辺りの言語に思えた。
そんな光琉にとって頼りになるのが、理数系が得意な小矢と、文系と英語の成績が良い季夕の存在である。
苦手な理系を除くと自由課題を残すのみとなった光琉は、始まったばかりの休みを、取り合えずは居心地の良い自分の部屋で寝て過ごすつもりのようだ。

半分夢園に意識を置いているような眼で、エアコンから吐き出される冷気を浴びる。
湿気が無いとは言え、こうも暑いと外に出かける気分にもならない。加え、夏休み中だ、遊べるような場所は人の熱気が溢れ返っている。
元々人気の多い場所は好かない性質である。炎天下の中を出歩いて人の熱気に当てられるのは願い下げであった。

快適な場所で昼最中から惰眠を貪る彼は、最高の至福を享受していたと言えよう。
にも関わらず、寝惚け眼ながらに彼の表情は至って生真面目であって、眼を瞑っていると思案気ですらあった。

脳裏の片隅で、ある記憶が小さな蜘蛛の巣となって糸を張り巡らせている。
普段は気にする事などないが、ふとした切欠で思考が蜘蛛の糸に引っ掛かり、思い出してしまう時もあった。
まさに、この時のように。

ほぼ二週間前に遭遇した出来事。
怪異と怪奇の臭いを纏ったあの記憶がスライドとなって映り出す。
多少色褪せてはいても、生々しいまでに放たれる臭気は依然として変わらない。
脳髄にまで臭いは漂ってくるようだった。

一つ頭を振って臭ってきた臭気と映像を思考のスクリーンから追い出した。
忘れがたい記憶では確かにあるが、気にしなければいいだけの事なのだ。
今までと同じように思考のチャンネルを変えると白いシーツの上で寝返りをうち視線を転じた。
強い日差しが射し込んで来る窓の外に目を向ける。
照り付ける太陽と、青く澄んだ空が広がっており、雲の無い青空のスクリーンが目に眩しかった。
ベッドに座り込むようにして起き上がり、伸びをした途端、背骨が軋んで音を鳴らした。

壁時計を見上げれば短針はまだ12時前の位置にあった。
とは言っても、後30分もすればお昼になるが。

時刻を確認すると、それまで忘れていた空腹感が眼を覚ましてきた。
思えば起床したのが10時頃で、起きてから今まで食事を摂ってなかった。
余計なことを思い出して、腹の中で合唱する虫の音は一段と大きくなる。
空きっ腹に響く調子外れのメロディーを聞いて光琉は苦笑した。

空腹に餓えた腹の虫を黙らせる為に階段を下りた光琉が台所に足を向けた矢先、玄関が開いた。
ドアホンなしで訪れた礼儀知らずの来訪者は、燕の身軽さでスラリと伸びたしなやかに玄関に現れる。

「おはよう」

「ああ、おはようさん」

水晶の鐘音が朗々と響くような声は光琉に清涼な風となって吹き抜けたが、残念ながら空腹は僅かばかりも癒される事はなかった。
チラリと一瞥を向けただけで、無感動にキッチンへ向かう歩みを再開させていく。

折角の来訪にも関わらず、喜色の薄い光琉の態度を見て、季夕は気を悪くしたりはしなかった。
慣れているのである。長年の付き合いで相手の性格など熟知しているのでこの程度で気を悪くするような事はない。
これは恐らく光琉だからおざなりな態度を取っても、季夕の機嫌が悪くならないのだ。
他の男であれば凍死しかねない氷河の視線を放つことだろう。

「相変わらず無愛想だね、朝が弱いヒカル君は。
 もう昼だけどね」

「ほっとけよ。俺が起きてから4時間以内は朝なんだよ。
 とりあえず、メシを食べて、腹を満足させ、一服した後で喜んでやるよ」

と、光琉は綺麗な幼馴染の季夕からの揶揄を一蹴した。
流石に長年の付き合いで相手のあしらい方を良く心得ていると言えるだろう。
尤も、この場にクラスメイトの男子でも一人いれば、光琉の態度に蹴りくらい入れてきたかもしれないが。

そのまま廊下の奥へ歩いていこうとする光琉に対し、季夕が追い付いて来る。
光琉が素気ない返答を吐き出している間に靴を脱ぎ揃え、勝手知ったる何とやら、スリッパを自分で用意して上がりこんだのであった。

ふと彼女を見てみると、肩にはショルダーバックが担がれている。
丸みを帯びた可愛らしい黒のバックは普通のサイズよりやや大きめで、去年の誕生日に小矢からプレゼントされた品である。
大人びた外観の彼女に相応しく控えめで落ち着いた可愛らしさを演出する。
アクセサリーの類いで自分を飾る意識の薄い季夕は腕時計もしないほどだが、このバックだけはお気に入りのようで何かと使っている。

「なに? ご飯まだなの?
 どうせ夏休みになって自堕落な生活送ってるんでしょう。
 休みだから気を抜いて呆けてると、学校始まった時苦労するぞ?」

「自堕落結構だよ」

光琉の返答は簡潔を極めた。
これが季夕の言うところの、愛想のなくて可愛らしくないところなのだ。
幼馴染の発言に対し、彼本人のコメントと言えば「別に可愛らしくなくても結構。
物心ついてから可愛らしくなりたいなんて思った事もないからな」と、冷笑するのであった。

「ところでサヤは?」

「知らん。まだ寝てるんじゃないか?
 夢の中で枕をパンと勘違いしながら、必死に噛み付いてて、さ」

「あはは。かもね。案外天然なトコあるから、サヤは」

幼馴染二人揃って結構な酷評である。
小矢の外見だけしか知らない男が聞けば思いっきり否定しそうだが、二人に言わせればそれくらいの事はやりかねない、となる。
別に小矢が飛び抜けて朝に弱い低血圧とは違うが、時折普通とズレている事をやらかして、傍で見ていた光琉や季夕を慌てさせる事もしばしば。
素、しかも天然の素であるだけに始末が悪い、と言うのが、被害に合わされる二人のコメントである。
普段はしっかり者に見えるだけに、彼女の素は、知らない人間にとって軽いカルチャーショックにもなるに違いない。

「でも・・・ま、夏休みだからってサヤがあんまり夜更かししないように注意しといてよね。
 夜遊びなんてもっての他だから。
 頼んだわよ、ヒカル」

どっか抜けてて放っておけないんだから、小矢は、と、季夕が続けている。
正直に言えば、光琉は小矢に関してそれほど心配してもない。
単に天然なだけで、そこいらの大人より余程頭の回転も速く、頼りになる。
季夕の言うような心配は無用なのだ。
発言者自身もこの事は良く理解しているが、
小矢より四ヶ月先に生まれてきた季夕は何かある度にお姉さんぶっては澄ました口調でお説教したりするのである。

「ハイハイ。
 季夕も気を付けろよ。
 あんまり夜遊びしすぎると、怪しい中国人に拉致されて、気付いたら香港辺りに売り飛ばされてましたー・・・。
 なんて事、お前だったらあって不思議じゃないからな」

そう切り返した光琉だが、言葉とは別に少し気になる事もあった。
最近、時々ではあるが小矢の帰りが遅い日がある。
そんな日は限って帰宅が12時から深夜にかけてになるようで、光琉の心配の種にもなっていた。
帰宅時刻が遅くなるのは週に一回から月に一回、長ければ数ヶ月に一回の割合だから、それほど気にする事ではないのかもしれない。

「なに?
 そんなに私の事が心配なら、ストーキングしての身辺警護許可してあげるよ?」

突拍子も無く出た無邪気な声を聞いて、光琉は思わず顔面から廊下に突っ込みそうになった。
転びそうになって必死でバランスを取る彼の横で、季夕は屈託なく笑うのであった。
小矢は天然だが、季夕は確信犯で、計算して相手に衝撃的な一言をサラリと言ってのけるのだった。

「いや・・・もういい。
 とりあえずメシを食う・・・。
 朝から何も食ってないからな、腹が減った・・・」

「あっ、ご飯、私が作ってあげようか?」

先ほどの動揺から立ち直っていない光琉は更なるショックで横面を殴打された。
記憶の淵からざわざわとあの味が這いずり出てきて、脳裏と舌に極悪な毒液を吹きかけてくる。
甘すぎて、辛すぎて、くどすぎる味の記憶が、極彩色の悪夢のような宴を脳内で開催する。
立ち眩みに頭痛、胃痛、胸焼けが本日を過ごす上で無くてはならない気力を略奪しようと畳み掛けるように一大攻勢に出てきた。
空腹に鳴っていた時とは別の意味で泣いている腹を抱えながら、それだけは勘弁してくれ、と低頭しながら呻く光琉だった。
どうにも今日は負ける気運にあるらしく、この幼馴染に勝てそうにない。こんな時は素直に負けるのが吉である。

キッチン近くまで歩いた時、「就寝中」の文字の書かれたコルクボードを下げたドアが開き、眠気眼の小矢が顔を出す。
頭の周りでは夢園の妖精が飛び回り、羽から眠りの粉を撒き散らしているようであり、何度も欠伸を噛み殺している。
流石にパジャマ姿着用ではなく、私服姿ではあったが。

「あ・・・おはよう」

ぽんやりした様子で光琉と季夕を見つけると、これまたぽんやりとした声で挨拶してくる。
妖精の羽に映る夢の国を見ているような眠そうな目を擦る様は、とても高校生には見えない。

「おはよっ、サヤ」

「はよ。
 早速で悪いが昼メシ頼むよ」

そんな小矢の姿を見て、季夕は柔らかく苦笑混じりの微笑みを浮かべ、
光琉は子供を相手取るように無造作に頭を撫でてやりながら皮肉で味付けした挨拶を返してやった。

「お昼ご飯?
 じゃ、今から作るね。ちょっと待ってて」

玄関横の壁にかけられている時計と光琉を交互に見やり、一人コクコク頷くと、小矢はポテポテ足音を鳴らしながらキッチンへ向かっていった。
その後姿を眺めながら、やはり季夕は姉が妹に向けるような・・・というより、母親が我が子に向ける微笑みを苦笑風味にして笑う。
光琉はそんなものより餓えた腹の方が重大らしく、食欲の合唱が彼の姿を飾っていた。

「そういえば、季夕、部活はどうした?
 何時もならま練習中だろ、この時間」

テーブルを囲んだ光琉と季夕の鼻先に、カウンターキッチンの方から香ばしい匂いが流れてきて、食欲を刺激してくる。
此花家は神社を取り仕切ってはいるが境内に居を構えている訳ではない。
白城神社と垣根を挟んだ隣に本宅が別にある。裏庭は繋がっていて、そこから神社の裏手に回り中に入れるようになっている。
神社自体はどれくらいの歴史があるものか皆目不明だが、相当古いが、本宅は数年前にリフォームして装いも真新しい作りだった。
それぞれの室内は和風よりも洋風に比重を置くようで、光琉の部屋と小矢の部屋もフローリングとなっている。
畳張りの部屋は一階のお座敷くらいなものだ。
キッチンにも手が加えられ、洋風のカウンター式キッチンを採用し、食卓と台所が一つのカウンターを挟んで一緒になっている。
料理を作っていれば、自然、新鮮で香ばしい匂いは運ばれてきてイスに座って待っている者の鼻先を擽る。

少しでも空腹感を紛らわせようとスイッチを入れられたテレビに目を向けたままで光琉がふと問い掛けた。
彼の言うとおり、昨日までは太陽が中天の座から退いて傾き出す2、3時頃までは学校の校庭を走り込んでいた季夕であったのだが、
今日に限って昼前から顔を見せるのは珍しいかぎりである。
よもや季夕に限って部活をサボって来たとは思えなかったが、ちょっと好奇心をそそられたのだった。

「あぁ・・・ちょっとゴタゴタがあって・・・」

言い難そうに言葉を淀ませている季夕。
何やら揉め事があったのは解ったので、光琉にすればこの話題に付いてここで打ち切っても良かった。
無理に聞きだすような事でもない、と、考える光琉の前で、季夕は所々語尾を噛み、少し考える素振りをした後、改めて口を開いた。

「一昨夜ね、部員の子が怪我して・・・あ、怪我はそんなにたいした事なくて、でも・・・時期も時期だったから、ちょっと問題になってね。
 今大会は見合わせって事になったみたいなの・・・あ、コレよ。このニュース」

昼のニュース番組を指差した。
ニュースキャスターの事務的な口調は一昨日の夜半過ぎに起きた出来事を語っていた。
市内の高校生数名が、国道から北西4k進んだデパート駐車場で倒れているところを新聞配達員が発見した。
命に別状はなかったが皆一様に軽傷を負っている、との事だ。

「怪我だけならそれほどだったんだけど・・・この子等、夜中に集まってお酒飲んでたみたいでね。
 それでやっぱり、ちょっとね・・・」

ニュースキャスターの喋る内容に、そう、季夕は言い難そうながら付け足して弱く苦笑した。
困っているような、悲しんでいるような、憂鬱に彩られた儚い微笑みだった。
見ている方がチクリと胸を痛ませる表情を前に、光琉はどう言ってよいか解らずに無言で耳を傾けている。

「そっか・・・」

季夕が短く吐息を吐き出したのを切欠にして、慰めの言葉でもかけてやろうと光琉は考えた。
考えはしたが、やはり適切な言葉が見つからない。
大変だな、辛いな、そんなありきたりな、そしておざなりな言葉しか浮かんでこない。
こうゆう時は自分の未熟さを自覚するのだ。満足な言葉一つ送れない自分に腹立たしさを覚える。
それでも、と、言葉を選び、困惑してしまう光琉の様子に、季夕は少し笑った。

「私はそれほどショック受けてないから大丈夫だよ。全然ショックじゃないと言えば嘘になるけど、ね。
 走るのは好きだけど、ただ好きなだけだから、大会とか記録とか、そんなのに別に拘りないしさ・・・。
 まっ、一応大会に向けて今まで練習してきたから、練習の成果を発揮できないのは残念ではあるけど・・・。
 でも、私よりももっと本気で部活に取り組んで、この大会に臨んでいた部員は・・・ね」

話し終えた季夕の視線は、窓の外に見える神社を囲む林に向けられていたようだった。
純粋に走ることが好きで入った部活であって、大会で残す成績にはそれほど関心を持たない季夕だからこそ、
まだ務めて冷静に事実を受け止められているのだろう。
彼女の言ったとおり、他の、大会に向けて練習してきた部員、特に今年が最後となる三年生にとっては悲惨な結果になった。

そうであるには違いないが、季夕自身は本当ならばもっと悲しんでいい立場にいるはずであった。
浅はかな部員の行為で大会出場を潰されたのは事実であったし、その為に行ってきた練習が無駄になったのでもあるのだから。
しかし、それを告げればあっさりとこう返されるだろう。

「今まで頑張ってやってきた事だから、全くの無駄にはならないよ。
 次に活かせる事が出来れば、それでいいしね」

と、長い髪を片手で梳く癖をしながら初夏の日差しに煌く水晶の微笑を浮かべて言うだろう。
聞かなくても光琉には答える時の季夕の言葉と表情が容易に想像できた。
何、青春を満喫してやがる、と、皮肉の一つでも言いたいのが彼の本音である。
本音ではあるが、内心の照れを隠した皮肉でもあった。

素直に言えはしないが、季夕のその考え方は強さだと、
自分には到底真似のできない芯の通った真直ぐな強さだと解っているから、素直には言えはしないのである。
長い付き合いが故に、素直になれない。相手の事を良く知ってるから、面と向かって言うには照れ臭い台詞もある。
幼少時からお互いに積み重ねてきた時間の長さが逆に仇となってしまうのだった。

何かバカを言って、季夕の気分を回復させてやろうとする遠回しな光琉の気遣いは、だが、言葉として喉から出はしなかった。
ブラウン管に映るキャスターが、地方のローカル局にありがちな事件と呼べない事件を告げていて、
その中で話された内容が光琉の発言を封じてしまったのだった。

『怪我をした生徒は軽傷でしたが中には犬に噛まれたものと見られる噛み傷を負った少年も確認されており、野犬の増加が危ぶまれております。
 この夏は、極力、山などの人気のない場所には近づかないようにしましょう・・・』

淡々と事務的な口調は冷水になり光琉の鼓膜に流れ込み、見えざる手となって脳のシナプス回路を揺さぶった。
氷蛇が背筋を這い登ってくる感覚が脳髄に達した時、折角、精神野の隅に追い遣っていた記憶が再び揺さぶり起こされた。
記憶の泡沫が湧き上がり、無数の蟲が蠢くように一箇所に集まり出し、
一枚の写真になろうかとした時、頭を激しく振って思い出しかけた記憶映像を元の飛沫に崩す。

今度は光琉が苦い吐息を吐き出す番となった。
犬と聞けば何かと関連付けて思い起こしてしまう自分が恨めしい。
それだけあの出来事から受けた印象が強いとなるのだろうし、確かにそうなのだが、
出来ればあの時の記憶は忘却の河に投げ捨てて永遠に手を切りたいところであった。

という光琉の願いは些か都合よすぎたらしい。
彼が気付かないだけであって、怖気を振るう悪夢の蔦は彼の足首に巻き付いたままとなっているのだから。
そして、彼が怪異と忌わしい再開を果たすのも目前に迫っている。

「去年卒業した先輩と遊んでいたみたいなんだけど、一緒にいた筈の先輩の方はまだ見つかっていないようなの。
 まぁ、在学中からあんまり良い噂を聞いたことがない人だったらしいけど・・・・」

と、話を続けている季夕の言葉を、この時の光琉うすぼんやりと頭の片隅で聞いていた。

それから間もなくでキッチンから音がなくなり、小矢が香ばしい匂いを盆に乗せて運んできた。

「お待たせっ」

光琉と小矢にとっては朝食と昼食兼用となる食事はレタスサラダ、ツナマヨネーズ、
ハムチーズからなる三種類のサンドイッチとカボチャの冷スープ、クリームスパゲティ、
後は小さく盛られたサラダの詰め合わせの四品が軽快なリズムで卓上も並べられていく。
茹で上がったばかりのパスタから立ち上がる湯気を顎に当てながら鼻孔一杯に匂いを吸い込むと腹の虫が煩く喚き出した。

「相変わらず美味しそうだねぇ、サヤの料理は」

料理と共に自分の前に置かれた紅茶を一口含んだ季夕が、ほとほと感心した様子で感嘆の吐息を漏らしている。
私の料理は見栄えだけは勝ってるんだけどなぁ・・・などと小さくぼやいているのを光琉は無言で無視してのけた。
その横では小矢がどのような表現をするのが正しいのか、あえて言えば苦笑に似た笑みを浮かべて困っているようだった。

どうしてかなぁ・・・と、卓上に並んだ数々の手料理を見渡して再度首を捻る季夕である。
本人曰く、本のレシピ通りに材料を揃え、順番どおりに工程を消化して出来上がるのが何故か見た目だけの紛い物になってしまうのだ。

このような場合は下手に口を挟めば後日、あの料理の餌食にもなりかねない。
余計な事を口にしたばかりに今度のチャレンジに味見役を仰せつかっては堪らないとばかりに、光琉は右から左へ会話を素通りさせていた。
内心で「確かに見栄えだけはプロ級だよ、味は悶死級だけどな」と冷ややかに酷評を下している。

丁度、小矢が料理の皿を食卓に並び終えた時、キッチンのドアを開けて瑠香が小さな身体を見せた。
今まで何処で何をしていたのやら。ご飯の時間になると必ず姿を見せるので普段見かけなくてもそれほど心配されてはいない。
小矢の雰囲気と容姿よりも更に幼い瑠香は季夕を見つけるとペコリと小さく目礼した。

「おはよう、ルカちゃん」

「・・・おはようございます」

春の日差しを反射させる清流の声に、か細く応じた瑠香。
相変わらずの無表情で六人掛けテーブルの左端に座る。

学校生活でもこの少女はこんな調子だった。
過去、交通事故から回復し、学業に復帰して暫く後に行われた三者面談の時、保護者として出向いた祖母が担任教師から言われたそうだ。
親しかった友人グループとも仲が疎遠になり、一人でいる事が多くなった、と。
教師の発言に祖母は困惑してしまった。

それは確かに事実の一片を正確に突いていたが、全体像を指摘してはいなかった。
此花 瑠香は自ら進んで他人との接点を遠ざけ、或いは拒否し、望んで一人でいるのだ。
自分と他者との間に見えない壁を作り、人を寄せ付けなくしているのだった。
晩節を迎える老人然とした達観の態度、ある種超然とした様子で。

家人に一人の客人を加えても平均年齢が10代の家族の昼食。
名シャフの料理に食べ慣れている光琉は黙々と空腹を満足させる為に手を動かし、
季夕は親友の手料理に舌鼓を打ちながら自分の料理の腕と比較して「なぜかなぁ、こんなに味が違うの、どうしてかなぁ」としきりにぼやき、
瑠香は行儀良く音を立てずに食事を続ける。
それぞれの食事風景を料理人の小矢は穏やかな笑みを浮かべ。嬉しそうに見守っていた。

「午後からプールに行かない?」

食事の進む中で季夕が切り出した言葉である。
大会出場が白紙に戻され、部活と練習で埋められていたスケジュールが一気に空白になって暇なようだ。

「突然だなぁ・・・」

「いきなり大会出場自体が消えちゃったから、時間を持て余し気味になってるのよ。
 それに、大会終わってから遊ぶ約束してたでしょ?」

出された料理を粗方平らげて腹を満足させた光琉の少々呆れが入る物言いに、悪びれもせず言ってみせる季夕。

「どうせヒカルも暇してるんでしょ?」

「・・・・・悪かったな」

事実だけにそう言われればぐうの音も出ない光琉であった。
口惜しそうになった彼を見ながら人の悪い笑みを浮かべる季夕。

「サヤとルカちゃんも良いよね」

「うん、いいよ」

心地良く快諾した小矢とは正反対に、彼女の妹の瑠香は自分もだとは全く予想していなかったようで言われた瞬間、表情を固めてしまった。
パチパチっと目を白黒させ、心底驚いている。飼われたばかりの子犬や子猫が初めてヌイグルミを見た時の表情に近い。
普段が感情の篭らない作り物めいた無表情をしているだけに、それが驚きであっても表情を変える瑠香というのは珍しいものだった。
何度か瞳を瞬かせながら「えっ?」とでも言うように僅かに小首を傾げた。
歳不相応に明瞭な少女らしくもない反応の鈍さには微笑ましさと可笑しさが見て取れて、実に可愛らしくもあった。

「いいよね?」

猫の子供が驚く様子を見るでもして優しい眼差しをしている季夕が柔らかく微笑みながら再度聞くと、
初めは少々迷っていた瑠香も暫く思案気な表情を作り、やがてゆっくり頷いて「はい」と呟いた。少女の返事に季夕は笑顔した。

何処かまだ少し戸惑いが残っている瑠香であったが、季夕の笑顔を見せられては今からNOと言うわけにもいかない。
少し、というか、慌てているような、困惑しているような、落ち着かない様子。瑠香の反応はいちいち新鮮である。
こと、この少女の扱いに関しては実姉の小矢より季夕の方が格段に優れていると言えた。
料理の腕では比べるまでもなく秀で、素材を調理する事に優秀であっても妹の事となると不器用になってしまう。
いや、不器用というより、一つ距離を取って接している感じさえ小矢にはある。
あわや命の危機となった事故を境に豹変してしまった実妹に対して、最も適した接し方を把握できずにいるのだろうか。

「じゃ、水着の用意しなくちゃね。
 季夕も用意が必要でしょうし、何処かで待ち合わせする?」

「大丈夫。私はもう準備してあるから、ここで待ってるよ」

得意気に笑って、季夕が隣のイスに座らせたバックを指差した。
どうにも最初からそのつもりで来たらしい。準備は万全のようだ。
大人びた幼馴染の抜け目のない考えに、光琉は苦笑するしかなかった。



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