第壱章・裏/2
何時の間にか日は中空の窪みに落ちかけ、夕闇は深みを増していた。
黄金色の原色が滲む帯に金糸を織り込んだ夕暮れの射光に濡れた森林。
様々に濃度の違う木々の緑も、黄昏の淡色に塗り替えられ、景色の像を滲ませている。
指甲花を染料に使い、染められた橙の空の下、来た時と同じ道を逆に辿っていく。
好き放題に伸びた雑草の浅瀬を踏み分ける朔夜の足が不意に止まった。
空と同じ色に同化した森林の隅に蹲る影を見たのだ。
最初、地蔵と雑草が重なって影をなしているのかと思ったが、どうやら人影であるらしい。
遠目では丸い輪郭を結ぶ影が人の物であると気付けないほど、
残照に色彩を影響された黒い塊は小さく見え、何より、全てが同一色に溶ける世界では人も樹も石も見分けるのが困難だった。
それらは色ではなく、形で判別するしかない。
無視しても良かった。
いや、本来の彼ならば気にも留めずに素通りしているに違いない。
この日に限って木の幹に両膝を付いている人影に近づいたのは、単に気紛れに類する事に過ぎなかった。
近くに寄ってみて実感したが、幹に支えられる人影は酷く小柄で頼りない。
白いブラウスと青いスカートのシンプルなセーラーは近くの高校の制服だが、
少女は同年齢に比べて平均よりもやや・・・いや、大分華奢な体格をしており、幼く感じられた。
「・・・どうした?」
と、聞いた朔夜ではあったが、内心、足を向けてしまった自分に舌打ちしているかもしれない。
仮にそうだとして、放っておけば良かったと悔やんでみても今更だったのは自覚しているだろう。
「・・・・」
声を掛けられた少女の方は肩で苦しそうに呼吸しながら、汗が滲んでいる顔を上げ、朔夜に眼を向けてくる。
黒瞳が白い秀麗な顔を目視した直後、少女は小さく呼吸を詰まらせた。
黒い衣服の男の顔が端麗に整っており、作り物めいた異様さを白い顔の中に見つけ、驚いたのである。
稀代の芸術家に創造された彫像が命吹き込まれ動き出したか、宗教画に描かれた聖人が額縁から抜け出てきたのだろうか。
いずれにせよ、人の持つ体温とは無縁であるが故の秀麗さだったのだから。
人の顔を見て驚きで呻いた少女に投げられる視線は冷ややかなものに変化したりはしなかった。
朔夜の目付きは元より冷淡であり、甚だ非好意的だったのである。
しかし、この時の名も知らぬ幼い相貌の少女に向けられた黒水晶の瞳は普段とは少しばかり異なっていた。
穏やかな、と言うよりは、まだ柔らかいに近く、暖かな、よりは、それほど冷たくもない視線だったのだ。
幼さの残る少女には、目覚めの時を迎えぬ妹の面影でも重ねて見てしまうのかもしれない。
取り分け、この日出合った少女は、朔夜の最愛の妹の顔立ちと何処か似ている部分があった。
これは朔夜の大いなる錯覚であったかもしれない。
彼の妹である紗姫は人外の美を持つ姫であって、血と体温からなる美とは無縁のようだった。
比べ、目の前の少女は血肉と体温に鼓動といった人の生命活動から作られた魅力だ。
水晶の美しさと花の綺麗さは性質が全く異なってくる。
朔夜は、花に水晶を混同視してしまったのだ。
無論、これは極端な話で、彼が水晶と花の色や輪郭、
イメージといったパーツの持つ雰囲気を、少女と妹の中の共通して見出しただけの可能性も充分にあった。
それにしても、体格に相応しい童顔。
凡そ、こんな何もない場所とは不釣合いな少女。
学生であれば放課後にあたる時間帯、部活やら帰宅路やらで人の輪に囲まれている方が余程、らしい、ものだ。
「いえ・・・別に大した事ではないので・・・・」
苦しげな表情の中、その少女は微笑んでみせたが、どうにもぎこちなく無理に作った微笑みであるのが一目瞭然だった。
朔夜は少女を上から下に決して暖かくはない視線を動かす。
目立った血の跡は見つけられないが、左腕、肘付け根の部分に何かで引っ掻いたような切り傷があった。
加え、左腕で腹部を抑えている事から察するに、強く叩かれたか殴られたかしたのだろう。
乱れた呼吸と苦しげな表情は、腹部に打撃を受けたからだと推察された。
「その腕の傷・・・・爪、か?
出血の量から察するにそれほど深くないようだが」
「え、ええ。
さっき凶暴な野犬に襲われて・・・
なんとか追っ払えたみたいなんですけど、その時に引っ掻かれたみたいです・・・」
ここで彼女の言葉に納得して引き返す事も可能であった。
が、朔夜の足はそこに留まり、少女を放って離れる意思はなさそうである。
少なくともこの時は。
無関心を決め込んでこの場から退散するには、気掛りが二つ、朔夜にはあった。
目の前の少女を見た時から、ある感覚を感じた。
それは特殊な者が放つ独特の匂いとも言うべきもので、彼にとっては嗅ぎ慣れたモノだった。
二つ目は、先ほどから雑木林の中で違和感が増大していた。
こちらも覚えのある感覚で、予想も見当も付いている。
それらを合せ、朔夜は予測と言うより半ば確信に近いものを持っていたのである。
もう一つ、気掛かりや心配事とは別なモノがここからの退去を渋らせているのだ。
少女の顔に、妹の顔を重ねてしまい、どうにも放っておけない朔夜だった。
自分自身の甘さを自覚し、苦虫を舌の上で転がせるのだが、理性ではどうにもならない問題であった。
「・・・っいた」
硬く眼を瞑り、少女が膝に力を込めて無理に立ち上がろうと試みて、途中でガクリと膝を曲げた。
腹部が痛んだろうが顰めさせていた眉を更に顰めさせ、小矢は短い呼気を詰まらせる。
「休んでいろ」
朔夜は少女の肩に手を乗せて、強引にその場に座らせた。
自分と関わりのない事柄は全て一括りにして、無視し、突き放し、蹴り飛ばす彼がこの時とった対応はらしからぬものと言えた。
老人であろうと赤子であろうと、目の前で苦しむのが関心も興味もない者であれば一瞥を与えて横を素通りするのが本質であって、
見も知らない他人に対する優しさや暖かさと言ったものから遠縁なのだから。
気遣いの言葉をかける相手がイブリズであれば、そらうそ寒い顔をして不気味がるに違いないが、現在彼の相手を務めるのは、名も知らぬ少女である。
朔夜から声を掛けられた彼女は拒否の形に弱々しく頭を振った。
「もう、平気です」
余り平気には思えない口調で朔夜の気遣いを退けた少女だが、やんわりとした口調とは裏腹に双眸には確固たる意思が垣間見れる。
何故ここまで頑なな意思を持っているのか、朔夜の予想が正しければ納得も出来ようもので、
逆に、少女の頑なな態度が彼の持つ予想を裏付ける材料の一つともなった。
「大丈夫ですから・・・」
と、そう告げてもう一度立ち上がった少女は、痛みと共に蟠る濁った大量の空気を肺の中から追い出し、新しい酸素を吸い込むと歩き出した。
朔夜の反応は白い顎に手をあてて数秒、思案気な顔を作り、歩き出そうとする少女を今度は強く呼び止めた。
「どうでもいい事だが、せめて腕の傷くらい手当てした方がいいぞ。
ハンカチくらい持っているだろう? それを巻き付けておけ」
「え? あ・・・ハイ。
そうですね・・・・・」
ぶっきらぼうな言い方ではあったが、素直に従い、スカートからハンカチを取り出し、傷のある左腕の肘に巻き付けようとする。
肘に巻き付けるのだが、片手では結び辛いようで巻いては解け、巻いては解け、と繰り返す。
器用なほどではなく、どちらかと言えば不器用なのだろう。
見てられないと言った様子で小さく嘆息した朔夜は、少女が手に余らせるハンカチを横から取り上げる。
そのまま無表情で、実に手早く巻き付けにかかった。
「す、すいません」
恐縮してしまった少女の顔にちらりと一瞥を与えただけの朔夜。
肘の辺りに二つに折ったハンカチを巻き付け、両端を結んで固定する。
「ありがとうございます」
「・・・・あぁ」
遠慮がちに礼を言うと、朔夜は素気なく応じたが、どうやら戸惑っているようであった。
冷たい水晶細工の若者の顔に人間らしい表情を見つけて、少女は口元を綻ばせた。
お辞儀して踵を返した少女の姿が林の中に消えるまでの数十秒ほど後、
思案気な素振りをしていたが、華奢な後姿が完全に見えなくなると朔夜も動き出した。
少女が歩いていった方向とは逆に足を進め、雑木林に分け入る。
林の奥へ進むほど感じていた妙な違和感は確かな輪郭を浮き彫りにしていく。
その感覚が強まり、明確に解ったのは林の中心に達しての事だ。
周囲に展開する景色と殆ど変わらぬ木々の緑に覆われた空間の中、朔夜は足の動きを止めた。
「なるほど、な」
得心した呟きを漏らす朔夜。
「結界か。やはり、あの娘は・・・」
続く言葉を、彼は口内に飲み込んだ。
先ほどの少女と会ったのと前後して数分前から感じていた違和感の原因はコレだったのである。
自らの予想は正しかった訳だ。
彼の目の前の光景は、周囲に広がる景色と異なるところが無い。
木々が並び、草が生え、緑が全体の色となって広がる。
何一つ変わる事のない風景にも関わらず、朔夜は絶対的な違和感を確かに感じ取っていた。
視界の範囲に映る雑木林が極端に“視え”難いのだ。
例えるならば、三つに分かれた通路の真中の道が突然消えてしまった状態。
なのに、通路が二つになっているのに誰も気付けずに、元から通路の分岐は二つだったと錯覚させられている感じだ。
注意して凝視しなければ、「もう一つの真中の道」を視えもしないし、思い出せない。
ただ、ここに施された術は効力の大半を失っているようで、視覚と感覚に薄霧がかかる程度だった。
朔夜が訪れるより先に雑木林に入り込み、効力を打ち消した人間がいると言う事を示していた。
それも、恐らくは力付くで。
一応の警戒をして踏み込んだ瞬間、鍔鳴りに似た金属音が脳裏に木霊した。
結界内に進入した際、霊的な力が反発して脳裏に音となって響くのである。
もう一歩踏み入れると、脳裏に尾を引く残響も静まり、甲高い金属音は一瞬の内に過去のものとなった。
彼が足を踏み入れた直後、背後で小さいが激しい発火が起こる。
結界に使用されていた触媒は符術らしく、札が力の負担に耐え切れずに燃え上がったのだろう。
ものの数mも進まないうちに、景色が変わる。
視界に見える木の葉で表される緑は全てが緑であっても単一色ではなくなった。
濃度の変化が個々の緑に個性を与えており、それぞれが緑でありながらも色彩鮮やかな趣きすらある。
浅い緑、濃い緑の群れの中、微妙に異なる色を緑に溶け合わせる枝葉も生い茂り、色とりどりと表現もできるほどだ。
色相、明度、彩度の異なる千種万様を映す万緑の空間に、その一角だけはやけに色黒い。
これまで無規則な間隔を空けて地に根を張っていた樹木が異様に集中している。
一本の木の幹にもう一本の木の根が絡み付き、更に別の枝葉がそれらの枝に巻き付いていた。
身の丈ほどもありそうな蛇身同士が幾つも絡み合っているような惨状で、重なり合う緑が最早緑より黒に近い濃さを持っていた。
密集した木々と枝葉で作られた薄暗い回廊。その隙間から覗くと奥に開けた空間が広がっているように見えた。
幾ら初夏とはいえ、中天の玉座にいるのならともかく、
夜の勢力に追われる傾いた太陽の残照と言うべき日差しでは、濃緑の回廊に蟠る薄暗闇のヴェールを完全に剥ぎ取れはしないでいる。
木で作られ、緑で塗装される自然の回廊に数歩足を踏み進めた時、腹に響く低い唸り声が風に乗って鼓膜を震わせた。
獣性と悪意剥き出しにした野生の唸りは風に乗る不吉な羽音をはばたかせ、木々を無秩序に恫喝しているようでもあった。
「下位・・・か」
心地良いとは対極に位置する音を聴覚で味わいながら、誰ともなしに呟き、足元に転がっている手頃な大きさの石を幾つか拾い上げる。
慎重ではない大股の歩調で近寄る。六つほどの木々を通り過ぎた頃、緑の回廊は切れてドーム状の空間が目の前に広がった。
無造作に歩を進めた先で、少年と呼んでも差し支えの無い歳の男と一匹の犬がドームのほど中央で対峙していた。
唸り声を牙の奥で轟かせる犬の視線に射抜かれているようで、少年は竦んで身動きするにも窮している状況のようだ。
獲物の気分を心底味わい心胆寒くしているであろう少年が下手に微動すれば、犬は牙を剥いて一気に飛びかかってくるだろう。
それを少年の方も解っているから動かずにいるのか、只単に恐怖で竦み上がって四肢を動かす力さえ消散しているのか、後姿だけではどうにも解らない。
少年が危うい均衡の元、細い糸の上にバランスを取るような状況下であったとしても、犬の方は余り歯牙にしている様子はなかった。
緊張を孕む空気が小さな針となって肌を刺し、微動する事も控えている少年の真剣さとは裏腹に、
恫喝を加えて来ている犬は現在の状況にあわせて役割を演じている節さえあった。
そもそも凶暴さに目覚めた野生の犬が、人間ごときを相手に攻撃を躊躇する筈がない。
野生の本能とか言うヤツで、脚力と跳力、それに牙と爪の威力を知っており、たかが一匹の二本足の生物を恐れる必要がないのを知っている。
四肢に蓄えた力を解放し一飛びで間を詰め、牙を好きな場所に突き立てるか、それとも爪で望みの場所を切り裂くか、狩猟の方法は気分次第で変更できる。
牙も爪も持たない少年は両手で身を護るか、足を動かして逃げ出すか、どちらかしかないのだ。
一個の彫像となって微動だにしない、また、できない少年と対峙する犬はまるで少年を玩具にして遊ぶような目付きと態度だった。
脅えて、竦む様子をにたついて見遣り、飛び掛って一息の元、牙と爪の餌食にせずに弄ぶ様は嗜虐性に富む人間のソレではないか。
犬が漂わせる人間臭さに彼は覚えがある。
同一ではなく、同種の臭いというべきか。
間違えるはずもないほど嗅ぎ慣れた臭味は記憶に新しくもあった。
犬に似せた怪異の正体を彼は知悉しているとも言える。
そうではあるが、やはり、犬は犬なのだ、朔夜にとって。
どのように異質な雰囲気を含んでいるにせよ、ソレは犬コロに過ぎない。
あの犬コロが、先ほどの少女に手傷を追わせた犬に違いないだろう。
と、また別の思案もしていた朔夜は一人ごちる。
慎重とは言い難い歩調で二、三歩進む。
朔夜は中心に少年を挟む形となり、少年の肩越しから、唸り声を喉奥から口腔に渡って轟かせている犬の姿が見えた。
向こうの方も呼んでもいない来訪者に気付いたらしく、嗜虐性に溢れた眼を向け、恫喝を加えて来る。
血走った視線と黒水晶に彩られた視線が交差した途端、事態は一変した。
両眼を見開かせ固まったかと思うや否や、次の瞬間には猛々しさを倍加させ、喉に轟かせていた唸り声を高く高く吼え放つ。
邪悪な理性と凶暴な野生が同居していた危険な犬の眼は、混乱と驚愕に食い荒され、錯乱だけが残っていた。
精神の均衡を崩されて唸りをあげる生物は、獣性だけのより危険な存在へと変わったかに思われた。
次の瞬間、一際高く吼えた。
聞く者が聞けば、相手を居竦ませる咆哮ではなく、半狂乱じみた咆哮だと悟っただろう。
直後、地を蹴って襲いかかる。
「うあぁぁっ」
悲鳴が木霊した。
対峙していた犬が遂に野生の本性を晒し飛び掛ってきたと考えた少年が発した叫びだ。
鋭い牙が噛み切るべき相手はどちらであったものか。
咄嗟に両手を十字に交差した少年か、その背後にいる朔夜であったか。
牙の獲物が少年の場合、身を護る為に交差した両手の手首を食い千切られ、
朔夜を狙っているならば、直線状で竦む少年を邪魔だとばかりに爪で引き裂くだろう。
どちらの血を牙が求めていたとしても、少年は無傷ではいられない。
犬が牙を剥いて飛び掛ってくるのとそれはほぼ同時だった。
先ほど拾った石を手首のスナップを効かせ朔夜が野生の本能に従う獣に投げ付けたのは。
放たれた石が風を切り裂き、礫となって獣の右目をしたたかに穿ち付けた。
眼球を抉り、視神経を引き裂いた灼熱する痛みに襲われ、流石に犬も攻勢を忘れたように苦痛の悲鳴を響かせ飛び退いた。
体勢を立て直し、左目の血走った眼と、右目の文字通り血塗れの眼で睨みを効かせて来るが、
余人ならいざ知らず朔夜には砂粒ほどの恐れを抱かせる事はできなかった。
憎悪で練り固まった怨念の視線を受けた少年が、声も無く呼吸を短く詰まらせているだけだった。
呪詛を綴る時間があったとしても長くなく、片目を潰された獣は警戒体勢のままで少しづつ後退していく。
後方の林と目の前の相手に視線を巡らせ、距離を縮めて一気に茂みの中に消えていった。
一目散に背を向けて逃げ出さなかっただけが最後の虚勢というところだろうか。
逃げ去っていく犬には興味など無いとばかりに、朔夜の視線は冷ややかなものだった。
最初から犬一匹如きに関心など毛先ほども持ち合わせていなかっただけなのかもしれない。
草葉を擦らせて遠ざかる獣から視線を外すと、大地に尻餅をついて座り込んでいる少年の方へと滑らせた。
肥満とは無縁で、痩せているとも思えない平均的な中身中背の少年。
ややスマートに整った体格だが、非力さや脆弱さは感じられず、不思議と膂力を宿しているように感じる。
無論、同年齢と比較して極々普通の平均より、幾分か上の程度であろうが。
学生服姿でなければ、実年齢よりも多少上の歳に見えることだろう。
黒髪を乗せる顔は斜め後ろの角度からではあるがすっきりと整っており、精悍な雰囲気を持っていた。
少年と同じ年頃の少女達ならば黄色い声で囁きを交し合うに違いなかった。
ようやく少年も背後に立つ朔夜の気配に気付いたらしい。
やや緩慢な動作で振り返る。
首の動きに次いで、黒く染まる黒瞳がゆっくりと肩越しから背後に向けられる。
少年の黒い眼差しと、人形のような男の黒水晶を思わせる視線が交錯した。
―――――ザワリ。
そんな音が脳裏で雷鳴を轟かせた。
一瞬思考さえ白黒に反転したかのような間隔が襲い、眩暈が視界を酷く歪ませた。
峡谷の間を強く吹き抜ける冷気を孕む風を直接、素肌で浴びるように肌が粟立つ。
鼓動が一際高く飛び跳ねたと思えば、直後には熱い血潮が血管内を駆け回る。
それら全ては刹那の瞬間。砂時計から零れた砂一粒が落ちきるまでの刹那の感覚であった。
微かであり、僅かであり、そして、瞬間の感覚。
足から頭までを貫いた感覚を言うならば、一つを指す名称では到底足りない。
違和感、昂揚感、悪寒、不快感・・・をも、含んでいたのではなかったか。
様々なモノが等しく混じり合った混濁したスープを飲み干すのようなもので、強烈な個性を持つ刺激が舌の上で我を張り合いながら踊り狂う。
瞬間よりも短い刹那の間に大量の刺激物を投与され、味覚が飽和してしまった状態だった。
奇妙にして異様な感覚は津波となって末端の神経に至るまで全神経を飲み込んだが、全身を覆い尽くすと速やかに退いて行く。
後には波が緩やかな漣となって残っただけで、些細な置き土産も蒸発でもするようにすぐに消えて失せた。
鮮烈な風が肌から体内にまで浸透し、駆け抜けたようだった。
既にこの時、朔夜の身体から異常は粉微塵も残らずに掻き消えている。
不可思議な思いに囚われ、内心、首を傾げている朔夜だが、表面上は些かの変化も見られない。カラクリ人形の仮面じみた表情のままだ。
感情の揺らぎなど知らぬと豪語するような双眸は冷たい黒水晶で作られ、黒い水晶の光を視線として少年に放っている。
向けられるものにとってはこれほど居心地を悪くする視線もなかっただろう。
冷気さえ纏っているのでは、と思える冷たい視線、それも、不吉なまでに鮮やかな黒色を落とす瞳からの視線。
身も縮む思いか、身も凍る思いか、少年は呼吸するのも忘失して息を詰まらせた。
顔の筋肉も強張らせ、唇をわななかせると、喘ぐように低く呻いていたのだった。
当面した事態に付いてこれずにいる少年に向けられた視線もそう長くは続かなかった。
熱のない眼差しで少年の固まった顔を一撫ですると、路傍の石から黒い瞳を逸らし、同時に踵を返す。
来た時と同様、朔夜は無造作な歩調で背を向けて歩き出していた。
通り過ぎた不可解な感覚は気になるところだったが、それよりも手負いとなった獣を始末しなくてはならない。
関係ない、と、顛末を他人任せにするには彼の身は色々厄介な事柄に束縛されていたのである。
片目が潰れた所為で凶暴化が進み見境をなくしたとしても一向に気にもしないのだが、相対した敵を始末せずに放置するのは気分の良いものではなかった。
世界中を敵味方だけで色分けする気はさらさらないが、相手が牙を剥いて来るのであれば是非もない。
武を以って進んで敵対する輩にかけてやる慈悲など、朔夜は欠片ほども持ち合わせていなかった。
最初の一糸の絡み合いは、互いに名も知らぬ者同士としての邂逅だった。
更に互いの糸が相手の糸と接触しあうには幾許かの時間が、未来から現在へ、そして過去の領域へと押し遣らねばならなかった。
【第壱章・裏 完】