第三章・裏/1
ドアの隙間に差し込まれた依頼状に目を通し終えた朔夜は、手の中でクシャリと握り潰すと屑篭に放り捨てた。
放物線を描いて握り潰された紙切れが吸い込まれる。そちらは最後まで見届けず、彼は豪奢な寝台に眠る妹に目をやる。
物悲しくも世を儚むような静謐な眼差しは数秒も要さず、すぐに引き剥がされた。
悲しむのも、絶望するのも、後でいい。
命の灯火が尽きかけようとしている妹を残して行く事には後ろ髪引かれる思い。
狩りに出かける夜は毎回常に思う事だったが、この場に留まっていても何もならない事を、彼は知っていた。
部屋から出てる寸前、天井の隅で羽を休めている黒い鴉が目に留まる。
翼持つ友を眺める瞳は何かを託すようでもあったが、束の間にふっと逸らされる。
朔夜が顔を前へ向けるのと前後して、鴉がしわがれた鳴き声で応じた。
後ろ手に部屋のドアを閉める時、僅かにだが躊躇いが出た。
振り切るように屹然を意識して歩き出す。ホテルの廊下は普段通り静まり返っていた。
階下から人間の動く気配が感じられるから真の静寂とは程遠いが、この階だけはほぼ無人に等しい。
靴音を反響させながら、朔夜はエレベーターに乗り込んでいった。
依頼書にあった場所についたのは、ホテルを出てから40分後だった。
目的地を手前にして、ふと、頭上を見上げた。
完全に漆黒で塗り潰された空。
星の無い夜空はただの黒いだけの海に過ぎなかったが、天上で星が煌いていたとして、より強い光を放つ物が地上にはある。
どれほどの人が自分たちの頭上を見上げるものか。
黒い大海を思わせる闇夜は、天上の星ではなく、地上からのイルミネーションによって薄ぼんやりとしていた。
天空の高みで見下ろしていた月の眼も今は斜に傾き、銀の光を弱めている。
後数時間もすれば光の軍勢に追われどこぞへ逃げ隠れるだろう。
それにしても、サロスの始末が終わってすぐの仕事だった。連続した依頼は珍しい。
通常、一つの討伐を終えた後は暫しの間を空けるのが普通である。
どれほどの実力を有していようが、人間である以上、“魔”を相手取るのは常に生と死は背中合わせの存在。
一つの仕事が終わる度、心身を癒す充分な時間が与えられるのだが、人間以外は例外と言う事か。
所詮、組織にとって自分は捨て駒でしかない。前進するだけしかできないポーン(兵士)。そう言う事なのだろう。
ほんの微かに朔夜の口端が吊り上る。自嘲しているようであった。
彼にとって、連続した依頼も悪くは無い。新鮮な血が手に入るのだから、むしろ望むところと言えよう。
改めて、今回、指示された場所に眼を移す。
彼の前にあるのはこじんまりとした美術館らしき建物。地方の良くある人足などまず向けられない小さな市営の建造物だった。
建物自体の色調が黒っぽい色なのか、美術館らしきものは暗い夜の中、更に深い場所に沈んでいるように見えた。
周囲に軒を並べるのは、スポーツジム、文具店、バッグ専門店などで、さすがに時間が時間なだけにどの店にも人が残っている気配はなかった。
これから騒ぎが起ころうとしている場所だ、人がいないのは助かるところである。
朔夜にとっても、相手方にとっても。
館内に足を踏み入れる時、既に話が通っているらしく扉に鍵はかかっていなかった。
中は外よりも暗い。窓ガラスから街灯の光が滲むように刺し入るだけだ。
地方のこじんまりとした美術館に相応しく、貧相な品揃え。いや、郷土館と言ったほうがよりしっくりくるだろうか。
展示ケースに並ぶのは、この地から発掘された土器や像、大昔の和紙、代々伝わる刀に衣装、古ぼけた絵画と掛け軸の数々。
反対にガラスケースに収められているのは、歴史を感じさせるほどに難解な文字が書かれた書物。
土地にまつわる伝承や伝説、神話の類から始まり、土地の歴史を刻んだ本達が、
最早誰の眼にも読まれる事無くガラスの棺に納められ、朽ちるに身を任せていた。
近所の者でさえ足を向けないのだろう。夏に関わらずひんやりとした空気は埃っぽく、僅かに黴臭い。。
死蔵と言う言葉がこれほど似合いの場所も珍しいのかもしれない。展示品に限らず、ここは建物自体が死蔵されているようですらあった。
そんな誰からも見抜きされずにひっそりと死に絶えるのが運命のような場所に、朔夜以外の気配が生じたのは直後の事である。
荒廃の影さえ混じるような館内の闇。T字になっている曲がり角の奥から気配と微かな物音が聞こえてきた。
他者の存在を感じた朔夜だったが、動揺どころか眉一つとして当然動かさなかった。
今夏に入ってから夜な夜な侵入者があったと思しき形跡を館長が発見し、
侵入者の尻尾を掴んでやろうと日雇いの警備員数人と泊り込んでいたところ、警備は数日もしないうちに解除された。
宿直していた警備員2名と、その夜見回りに来ていた58歳の館長とが仲良く床の上で寝ている姿を翌日の朝交代に来た警備員によって発見された。
事件性も考えられ、聴取をする刑事の話に、彼等は満足に答えられなかった。
なにしろ彼等ら全員ともが前夜の記憶をすっぽり抜け落ちさせていたのだ。
結局は当日の夜何が起こったかは原因不明となるしかなかなく、二週間もすれば誰の記憶からも忘れ去られるような事件かと思われた。
しかし、そんな些細な不審を見逃さない人間もいた。
警察の調べも片付いた数日後、組織から派遣された調査員が昼の間に館内を訪れ、その結果、判明したのだ。
フリーであれ、どこかの組織に従事する者であれ、“魔”に関わる人間は“魔”の存在を調べる形式化された方法を持っている。
“魔”に反応すると燃え出す符や、似たようなもので、“魔”の存在に応じて勢いを強くするランプなどがソレに当たる。
派遣された調査員がどのような手段を用いたかは、彼の与り知らぬところだが、ともかくも結果は陽性と出て、朔夜にまで討伐依頼が回ってきたのである。
ここに誰かがいる事は初めから解りきっていた事であったし、それを駆逐する為に朔夜は出向いているのである。
人の気配を感じたところで、驚くに値しない。何よりも、建物を前にした時、既に“共鳴”を感じていたのだ。
衣擦れの音に混じって耳に入るのは息遣いのようであった。
それが咄嗟に人のものであると判別できなかったのは、聞こえてくる呼吸音が獣じみていたからだ。
不可解な音を耳にし、朔夜はようやく眉を僅かに顰めた。音も気になったが、どうやら相手が予想より多人数であるらしかった為である。
眉を顰めはしたが、足取りは慎重さとは無縁だった。
殊更にこちらの存在を相手にアピールするように靴音高くしてはいないが、足音を消してもいない。
思うに向こうはこちらに気付いているようだが、逃げ出す素振りも感じられないのだから、靴音に注意を払ったところで意味がない。
よほど能力に自信があるのか、それとも数を揃えて強気でいるだけなのか。
奥ばった通路を右折して、息遣いが鮮明に聞こえてきた。
数種類の声帯から出る呻き。熱病に浮かされた者の呼吸音に近しいそれは、熱っぽくありながらもどこか艶があった。
それでいて理性的なものは感じられない。獣性を露にした獣じみた息遣い。粘つくような水音が混じって聞こえる。
更に数歩を進めて、ようやく音の正体がはっきりした。
天窓からガラスを通して入ってくる月明かりの下に半裸の男女が数人戯れている。
絡み合い、縺れ合い、交じり合う。月下の中、肉の饗宴が開催されていた。
眼前の光景に、常人であるならば呻きと固唾と同時に飲み下して無意識の内に後退りするだろう。
それほどまでに異常な光景だ。
上半身裸の男の上に全裸の女が跨り、激しく腰を振り動かし、隣では、二人の女がソファの上で絡み合い、その後ろから男が交互に女の尻を襲っていた。
悦楽に陶酔し切った表情は、至福の夢に彷徨っているようにも見え、
真紅のルージュを引きたくった唇は限界まで広げられ、唾液を垂れ溢しながら常に嬌声迸らせている。
さながらにして、中世魔女狩りの時代に行われていたとされる魔女達の肉欲の宴のようだった。
押し合い、揉み合う生身の女を楽しむ男達が近付いて来た朔夜に目を向けた。
薄笑みが彼等全員の口元に浮かんでいる。下卑た印象が強い笑声を当てられながら、依然として朔夜は頬肉さえも動かさない。
呼ばれもしないゲストの登場に気付いたのは男達だけであって、半裸と全裸の女達は全く気付かず、
また気付いても見抜きすらせず、手近な男の胸元に擦り寄り、あるいは、足元にしがみ付き、肉の法悦を貪っている。
男に擦り寄る女達の顔付きはどれも正気を欠いていた。
酒に酔っているようなテンション、幻覚剤を服用したかに笑い、男の性器に進んでしゃぶりつき、或いは、跨り、腰を躍らせる。
通路の一角に設けられた手狭な休憩場所は今や肉欲の祭儀場に変わっており、
静謐とも言える館内で場違いにも催された祭りは淫猥の限りを尽くしているようだった。
そんな蠢く淫猥なオブジェの真中で一人の男がソファに座って朔夜を見つめている。
前髪は目元まで落ち、他の部分は首の辺りまで届いている黒い長髪。黒髪ではあっても、その下にあるのは彫りの深い顔立ち。
この男も例に漏れずにハルファスの一派に違いない。そして、乱交に興じる他の男達も。
床に四つん這いになる裸の女が男の足の間に顔を埋め、
ソファの両隣から着崩れた下着と思しき布切れを申し訳程度に身に纏う女二人がやはり男の股間に顔を寄せている。
しつこいくらいに粘っこい音が果断なく響き渡る。淫らがましく。執拗に舐め、吸い、丹念に男性器を濡らしていく。
そそり立つ性器を三方から奉仕する女の口に任せながらも、黒髪の男の表情は他の男達とは異なっていた。
肉と肉がぶつかり合う宴に溺れるのでもなく、楽しむのでもない。冷然ですらあった。
女からの奉仕と、肉の感触を堪能する他の男達とは明らかに違う。言うなれば、異質。
予告も無しに訪れた朔夜を視界に認め、男の口端が少しばかり釣り上がる。
嘲笑しているような雰囲気ではなかった。ただ朔夜を見上げて静かに笑っている。
左右両隣からも、前後からも、引切り無しに女の矯正と男の獣じみた息遣いが混声合唱として響く中、その男だけは声も立てずに微笑していた。
「よぉ」
朔夜に向けて放たれた男の第一声がそれであった。
場違いな挨拶に、流石に朔夜の眉間にも僅かな皺がよる。不快と言うよりも訝しがっての事だ。
相手の真意が察せられない。何を考え、何を企んでいるのか。
沈黙を守っている朔夜を見ながら、男は軽く鼻で笑う。
その間にも足の間で跪く女と、左右から身を屈める女達は懸命に奉仕に励んでいた。
更に男を取り囲む周囲では肉と肉とが激しくぶつかり合い、水っぽくも粘液質っぽくもある淫らな音を競い合うかのようにして弾ませている。
「意外に早かったな。それにいきなり本命が来るとは」
股間で熱い息を吐き出す女を無視して、男が淡々とした口調を投げかける。
意外だと言う割りに落ち着いているのを見ると朔夜の来訪を全く予期していなかった訳ではないようだ。
ただ、予想よりも動きが迅速で、その一点のみを驚いているのだろう。
「ああ、このパーティの事は気にしないでくれ。単なる暇潰しだ。
ハルファスについてこんな島国にまで来たのはいいが、どうにも遊ぶ場所が少なくてな。
もっと都会なら別の暇潰しも見つけられたんだろうが、こんな辺鄙な土地ではコレ以外に遊べる事がなくて困ったモンさ」
常軌を逸した快楽の宴の中心で、指し示すように左右に両手を広げた男が笑声を含ませる。
男の手の動きに釣られた訳ではないが、朔夜は周囲で広がる肉のうねりに視線を転じた。
「ああ、この女達の事か?
別に心配しなくてもいいぜ。取って食うわけじゃないからな。
暇潰しの玩具として拾ってきたんだ。今夜一晩限りの玩具。朝には無事に帰す。
それに夜が明ければ、今夜の事はキレイに忘れちまう。そういう暗示をかけてあるのさ」
その説明に、朔夜は「やはりな」と関心の薄い心中で頷いた。
ここに集められた女達はどれも正気の目をしていない。獣欲を開放させ、快楽に対して非常に貪欲な本性を露にさせている。
夜の街を遊び歩く女を適当に攫ってきて、
都合の良い肉人形に仕立てたのだろうと言う考えは当たっていたようであったが、だからといって朔夜の表情に変化は認められない。
意思を無視され、攫われ、一方的に一夜限りの奴隷にされた女達に対して、普通なら憐れみを向け、
同情し、加害者に対して怒りを抱くのだろうが、そうした通常の感性を朔夜は持ち合わせておらず、
自我を崩壊させたかのように肉欲の隷属となった人形達に砂粒ほどの関心も持っていなかった。
淫靡な遊戯に耽る裸体の女達と、獣のように腰を躍らせる男達の様子を冷めた眼差しで眺めているだけであった。
もし、この光景を見る朔夜に思う事があるとすれば、今夜の狩りの中で女達が邪魔になるかどうかくらいだろう。
操られている状態とはいえ、邪魔立てすれば殺す、と、冷酷な結論を既に出しているのだが。
縁も所縁もない他人なのだ、情を差し挟む余地など和紙一枚分も持ち合わせていなかった。
「尤も、無関係な女の心配するようなヤツには・・・とても見えないけどな、お前は」
仮面被っているかのような朔夜の変わらない表情を眺めて、三人の女に奉仕される男が面白そうにも、苦笑のようにも笑った。
その発言を否定する意思は朔夜にはさらさら無い。むしろ肯定してもよいくらいなものである。
「しかし、こんなに早くお前が出向いてきたのは誤算だぜ。
何しろアンタはハルファスの目的そのものだものだ。
二つの陣営に分かれたままの今の状態で来られても、こちらは尻尾巻いて逃げ出す以外に手は無い。
俺個人としては別に遠慮する必要もないんだが、下手に手を出せば俺がハルファスに殺されちまう。
認めたくは無いが、実力差ってモンを弁えているから従わなければいけない。
・・・・今までは、な」
奇妙なところで男は言葉を区切った。
面白半分、真面目半分だった彼の瞳に片方の色が広がっていく。
「だが、今は事情が違う。
お前、サロスさんを殺っただろう・・・」
自分の直属の上位者であるハルファスでさえ呼び捨てにしていた男が敬称を付けて、サロスの事を呼んだ。
それまでは余裕をかまして落ち着き払っていた口調からも、感情の滲みが染み出してきていた。
朔夜に向けた怒りであり、憎悪であった。目に見える変化はないが、それだけに男の怒りは底知れぬものがあった。
「ハルファスにもイブリズにも馬が合わなかったが、彼だけは別だった。
気のいい男だった。死なせるには惜しいくらいに・・・・」
家族の死を悼むように、男は両目を閉ざし頭上を仰いだ。
声音にも雰囲気にも形式ばかりのものではない本気の悲しみが宿っている。
この男にとって、自分の上位者であるハルファスよりも集団の一人に過ぎなかったサロスの方が比重が大きかったようであった。
女の腰に自らの腰を打ちつけていた他の男達も動きを止め、声を潜めていた。
それと解るほどに場の空気が変わってきている。
汗と体液と欲情した臭いとが交じり合っていた空気に、他の成分が混入されたようであった。
敵意と殺意と呼ばれるものが。
底無しの快楽に追い縋る女達が甘く蕩けた声で動きを止めた男達に媚売り、ねだる。
淫魔に取り付かれた肉人形の声だけが高く響く中、男達はそれまで耽っていた肉欲とは別の感情で凶暴になった眼を朔夜に向けていた。
急変した場の雰囲気を朔夜の肌は敏感に察していた。
目に見えぬ殺意の刃に刺し貫かれて筋肉が緊張し過ぎる事は無かったが、相手がどのような行動に移ろうとも即応できる気構えだけは整える。
いや、相手が動くのを待たねばならない理由もないのだ、何かの切欠さえあれば、どんなに些細な事であろうとそれに乗じて先制を仕掛ける気でいた。
「彼は無意味な殺しも無益な破壊活動も好まなかったが、人間の女は大層好きだった。
今夜の宴はそんな彼に手向けたものだ・・・・
だが、どうせ手向けるのならば女の快楽に染まった叫びよりも、貴様の絶命の叫びの方が喜ばれるだろうな!」
殺意の意思表明をした叫びが放たれた叫び。猛り声が物質化して襲ってくるような気迫。
無意識に朔夜の目は周囲を取り囲むもの全てに走らされた。
そして、直後に先制を奪って相手から仕掛けてくると踏んだ朔夜の予測は外れていなかったようだ。
黒い影が周囲を見渡す朔夜の視界の端に映り込み、正面に向き直った。
真正面から轟と風を裂いて、黒影が飛び掛ってきたのである。
勢いこそ申し分ないものの、襲ってくる人影の体勢は無様なものだった。
殺意というものが見当たらない。素人が勢い任せで飛び掛ってくるに近い。
挑発のつもりか。遊びの延長線上なのか。
いずれにしても一瞬の思考は朔夜から行動の選択肢を奪ってしまった。
相手の出方を見る為に一歩引いて躱す事も無理だった。もう既に影は眼前に押し迫っている。
無論、引いた所を背後から襲ってくるとした事態も十分過ぎるほどに予測される。
何よりもうかうかと考え込んでいる暇は無く、朔夜自身のスタイルが攻勢に傾くものであったから逡巡の時間は無かった。
飛び掛ってくる影に対し、思い切りよく腕で払う。
少し腰を落とした姿勢から繰り出される右腕の薙ぎ払いは、陣風を絡め取るが威力であった。
実の詰まった果実が爆砕するが如き音を立てながら影は胸の辺りで二つに裂けた。
肉を裂く確かな感触を手刀に感じた。相手を上下二つに引き裂いた確信が手応えとして感じられた。
中空に飛び散る鮮血は闇に沈む館内で黒々とした絵具にしか見えない。
飛散する黒ずんだ血が壁を染め、床を濡らし、二つになった身体がゴロリと鈍い音と共に転がっていく。
それらには目もくれず、横薙ぎを放った時点で第二撃を構えていた朔夜だったが、予期していた敵の二陣は、だが、来なかった。
戦機を制し、出鼻を挫いたのだ、空白など空けずに立て続けな攻撃に入るのが常套だと思われるものを、速攻の一撃だけで続くものが無いのは朔夜を訝しがらせた。
たった今しがた二つに引き裂いて殺めた死体についっと視線を向ける。
それぞれの方向に床に転がった上半身と下半身を見て、朔夜は息を飲み下す音もなければ、目を見開かせる事もしなかったが、確かに表情を変化させた。
眉目を僅かに顰めただけの変化だが、それは驚きと言う表情だった。
「俺は無事で帰してやるつもりだったんだがな、手前がバラしちゃ問題だろ」
明らかな嘲弄に唇を歪ませる男達。
血に塗れた床の上に転がる死体を目を凝らして見れば、両断され、生々しい赤黒く染まる切断面を見せる肉体は全裸の女のものであった。
朔夜が周囲の男達に対して注意を向けた一瞬の隙に、ソファに腰掛ける男が脇で性器に奉仕を続けていた女を投げつけて来たのである。
そうとは知らずに迫ってきた影を条件反射的に打ち払ってしまった朔夜。彼が仕留めたのは標的である“魔”ではなく、無関係な人間だった。
手刀を人血に濡らした朔夜を見やり、嘲りの笑いが男達の間から漣のように起こっていた。
彼等の目には誤って人を、しかも、無関係な女を殺してしまった朔夜が混乱の極に達しているように見えるのだろうか。
確かに全く身動きしない朔夜は、あまりのショックに茫然自失となってしまったように見えた。
さぞやショックで顔を青くしているだろうと表情を覗き込んだ一人の男の期待は、変わりのない朔夜の無表情に裏切られたが、
顔色を変化させる事もできないほどの痛手を精神に蒙ったものと勝手に思い込み、陰湿な笑い声を口の中で転がしている。
「ありゃ、ショックの余り言葉も出ないってか。
なにせ敵じゃなくて丸腰の女を真っ二つにしちまったんだからな、そりゃ血の気も引くわな。
自分の愚かしさに言葉も失くすのも良く解る話だ」
笑い声を押し隠そうともせず、声を立ててその男は笑った。
言われっ放しの朔夜からなにぞ反応があるかと心待ちにしている様子だ。
自己弁護にせよ、虚勢にせよ、何かしらの反論があればそれを笑うネタにできる。
眉ひとつ動かさない朔夜の顔を覗き込む男は、他者を馬鹿にする事ほど楽しいものはないと考える性格であった。
「何とか言ってみたらどーだよ。
自分で殺した女の死体にすがりついて、泣きながら許しを請うかい?」
大きく開けた口で哄笑を噛み砕く。周りの男達からも笑い声があがる。
催眠状態にある女達は正常な思考を失くしていて、男達が笑う中には参加せず、粘り付くような熱い吐息を男の首に吐きかけて誘惑しているだけだった。
仲間の笑い声に気を良くしたのか、調子付く男が更に朔夜に詰め寄る。
相手のリアクションがどうであれ、この際は何で良いところであった。
反応すれば場が盛り上がるが、無反応のままでは些か興醒めというものだ。
馴れ馴れしくも肩を叩こうとした時、男が望むように反応が返ってきた。
激烈を極めた反応が。
空中で鞭がしなるような鋭い音が炸裂した。
笑い続ける周囲の男達の目に、一瞬、黒い蛇のようなものが宙で閃き見えた。
遅れること数瞬、右側の壁に硬く、柔らかいものが叩き付けられた音が響く。
音の正体が何であるか確認するより早く彼等は気付いた。
耳に入ってくる小雨が振るに似た別の音と、室内に関わらず床に水面を広げる黒い水に。
朔夜の顔を覗き込んでいた仲間の首から上が綺麗に切り飛ばされ、噴き上がる大量の血が勢い良く床を叩いていたのであった。
この光景には、流石に男達も笑い顔を硬化させた。
一人が息を飲み下して右の壁を見ると、灰色の壁面には吹き飛ばされた頭が叩き付けられ、肉片と脳漿、それに血がこびりつき、異様な絵画を描いていた。
大量の血を降らせ、首を失った身体は自身も支えきれなくなったように前のめりに倒れていく。
近くにいた朔夜は当然返り血を浴びてはいたが、血が噴出する前に数歩後退していたからか濡れている部分は広くない。
それでも、彼の顔には赤黒い血が数箇所飛び散っている。
頬の輪郭に沿って垂れ落ちる血の流れ。口にまで伝う朱の雫を指で掬い、朔夜は朱色に濡れる指先を口元に近付ける。
その顔は・・・・笑っていた。
殆ど唇の片端を僅かに吊り上げたものだったが、仲間が首を切り飛ばされる光景を目の前で見せられた男達にとって、
その微笑は悪魔が笑っているとしか思えなかっただろう。
指先で掬い取った鮮血を舐め上げる様は妖艶ですらあり、一種異様な色気が漂うようであった。
だが、薄気味悪い雰囲気であり、禍々しくも見えるだろう。
今この場に事情を知らない第三者が居れば、朔夜こそを暴虐な殺戮者と見なすに違いない。
そして、その認識は完全に的外れでもなさそうだった。
朔夜は笑いと呼ぶには些か及ばない部分のある微笑を浮かべていた。
僅かではあったが周囲を取り囲む標的のやり様に笑いを誘われていたのである。
実に久しい衝動に駆られた。殆ど数年振り。笑う気分になったのは。
笑い方など疾うに忘れていると思っていたが、どうやらまだ覚えていたらしい。
「無関係な人間を殺して、俺がショックを受けている・・・?
おかしな奴等だな。なぜ、そんな事ごときでいちいち動揺したりせねばならない?」
そんな事を期待する男達が、まるで人間のようだ、と、朔夜は思った。
些細な事。誰が死のうと関係ない、興味もない。例え誤りであれ、誰かを死なせてしまったと心を取り乱すのは人間の専売特許に等しい。
男達は無関係で無抵抗な女を誤認の上、殺してしまった朔夜に、全くの動揺が見られないのを驚いているようだが、それがおかしな事だと笑える。
朔夜も、そして男達も含め、彼等は人ではないのだ。人が常識的に持つ理念や道徳になど捕らわれなければならない所以を持っていない。
それなのに、男達は自ら仕掛けておいて、無関係な一般市民を巻き添えにしたのに動揺しないのはおかしい。
罪悪感に心を痛めないのか、と、朔夜に言っているのだ。
男達の感覚を、朔夜は人間のようだと半ば笑い、半ば不思議がっていた。
朔夜は、確かに非戦闘員、如いては血生臭い殺し合いの現場に立ち会う事にも一生無縁な女を間違えて殺してしまったわけではある。
だが、死んだのは縁も所縁もない他人。ただの赤の他人に過ぎない。その他大勢に区分される他人。
別に親友でも親兄弟でもないのだ、蟻が這う程度にも良心に違和感を覚える理由も必要も見出せなかった。
にも関わらず、男達は朔夜の態度に驚きを禁じえないとしている。おかしな事であった。
朔夜は自分が異端であるのを知っているが、自分が人間ではなく“魔”であるのを当然ながらより理解していた。
ならば、同じ“魔”の種族である者達が、自分の感性に近いものを持っていておかしくないはずなのに、驚いている。
朔夜から見れば、息を飲み込む男達がまるで“魔”のソレではなく、人の心でも持っているかに思えてくるのだった。
それがおかしく、唇はつい冷笑を浮かべてしまう。
ただ、物事には二面以上の事実があるのが普通なように、この時も別の側面があった。
朔夜の感じている事は無論本音ではあるが、だからと言ってそれが“魔”全体が共通する認識ではない。
そもそもに“魔”などと言う呼び名自体、人が勝手に決めただけであり、彼等は人の伝承に出るような悪鬼や悪魔ではないのだ。
人とは異なっているだけの生物に過ぎない。
朔夜の冷笑とも微笑とも付かない艶然な微笑みは本心から来るものだったが、人が押し付ける“魔”のイメージを演じている部分もある事にはあった。
曰く、残忍で凶悪なイメージを。
「顔も名前も知らないような他人がどれほど犠牲になったところで、それほど心を痛めるものか。
異な事を言う・・・・まるで人間にでもなったつもりのようだな。
お前達は“魔”か? それとも人か?」
重ねて浴びせられた冷水に、男達は憤った。
逡巡も忘れ、不明瞭な怒りを剥き出しにする。
朔夜の持つ不気味さを一時的に忘れ去って、本能に従ったようだ。
何よりも目の前で仲間が一人殺されたのだから、遠慮する必要もなかった。
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