第壱章・裏/1
雄叫びが静謐な息吹に牙立てていた。
とうに陽光はどこぞの地平に逃げ落ちて、地上の支配権を夜の女王に明け渡している。
微かに残っていた残照も住処を追われた鼠の如く暗雲の天蓋によって駆逐された。
鴉の濡れ羽となってしっとりと街並みを濡らす夜気は、暦上は初夏にも関わらず熱気とは無縁だった。
ただ、暑くは無いだけで多量に湿気を含む嫌らしい空気がどうにも肌に絡み付くような不愉快さを運んでいる。
放たれた雄叫びは、汗を誘う湿った夜気を引き裂く咆哮であった。
醜悪なまでに恫喝してくる眼の数は10対以上。それら全ての眼差しは殺意が湧出する泉となって溢れている。
どれもこれも鋭く研磨された眼光放ち、毒さえ含んでいるかのように爛と輝く。
敵愾心を燃やした焔を内在させる顔は、凶悪なまでに歪み、12からなる黒影が残忍な影法師となって夜の駅裏に佇む。
「グルルルル・・・」
歯を噛み合わせる口の隙間から瘴気共々唸り声を轟かせるのは獣の群れ。
影は気性の荒い犬のものだが、実体は別物であった。
―――狼。
正確に言うならば狼に似せた犬なのかもしれないが、既存の名称など実はどうでもいい。
囲みを作る犬か狼はその固有の形状に似せながら掛け離れた代物だった。
一匹の犬は前脚から伸びる爪が人工的な鉤爪と同じ刃を突き出させていた。
一匹の狼は唸りを轟かせる口から覗く歯の代わりにナイフよりも長く鋭い刃を並ばせていた。
一匹の犬の額から槍の穂先を思わせる硬質な角が突き出ており、一匹の狼の縦横に動き回る尾が蛇であった。
具現化した怪異を身の内に窶(やど)す怪物達が輪となって取り囲む中心に、上下とも黒で統一された服装の一人の人形が立っていた。
いや、それは人形ではない。
人形さながらの作り物じみた白い肌には一掴みの生気も通ってないように見えるが、
雪花石膏を彫りあげた白皙の顔には、確かに意思の現われを宿す黒い輝きを双眸が宿していた。
―――朔夜、だ。
体躯を狂犬共の餓狼じみた無遠慮な視線に嬲らせるままにしながら、
稀代のアートドールはここに来て初めて眉一つ動かさなかった顔に表情と思しき動きをたゆたわせた。
眉目を翳らしたのは愁眉の色だった。僅かに眉を寄せ細めた瞳の作る表情は、例えるならば呆れ、であろうか。
獰猛な牙と凶悪な爪を構える獣の群れに囲まれ、毛細血管が破裂して文字通り真赤に血走った殺気に満ちる視線の集中砲火の中、
黒髪の若者は奇異な獣達を歯牙にもかけずといった様子で見渡し、小さく嘆息を付く。
その仕草は紛れも無く呆れていた。
無造作に一歩踏み出した。獰猛に吠え立てる獣の群れも、彼からすれば小五月蝿い鼠の巣と変わらない。
黒影身が歩を進めた途端、周囲を囲んでいた獣の輪が綻びを見せた。
輪を作っていた獣達の前列が朔夜の前進に伴い、彼が進んだ分だけ引いたのである。
獣の本能を威圧され、無意識に引いたのだろうか、それとも、飛び掛るのに丁度良い付かず離れずの距離でも維持しているのだろうか。
いずれにせよ次の瞬間には相互の領域線が交差した。
朔夜がもう一歩踏み込んだのを合図とするように、異様な獣達も牙を剥いて一斉に飛び掛ってきたのだ。
咆哮の混声合唱を歌い上げ、四方から襲い掛かる爪と牙の隙間をステップでも踏むように軽やかに縫って行く。
大口を開ける一匹目の攻撃を上半身を半回転させ避けると同時に、
対象を見失って横に素通りしていこうとする犬に肘を叩き込み、頭蓋を一撃の元に打ち砕いた。
次いで第二陣を直立のまま片手だけ突き出して待ち構えるや、彼に向かって振り翳した凶暴な爪をぎらつかせる狼。
立っている位置と飛び込んでくる狼の距離を尋常ならざる踏み込みで零にした。
虚を突かれた狼が攻撃のタイミングを見失った刹那、正に紫電の速度で掌底が撃ち込まれ、狼の頭部は身の詰まった果実となって飛び散った。
破裂し、脳髄と肉片と血が真紅のヴェールとなったが即座に薄霧を食い破って次の獣達が殺到してきた。
一匹、二匹、三匹、と、同時に来た攻撃を貫手、鉤突き、拳槌と流れるように繰り出し確実に仕留めていった。
更に爪や牙を閃かせた獣の波を次々と薙ぎ払っていく。薄暗いアスファルトに汚物と化した肉が豪快に飛び散った。
繰り出す一撃一撃が確実に相手の急所を貫き、抉り、潰し、切り裂き、砕く。
さながら獣の群れは水を詰めた風船に過ぎないようだ。手刀が、拳が一閃する度に風船は割れ、中の水を撒き散らす。
それが正真正銘の水であるなら、寝苦しい夏の夜に涼風を齎す因子の一つくらいになったやもしれぬが、紅く色付き、生臭いとあっては単なる汚物に過ぎない。
物の数分もしない内に戦場となった駅裏の壁一面に獣の足やら臓腑やらが飛び散り、路上は無残な肉片が無数に転がる事となった。
紅いペンキをそこかしこにぶちまけた紅蓮の空間の中、黒い出で立ち美影身は返り血の一滴でさえ浴びてはいなかった。
今、背後から飛び掛ってきた犬の口を上下に引き裂いて、最後の一頭を殺す。
鮮血が迸り朱の飛沫が大地を叩く。
遅れて大地に接吻してきたのは二つに裂けた犬の残骸であった。
「おおおぉぉっ!!」
引き裂いた犬を投げ捨てるのと前後して、人の言葉で吼える影が頭上に飛び出てきた。
突如虚空に躍り出たのは中年の男。
普通の会社員と何ら変わらぬスーツ姿の男が右手を振り翳し、鞭のように撓らせながら振り下ろした。
互いの距離は上下2mは離れている。
どのような攻撃であれ、それが徒手空拳に寄るものであれば届くはずのない距離。
黒尽くめの服装の朔夜も一顧だにしただけで構えようとはいない。
だが、小さな音が鳴った。
余りに小さくて聞き逃してしまいそうになる音。子気味のいいテンポで5回。
頭上を飛び越えて朔夜の背後に降りて、肩越しに振り返った中年男性の口元に勝ち誇った笑みが張り付いている。
勝利の笑みは長くは続かなかった。
振り向いた男が見たものは顔の前で片手を翳す朔夜。
彼の顔半面を遮る手は五指が広げられ、指と指の間に細長い針が何本か挟まっていた。
「馬鹿なっ」
絶句する肺から搾り出して叫んだ男の声は掠れていた。
愕然となった視界の中で闇を纏う美貌の主は静かに五指に挟んだ針を地面に落としていく。
白く端整な顔に嘲笑の笑みが閃いたのは最後の一本が血を吸い込んだ地面に突き刺さったすぐ後であった。
「小賢しい真似は、止めろ。
どう足掻いた所で貴様はここで死ぬ。
あまり俺の手を煩わせずに大人しく殺されろ」
心を射抜くような冷たく醒めた声だった。
硬く引き結んでいた唇から流れる音律は、玲瓏と夜の空気に溶け、澄んだ清涼感さえ血生臭い場所に与えたようである。
しかし、発した内容と発言した朔夜の表情によって声質が持つ凛とした雰囲気は、
透き通る水晶の性質を持ちながら鋭く研磨された剣に姿を変え、その刃には毒が塗りたくられている。
男が人でないモノだとすれば、朔夜も人でないモノを狩るプロであった。
狩りを生業とする狩人。
嘲笑の形に唇を歪ませ艶然と笑う朔夜を見て、男の頬に怒気が焼け付いた。
過剰に振り被り、腕を突き出すと同時に手首のスナップを利かせ閃かせる。
男の手の中から放たれた細い髪の毛。
指先が離れる瞬間に硬質化して、黒光りを宿す針と代わる。
それが先ほど中空から投げ放たれた物の正体でもあった。
両鎖骨の間にある秘中。
鳩尾と秘中の中央。
鳩尾の上の胸尖。
それに鳩尾である水月。
胸部に集中する人体急所に向かい、寸分狂わず、空気を切り裂く不気味な音を引き連れ黒い針が飛来する。
針の先端が肉に食い込む遥か手前で弧を描いた朔夜の手刀に一つ残らず叩き落された。
鈍器で頭蓋を叩き付けられたかのような衝撃であった。
必殺を期して放った一撃が容易く、しかも無造作に止められてしまったのだ。
僅か一刺しの傷さえ穿つ事叶わず、挟み取られた針は元も髪へと戻っていく。
体勢を整えて再度の攻撃を準備した時、朔夜の秀麗な白い顔に小馬鹿にした嘲哢の薄笑みが浮かび、口端を吊り上げさせていた。
獅子が無力で愚鈍な鼠に対して与える勝ち誇った笑み。
朔夜の顔を飾る微笑を見た瞬間、全身を巡る血流は一気に灼熱した溶岩流へと変貌した。
憤怒で煮え滾る血潮に身を震わせ、歯軋りさえ起こしそうな形相には、だが、たった一つ微かながら理性の灯火を残す眼が浮かぶ。
彼我の戦力差を比較するだけの冷静さを持ち合わせていれば、激情に身を任せたところで、首級を挙げるどころか一矢報いるのも難しいくらいの判断も付くだろう。
一旦は逃げ延びて好機の訪れを待つべきだろうか。
怒髪しながらも脳裏の一角で、激情の渦から離れた思考野に築かれる冷静な部分が打開案を提出した。
考えはしたものの、思考と現実の境界線は延々の平行線を辿り、重なり合う事は無かった。
二つの線の融合を決定的に忌避せしめたのは、敵対する端麗な人形の顔に閃いた冷笑であった。
下から品定めする視線と、口元を彩る冷笑。鼻で笑う演出もあり、向けられる男の神経を最大限に逆撫でしたのである。
「っざけるな!」
土石流の勢いとなった憤怒に突き動かされ、吼えながら突進する。
餓えた狼さながらの両眼には、最早理性の松明など火花程度にも残ってはいなかった。
敵は力を以って叩き伏せる。獲物には牙を剥いて噛み付く。
それだけだ。単純にして明快な原則と言うべきルール。
この世界の究極的な一つの真理を全うする男の思考回路は獲物の血に濡れる事のみを欲していた。
「がああぁぁぁぁっ!!!」
渾身の力を込めた拳には小さな棘が無数に突き出ていた。
指に生える産毛が針へ変化したのである。
轟と大気すら引き裂く剛拳。
人間の頭蓋など一突きで容易に粉々に粉砕出来る拳を前に、黒衣の若者は薄笑みと呼ぶには鋭利過ぎるソレを張り付かせたままだ。
「ぎゃあ」
辺り一面から漂う血の臭気を裂いて響いた絶叫。
品の無い叫びを上げたのは拳を繰り出した男の方だった。
茨の棘となった産毛を纏う剛拳は青年の頭蓋を打ち抜くに至らず、
直撃する手前で、上から下、垂直に突き下ろされた拳により、腕の間接部を増やす事となったのだ。
腕の途中、無理矢理に増やされた関節部からは肌を突き破った白い物が露出していた。
「無駄、だ。
畜生の形に囚われる下級の奴等を嗾(けしか)けようが、怒り狂おうが、な。
さっさと死ね」
相手の腕を圧し折ったまま、静かな苦笑で言い切る。
黒水晶の瞳に残酷な光を湛え、黒衣を纏う狩人は叩き下ろした左手を引き戻し、無造作に突き出す。
強烈な手刀がそのまま相手の胸板を抉った。
手首全部が胸の中に吸い込まれるようにして捻り込んでいく。
鈍い音が感触となって拳に伝わってきた。骨にまで到達したのである。
肋骨を粉砕しながら一層深く抉り、ゆるりと弧を描くように手首を閃かせた。
「かはっ」
赤黒く染まる唾を男が吐き出す。
胸板を陥没させる拳が半円に回転しきった直後、拳を引き抜くと同時に凭れ掛かるようにして倒れた。
胸に倒れこんでくる男の頭を、引き抜いた腕で一閃させる。
轟と風を切る裏拳は恐るべき速度で男の頭を千切り飛ばしてしまった。
さながらボールのように首から切り離された頭が壁にぶつかり、グシャリと奇妙に鈍い音を立てて潰れた。
獣の血を吸い込んだ大地に、頭のない身体だけが崩れ落ちた。
凄惨な死体に何の感慨も覗えない冷徹極まる視線を投げ与える。
冷気さえ纏うような瞳が一点に止まるまでにそう時間は要しなかった。
断末の痙攣なのか、悶絶しているだけなのか、部分的な筋肉が脈動する身体、心臓の位置に定め、背中から指を突き込ませた。
指先に硬いが確かに脈打つ臓器の感触を捉え、抉り出す。
曇った音と共にその掌の中に納められた脈動する一つの臓器が抜き出された。
位置的に考えるならば、やはり心臓であろうか。
ただし、生命を象徴する血の朱に濡れた臓器は、生々しい桜色ではなく、病臥に侵された毒々しい真紅の彩りをしていた。
動脈、静脈絡み付き、今尚千切れた血管から真新しい血を少量ながら排出する紅い心臓を躊躇いなく握り潰し、流れ出る血をガラスの小瓶に納める。
赤よりも鮮烈な真紅の生血を一滴残らず容器に注ぎ終えた朔夜の顔に、嘲笑でも冷笑でもない笑みが薄く浮かぶのを認める者は、この場に皆無であった。
最後の残血まで搾り取り、絞り粕となった肉塊を振り払う。
完全に生命活動の停止した男の頭部が靴先で蹴り上げられる位置まで寄ると、すっと上げた足を微塵の躊躇もなく一気に踏み下ろす。
やけに嫌悪感をそそる水っぽい音が周囲に粘着物となって飛び散らせ、弓形に大きく背を仰け反らせ、男は完全に絶息した。
一人の男を完全な肉塊に変えて、朔夜は携帯電話を引っ張り出す。
不慣れな指使いで短縮をプッシュすると、数秒も待たずに接続された。
「終わったぞ、後始末しにこい」
一方的に言って、一方的に切る。
連絡を切った携帯電話を仕舞い込んだ直後、足音が彼の元へと近付いてきた。
一人ではない、複数の人間の足音。朔夜から僅かばかりの動じた様子も見えない。
駅の正面に面した通りの方から足音は曲がり、六人ばかりの人影が駅裏に姿を見せた。
全員が全員、全体的に黒っぽい服装で身を固め、黒と灰色が混じる無地のジャンバーを着込んでいる。
また、手に手に重そうな大きなバックを持っていた。
独特の、鉄が錆びたような鼻に来る血臭色濃い惨劇の現場を目の当たりにし、
腕を血色に染めた朔夜が立っているのを見ても、彼等は驚く事もせず、それどころか表情を変える事もなかった。
六人の内、四人は来た早々、手にするバックを地面に置き、中を探った。
一人が数枚重ねられたポリ袋を取り出すと、バックを開いていない二人の男に手渡す。
一般家庭で日常的に使われている黒いポリ袋を広げ、一人の男が朔夜の隣を横切り、座り込んだ。
ビニール手袋をはめると、路上に転がっている数多くの動物の死体を男は手掴みして無造作にポリ袋の中へと放り投げていく。
他の二人は、バックの中から取り出した洗浄液やらブラシやらを用意して、路上と壁面に飛び散った血を洗い流していた。
誰もが実に手馴れていた。私語など一切交わす事なく、また、交わそうとせず、黙々と自分の作業のみに集中している。
彼等が先ほど連絡を取った者達であった。
どのような事であれ、何かをやらかしたのならその後始末をしなければならない。彼等の職業はがまさにそれだった。
後始末・・・ゴミ処理を専門に行う業者。
後数時間もすれば日が昇り、それに伴って人も活動し始める。
一般人の生活が始まるまでに死体をどけ、血の跡を消す。
殺戮の跡が完全に消されるまでには暫くの時間が必要だが、一般人から見て気付かれない程度に処理しておく事を彼等は専門としていた。
押し黙って己の作業に従事する男達を軽く眺め、朔夜はその場から離れようとした。
最早ここに留まっていても彼の仕事は何も無い。彼は狩る事しかできない狩人であり、他の区々とした作業は何一つできないのだから。
五歩目を歩き、足を下ろした直後、背後から息を呑む気配が伝わって振り返った。
殺したとばかり思っていた獣の一匹が同胞の死体の中で息を吹き返したようだった。
そうとは知らずに掴もうと手を伸ばした作業員の手首に噛み付こうとしたらしい。
「ガァッ!」
自分の血と、仲間の血に毛先まで濡れながらも、獣は威嚇の叫びを上げた。
片目は眼球から抉り出され、後ろ足が千切り飛ばされ、折れた骨の一部が身体のあちこちから突き出している状態で、
なおも立ち向かおうとする意思は素晴らしいものに違いなかったが、
そうまでして自力で立ち上がったのだ、朔夜の前から逃げ出しても生き延びる事は不可能だろう。
一方、あわや左手首をなおも健在な牙によって噛み裂かれそうになった男性は最初こそ呼気を飲み込んだものの、
威嚇する半死半生の獣に対しては微塵の動揺も見せなかった。
腕を引っ込めた状態で、飛び掛る体勢に入ろうとする獣を静かに見つめる。
猛々しく毛を逆立てる血の塊を、他の男達も遠巻きに見守っていた。
最後の死力を振り絞って、何時飛び掛ってきてもおかしくない状況。
牙を剥き出しにした獣は、自分の中に残る最後の力を、その一片まで、体中から掻き集めているようだった。
生き延びる事は叶わない。ならば、せめて一矢報いねば・・・。
全身の細胞から寄せ集め、束ねに束ねた死力を込め、目前の敵の首へと牙を振るう機会は与えられなかった。
獣の目の前にいる男に、獣が最後の力を集めるまで待ってやらねばならない理由など皆無であった。
威嚇の叫びを上げている最中に、腕を閃かせ、横合いから獣を押さえ付ける。
と、同時に、腰に挟んでいたエアボーン・ナイフを抜き放ち、路面に押さえ付けた獣の横腹へ鋭い刃先を突き刺す。
ただ突き刺すだけでなく、確実に仕留める為に獣の体内を貫いた刃で縦横無尽に抉った。
「ギィィィィ・・・・・ッ」
威嚇の時に比べようも無いほどに断末魔は弱々しいものだった。
口から雄叫びを放つ力が、突き刺された腹から噴き出る血によって奪われていたのだろう。
物の数分とかからずに獣は身動き一つしなくなったが、より確実な物にする為に、男はナイフで獣の首を切り落とす。
淡々と、そして、実に慣れた調子で。
周りにいる他の男達も、自分の仕事をしながら、一連の事態を見やり、獣の首が切り離されるのを見届けてから、目を向けなくなった。
皆が皆、作業しながら片手で構えていたナイフの柄から手を離していく。
血塗れの復讐獣の首と胴を永遠に別離させ終わると、無造作に突かんでポリ袋の中へ投げ入れる。
公園で空き缶を拾い、ゴミ箱の中へ放り込むように全てが淡々とした事務的な作業だった。
その光景を眺め、一時は振り返った朔夜だったが前へ向き直り、足を進めていった。
今度は振り返らなかった。
深夜、人目に付かない寂れた駅裏の一角で行われた奇怪な殺し合いは、こうして終わりを告げ、
朝の光が来訪する頃には殺戮の陰惨な気配も薄く散じて、一般の人間の目に付く事も無いだろう。
夜は太古の姿を失われ、闇の純度は科学が灯す鬼火達によって幾許か振り払われていたが、やはり、その本質だけは変わっていないように思われた。
深く厚い暗黒のヴェールで余すとこなく何もかもを覆い隠し、不浄なものも神聖なものも全て闇の中に閉じ込める。
夜というのは、まるで棺のようなものだ。全てのものを平等に闇の底に閉じ込めるのだから。
優しく、穏やかに、そして、緩やかに。
黒い聖母の腕に抱かれ、今日を生きた生物は棺の中で眠る。
明日の空を飾る陽光が世界を彩るまで。
黒い夜の中に浮かぶ暗い建築物の群れが描く街並みを、遠くから一望すれば、黒耀石で作られた墓石が立ち並ぶ巨大な霊園のようでもあった。
点々と浮かぶ街頭が懸命に夜の領域の一部を切り取って、仄かに淡い光点を掲げてはいるものの、圧倒的な夜の前では慰霊に灯された蝋燭の明かりでしかない。
それでも、街に中心部に近づけば煌々と灯る電飾の数は多くなり、
駅から程近い場所からは色とりどりのネオンが些か極彩色と取れるまで、黒く頭垂れる夜の表情に毒々しくも艶やかな化粧を施していた。
アルコールも扱う飲食街が目立つ一角が眼に痛いネオンの発光源であるのは、何処の街でも変わらない景色に違いない。
それ以外で言うなら夜に活動を始める酒を主として扱う歓楽街だろうが、
この街では一区画を占領する規模を誇る歓楽街とは無縁らしく、飲食街の中に僅かながら、らしき看板を認められるだけであった。
鮮やかに発光して、闇夜の中で自身の存在を強烈なまでアピールする一角から離れた場所、
寧ろ、駅前により近い一等地では最低限の控えめな照明ながらも無視できない巨大な建築物が聳えていた。
白と灰色を基調としたシックな塗装も外観。正面入り口周りには木々が配置され、外から覗く好機の視線を遮るのに一役買っている。
街の最上級ホテル「サンロイヤル」。
最上階が六階と、高さこそ誇れるものではないが、かなりの敷地面積を持つ。
何よりもロマネスク式で建造された教会を思わせる様相で、何とも厳粛な雰囲気を持ち、場違いなほどの存在感を醸し出していた。
軒並み平凡を旨とする街並みに一番そぐわないであろう格調高い高級ホテルは、
外資系の出資の元、本場イギリスから本物の職人を呼んで建造されたものである。
格式と格調を無言で主張する高級ホテルは、だが、築数十年を経過させた歴史深いものではない。
ここ5年の間で作られた新しい建築物だ。
泊り客の少ないホテルの最上階、スィートルームの一室にて、朔夜の姿があった。
熱を持ち、血を通わせ、呼吸するのが不自然なほど、作り物めいた雰囲気を漂わせ。
ゆとりと開放感を演出する為、高く作られた天井。
あくまでも白の基調に拘った内装。
さりげなくも高級趣向で揃えられた調度品。
現代の王侯貴族の部屋と言った室内で、朔夜の姿は欠片ほどの違和感もない。
それどころか、彼の存在を感じて、瀟洒な室内は一層の気品と厳かさを輝かせていた。
王宮の一室のような室内に彼の姿を認め、部屋の上方から罅割れた声が短く響く。
不吉を運ぶ魔鳥の羽音をはばたかせる黒い影は部屋の一隅にある黒檀の机の上に降り立った。
机の上に降り立ち、羽根を休めてているのは鴉だ。
夜よりも黒く、暗闇よりも不吉な色をした鴉は、自らの主人に目を向け、もう一つ短く鳴いた。
主人から返答は声ではなく視線であった。
朔夜は無言のままに鴉と視線を交し合い、やはり無言のままに視線を外した。
鴉はこの部屋の番人なのだ。
主人以外の者がこの部屋に入らぬか監視する瞳。
招かれざる客の訪問があった際には、不吉を象徴するほど黒く染め抜かれた翼をはばたかせ主人の元へ伝えるのが役目。
今日も忠実に役目を護り、部屋に来訪者がなかったのを一鳴きと視線で主人に告げ、主人もそれを了解したのだった。
上質に洗練された空間を創出する面積68uの室内。
豪奢なベッドの脇に佇む朔夜の真摯な視線は、黒檀上の鴉から離れ、鴉が護るこの部屋の財宝に注がれている。
寝台に眠る少女に。
歳の頃は12、3ほどであろう幼い少女。
銀の髪。
最上級の絹糸のような長い髪が純白のシーツの上に緩やかな流れを作っている。
処女雪の純結晶だけを用いて生成された透き通るほどの白い肌はいっそ病的なほどであった。
瞼を閉じて横たわっている姿を見る限り、少女は生命を持つ存在ではなく、美しくも無機物で構成されたオブジェのようだ。
微かに流れる呼吸音と、緩やかに上下する胸が少女の「生」を確かに知らせていた。
少女の名は紗姫(サキ)。
血の繋がった朔夜の妹である。
懐から小瓶を取り出す。
鮮やかに朱の色彩で飾る鮮血を納めたガラス瓶のコルク蓋を外し、クッと煽いで瓶の中の生血を口に含むと、少女の薄い桜色に色付く唇に顔寄せた。
「・・・」
軽く口付ける。
口内に含んだ血を紗姫の口にゆっくり流し込んだ。
白い喉が小さく鳴り、口移しされた錆びた味のする赤い液体を少女は飲み込んでいく。
瓶に採取した生血を全て飲ませ終え、唇は離れた。
ベッドで眠る紗姫に変化は無く、瞼を閉じたまま静かに眠っている。
虚無の夢に囚われ眠り続ける眠り姫(スリーピング・ビューティー)。
妹の声を聞いたのは、妹の瞳の色を見たのは、一体何度だろうか。
記憶の戸棚を探っても、それらは片手で数えるほどしか無い。
そして、これから、後何度、声を聞く事が叶うのか、眠り顔以外の表情を見る事が出来るのか。
言い知れぬ哀切の念が胸を強く締め付ける。
「・・・・」
緩やかに声を発しようと開いていく口に気付き、引き締める。
無意識に名を呼びたくなるが、軽々しく呼びたくはなかった。
それでも求めてしまう自分を戒める。
ただ、抑えようとしても抑えきれぬものはあり、壊れ物に触れる慎重さで指先を白く滑らかな頬に滑らせた。
熱を持たない磁器素材で作られたビスクドール。
その頬に指を滑らせるような感覚を裏切るのは、指先に感じる、微かな、だけど確かな温もり。
掌で包み込むように頬に添える。胸の中で蟠るものを言葉にする事はとても出来そうに無かった。
意識の無い相手に言葉で何が伝わるものか、されど、静寂の狭間で想ってみても伝わるべくも無く。
ただ、手に、指に、心を託して添える。
それは祈りのようなもので、頼りなく、儚く、脆い。
吐き出す吐息にも千切れそうな糸を手繰り寄せる行為にも似ている。
顰めたのか寄せたのか、眉を微妙に動かし、朔夜は黒水晶の瞳を長い睫毛の奥に隠した。
唇を「クッ・・・」と小さいが強く噛み締め、呼気を飲み込んだ。
秀麗な顔を曇らせている表情を何と呼ぶべきか。
心臓に絡み付く茨の痛みに耐えている翳りが色となって、白い顔に濃い影を落としている。
いっそ何もかも捨ててしまえれば楽になれるかもしれないが、諦めるだけの勇気もなく・・・
叶わないと知りつつも、願わずにはいられない。
主人と眠り姫の逢瀬をどのような目で見ているか、鴉は黒檀の机の上で翼をはばたかせた。
風を切る音を従え、高い天井に舞い上がっていく。
数え切れずないほどに繰り返された夜は更けていく。
これもまた、幾度も繰り返してきた夜と同じに。痛切な想いを抱えて・・・
青よりも白さが多く見られる空模様は澄み切っていると表現できないが晴れてはいた。
厚さと深みを兼ねる雲の大海。
遥か遠方を望むほどにくすみだし、暗灰色が染みている。
些か不安な様子を見せる雲ではあるが、その巨大な塊が容赦なく輝いているであろう太陽の日差しを和らげ、気温の上昇を防いでいた。
例年に比べて平均を下回る温度らしいが、そんな事を気にする人間は滅多にいないだろう。
強い日差しが肌を刺激しない代わりに、幾分にも多くの湿気を含んだ空気がじっとりと張り付いてくるのが不快ではある。
夕暮れ近くの街中は多様な年齢層の人間が目に付くのだろうが、交通量の多い中心街から少し離れた場所では人数は疎らだった。
表通りから路地二つ挟んだ場所は更に人気がなく、一時間に人一人も見ないほど静かな場所。
静寂のタイトルが付けられた風景画を切り取った、そのままの光景の中、何か歌を刻む歌碑が建てられている。
背後に森林が面した歌碑は、この地方の名所などではないのだろう。
石碑の周りは荒れ果て、雑草が生い茂り、石碑自体も朽ちるに任せており、刻まれた歌の文字も欠けて読めなくなってしまっている。
雑草を刈り、石碑の補修を行い、周囲を整えればそれなりの名所になりそうなものだが。
古い歌碑を見下ろす形で朔夜は立っていた。
端麗な顔に浮かぶのは何とも表現できない複雑な表情。
ざわめく不快感を噛み殺しているようでもあり、湧き上がる苛立ちを押し殺しているようでもある。
居心地の良い場所でないにも関わらず、何故か無関心でいられない地であった。
そんな自分自身を持て余し気味になっているのだろう、朔夜の浮かべる複雑な表情はその現われというべきもの。
とは言え、街中の雑音が溢れかえる喧騒の中心に身を置くよりも、木々や草の擦れる音、風が渡る音、
それに遠くの街路を行き交う車の音しか聞こえないこの場所は心地良い。
薄気味の悪い感覚を気にしなければ、精神衛生の防波堤を崩す騒音も、
身体の大きさに比して頭の容量が少ない2本足の畜生も、ここでは外界の騒ぎになるのだから。
ここに来たからと言っても、朔夜には別段何する事もない。
宛がわれたホテルの一室で夜までの時間を潰していても良いのだが、週に一度はここに足を運んでしまう。
罅割れる歌碑にも、荒れた地にも、茂る森林にも、見覚えのある景色は無いし、普通の感覚で言えば、決して心休まる光景とは言えない。
無論、このような景色を気に入る人間もいるだろう。
忘れ去られた地、或いは、打ち捨てられた地に愛惜を感じる人もそう珍しくはない。
朔夜もそうした感性を持ち合わせているようで、基本的にこの場所は好んでいた。
ただ、理性では説明できない生理的な寒気を感じ、同時に、この場所には引っ掛かる何かがあるようにも思えてくるのであった。
恐らくは、他者には決して解らないであろう感覚。
言葉で説明しても同じ感覚を共有できる者で無い限り理解できないに違いない。
不意に風が木々の間から吹き抜け、黒色の髪を躍らせた。
不可解な場所に違いないが、唯一、時折吹き付けるこの風だけは心底気に入っていた。
この街の他の何処であろうと、ここと同じ風は吹かない。
実に澄んでいる風。
肌に纏わり付く多湿な空気の壁を薄く切り裂いて吹いてくる清涼な息吹。
薄く双眸を閉じて、吹き付ける風の流れに身を任せる。
突然――――ズキリ、と、右腕が痛んだ。
「・・・ちっ」
口の中で小さな舌打ちを噛み殺し、痛み出した右腕を押さえる。
何の前触れもなく右腕に痛みが走るのは良くある事。
右腕の中、神経と言わず筋肉と言わず、腕の内部に何万、何億にも及ぼうかとする膨大な数の蟲が蠢いているような感覚。
蠢く無数の小さな蟲達が腕の中、所構わず牙立てて、神経、血管、筋肉、細胞と食い漁り、脳髄までも浸透してくる嫌な痛み。
「く・・・・・っ」
啄ばまれるように痛む右腕を指が食い込むほど押さえたまま、肩を丸めて低く呻く。
今までに何度か経験した痛みであるが、慣れる事はなかった。
そしてこれからも決して慣れはしないだろう。
永遠に。
暫く肩を丸め前屈みの状態で右腕を抑えながら、呼吸を慎重に繰り返す。
吸い込む酸素を噛み砕き、肺の中に取り込んでいく。
何度か呼吸を循環させている内、徐々に荒れ狂っていた痛みは薄れていった。
収まっていく痛みの換わりに腕が痺れたように麻痺しだし、痛みが完全に消えた頃には指先一つ全く動かせなくなっていた。
これもまた、何時もの事でしかない。
放っておけば痺れは消える。
思えばこの痛みとも付き合いは長い。
初めは指先だけの痛みだったが、気付けば指の付け根、手首と侵食していき、今では肘の辺りまで侵されている。
これから先は更に酷くなるだろうと覚悟しつつも、無意識から零れた自嘲が唇を歪ませた。
林を抜ける風が七度、じっとりとした汗を伝わせる頬を撫でる。
柳眉を寄せて眉間に刻まれていた皺も浅くなっていた。
強張っていた腕の筋肉も心持ち解れ、指先に意思を伝えれば少々鈍い反応ながらピクリと動かせる。
「――――ふぅっ」
背中を仰け反らせ、黄昏る空を仰ぐ。
今だ少し痛みを残す右腕だったが、随分とマシになっている。
後もう暫くもすれば、完全に回復するだろう。
それまで朔夜は、吹き付ける風を受けて痛みで熱くなった身体を冷やすつもりだった。
「やっぱりここだったのね、朔夜」
五分ほども経った頃だろう、清涼な風を愛でていた朔夜の背中に、馴れ馴れしい女性の声が投げられた。
呼ばれる前から存在に気付いていたのか、朔夜は驚いた素振りもなく、しかも、振り向こうともせずにいる。
「全く・・・少し探したわよ」
風に揺れる長い髪を掻き揚げ、その女は友好的とは言えない口調で吐き出した。
背を向けたままの彼に対して、口内で小さく舌打ちを鳴らす。
年齢は20代前半だろうか。朔夜に比べ一回りほど小さいが平均からすれば長身の部類に入る女性。
赤寄りの茶色の髪は抑えめな艶を有して僅かにくすんだ流れとなって背に小滝を作っている。
万緑を溶かした深い翡翠色の瞳は初夏の日差しより尚強い灼熱の焔を宿し、
自らの光で輝いているかのような印象を見る者に植えさせ、形の良い鼻梁と濡れた朱の彩り添える唇はいっそ淫らがましいほどであった。
しなやかな豹を連想させる均整の取れた小麦色の体躯は女性としての特徴を豊かに表現しながら、それでいて力強さも併せ持つ。
全体的に官能的なまでの容姿ではあったが、何処か暴力的で、
もう一癖何かを隠していそうな雰囲気は、気性の荒い血統書付きの競走馬ではなく、蛇の毒を持つ女豹と称した方が相応しい。
「何時来ても辛気臭いトコロ・・・それに何だか気分も悪いわ。
アンタ、こんな場所が好きなの?」
澄んだ風が渡る緑の海原を見渡して、眉を顰め、不快感を露にする。
感情表現が素直であるには違いなかろうが、棘が多過ぎる言種だった。
「・・・そろそろ考えてくれたかしら、例の件」
風に靡く長髪をもう一度煩わしげに掻き揚げての口調には、幾分かの真摯さが混じっていた。
朔夜からの反応は皆無だが、彼女は一向に気にした様子も見せずに声を続けた。
「アンタにとっても悪い話じゃないだろうし」
軽く顎を上げ、上から見下した目付きが朔夜に投げられた。
ここに来て初めて、背を向けていた朔夜が肩越しながら女の方に振り向る。
彼の黒水晶の瞳には底冷えする光が宿り、オブラート無しで彼女の存在を不愉快だと言わんばかりの視線を放っていた。
しなやかな豹を思わせる体躯の女、「イブリズ」と言ったか。
彼女は数週間前から朔夜の前に現れ、何かと付き纏っては小煩く囀っているのである。
何の用向きで行く先々に現れるのか関心も興味も無く、静寂を好む朔夜にとって、イブリズの存在は不愉快であり、目障り以外の何物でもなかった。
それがどちらに傾斜を傾けようが反応が返ってきたのを良しとしたのか、イブリズは朔夜の背にしなだれかかる。
先ほどまで棘ある毒気を吐き出した喉と同じ場所から声を発しているのが疑わしいほどに、色と艶のある蟲惑の声音を転がす。
「・・・それに、私、アンタの顔キライじゃないしさ。
色々楽しめると思うよ。ねぇ」
大抵の男ならそれで魅了され、虜にもなろう色気だが、
朔夜は心揺らされた素振りもなく、堅苦しいまでの表情で黙殺して背中から回される女の腕を払おうとした。
払おうとした・・・その矢先である、イブリズの口から朔夜をして看過出来ない文句が飛び出たのは。
「足枷は捨てなさい。
どうせ意識の無いまま腐るのに任せるだけでしょう、アンタの妹は。
救う方法も無いのに足掻いているなんて、滑稽なだけよ。
現実にならない夢を見続ける・・・それ以上に無様な事は無いわ」
妖艶な微笑は同時に冷酷な微笑でもあった。
それだけに微笑みかけられた者は無視できず、正負どちらかに天秤は傾斜を深めるのも必然。
イブリズの笑みが朔夜に与えた影響は、快いものでは決してなかった。
彼の怒気に火を投げ込み、業火と変える。
その火付け役を、何気なく吐いた彼女の台詞が担ってしまった。
それまでは冷ややかながらも波一つ立たない湖面を映していた黒水晶の双眸が、荒れ狂う煉獄を投影していた。
眼光にしては鋭く剣呑な光で射抜かれ、イブリズは気付いた。
逆燐に触れるの言そのままに、彼の禁忌に触れてしまったのだと。
「頭を引き抜いて二度と喚けないようにしてやろうか、女。
それとも生きたまま五体と言わずに臓腑も解体してやろうか」
烈火が弾ける火花に模した声が盛ったと共に、風を巻いて朔夜の左手が空間を薙いだ。
陣風が斜に走る一閃の如き横薙ぎは、叩き付けた脅迫の通りイブリズの五体を寸断するに充分な威力を有していただろう。
刀身となって走る彼の腕の範囲にいたならば。
細首を切り裂くつもりか、首から上を引き千切るつもりなのか、
容赦も慈悲もない爪は風を切り裂きはしたが、耳障りな声で歌う女の命を引き裂いてはくれなかった。
くすんだ赤茶色の髪5本ほどを切られながらも、咄嗟にイブリズは本物の豹以上のしなやかさで爪の制空権内から離脱したのだ。
半ば野生的な本能で窮地を脱し、後方に飛び退いたイブリズの勘と身軽さこそを賞賛するべきだろう。
普通ならば何が起こったか理解できぬまま胴体と頭が永遠に分断されているのだから。
猫の目さながらに瞳を細めたイブリズの顔からは、相手をからかう余裕も、小馬鹿にしたような喜色も消え失せていた。
万緑を溶かした翡翠色の瞳にはしたたかな殺意が凍土の冷気を放ち、煉獄を内在させる朔夜の黒瞳を真っ向から見据える。
「いきなり酷いわね・・・・
でも、自分の実力を過信しない方がいいんじゃない・・・?
今までアンタが狩ってきた三下連中と私を一緒にしたら、大きな間違いよ」
静かにイブリズが告げた途端、朔夜の周囲で五つ、火球が突如として生まれた。
破裂音を響かせながら、弾けた光芒は閃光を産み落とし空気を焼き払う。
爆発そのものは対して大きくなかった為、至近で爆発を浴びた朔夜に深刻な火傷は見られなかった。
それにしても、それまで何もなかった空間が突然発火して破裂したのだ。
こちらに対する脅しだけを狙いにしたのか、相手にしても予想と異なっていたのか。
どちらかは判断できないが、不意打ち同然とは言え、朔夜は炸裂するまで反応できずにいた。
もし、仮に、先ほどの五つの爆発全てが充分な火力を備えていたら身体の一部ないし大部分が吹き飛んだか、全身が火に包まれていた事だろう。
現実には起こらなかった可能性を考え、もう一つの未来図、自身が充分な火力で消し炭にされる想像した時、だが、朔夜は薄寒い顔にはならなかった。
能面被っているのでは、と、誤解するほどの至って静かな無表情振りで、慌てた様子もなく、変わらぬ殺意を瞳に満たしてイブリズを射抜いていた。
「・・・・良く喋る女狐だ」
右手で顔上半分を覆い隠すようにした朔夜。指と指の隙間から覗く、極上の黒水晶の瞳。
スッ・・・と細められた眼を満たす殺意の量に僅かな変化もないと言うのに、彼の纏う気配だけが異なるモノへと変貌する兆しを見せ始めていた。
「それだけ小五月蝿く囀れるなら、舌は二枚舌なのだろうな。
この場で余分な一枚を引き抜いてやろうか? それとも、消し飛ばされる方がお望みか?」
周囲の気温が2度ほど下がった肌寒さ、それに背筋を生暖かい指が這っているような不快感を覚えたイブリズ。
彼女が感じる薄気味悪さを、雑木林も同じく感じているのか、吹いてくる風に枝葉を揺らし、泣き声をあげていた。
朔夜の放つ、先ほどまでとは明らかに異質異様な殺気を顔に浴び、流石に気性の荒いイブリズも鼻白んだ。
肝を冷やしているのは確かだろうが、それでも蒼褪めようとする表情の変化を最低限に押し留め、内心の動揺を相手が看取するのを難しくさせているのは瞠目に値する。
肌を突き刺してくる殺意混じりの空気の中、恐慌に転がろうとする精神の手綱を握り操る様は剛毅さを言葉ではなく行動で証明していた。
殺気が具現化した刃なるような尋常ならざる朔夜の殺意に同調し、いよいよイブリズも毒蛇の如き残酷な戦意を加速させる。
緊張を孕む緊迫した空気は小さな針の一突きで容易く均衡を崩して血生臭い舞台の幕開けを行うであろう矢先、両者の間で吹き荒んでいた旋風がふっと和らいだ。
怒気を広げた表情の中、獰猛な瞳を輝かせ、朱に濡れた唇を忌々しげに歪めていたイブリズが突如、際限なく膨らませていった殺気を霧散させてたのである。
顔中に広がっていた凶暴な人相を仮面外すように掻き消すと、荒ぶる呼気を吐き出した。
「・・・・やめたわ」
疲れたように溜息すると、眉間に皺を刻んだ顔で片手をヒラヒラさせながら踵を返す。
彼女の真意を把握しきれない朔夜が怪訝な眼差しを向けていたが、彼に対し、イブリズが肩越しに振り向いた。
「アンタを盟友にするのが、あの人のお望みだしね。
だから、退いてあげる。
良かったわね。
別に感謝しなくていいから、後日、色好い返事をちょうだいね」
淫らなほどに紅く染まる唇が薄い嘲笑の形に吊り上がる。
鮮やかな緑を溶かす翡翠の瞳に危険な光を瞬かせ、イブリズはそのまま振り返る事なく去っていった。
野生の豹を思わせるしなやかな女の姿が視界から完全に退去するのを確認し、朔夜も永久凍土の冷気纏う殺意を納めた。
彼は感情を持つ生物であって、無機的な人形ではなかったから、感情の揺らぎと無縁ではなかった。
だが、一時の激情に身を支配され、前後を忘れる事もない。
感情の起伏はあっても、それを引き摺る真似はしないのだった。
例えるならば、彼はある種のプロであって、己の感情の制御に不自由する事はなかった。
鋭利な光を放つ視線の矛先を納めると、剣呑な気配を散らしていく。
異質なモノから静かな人形に、朔夜の雰囲気は戻っていった。