第三章・表/14
「私がさらわれていても、必死になってくれる・・・?」
数瞬の間を置いて、今度はややはっきりと季夕が呟いた。
それでも、光琉は意味を掴み損ね、頭上にクエスチョンマークを浮かべた。
いよいよ持って、彼女からの言葉の意味が解らなくなってきた。
だが、質問した側は、真剣なようである。
表情といい、眼差しといい、冗談の類を言っているようではない。
表情と視線。真摯な装いが見え、真剣に彼に対し尋ねている。
「何を・・・・」
一瞬、「何を言っているだよ。変な事を言って。疲れてるんだ。
少し休んだ方がいい」と、軽く受け流そうかと考えていたのだが、季夕の真っ向からの視線を見ては、捨てざるえなかった。
発言の途中で停止を余儀なくさせられた言葉は、語尾を弱く震わせながら急速に口調の強さを失い、萎(しぼ)んでいく。
音声化されなかった声を口の中に呟き放ち、小さく息を吸い込む。
「・・・何を言って・・るんだ」
ややあって、改めて光琉は漏らしたが、これは意識的に口にしたものではなかった。
幼馴染の言葉に対し、何処までも無意識に出た言葉は、余計な感情が混じっていないだけ、何よりも光琉の心を如実に語っていると言えた。
「何を・・・・・・・」
もう一度呟きを繰り返す。
季夕に、というより、今、この時の状況を確認するようであり、季夕の言葉を、自分自身の中で再度確認するような響きだった。
とてもじゃないが、軽い台詞でかわせる雰囲気ではなかった。かといって、真面目に答えるにも頭を悩ませられる。
「当然だ」と、一言答えれば済む。そのはずだ。それだけ言えば良いに違いない。それなのに、何故か、光琉はそれを言えなかった。
不純物を含む返答と妥協を思わせる対応の一切を許さない季夕の瞳が、光琉の声と表情を著しいまでに制限させていた。
何より、向けられている季夕の眼を見ていると、更に深く思い知らされるような気分になってくる。
表面上だけの返答など、彼女は求めていない。もっとはっきりとした答えが欲しいのだと頭の片隅で理解していた。
質問の意味も解らないのに、真剣な返答を彼女が求めているのは感じ取れたのだ。
いや、既に解っているのかもしれない。勘付いているのかもしれない。
いくら、光琉がある種の事柄に対して極めて鈍い神経の持ち主だろうと、この場の雰囲気を、空気を重くさせている理由の僅か程度は察していた。
だから、逆に何も言えなくなっているのかもしれない。
そもそも、こんな事を聞かれるなんて想像もしていなかったのだ。
前以って答案を用意するどころか、心構えさえ出来てはいなかった。
季夕の投げた言葉は完全に光琉の虚を付いたのである。
困惑し、表情を曇らせながら如何とも言い淀む光琉の姿に、季夕は何を感じただろう。
彼女はふっと目線を光琉から引き剥がし、床に投げ落とした。
前髪に隠れ、陰となっている彼女の瞳は良く伺えなかったが、さきほどよりももっと涙が滲んでいるように思えた。
唇を小さく噛む横顔は悲痛の色が濃く、どのような言葉であれ、声をかけるのに躊躇われる。
室内の空気と雰囲気は、重苦しく、また、息苦しくもあった。
静かな場所を光琉は好む方だが、こんな静けさは大の苦手だった。眼に見えない壁が天井から迫り、体を押し潰さんとするような静寂。
じりじりと少しずつ精神を鑢にかけられていくような無形の重圧に耐えながら、光琉は呼吸さえ押し殺す。
無言の静寂は、心身の疲労を貪欲に要求してくる。これ以上は耐えられそうになかった。
「今はそんな事を話している場合じゃないだろ」と静寂を突き破ろうとした直前、季夕が次の言葉を投げてきた。
「ごめん、忘れて・・・・」
苦笑しようとして出来なかった表情で早口に言い終える。
不恰好で不器用な笑みめいたものを湛えて顔を伏せる横顔は、いっそ悲痛でさえあった。見る者を切なくさせる。
いっそ泣き伏してくれた方が、光琉にして、どう動くかを決定付け易かったかもしれない。
泣かれてしまっても、いっそう困惑を覚える側面もあったが、答えが出そうな予感もあった。
如何せん不明瞭なもので、光琉自身、説明のつかない予感ではあったが、何か、割り切れそうな感じがしたのだ。
そうはならなかった。
季夕は毅然とまではいかないものの、平静を装い、前後数分間の会話を無かった事にしてしまった。
幼馴染にいきなり泣き出されて、困惑を覚える事態は避けられたのだからどこかほっとしたが、釈然としないものが心の中にしこりとなって残るような結果だった。
「・・・今日はもう帰るね」
力なくソファから立ち上る季夕は、なるべく光琉と顔を合わさないようにしているようだ。
俯き加減になってこちらを意識して見ようとしない彼女に、光琉は何も言えなかった。
一言も交えないまま玄関まで見送り、季夕はそのまま家を後にした。
戸が完全に閉まり、彼女の姿が見えなくなると、一人残された光琉は重たい呼吸を吐き漏らす。
もっと重大な問題があるのに、また別の問題が湧き出てきてしまった。
望んでもいない事態だけが招かれてもいないのに訪ねてきて、好き放題に掻き乱してくれる。
自らが今歩いている人生とか言われるレールの上に唾吐きたい気分だ。
玄関に背を向け、ひっそりとした廊下を歩き、階段を上る。
光琉の他に誰もいない家では、階段を上がるたびに古びた木が軋む音がいやに響いていた。
ギイギイと夜鳴きのようにも聞こえる木造階段の軋む音に耳を満たしながら、光琉は一つの事を反芻している。
小矢の代わりに季夕がハルファスに捕まっていたとして、自分はどれほどまで必死になっているだろうか。
そんな事態に直面した自分の対応というものを、あまり考えられなかった。
起きてもいない仮定の事態に遭遇したときの対処法など、上手く思案できるほど、光琉の想像力は逞しいものではなかった。
第一、小矢にしても、季夕にしても、彼にとっては身近で、大切な人間なのだ。
それを助けたいと思う心を比較する事など、自分でできはしなかった。
・・・いいや、違う。と、小さく頭を振る。
彼女はさっき言った意味合いは、恐らく、少し違うのだろう。
小矢と季夕、2人がハルファスの手に落ちていたら、どちらを優先して助けるか。どちらの身をより真剣に案じるか。
こんな風に考えを進めた方がより近いのではないか。だとしても、答えられた代物でないのは変わらずだった。
更に難問になった気さえする。答えられない。
対象が2人の内どちらかと、綾子などのクラスメイト、または、その他の人間ならば簡単なのに。考えるまでも無く答えは容易く出る。
それが、2人両方が関わるとなると途端に難度が上がる。そもそも比べられたものではないのだ。
それにしても・・・複雑な思いに捕らわれてしまう。
今まで、ただの幼馴染として、仲の良い友人として、その関係で良かったはずなのに。満足していたのに。
特に季夕とは、男女関係なく、さばさばした間柄が実に好ましかった。
余計な事を挟む余地が無かったから。頭を悩ませるようなものが何一つ無かったから。肩の力を抜いて接しられる最も気軽で気安い友人として。
この関係が永続するものと思っていたし、続くものとして疑わなかった。
ふと、ここまで持ってきた思考を中断する。
何時の間にか階段を上りきり、自室の前まで進んでいた。
天井で輝く、安っぽい電光を見上げて、ゆっくり、呼気を吐き出しながら顎を引いていった。
頭の中でくるくると同じ場所を回転していた思考に終止符を打ち、脳裏から叩き出す。
これ以上考えたところで、どうにかなるようにも思えなかった。それに、別の大事に何の解決も見出していないのだ。そちらに集中するのが当然だろう。
まずは小矢を助ける。それが最優先事項であり、最重要だった。この一件が片付かない事には、他の事を頭に巡らせる余裕など持てそうにない。
と、光琉は自分に言い聞かせた。或いは、納得させた。
小矢を助けるのを一番に考える為、季夕の問題は一時棚にあげておく・・・
それは本心に違いなかったが、本音を言えば、深く考えたくも無かったのかもしれない。
勝気な幼馴染から突き付けられた問題を、追及したくはなかった。
問題に対する己の解答もはっきりさせるような真似はしたくなかった。
これまで余計な波風など立たずに上手くやってこれた。多少の喧嘩は確かにあったが、そんなものはあって当然で、無い方がおかしいのだ。
今までちゃんとやってこれたのだから、これからだってやっていけるはずではないのか。これでいいじゃないか、と、そんな事を思う光琉だった。
万事上手くいっていたのだから、関係を無理に変える必要はないのではないか。
しかし、これは思考の先走りと言うものかもしれない。
まだ、季夕からはっきりとその旨を言われた訳ではないのだ。
何しろ、彼女も自分の発言を撤回して、無かった事にしている。あの会話自体が無かった事に。
全ては有耶無耶の内である。だが、それならそれで良い。今すぐ明確にする問題でもないのだ。
有耶無耶のままになっていてくれる方が都合が良いと言うものに違いない。
今まで通り。何も変わらず。
それでいいはずであった。
とにかくも、光琉はそう自分に思い込ませ、無理矢理に近い形で一応の決着を付けたのである。
この件は精神のかなり奥にまで根付いて、脳裏から完全に追い出せられはしなかったが、なるべく無視するよう努力し、努めて気にしない事にした。
これに関わっている限り、他に考えなければならない事柄の思考が全く進まないのだから、余計な事は意識的に忘れるしかなかった、
心の一角に釈然としない感覚が楔のように打ち込まれていたが、あえて無視すると別の考えに取りかかった。
先ほどの季夕の様子を見ている限り、彼女をこれ以上関わらせるのは無理に近いようだ。今までなかったくらいに精神的に不安定になってきている。
そろそろ限界というやつだ。最初から季夕がこれらの件に関わりになる理由など何処にも無いのだから、ちょうど良い。
私情から来る動機も、自主的に踏み込む理由も無かったのだ、季夕がこんなおよそ現実離れした非日常の世界に飛び込んだのは、小矢がいたからである。
それももういいだろう。これ以上、無理して首を突っ込み続ける必要は無い。
切のいい節目と、とてもじゃないが言えないが、とにかく、ここらで手を引かせるて、間違いではないだろう。
季夕が、ここから先も無理に付き合う必要もないのだし、身を引いてくれれば、危地に陥った時も余計な気苦労をしないで済む。
自分以外の他の人間の心配をしないでいいのもありがたい事であり、己の意思に従って、身軽に、そして自由に動けるのも喜ばしいものであった。
・・・かといって、行動に制限が無くなったからと言って、自分一人で何事が出来るかを考えて苦笑する光琉だった。
まず、着物姿の少女の申し出をありがたく受け入れ、協力を仰ぐ。これは決定事項である。
誰かの助力を得ない事には、何一つできはしないのを理解していた。
化物どもの只中に、巣窟に飛び込んで、自分に何が出来るか。どれ程の事もできやしない。
異能を使う“魔”からすれば、光琉など、卑小で賢しい、取るに足らないただの人間なのだ。
何の力もない。“魔”の操る異能も無ければ、シェミハウルのような“魔”と戦えるだけの力もない。
その事を誰に指摘されるまでもなく、彼自身が一番に、充分過ぎるほど理解していた。
何百年とも知れない大昔の呪いを解く為にさらわれた小矢。
そんな理由を考えてみれば、あまりの話に、壮大な、だとか、悠久な、だとかを感じる前に呆れてしまう。
酔っ払いが酒の勢いに任せて吐く与太話のレベルである。
次の日になってみれば、二日酔いに痛む頭には、話の真偽以前に、話そのものを忘れるようなものだ。
全く馬鹿馬鹿しい限りだ。数百年前の怨念も呪いも、等しく犬に喰われてしまえ!
と、一息の元、光琉は吐き捨てたい衝動に駆られた。
だが、幾ら馬鹿馬鹿しく思えようと、誇大妄想じみた昔話が原因となって、小矢がさらわれたのは変えられようもない事実なのである。
“魔”・・・特に呪われている本人である“呪い憑き”からすれば、小矢は鍵。代用品の無い鍵だ。
唯一にして無二の鍵。数百年前の錆付いた呪縛を解く鍵。
何百年前に端を発する怨念蠢き、呪詛と知文字で綴られる叙事詩。
太古から悠久の時を渡って来る鎖に絡め取られている。身動きもできずに雁字搦めに。
鎖ではなく、音と例えるべきだろうか。古い古い世界の人骨で作られた笛が奏でる怨嗟の旋律が現代にまで轟き渡っている。
今現在の状況を作り出す原因の一つとなった大昔の出来事には、関心もないし、興味も覚えない。
ただ一言、馬鹿らしい、と唾棄する感想しか持ち合わせていない。
だが、そんな大昔の出来事に絡み取られ、或いは、太古のメロディに踊らされているのはぞっとしない気分だった。
シェミハウルも、ハルファスも、小矢も、そして自分も、気付かずに、気付きつつも、陰々として奏でられる寂れた音律に合わせて踊っている。
そんな風に考えて、うそ寒い感触を背中に感じ、ゾクリと身震いした。
自分の今に至るまでの行動と今度の対応が、
全て、遥か昔に書き示された譜面の楽譜に沿って操られていたとは想像したくも無いものだが、
呪いを解く方法を血眼になって探していると言う“呪い憑き”と、“呪い憑き”を自分達の組織に入れる為に、
同じく呪いを解除する方法を探していたハルファス、のろいによって生きる為に同胞を狩り殺し、生血を啜る業を背負った鬼王の末裔を追う“魔”の少女、
呪いをかけた張本人である退魔師の子孫の小矢・・・。
それら全員が様々な思惑の元、勝手に動いていたのに、引き寄せられるようにしてそれぞれの軌跡が交わってしまった。
まるで、何者かが、全員の糸を操り、手繰り寄せ、一本の糸として織り込んだような・・・・「運命」だとか呼ばれる糸の中に・・・
この光琉の想像は、ただの妄想に過ぎなかった。
遥か昔の出来事が起因するとしても、それが今も尾を引いていれば、それに関わる者達が交わるのも当然なのだ。
現在の状況を作り上げたモノは最早誰か解らなくとも、状況を動かした要因となったのはハルファスに違いなかった。
彼が“呪い憑き”を欲し、それに抗してシェミハウルが動き、小矢が狙われ、“魔”の少女が動いた。
ハルファスが動いたから、状況が変化し、本来、過去の因縁など知らなかった小矢も巻き込まれる形となり、現在の状況となったのだ。
それだけの事である。別に不思議でも奇妙でもない。ハルファスの欲求がトリガーとなって現在の状況を作り上げただけの事。
それ自体を運命と呼ぶものなら、そうなのだろう。
どちらにしたって、大した意味は無い。
運命だろうが、運命でなかろうが、既に起こってしまった事だ。事は現在進行形で進んでいる。
何故こうなったか。この状況は誰によって作られたか、或いは、何に寄せ集められたのか。そんな事ものは実にどうでもいい事でしかない。
原因追求など、後日全てが解決してから、ゆっくりと考えられるだけのゆとりのある時間に思う存分考えればいいのだ。
水面に水泡を幾つも浮かび上がらせるように、様々な思考が意識の表層面に現れる中で、ふと、一つ、注意を引かれたものがある。
良く考えてみれば、これほど現実的な問題もないのだが、今の今まで完全に失念していた。
思い出してから改めて、光琉は苦虫を噛み殺した表情となって口と眉間を歪ませる。
瑠香が帰宅してから、彼女にはどのように説明すればいいのかが問題であった。
小矢の妹が、どんなに家に居着かなくても、実の姉の姿が数日も見えないようでは訝しがるのは当然だろう。
一日、二日の間なら誤魔化しようもあるが、短期間で決着が付くなどと言う保証は、残念ながら何処にも無い。
三日にも渡ろうものならもうダメだ。
朝食時や、夕食時など、本来いるべき人間の姿が数日の間見かけないのであれば、どんなに疎い人間だろうと絶対に気が付き、何か合ったのかと勘繰るに違いない。
姉の所在を瑠香に聞かれた時に、何と言えば良いのか、光瑠には判断が付かずにいた。
現在、周囲で何が起きているのか、包み隠さず、全てを、正直に話してしまうのも一理あるように思われる。
瑠香は小矢の実の妹である。つまり、此花家の血筋の人間なのだ。
曲がり間違えば小矢の代わりに瑠香が狙われていたかもしれず、この件から完全に無関係とも言い難い。
全てを説明して、瑠香の注意を喚起するのも確かに一つの手ではあった。
しかし、その提案を全面的に支持できないのは、これ以上、他の人間を巻き込みたくないと光琉自身が思っているからであった。
瑠香の身の回りで何も起こっていないのなら、黙っておくべきだ。余計な事を吹き込んで悪戯に不安を煽る事もしたくは無かった。
何も起きていないのであれば、そのままにしておきたい。季夕が「もう嫌だ」と泣いたように、好んでこんな世界と親しくなりたいと望む人間はいないのだから。
頭を捻って悩んだが、結局答えは見つからなかった。
瑠香に聞かれた時、その場の状況と雰囲気で何と言うかをまた考えればよい、と、妙に重たい頭で考えた。
色々と考え過ぎて思考力が鈍くなっているのを自覚する。痺れのような、重たさのような、そんな感覚が頭の芯にこびりついている。
最近、同じ感覚を味わい続け、最早、習慣になっているかもしれない。
階段を上がった先にある窓の向こうには、黒々とした闇が広がり、敷地を囲む木々が黒い塊となって忌まわしいほどの姿を見せている。
その奥に、神社の本殿が闇の底に沈むように鎮座していた。見慣れた外観とは言え、あまり気持ちの良いものではなかった。
かなり昔から変わらず其処にあるのであろう神社は、闇夜の奥でいっそおどろおどろしい様相さえも備えているようですらある。
暫く暗灰(あんかい)色にくすんだ神社の姿を遠めで眺めていると、ゾワっとする鳥肌立つ感覚に見舞われた。
人の気配が全く無い神社も、余計な物音が聞こえないこの家も、今は似たような雰囲気に包まれている。
古臭さだけが目立ち、薄寂れた雰囲気だ。
普段は指先ほどにも思わないが、今夜は何故か、人の気配の感じない家内がやけに寂しく、薄気味悪く感じられた。
溜息交じりでドアノブを捻る。少し引いて、出来た隙間に足を一歩入れてから、動きを止めた。
両肩に肩凝りにも似たズシリとした重みを感じている。疲労の証だが、別に眠くはないのだ。
精神が昂っていて、眠気を寄せ付けないでいる。
遠足の前日で寝入れずにいる小学生のように、と、例えれば愛らしいかもしれないが、そんな悠長な比喩が通用しないのは彼自身が一番理解している。
「くそ・・・・」
小さく吐き出された罵言が、外に闇を広げた窓に跳ね返り、力なく床に落ちた。
あの時にとっとと即断即決しておけば良かった、と、今更ながらに苦い思いを噛み締める。
着物を着た“魔”の少女からの申し出を聞いた時、返答を先延ばしにする真似はせず、その場で快諾しておけば良かったのだ。
こうして誰も居ない家に帰って、独りっきりになってみると、嫌な考えばかりが勝手に、しかも、衰えを知らぬ湯水の如く湧き上がってきて、気分を一層湿っぽくさせる。
時間が経過すればするほどに、自らの想像する光景が現実味を帯び、確かな色彩と姿形を備えて脳裏のキャンバスにまざまざと浮かび上がる。
それは空想の域を飛び出した予測、現実の境界へは入り込んでいない予想。曖昧なだけに、どちらとも取れ、どちらに転ぶか解らない恐怖を感じる。
自分一人の思考を迷路に迷い込み、余計な事にまで考えを向け出すと、思考は半ば強迫観念じみてきて並大抵の事では頭から追い払えなくなってくるのだった。
一時間を待っていられない、十分も長すぎる。一分一秒さえ惜しい。
今すぐに何か行動を起こしたかった。このまま待ち続け、朝が来るのをじっと待ち望むのは拷問以外の何物でもないように思えてならない。
焦燥感と不安が、悪い予感と言う風に煽られ、身を焼く。まさに居ても立っても居られない状況だった。
何より、あの少女は何時姿を見せるのだろうか。後日、返答を聞くと言っただけで、日時を明確に指定してはこなかった。
彼女の言う後日が明日である保証も無い。二日後かもしれないし、三日後になるかもしれない。
こちらに考える時間を充分与えようと、向こうが好意を持っていたとしたら、いらぬ親切だった。
「日時くらいきちんと指定しろよな・・・」
苛立ちを噛み殺した声音で憮然と吐き漏らす。
悪い未来予想図を描く脳細胞に対する怒りの余波が名前も知らない“魔”の少女に向けられ、隠し切れない忌々しさが口調の端々から滲み出ていた。
だが、再会の日時を指定しなかった点で言えば、彼も同じなのである。その時は、完全に頭の中から忘れ去られ、胸に引っ掛かるものすらも感じなかった。
返答するのを何時に定めるか、全く考えなかったのだ。例え“魔”の少女も忘れていたとしても、相手の間抜けを全面的に笑う資格を光琉は持たない。
忘れていた点では、彼も同じなのである。他の者を無条件に責められるほど上等な立場にいないのだったが、それはきちんと自覚しているところであろう。
逆恨みでしかない。それも重々自覚しているが、何かに苛立ちをぶつけずに入られなかったのだ。
そうしないと、胸の中で沸騰する感情を持て余してしまう。
結局のところ、忍耐に苦汁を強いてくるストレスを発散させる手段として、何かに苛立ちをぶつけているだけでしかないのだった。
対象になるものはこの際何でも良いと言えた。
持て余し気味になっているのは何も感情だけではなかった。時間をも、光琉は持て余している。
“魔”の少女の言ではないが、後日、などと言う不確定極まりない曖昧な日時指定に限らず、今夜から明日までの時間さえも持て余している。
何をしていいのか解らないのだ。逸る気持ちばかりが急ぎ過ぎて、思考が置いていかれている。
気持ちが昂っていて、或いは不安で押し潰されそうになっていて、何一つ、まともに手に付かない。
いっそ腕時計を付けてないのは幸いであった。
なまじ時間を確認できる物を身に付けていたなら、秒針の動き一つとっても非常な緩慢に感じられ、負担しなくていいストレスを無意味に蓄積させていたに違いない。
少しでも気を紛らわす方法を考えなくてはならなかった。
落ち着きを失った心を抱えながら、踵を返して上がってきた階段を下り始める。
自分の部屋に戻っても仕方が無い。自室に気を紛らわせる事が出来る代物は無い。そもそも余計な物が一切無いのである。
部屋に戻ったところで、ベッドに仰向けになって、読みもしない雑誌か何かを広げ、寝返りを打ち、耐え切れずに飛び起きるのがオチだろう。
それほど想像力を掻き立てなくても、自室に戻った際の自分の行動が簡単に予測できてしまう。
かといって、一階に下りたところで別に何もありはしない。居間に戻ってテレビでも映したところで、持って十分といったところである。
階段を下りた先にある玄関の壁にかかっている時計がカチコチと、砂時計から一粒の砂が落ちるまでの時間を刻む音が静謐な空気の中に溶け込んでいた。
メトロームから奏でられるように、些細な乱れも生じさせずに一定のテンポで刻まれる単調なメロディーは、
息遣いさえも虚ろな雰囲気の中で、むしろ違和感無く溶け込んでいるとさえ言えた。
秒針が進む音は明かりもろくにない暗がりで耳にするとそれだけで不気味なものだが、元々、光琉はあまり好感が持てないでいた。
好んでいる人間の方が少ないのは当然としても、きっぱりと嫌いと断言する側もまた少数に違いない。
光琉は「嫌い」と言い切る少数の側の人間だった。正確に位置付けを行うなら、嫌いではなく、苦手と言った方がより近いかもしれない。
特に、夜半過ぎ、ふとした瞬間に目覚めたベッドの上で不意に聞こえてくる秒針の音に限っては、苦手などと曖昧な表現は用いず、断言して嫌いであった。
一定のリズムを保ちながら刻む時計の音。深夜の濃く深い夜の奥底でアレを聞いていると、自分の命数が音と共に着実に減っているように思えてくるのだ。
秒針が一つ鳴るたびに、寿命も一つ減っていく・・・
そんな事を思い浮かべ、得体の知れない悪寒を感じたのも一度や二度ではない。
他人に聞かせれば笑われる程度のものに違いないが、本人は笑う気にも無視する気にも何故かなれないでいたのだ。
笑い飛ばすには、薄気味悪い感触が付き纏い、一笑に伏すのも難しく思えるのだ。
これはもう、理屈を捏ねて説明するようなものではなくて、単純に、かつ、純粋に、生理的に嫌いなのだろう、時計の音が。
落ち着きと仲良く手を取り合っている日常時でさえ、そうなのだから、
未整備の砂利道を走る車と同じに安定しない現在の心理状態では、時計の音がかなり神経に堪える。耳障りで仕方が無い。
小さくも静かに秒針が刻み付ける一定のテンポのメロディは、十回も聞いていれば充分過ぎるほどだ。
冗談にならないほど精神がささくれたってくるのがまざまざと実感できて、心底うんざりさせられる。
これ以上時間を気にして時計ばかりを睨んでいては、朝が来るより先に精神の方がまいってしまうだろう。
身体はもう別の方へ行きたいと動いているのに、意識は時計の針にのみ集中して、両足がその場から容易に動こうとしない。
床に接着してしまったかのような足を無理矢理引き離し、とりあえず居間に戻ってみたものの、耳だけは秒針の音をしっかりと拾っていた。
決して広いとは言えない家だが、住人が三人しかいないので持て余す事もしばしばある。
普通の日常ですらそうだったのに、今の現状では余計に閑散と感じられる。
大体、瑠香は何処に行っているのだろうか。と、無限に湧き上がってくるような悪い胸騒ぎから意識を逸らすように、首を捻る。
つい先ほどまで、瑠香が帰ってきて、姉の不在を問われた時にどう答えるべきかに考え悩んでいたのを綺麗に棚に上げていた。
外の様子を再確認するようにチラリと、窓の外へ眼を向けた。
色濃くなった闇が我が物顔で窓から覗く景色を黒く塗り潰し、圧倒的な闇に対して、比べるまでも無い微々たる光が弱々しく瞬きながら、遠く、街の景観を映していた。
二階から外を見たときより大地に近い分、視界に見える面積は森林の黒さが目立っていて、反比例し、街明かりが余計少なく、小さく見える。
「・・・ったく。これ以上、余計な気苦労を強いるんじゃねぇよ」
誰とも無しの独り言が憮然と呟かれ、溜息で締め括った。
誰も彼もが自分勝手に動いて、しなくていい心配ばかりさせ、悩まなくていい筈の気苦労ばかりをかけさせる。
小矢も然り、瑠香も、そして季夕もだ。
被害妄想と言われても構わなかったが、この時、光琉は
そもそも瑠香は一体何をやっているのだ。
普段から帰りが遅く、居るのか居ないのか不明だと感じるのが当たり前に思えるほど慣らされてしまった感さえあって、
常日頃から帰りが遅くなっても、あぁ、またかの一言で済んでしまうのだが、ふとした切欠で正面から向き直ってみると、
瑠香が何時も何処で何をして遅くなっているのか、いよいよとばかりに気になってきて仕方ない。
日常の時間の中にいたならば、光琉も娘を心配する父親の心境に近いものを抱きながら、やきもきしつつ瑠香の事を考え出すのだろうが、現状がそれを許さなかった。
最初から、光琉としても、時計の針ばかりが気になる自分の意識を余所に逸らす材料として、瑠香の事を考えただけなのだ。
季夕の様子がおかしかったのも気になるし、何よりも小矢の事が眼に見える大事として横たわっている。
悩み事と片付けるにはいささか深刻な問題から、少しでも気分と意識を逸らせれば良かったのだ。
主目的が別なのだから、帰りの遅い瑠香を心配してもそれだけで、当然の如く真剣に追求しようとする思考も働かないと言うものだ。
「どこをほつき歩いているのやら・・・不良娘かってんだよ」
一頻り、お決まりの文句をぼやくと、考え事のベクトルは迅速に切り替わり、別の問題に視線は移り変わっていた。
ほんの一時に過ぎない僅かな間とは言え、少しは意識を別へ逸らせたのだ、光琉は瑠香の事を殆ど拘らずに、ただ心配だけは胸に留めた。
とにかくも時間だ。時間を潰す方法が欲しい。
“魔”の少女から呼び出しが来るまでの間・・・いいや、朝方まででも構わない。
忙しなく跳ね回る苛立ちと、ドライバーの手によるハンドル操作を受け付けずに迷走している車にも似た精神状態、
この二つの眼から時間の流れを逸らす方法は無いものだろうか。
ソファに腰を下ろしていても足は落ち着きを知らずに貧乏ゆすりを繰り返している。
考えるべき事は多々あり、考えるだけの時間は皮肉と言うべきか、充分ある。それなのに一つの事を長く考えられない。
無理に考えようとしても思考は一向に纏まらず、すぐに風に撒き散らされる埃のように四散してしまう。
一箇所に留まって思い煩うよりも、行動したいのだ。気持ちは充分以上にあるのに、何をするべきかが解らず、溢れんばかりの感情を持て余す。
季夕が帰ってから何度目になるかも解らない心境に追いやられ、焦燥感に駆り立てられた。
冷静さと落ち着きは、暴虐無人な働きを見せ付ける焦燥と不安の前にあって、震える子羊でしかなく、生贄の裁断に捧げられる盲目の子山羊だった。
略奪されるのに身を任せた植民地に過ぎなかった。
「は・・・・ぁ・・・」
重々しい素振りで吐き出した溜息にさえ焦りが滲んでいる気さえする。
背中をソファに押し込むように深く密着させ、頭も預ける。
額に右手を置き、天井の中央で輝く明かりの輪から眼を細めつつ、板張りの天井を見上げてみた。
木造特有のくすんだ色彩を視界に広げながら、その実まったく見ていない。
ただボンヤリとしているだけに見える表情には、眉間の部分には内心で扱いきれない焦りが現れ、顰められた眉の付け根がピクピクと引きつっていた。
それも束の間、煩わしそうに前髪を掻き揚げ、そのまま髪を乱暴に掻き乱すと、辛気臭い表情を改めた。
このまま焦燥感に焼かれながら夜明けを待っていても仕方が無し、耐えられそうもないと判断するや、光琉は勢い良く立ち上がった。
無意味に時間を潰すよりは、どんなにくだらない事でもいいから何かをしていたいのだ。
何もせずに、心身に疲労を強いる焦りと不安、胸騒ぎ、悪い予感、嫌な考え、そうしたものが混沌の大釜の中で煮込まれ、混ぜ合わさったものから耐えるのは限界だ。
仮に朝が来るまでを耐え抜いたとしても、朝日を浴びる頃には頭髪が全部真っ白になっているに違いなかった。