第三章・表/13
三十分ほどの距離にある綾子の家に到着した頃には、すっかりと辺りは暗くなり、家々の窓から煌々とした光が漏れていた。
季夕が呼び鈴を鳴らす。インターホンを通して聞こえてきた声は、女性のものであった。
2、3言、季夕と会話を交えてから、足音が近づき、玄関の戸が開く。
「あら、季夕ちゃん、お久しぶりね」
人当たりの良さそうな中年の女性が笑みを浮かべながら季夕に挨拶を投げかけた。綾子の母親と思われる。
にこやかに季夕に話しかけていたが、ふと、見知らぬ少年である光琉を認め、
小首を傾げ、自分の娘が少年の背におぶさられているのに気付くと、更に不可解そうな表情をとった。
「え・・・綾子? これは・・・どういう事なのかしら?」
綾子が意識を保っていないのは一目瞭然である。
母親が先走って、自分の娘が事故にでもあったのかと変に勘繰って混乱する前に、季夕が先を制した。
「あ、その、これは・・・」
口を開いたは良いが、どう誤魔化すかを全く考えていなかった季夕は言葉を濁してばかりだった。
のらりくらりと言い淀み、必死の態で事象の説明を繕った。
「クラスの子等と一緒に遊園地に遊びに行ってきたんですけど、綾子、疲れたみたいで帰る途中で眠っちゃって・・・・」
我ながら、何といい加減な説明だろう、と、季夕は言った後で後悔した。
傍で聞いていた光琉も、思わず硬質的な苦笑に、頬肉を歪ませ、おいおい、それで通用するのかよ、と、呆れと困惑を織り交ぜた色に顔色を塗り潰された。
こんな言い訳、嘘だとばれても仕方が無いものである。2人とも、内心で冷や汗をかきながら、愛想笑いを無理やり顔に浮かべた。
他に適当な言い訳や納得できる説明が思いつかなかったのだから、今更、前言撤回する訳にもいかず、口にした以上は押し通すしかない。
無理を通せば道理が通るという言葉もある。
破天荒にも思え、茶番劇も同然の状況であったが、光琉と季夕の心情は一見した状況とは正反対に傾き、深刻で、真面目であった。
どのような説明など言っても、所詮嘘であり、単なる誤魔化しでしかない。
綾子にかけらている術、小矢の救出・・・そうした大事に比べるまでもなく、説明など区々たる事でしかない。
目前の小事などはさっさと片付け、後に控えている問題にこそ頭をフルに悩ませたいところであった。
「・・・・」
怪訝な顔をして、光琉と季夕を交互に見ていた綾子の母親だったが、それほどの間を置かずに微笑した。
季夕の言葉を信じたのだろう。まぁ、彼女にしてみれば、季夕の話を疑うような材料はないのだ。
真実を話し聞かせ、お宅の娘さんは“魔”の催眠術によって眠らされています、と口にしたところで、それこそ呆れられるに違いない。
頭、大丈夫? 良い病院を紹介しようか?と言われるのがオチであった。
「そう、全くしょうがないわね、綾子は。何時までたっても子供なんだから。
ごめんなさいね、わざわざおぶって帰ってきてもらって・・・」
温和な苦笑を浮かべ、光琉が背負っている自分の娘を受け取ると、光琉と季夕に向き直った。
「あ、そうだ。ちょうど夕飯だから、一緒に食べていく?」
「あ、いえ、お気遣いは嬉しいのですが、済ませてしまいましたので・・・」
「そう・・・残念。
また、遊びにいらっしゃいね、季夕ちゃん」
笑顔で言われた言葉に、季夕は返答に窮したようで、曖昧に受け流していた。
やがて、玄関の戸が閉められると、盛大に吐息を吐き出す。
後ろめたさに後ろ髪引かれながら、やや疲れた表情を見せる彼女の隣では、光琉は少し難しい顔をしていた。
人の良さそうな綾子の母親を見て、良心が痛んだのである。
彼は、綾子の心配などそれほどしていなかった。ハルファスとの戦闘中は、小矢の代わりに彼女が犠牲になっても良いとまで考えていた。
今は、小矢さえ無事なら、彼女がどうなろうと知った事か、と考えているのだ。
そうした考えが、彼の良心を針で突付き、罪悪感を呼び起こしたのである。
綾子は、光琉にとっては単なるクラスメイトの一人に過ぎず、その他大勢に区分される人間だが、彼女にも家族はいて、友人もいる。
彼女の親しい人間は、彼女の身に何かあれば、当然ながら悲しむだろうし、嘆くのだ。
綾子は生命の息吹の通わないマネキン人形ではなく、一人の生きた人間なのである。
当然、彼女には彼女の生活があって、彼女の周囲にも人の輪で築かれる世界がある。その事を痛感させられた思いであった。
だが、良心に痛みを覚えはしても、光琉は命がけで綾子を助けたいとは思わないのも事実であった。
出来る事であるなら、何とかしたい。綾子がこのまま永遠に眠り続け、目覚めの時を迎えないのであれば、季夕が悲しむだろうから。
しかし、まず第一に優先すべきは小矢の身の安全である。幼馴染を無事に取り戻してからの事であって、綾子の事柄は二の次でしかない。
大体、もし、小矢と綾子、どちらかしか救えないとなれば、光琉は迷わず小矢を選ぶだろう。
自分の両手がそれほど大きくも、長くも無い事を彼は知っていた。人一人の命すら、彼の手には余る。
二人揃って助けたいなどと欲張れば、結局二人とも失う結果になるやもしれぬのだ。
神でもなければ悪魔でもない。ましてや“魔”のように超常的な力の持ち主でもない。ただの人間に過ぎない。人の身で可能な事など高が知れている。
一つしかない命をかけて守りたいと願う相手も一人に絞るべきだろう。救いたい相手が二人は多すぎるのであった。
帰路につきながら、良心の呵責を覚える思考を頭の隅に追いやり、これからの事に目を向けた。
これから・・・・これから家に戻り、すぐにでも季夕と話し合わなければならない。
着物姿をした少女の話を信じ、彼女の手を取るか、それとも、一握の奇跡を期待して、自分たちの力で何とかするか、を。
街灯など数える程度にしか点在しない田舎道。
電球が切れ掛かり、光と闇が不定期に入れ替わり、道の奥まではとても見通せない。
夜の帳が何処までも棚引き、人気もなく、人影も無く、2人が歩いている道は2人しか見えない。
死に絶えたようなひっそりとした静けさに沈む光景は、まさに、自分たちのこれからを示唆しているように思われた。
感傷の心が未来に待ち受ける不安と、現在の悩みを直結的に結び付け、ただの道をそう見せているに過ぎないのだろうが、笑い飛ばす事も光琉にはできなかった。
問題が山積みになっている事に代わりは無いのだ。先の苦労を思いやるだけで、頭痛の種は尽きない。
此花家に戻ると、家の窓には電灯の光など点っておらず、暗がりの中、静まり返っていた。
玄関を開け、中に入る。玄関先には、外履きが一足も見当たらない。小矢は当然としても、どうやら瑠香はまた、帰宅してはいないようであった。
何時もの事といえど、心配と無縁でいられるようなものでもない。にしても、毎晩毎晩、何処で何をしているものやら、と、何やら子供に手を焼く親の気分になってくる。
聞いた所で、返答が返ってくるとは期待できないが、心配はしてしまうものであった。
これが、何時もと同じ状況であれば、明日、瑠香に帰りが遅い理由を聞いてみるか、と考えるのだろうが、今の状況では、そこまで考える余裕は光琉にはなかった。
早々に瑠香の事を頭の一隅に追いやってしまうと、居間の明かりをつけて、ソファに倒れこむようにして座る。
「はぁ・・・」
溜息を漏らしながら、光琉に続いて、季夕も彼の前のソファに腰を下ろした。
2人ともに疲労を感じている。肉体的な疲れではない。
昼間から夕方にかけて、ハルファスと綾子の監視・尾行から始めって、小矢をさらわれた、
今日一日の内の一連の出来事で、確かに疲れているが、それよりも、精神的な疲労感の方が大きかった。
精神が鑢(やすり)にかけられ痩せ細ってしまったかのように思え、頭の芯から妙に重く、気だるい。
このまま、頭の中から面倒な事はまとめて叩き出し、一切自分とは関係ないと決め付け、現実逃避を決め込む誘惑が目の前をちらつきもした。
小悪魔が耳元で囁く甘言を一蹴しながら、光琉は疲労している思考回路に鞭を入れる。
彼にしても、季夕にしても、口にすべき事は多々あり、討議しなければならない問題も多い筈なのだが、実際には、2人とも一言も発しようとはしていなかった。
言うべき事が見つからないのではなく、反対に、言う事がありすぎて、どれから手を付けてよいものやら悩んでいる状態なのである。
加え、彼ら自身の中でも、事象の整理がきちんと行われてもおらずに、大小の問題が漠然と脳裏に転がり、平野の広がりを見せていた。
話し出すよりも、まずは自分の中で整理を行う方が先であったのだ。
さて、まずは何から手を付けようか・・・と、光琉は内心で思案する。
元々、難しい事を長く考えているように、彼の頭はできていなかった筈であるが、ここ一月の内に、
思案する癖がついてしまったようで、考える事自体に嫌悪感は無いが、
今日一日の間に起こった様々な出来事によって受けた衝撃から、精神的な余裕を取り戻すには至っていない。
時間が欲しかった。心に落ち着きを取り戻すだけの時間、問題を整理する為の時間が。
嘘偽りの無い本音ではあるが、その時間が無いのも、作れないのも事実である。
グズグズしていても、状況はより悪くにしか転がらないのであった。
乱雑に散らかっている問題を思いやりだけで疲れてもくるが、手を出さずにいても、事態は進展しない。
これ以上問題が積み込まれる前に、片付けなければならないだろう。気が進まないが、とにかくも整理しない事には思考を進められそうにもなかった。
まず、光琉が思い出したのは、小矢の両親が既に逝去していると言ったハルファスの言葉であった。
父親が事故死しているのは知っていたが、母親までも死去しているとは聞いていない。
それも、殺された、と、ハルファスは言っていた。
ソファから重い腰を引き剥がし、光琉は廊下に出た。
玄関先にある電話台の上に置かれているメモ帳を捲る。
海外に在住していると聞かされている小矢の母親の連絡先を調べたが、メモ帳の最初から最後まで目を通しても発見する事は出来なかった。
母親の連絡先どころか、母親の名前一文字さえも見つけられずじまいであった。
「・・・・・」
険しい顔を見せる光琉の脳裏に、近所に住む小矢の祖母の事が思い出される。
彼女であれば、知っているかもしれない。電話をかけてみる価値もあるだろう。
だが、果たして、正面から聞いたとして、まともに答えてくれるかどうか甚だ疑問でもあった。
彼は此花家に住み込んでいるが、正式な家族ではないのだ。養子縁組で貰われてきたのではなく、あくまでも居候に過ぎない。
光琉は此花家の一員ではなく、水城の性を継いでいるのも、その所為である。
考える時間があったとしても長くは無く、光琉は受話器を上げた。
此花の性を名乗っていなくても、長年に渡り、小矢、瑠香姉妹とは家族同然に暮らしてきて、
その絆は血の絆と変わらないという思いもあったし、何より逡巡している時間が惜しかった。
例え、きちんとした返答が得られなくても、相手のリアクションから真実を知る手がかりなりが掴めれば幸いだと考えたのだ。
テルナンバーをプッシュする。
コールが十回以上スピーカーを通して聞こえ、一分以上待った末にようやく接続音に切り替わった。
『・・・はい、此花ですが』
「すいません、光琉です。
お聞きしたい事があって・・・」
向こうから聞こえてきた精彩を欠く声に、光琉は答えた。
老境に達している小矢の祖母に余計な心配はさせじとする気遣いから、こちらの状況は伝えず、光琉が知りたい事だけを単刀直入に伺う。
小矢の母親、蛍の連絡先を知りたいとも言わない。率直なまでに、蛍が真実、生きているかどうかを聞いた。
『・・・・・・』
相手からの反応は重い沈黙であった。
無論、充分予期しており、対策も考えていたが、言うべきか、言わざるべきか、光琉は暫し頭を悩ませた。
「・・・・“魔”と言われる存在も知っています。小矢の両親がそうしたモノを専門に扱うのを生業にしていた事も。
その上でお聞きしたいのです。小矢の母親、蛍さんが本当に生きているかどうかを」
これは賭けに等しいものである。
小矢の祖母が、万が一にも“魔”に関して全く無知であり、微塵も知らされていなければ、返答がより重い沈黙になるだけでなく、こちらの正気を疑われかねない。
賭けをしただけの価値はあったようで、受話器の向こうから重々しくも、年老いた声がゆっくりと響いてきた。
『そうでしたか・・・・
そこまで事態は急転していたのですね・・・・
あの娘からは、母親の事、どのように聞かされておりますでしょうか』
「小矢から直接聞かされた訳ではないのです。
間接的に、小矢の母親が既に亡くなっていると、聞かされて・・・それも“魔”の手にかかった、と。
・・・・・・・・・・・・・実際のところ、どうなのです?」
『・・・・その通りです』
短い答えを聞き、光琉は一瞬両目を閉ざした。
これで物事の一つがはっきりした、と、喜べる心境は一分子さえも見出せなかった。
心の動揺も誘われなかったが、やはり真実だったか、と、気分が暗くなる。
『“魔”を退治する以来を受け、出向いた国で父親は事故に合い、私の娘である蛍は“魔”によって・・・・』
「そうだったのですか・・・・」
短く答えた。そう言う以外に他に言葉が無かったように思われた。
やはり、小矢の母親は殺されていたのだ。“魔”によって。
小矢が時折見せた“魔”に対する執着と呼べるほどの殺意、敵意の類も、そこに端を発しているのだろう。
彼女らしくも無い憎しみの念は、要するに母親の敵討ちであった訳だ。
『・・・小矢の身に何が起こっているのですか?』
話し終えた祖母からの突然の質問は、光琉の呼吸を一瞬詰まらせた。
自分の知りたい事だけを聞いた後は、余計な事を聞かれる前に、早々と電話を切るつもりでいたのだ。
それが、色々と考えあぐねいている間に、受話器を置くタイミングを逃してしまった。
何とか誤魔化そうか、それとも、真実を話してしまった方が良いのか、頭を悩ませた。
余計な心配をかける事はしたくはなかったが、「何でもありません、ただ、確認したくて電話しました」などと言っても通用しそうにない。
「い、いえ・・別に・・・」
意識的にではなく、無意識から紡がれた言葉であった。
どもってしまう声は隠し通せるものではなかったし、小矢の実の家族にも真実を伏せておくのが後ろめたかった。
相手の反応を待つ間の沈黙が重く圧し掛かり、小さな針で肌を突付かれるような痛みを光琉は感じていた。
やがて、「そうですか・・・」と、受話器の向こうから短い返答があった時、彼は内心、胸を撫で下ろし、形式だけは整えて電話を切った。
恐らくは、小矢の祖母は何か勘付き、ただ事ではないと思っているに違いないが、詮索されなかったの好都合だった。
重々しい顔色を表情に漂わせながら、光琉は居間に戻り、ソファに座り直した。
耳を欹(そばだ)てていた季夕に、電話の内容を短く説明する。
聞き終えた後、彼女も光琉と同じように顔色を暗くさせ、重苦しい吐息を漏らす。
光琉と季夕が“魔”の存在を知る以前から、獣相手に危険を冒してきた小矢の動機は復讐であったわけだ。
彼らが知る共通の幼馴染にとっては、最も似つかわしくない言葉であっただろう。
光琉と対面する形で向き合うソファに座る季夕は、俯きがちに視線をカーペットの上に落としている。
彼女の考えている事が手に取るようだ、とは光琉は言わないまでも、自分と似たような思いに捕らわれているに違いないとは見ていた。
復讐が動機であるなら、小矢に対して、自分達の生活圏を脅かし、直接的な敵意を持ってくる化物だけを退けようとは言いにくい。
前々から、光琉が考えていた事ではあるが、そう口にしても、受け入れられる可能性が甚だ少なくなってしまった。
彼は、自分の家族、ないし、身内を誰かに殺められた経験などなく、
怒りと憎しみに燃える復讐者の心境を理解する事は不可能ではあったが、
仮に、小矢や季夕など、自分と親しい者達が獰猛な化物なり、錯乱した殺人者なりに殺されるような事態を想像してみれば、
復讐の炎に胸を焦がす人間の心理を、僅かばかりとは言え、理解できる気もした。
だが、今後の事は、何処までも今後でしかなく、まずは小矢をハルファスの手から助けるのを優先するべきであった。
幼馴染を助け出す算段を完全に固めた訳でも、助け出した後でも無いのに、救出してから後の事を悩むのはいささか性急過ぎるに違いなかった。
「・・・で、どうする?
さっきの女の子の親切を受け入れて、助けてもらうか?」
着物姿の少女に対し、光琉は“魔”という呼び名をあえて口にしなかった。
“魔”と言うのは、奇怪な化物や、おどろおどろしい怪物には相応しい呼び名であるが、先ほど会った少女を“魔”と呼ぶのは憚(はばか)れる気がしたのだ。
奇妙な点と言えば、古めかしい着物で着飾っていた事だけで、別に魑魅魍魎の類を連想させるような禍々しい外見を有している訳でもなかったのだ。
尤も、姿形が凶悪だから、性格まで凶暴であるとは限らず、
逆に、端麗な容姿を有している者が全て純真であるというのでもないのだから、見た目で相手の本質を断定する事なんてできはしないが。
外見の幼さに似合わず、香り立つような色気と美貌は確かに尋常ではなかった。少女の外見で特異な点はそれだけだ。
それに、外観云々以前に、光琉の個人的な意見としては、あの少女に疑いや敵意を持ち得ない。
初対面であるから、彼女の事をどれほど知っているかなど言わないが、何故か信用できそうな気はしたのだ。
そうした光琉の内心とは関係なく、季夕の表情は硬い。
少女からの申し出を受けるのも、断るのも、どちらとも付かず、中間で迷っているようである。
彼女も、考え悩む時間がそう多く残されていないのは解っているに違いないが、容易に結論は出せないでいた。
季夕はシェミハウルを信頼に近いものを持っていた。
人型の“魔”ハルファスに関わる一件、右も左も解らないような状況の中、
唯一の専門家であるシェミハウルを信用するのは自明に思え、従っていたのだが、彼女が信じた相手は、
幼馴染の命を顧みない狂信的な男で、一発の銃弾により、見事に信用は裏切られてしまったのだ。
苦すぎる経験である。こんな経験は二度は多すぎた。
自分達の力が及ばないからと言って、差し出された手に、ほいほいと飛び付く心境になれないのも至極自然だった。
シェミハウルが目の前で、“魔”と思しき男性をいきなり射殺した時には胸に蟠りを感じ、
彼のやり口を季夕は好ましいとは思えなかったのは確かだが、ハルファスの動向を見た後では、どちらもどっこいどっこいのようにも思えてくる。
協力者を平然と犠牲の羊にするような退魔の人間と、無関係の人間を巻き込んでおきながら、笑っていられる“魔”・・・
季夕にとって、どちらともに、信用する事などできなかった。
考え悩み、俯いている季夕を、光琉は静かに見ていた。
悩むのも当然だろう。それは彼も解る。が、彼女の表情を見る限り、別の理由があるような気もする。
今までに無い、勝気な幼馴染の弱い一面がちらちらと霞むように見て取れるようなのであった。
気のせいかとも思えたが、よくよく見つめていると、どうも、気のせいではないらしい。
「・・・・やめたい」
囁き声が、ポツリと、季夕の唇から滑り落ちた。
聞き損ねた光琉が眉間に皺を寄せ、訝しがる。
俯いていた彼女が顔を上げ、光琉に向き直る。幼馴染の瞳には常とする眩しいほどの光が消え、弱々しく翳っていた。
「もう・・・やだよ、こんなの・・・・やめたいよ・・・
・・・こわい・・・・・・」
何とか聞こえる程度の呟きは、光琉にとって意外でしかなかった。
まさか、彼女がこんな事を漏らすとは思いもしなかったのだ。
彼の知る御岳 季夕とは、常日頃から凛とした空気を纏い、活発で行動力に富んでいながらも聡明であり、大人びた落ち着きも有していた。
それでいて、何処か子供っぽさが抜け切れず、つい感情的にもなりがちで・・・だが、頼れる人間であった。
それがどうだろう。今や、彼女の彼女らしさを構成する主成分は飛沫となって散り、精神の骨格が剥き出しになっている。
膝を抱え込んでしまった姿は、毅然とした雰囲気など影も形も無くなって、最早、少女と言うより、母親の手からはぐれてしまった迷子の幼女と変わらなかった。
「もう・・・やだ・・・いやだよ・・・・」
泣き言を呟きながら、目尻を拭う。
頬を伝わり落ちる涙こそ流れていなかったが、目尻に大粒の涙は溜まっていた。
何時泣き崩れてもおかしくはない。
今朝、シェミハウルの元に出向く前に集まった時とは正反対の姿だった。
あの時の威勢も、小矢に対してさえぶつけられた感情の昂りも何処に消えたのか。
友人の綾子と幼馴染の小矢。彼女の周りで立て続けに起きた一連の出来事は、予想以上に季夕の精神を痛めつけていたようであった。
何より、彼女は、綾子と小矢、両者の近くに居て、現場に立ち会っていたにも関わらず、何一つ出来ずにいたのだ。
自分の手で友人と幼馴染を助ける事も、事態をもう少し好転させるのに役立つ事も。
足手まといにしかならなかった。そうした自らに対する無力感が、季夕の精神を弱体化させている理由の一つかもしれない。
毅然さと颯爽、二種類によって形成される支柱が崩壊してしまった少女は、どこにでもいる普通の少女よりも更に弱い存在でしかなかった。
或いは、これが彼女の本当の姿であって、普段から纏っていた凛としたものは、脆弱な心を守るための殻でしかなかったのか、とさえ思わせる。
無論、そうでないはずだ。幼い時から季夕を知る光琉は、大人び、何かと頼りになる姿も彼女だと信じている。
今、目の前で弱く膝を抱える彼女も、本質の一面だろう、と・・・
情緒不安定になって弱い素面を晒してしまうほど、今日は色々と起こり過ぎたのだ。仕方の無い事だ。
光琉も、出来るなら、今日から数日は余計な事を全て投げ出し、現実から逃避したい気分だったのだから。
可能なら、逃げ出している。だけど、光琉は自分自身でも良く解らない理由で理性を保ち、季夕に比べればまだ冷静さも残っていた。
「サヤの事も、さっきの女の子に任せて・・・私達はもう、手を引いちゃいけないの・・・?
そうしようよ・・・ねぇ・・・・私、もう・・・ヤダ・・・・」
涙を浮かべた目が、光琉を縋(すが)ってきた。
一瞬、どう接していいものかたじろぎ、彼は困惑を覚えてしまう。
ただ、脆い一面を見せている幼馴染の対応には窮していたが、彼の内心は殆ど固まっていたのだ。
確かに、あの、着物姿の少女に全てを任せるのも、考えていた事ではあった。危険は相応しい者に任せ、自分達は成果を待つ。楽には違いない。
しかし、着物姿の少女が小矢を無事に連れ戻してくれる、との保障は無いではないか。
何よりも、少女が言った事を信じるなら、彼女の目的は小矢がハルファスの手を経て、“呪い憑き”の元に渡るのを回避したいだけなのだ。
それを達成する為には、どのような手段を用いるのも構わない、とすれば、小矢の命の保障など、風に飛ばされる埃も同然だった。
少女の申し出は、熟考してみても、完全に親切心からではないのだろうか。
彼女に、光琉の幼馴染を無傷で助ける理由が無いのに、彼女は光琉に話を持ちかけてきたのだ。
自分の親しい人間を助けたいのなら、こちらの目的のついでに、手助けだけはしてやる。だが、お前達にその気がないのなら、こちらも勝手にやらせてもらう、と。
光琉に伸ばされた手は、語っていたのではないか。
そう考えを進めると、いよいよ他人任せなど当てにはできなくなる。
もう一つ、非理論的な理由も存在する。
今、ここで何もかも手放して、無関心を決め込むのを全力で反対する自分を実感できるのだ。
理性と言葉で上手く説明できないものは置くとしても、彼はまだ、気になっている点があり、それを放置はしたくなかった。
他の何者でもない、自分自身に関わる気がかりである。
何故、自分が“魔”特有である筈の“共鳴”現象を感じられるのか、それについて、未だ明確な回答も説明も聞かされてはいない。
小矢なら知っているかもしれないのだ。ここで気力を挫けさせて、無気力な傍観者となる訳にはいかなかった。
“魔”と、それらに関係する全ての事象から、手を切り、綺麗さっぱりとしたいのが最大の本心だが、光琉は今はまだ、そんな事はしない。
それが可能であっても、今すぐにこの世界から手を切る事はしないだろう。
少なくとも、小矢を連れ戻し、“共鳴”を含め、自分の胸に蟠る疑念を解決させての事だ。
理解の範疇を超えた世界とは手を切るにしても、今抱え込んでいる悩みにケリを付けてから後の事であった。
「辛いのなら、無理はしない方がいい。後は俺が考えて何とか頑張るから、季夕は待っていて構わない」
本心からの言葉であった。光琉の本音に違いなかったが、声には出されていない奥底で、或いはこれは好都合かもしれないとも、刹那、感じた。
これから先も、まだ、尋常ではない事態が待ち受けていると仮定しても・・・いや、この仮定は無意味だ。
影を操る異能を持つハルファスに拉致された小矢を連れ戻す為には、ハルファスの一派の中に飛び込むしかない。
この時点で、既に尋常などと呼べた代物ではないのだから。
今後、事態がどのように傾くかも、どんな場面に出くわすかも知れたものではない。そんな中に、情緒不安定な季夕を連れて行くのは躊躇われた。
彼女の身も心配であったが、冷静さを欠く人間と一緒に行動すれば、おのずと彼自身も危険に晒されるのである。
小矢を助け出すのが優先されるべきなのだから、彼女を助けに行った途中で、自分達が返り討ちにあったのでは目も当てられない。
このような状態になっている季夕を連れて行くより、自分一人の方がずっと動き易いに違いなかった。
そして、自分一人なら、どんな状況に追い込まれようが、思い詰めずに済む。傷付くのは自分だけ。他の人の心配をする必要もない。
これはいっそ、身軽ではないか。
「どうして・・・・」
光琉の言葉に、季夕は信じられないと訴えるような涙目で見上げてくる。
「ここで手を引く訳にもいかないだろう・・・
他人任せにして、小矢に万が一でもあれば、寝覚めが悪すぎるよ」
下手な台詞だ、と、光琉は自覚し、ささやかな苦笑を浮かべた。
彼個人の疑念も然る事ながら、小矢に対しては責任も感じているのだ。
大体、手を引くなら、もっと早くすべきだった。
そう、化け猫に襲われている小矢を助けた晩に、彼女を何とか説得し、こうした世界から手を切らせれば良かったのだ。
それが最善だった。
説得が出来ずに、逆にこちらの方が折れ、小矢のやっている事に手を貸す結果になってしまった。
それに対しては後悔は無いが、そこまで関わっておきながら、今更無かった事には出来ない。
光琉は、あの晩、幼馴染を説得できなかった責任を感じていた。
ハルファスにも、シェミハウルにも、二度と関わりたく無いのが本音だが、
せめて、“魔”に捕まっている小矢だけは自分の手で助ける事がケジメのように思えてならない。
「小矢が無事に帰ってきて欲しいからな。
何とかする・・・何とかするしかないよな・・・」
苦笑交じりの表情で、ポンポンと軽く季夕の肩を叩く。
何であれ、不安定な心境になっている彼女をこれ以上刺激するのは避けたかった。
じっと見上げてくる季夕。
涙を薄い膜のように張らせた瞳で、無言のまま見つめられ、光琉はある種の居心地の悪さを味わった。
普段の季夕であれば、何を胸中に蟠らせているのか、どんな事を思案しているのか、
少しは予測が立てられるところではあるが、今の精神状態が乱れている幼馴染の胸中は、
長年の付き合いからくる経験も勘も全く役に立たず、自分を見上げてくる瞳の裏で、如何なる思いを交錯させているか判断できなかった。
「必死だね・・・サヤだから・・・?」
小声で漏らされた言葉は、ちょっとした物音にも掻き消されてしまう程度のものでしかなく、光琉はうっかり聞き逃すところだった。
独り言のようにも思えたので、如何とも返答しがたい。質問の形を取った独り言かもしれないし、質問であったとしても、真意が掴みきれない。
幼馴染を見つめ返す表情を、何を言いたいのだろう、と、眉を寄せながら、口を閉じ合わせていた。
「私がさらわれていても、必死になってくれる・・・?」