第三章・表/11
空を見上げれば、赤味がかかり、黄昏が色濃くなってきている。辺りには夕闇が薄霧のように立ち込め始めていた。
それでも、完全に日が没するまでにはしばしの猶予がある。長くは無いだろうが。
太陽が地平の向こう側に完全に沈んで、世界が夜の領域に姿を変貌させるまでにどれくらいの時が残されているものか。
恐らくは、一時間もない。30分。それくらいがタイムリミットのように思える。
焦る。焦燥感が行動を促し、急かしてくる。
急げ、急げ、と。だが、何を急げばいいのか解らずにいた。
この状況を打開する為に、どのような行動を急げばいいのだろう。
運動神経を開放しろと急かす焦りを抑えるだけでも、結構な精神力を浪費させる。
ただ立っているだけなのに、疲労さえ感じてしまう。
そういえば、小矢はどうしただろうか、と、ふと、光琉の頭に浮かんだ。
霊符を張り終えるには充分過ぎる時間が経過している。加え、夕食前の時間帯で、
結構な騒ぎを起こしているのに、付近のマンションに住む住民が何事かと野次馬根性を出して公園の様子を見に来る気配もないのは、
結界が既に完成していると見るべきだろう。
となれば、結界を完成させた小矢は、そのままこの近くに潜んでいるのだろうか。
周囲を見渡しても彼女の姿は発見できなかった。やはり、物陰に隠れ、こちらの様子を見ているに違いない。
その方がいい。ここで彼女が飛び出してきても、状況を変化させる一石にはならないだろう。
何もできずに歯軋りする役者が一人増えるだけの事でしかなく、ハルファスを喜ばせるだけだ。
それよりは、そのまま隠れ潜み、状況の変化に応じて何らかのアクションに出てもらった方が都合がよいというものだ。
光琉が左右に向けて走らせていた視線を前へ戻す。
あまりキョロキョロするものではなかった。挙動不審な動きを見せれば見せるほど、ハルファスに伏兵の存在を勘付かれてしまう。
何もこちらから隠し玉の存在を相手に教える必要など何処にもないのだ。
小矢が何を考え、狙っているかは知らないが、彼女が動くのを待てばいい。それだけの事だ。
ハルファスが綾子から離れた隙を見計らって、小矢が何らかの動きに出る。こちらはそれに合わせる。
無事に綾子を救い出せれば、後は何の遠慮もなく敵を叩く。
時期の来訪と、小矢の動きを待てばいいだけの事。
光琉が自分自身を納得させた矢先、変化は訪れた。
だが、それは彼の考えていたものとは異なる形だった。
脳裏で聞き慣れた音律が木霊する。独特の音は聞き間違えるはずもないものだった。
頭の中で反響する音・・・耳鳴り。“共鳴”現象。
まさか、ここに至って新たな“魔”とは。
刹那の一時に最悪の考えが浮かぶ。
出現した“魔”はもしやハルファスの用意した増援ではないだろうか。
だとすれば、小矢一人が隠れていたところで何ほどの事ができよう。
こちらはハルファスの相手をするだけで手一杯というのに。
ええい、くそっ。現実は何時もこうだ。好転するより、悪転しやがるほうが容易い。決まって進む先は悪い方、悪い方へ、だ。
見た事も、また、信じてもいない神とやらにか、それとも、現実にか、この状況にか、光琉は内心で罵倒した。
だが、どうやら、光琉の想像は的を外れたようだった。
それを彼自身が感じたのは、ハルファスの顔を見た時だ。
ハルファスは相対するシェミハウルにではなく、無論、光琉や季夕にでもなく、あらぬ方角へ視線を投げていた。
上位の“魔”ともなれば、“共鳴”の精度も自分のものとは段違いだろうから、恐らくはその方角に新たに出てきた“魔”がいるのだろう。
と、ハルファスが視線を転じている理由は光琉でも容易に見当が付いたが、怪訝なものを誘ったのは彼の表情にあった。
眉を潜め、ハルファス自身が怪訝な色を顔に浮かばせている。
自分が用意した増援であるなら、このような表情にはならないはずだ。
となれば・・・今感じている耳鳴りの元はハルファスのシナリオに無い“魔”か。
彼にとっても完全にイレギュラーな出現なのだろうか。恐らくは・・・そうだ。いや、そうであってくれ。
光琉の願いを補強させる材料として、耳鳴りの音に変化がなかった。
こちらに近付いてくるような気配はない。かといって、遠ざかる気配も見られなかったが。
耳鳴りは高く、大きくならなければ、低く、小さくにも変化しないでいた。
その場から動くつもりもないようだ。たまたま通りかかっただけの“魔”だろうか。
ハルファスに“共鳴”して、相手の居所を知ろうと、その場に留まっているだけなのだろうか。
解らない・・・・が、新たに沸いて出た“魔”がハルファスの一派でないのなら、状況は悪転もしていなければ好転もしていない。現状維持。
少なくとも、悪い方へ流れるよりはずっとマシだ。
ハルファスの方へ探りを入れていると、やがて彼も動かない新手から興味を失ったらしく顔を前へと戻し、そこで視線がかちあった。
途端、左右色違いの瞳の男が浮かべた表情は、「ニヤッ」と擬音が付きそうなほどの笑いだった。薄ら笑いと言うより最早笑顔だ。
ただし、ブラウン管を通して見かける俳優などが良くやる営業スマイルではなく、神経を逆撫でしてくる負の笑い方だった。
解っているぞ、お前も感じたのだろ、今の“共鳴”を。そんな風に、言葉ではなく青と黒の瞳が話しかけてくる。
嫌な気分を味わわされて、堪らずに鋭く睨み返してやったが、どれほどでもなかった。
ハルファスは光琉の鋭利な視線を軽く受け流すと、声を噛み殺して「ククク」と低く笑うだけだった。
「ねぇ・・・これってなに・・・?
なにがあったの・・・?」
さっきから欠片ほどの事情も飲み込めていない綾子が、オロオロと右へ左へ目を向けた挙句、殆どハルファスにすがるような声を出した。
ニコリと口元を綻ばしたハルファス。その笑みに悪質なものは微塵も見られず、人の良い保育園の先生さえ髣髴とさせ、大した役者と言えた。
何処かで見た覚えがある笑い方は光琉の首を傾がせた。
「大丈夫さ。心配ない。君が気にする事は何も無い」
穏やかな口調。泣いている赤子でさえ、この声を聞けば、もしかしたら泣き止むかもしれない。
綾子の顔からも次第に困惑の色が薄くなり、表情が弛緩していくのが解った。だが、変化は如実に過ぎた。
あまりにも緊張が無くなっていく。緊張だけでなく、綾子の瞳からは理性の光が失われ、ボンヤリとした視線を放り出す。
ソレと解るほどの様子がおかしいのは一目瞭然だった。
友人の変化に逸早く反応した季夕が飛び出しかけたが、未然に終わる。
彼女が動くより先に、ハルファスが指を一つ鳴らし、綾子の体が糸の切れたマリオネットさながらに崩れたのだ。
「・・・人間の意識は存外に脆い。得に、自分に理解できない場面に直面するとな。
少し優しい言葉と穏やかな態度で応じてやれば・・・ご覧のとおり、簡単なものだ」
意識を失った綾子を抱きかかえながら、含み笑い一つ口の中に押し込む。
洗脳か、暗示か。それにしても見事なものだった。如何に相手が動揺し、心乱している状態であるとはいえ、口先三寸の台詞だけで丸め込むとは。
光琉が気付かなかっただけで、“魔”の力が作用しているのかもしれないが。
だが、こうなっては益々迂闊な真似はできなくなった。
隠れ潜んでいる小矢が何らかのアクションに出てくれるものとしても、綾子をハルファスから引き離すのは難しい。
小矢の行動と合わせて綾子をこちらに引っ張る算段も、綾子の意識があってこそだ。
自分で歩く事はおろか、立つ事もできない人間は思いの他重く、人一人の力でそうそう持ち運べるものではない。
加え、ハルファスの催眠暗示によって眠り込んだ綾子は、まるで人形のように彼の胸にもたれかかっている。
こうまで2人が密着していると、引き剥がすのは更に困難だった。
「・・・さて、部外者はとりあえず眠らせておいた。
これでそっちは軽々しくオイタできないだろう?」
勝ち誇った笑みがハルファスの彫りの深い顔に浮かぶ。
その言葉どおり、今この場のゲームのマスターは彼であり、口惜しい限りだが光琉たちは彼のルールに従って動くプレイヤーでしかなかった。
もたれかかる綾子の細首にゆるりと指先を這わせながら、一通り対峙する相手の表情を眺め回す。
シェミハウルはこの場の状況を理解しつつも、屹然とした表情を誇示している。流石はプロと言うべきだろう。
自分に不利な状況下であれ、それを表面に出す事はしないでいる。
季夕は彼とは正反対に、焦りと怒りの混在する感情をまざまざと顔に浮き上がらせていた。
今すぐにでも飛び出したい一心で、それが出来ないでいるのは友人が生死は相手に握られているからだが、我慢もそろそろ限界だろう。
チャンスになりえないチャンスであっても、すぐさま飛び付いて行動するか、気が気でもなかった。
その意味で、シェミハウルは不用意な行動は取らないといえるが、それもどうだか。
睨み合いが時間の果てまでも続くと思わせる状況下では、安全に、そして確実にゲームを進める保証は無い。
何よりも、彼は専門家だ。非現実の専門家。化物専門の殺し屋。
時と場合によっては、綾子の命など天秤にかける事さえせずに、自分の任務をこそ遂行するかもしれない。
そうはならないと断言できる保障もなく、専門家が“魔”の排除を優先させた時、どうやって彼を止めればいいのだろうか。
そもそも光琉自身が、膠着した状況に飽きていた。どのような変化であれ、変化が訪れるのであれば望ましい・・・
と、考えた自分の心を、慌てて押し殺す。
自分に縁も関わりも薄い人間に対してここまで冷血漢だとはな、と、自分自身を嘲笑して、苦笑した。
驚きもあったが、綾子を切り捨てても今の状況が変化するのを望む心は本心だと感じていた。
「おっと、下手に動くなよ。
友人がこのまま永遠に眠り羽目になるぞ?」
摺り足でたった半歩踏み出した季夕に脅しをかける。
細首を撫でる指先に僅かな力が入り、爪が肌に食い込んだ。
クッと忌々しげに唇を噛み締める季夕だったが、ハルファスは依然としてそんな彼女の素直すぎる感情表現を面白がっているのか、薄ら笑みを浮かべたままだった。
彼の言葉に嘘偽りはないのだろう。有言実行。
こちらが下手な行動に出れば、手をかける綾子の首を顔色一つ変えずに圧し折るに違いない。
いままでのハルファスの言動と顔と、目を見れば、この男が人間一人殺すのに良心の呵責など砂粒ほどにも持ち合わせていないのが容易く理解できるというものだ。
それを理解して、季夕も半歩踏み込んだ足を引き戻した。行動に制限がなければ、その場で地団駄を踏んでいるだろう。
打開する方法は。ハルファスのルールを破壊して、ゲームの進行方向を変更させる手は。
残念ながら、光琉には何も考え付かなかった。忍耐心も切れかかり、行動力を持て余す身体がウズウズしてきているだけだ。
頭脳労働が専門でない彼に、現在の状況を打破する巧い策など練る事は不可能に近い。
こうしている間にも、世界は夜の時間へと雪崩れ込むように滑り落ちている。刻一刻と夕闇は色を濃くし、太陽は着々とベッドに潜り込んでいた。
「・・・・・何の目的があってこんな島国にまでわざわざ足を運んできた?」
唐突にシェミハウルが切り出した。
痺れを切らしたわけでもないだろうが、ただ突っ立ったままで無為に時間を浪費させる事もないだろうと考えたのかもしれない。
話を振られたハルファスが逡巡する間もなく、ニヤリと笑う。
「ハンッ。もう俺のお目当ての目星はついているだろう、Ascalon(アスカロン)”の騎士様よ」
「・・・・・・“呪い憑き”か」
「ビンゴ。大当たり。流石はシェミハウル様だ。
俺の欲しいモノはまさにソレ。ソイツを手に入れる為に、わ〜ざわざ、こんな異国の果てまで出向いたのさ。
尤も・・・・当の本人は渋い返事ばかりで、快く迎えてはくれていないがな」
「当然だ。アレの弱みはこちらが握っているのだからな。
貴様等の方に傾けば、自分の生命線を自分で消す事になる。
そんな馬鹿な真似はできんよ、アレには・・・」
「そうなんだよな〜。馬鹿げた事だが、アイツは自分の足枷をこそ大事にしてやがる。それこそ、自分の命よりも。
理解できないし、理解したいとも思わないが、アイツには重要なんだろうさ。
まぁ、こっちも無能じゃないんで、余りにも渋い顔を崩さないアレに関わる事を色々調べ上げてみた。
そしたらどうだ。面白い事が出てくるじゃないか。色々とな」
「・・・・・ほう。どこまで知った?」
「ヒミツ。
・・・・・だが、まぁ、大体さ」
ほくそ笑むハルファスの笑みを見ても、シェミハウルは無機質なまでの冷徹な表情を崩さなかった。
内心ではどう思っているか知れないが表面は鉄壁の守りを敷いている。
そんな彼の反応に、ハルファスは声を押し殺して低く笑う。
光琉たちを余所に行われた会話だが、傍で聞いていて一割も理解できずにいた。
アレとかソレとか、解る人間には解るのだろうが、光琉には理解できない。
どうやら、2人の会話の中心となったのが、アイツと出された言葉から人物らしいと思ったくらいだ。
後は、“呪い憑き”と言う単語くらいのものだった。
「・・・・・引き入れてどうするつもりだ?」
「世界征服」
あまりに壮大な事を、あまりに呆気なく答えたので、聞いていたシェミハウルと光琉が、鳩が豆鉄砲を食らった顔になっていた。
一瞬、自分の耳がおかしくなったのではないかとさえ思いながら、光琉は呆けた顔を続けていたが、隣のシェミハウルは既に表情を改めている。
それぞれの反応を眺めやりながら、ハルファスが口の中に笑い声を転がした。
「ククク・・・冗談だよ、冗談。
しかし、そう素直な反応をされると嬉しいねぇ。
だがよ、信じるかね、普通。そんな馬鹿げた話を」
あからさまに相手を馬鹿にしている態度だったが、面を向かい合わせているシェミハウルは、やはり、表立っての怒りなどは爪の先ほどにも垣間見せなかった。
あくまで淡々と、感情を包み隠し、冷ややかな眼差しを嘲笑の色濃い金銀妖瞳(ヘテロクロミア)に突き刺していた。
「・・・で?
実際には何が目的だ?」
「さてね。これ以上言う必要もないだろう。
知りたければ、そっちも自分で調べてくれ」
手の内全部を晒す事はしない、というわけだ。
だが、それにしても喋りすぎな間も否めなかったが、リップサービスかもしれず、元々ハルファスが饒舌なのかもしれない。
剃刀のような薄く鋭い眼光を放つ目線を抑えるようにして、シェミハウルが瞳を細める。
「ふむ・・・」と呟き、更に薄く研磨された視線の刃でハルファスの顔を斜めに切り裂いていく。
考え込む素振りを見せながら視線を徐々に下へと下げていく。そこから先のシェミハウルの行動は驚きを呼ぶのに充分だった。
彼の視線が再び上へ跳ね上がり、対峙する“魔”に固定された瞬間、爆竹の音に重みを加えた破裂音が炸裂した。
光琉の視界の端でフラッシュが焚かれたと感じた次の瞬間には、新たな炸裂音が耳につく。
何が起こったか、一瞬では到底理解できるものではなかった。
ハルファスが座っているベンチの背もたれの一部が破壊され、木片が地面を打った。
だが、当のハルファス本人は座っていた元の位置から殆ど動いた気配はなかった。
何があったのか、と、自問する光琉の隣では、シェミハウルが水平にピンと伸ばした腕に銃を握っていた。
銃口からは微かな硝煙がたちあがっている。
最初に見えたフラッシュは発砲のマズルフラッシュ。
破壊され、地面に転がるベンチの一部は銃弾を浴びたからのようだが・・・
それにしても、シェミハウルが何時、拳銃を抜いたのか定かではなかった。
居合い抜きの達人の技は、抜いた刀の切っ先が見えないほど速いらしいが、まさにそれであった。
シェミハウルが懐から銃を抜く一切の動作が光琉には見えなかった。そこだけが切り落とされたフィルムのように。
しかし、まさか発砲してわざと標的を外したわけではあるまい。シェミハウルの“魔”に対する敵意と容赦の無さを考えれば、それはまずありえない。
となれば、ハルファスが撃ち出された銃弾を避けた、となるのだが・・・・
この場合、どちらの技量に驚愕すべきか、容易に判断できず、光琉の精神は一時麻痺に陥った。
紫電の動きで銃を抜き、トリガーを引いたシェミハウルか、それに合わせて銃弾のラインから僅かに身をずらして避けたハルファスか。
どちらも化物同士だ。常人の入り込む余地などない。
「・・・危ねぇな。眠っているお嬢さんに当たったらどうするつもりだよ」
人を小馬鹿にする喜色たっぷりの嘲弄の口調から一転、あわや銃弾の餌食になりかけたハルファスが冷たく真摯な声を押し出した。
銃を構えたままのシェミハウルは冷然なまでの無表情で完全に黙殺する。
「ちょ・・・ちょっと!
綾子がいるのに危険な事しないで!!」
ハルファスの一言は、シェミハウルには何らの感銘も与えていなかったが、季夕の意識を現実に立ち戻らせた。
敵一人を撃ち抜くならいいが、弾丸が僅かにでも逸れれば敵の、ではなく、綾子の胸板を撃ち抜く可能性もあったのだ。
一か八かの賭けに出るには危険が大きすぎる。彼女としては、動くのは友人の身柄を確保してからにして欲しいと願うのも当然だった。
「これ以上時間をかける訳にはいきません。
夜になれば、それこそ仕留める手段を失う。一秒ごとに不利な状況に落とされていくのはこちらです」
血の気の引いた顔でしがみついてくる季夕を、野良犬か何かをあしらうように冷然と払い除ける。
倒れかけた幼馴染を慌てて支えながら光琉は一時的に手を握っている協力者を睨んだが、針先ほどの痛みすら与えることはできなかった。
銃を握った右手を突き出し、銃口をハルファスに向けて固定し、機械さながらの目を標的に放っている。トリガーにかけられた指は震え一つ起こさない。
突然、攻撃態勢に入ったシェミハウルの行動がハルファスとの会話に誘発されたものであるのかは定かでないが、
一旦任務に戦闘に入った以上、余計な私情は挟まないという訳か。
怒りが沸々と沸き上がってくる。自分でも形容しがたい感情。
綾子の安全を無視した事に対してか、季夕を突き飛ばした事に対してか、光琉の中で反意が揺さぶられた。
「仕事熱心は結構な事だがな。
“Ascalon(アスカロン)”の騎士様が一般市民の犠牲に頓着しないようでは、俺より先に協力しているそいつ等が歯軋りしだすぞ。
もう少し、仲間を思いやってはどうだ?」
笑声を含ませたハルファスの言葉が言い終わった瞬間、事態は急変した。
彼の背後の茂みが動き、獲物に襲いかかる豹を思わせるしなやかな影が飛びかかってきたのだ。
小矢だった。ベンチをハードル競技のように跨ぎ、ハルファスに霊符を握った拳ごとぶつけるや否や、綾子を光琉たちの方へ突き飛ばす。
余りにも一瞬の出来事で、ハルファスは顔面に驚きの表情を浮かべる以外に何の対応もできず、綾子を腕の中から放してしまった。
次の瞬間、ハルファスの肩が燃えた。霊符が“魔”に反応したのだ。
「・・つぅ!」
ハルファスが口の中に苦悶を押し込める。だが、一瞬、苦悶を噛み殺す顔には確かな微笑が浮かんでいたように光琉には見えた。
相手の体勢が崩れた刹那を、絶好のチャンスと見たかシェミハウルの銃が吼える。
腹の底に響く銃声が轟き、銃口から迸るマズルフラッシュが濃くなった夕闇を白々と散らす。
「季夕!!」
こちらに向かって押された友人を、小矢の叫びに応じて季夕が抱き止める。
彼女たちの連携は殆ど無意識のなせる技だった。
この期の到来を待って即応体勢を取っていた筈の光琉は、有事の際が訪れても咄嗟に反応できず、対応が遅れたにも関わらずなのだから。
引き絞られたトリガーに呼応してバレルから撃ち出された灼熱の鉛弾は正確無比に敵の胸を貫く・・・はずであった。本来ならば。
血が飛び散る。火が舞った。肉が破砕される嫌な音が夜の闇と太陽の残照を残す狭間の空間に響く。
しかし、心臓を破壊したにしては、明らかに飛び散る出血は少ないものであった。
発砲に前後し、霊符に左肩を焼かれ、衝撃でそのままの方向へ流されるものとばかりに思っていたハルファスがグンっと前へ踏み出したのだ。
標的が動いた事により着弾点は逸れ、銃弾は致命傷には至らず、燃え盛る左肩を破砕しただけに過ぎなかった。
銃弾の直撃によって左肩が拳大に陥没したハルファスの動きは止まらない。衰えもしない。
傷付いた左腕を庇いもせず、を思い切り伸ばし、綾子に続いてこちらに転がろうとする小矢の首根を掴んで引きずり寄せる。
「あぐぅっ」
今一歩のところで逃げ損ねた小矢が気管を締め付けられて呻く。
改めて標準を合わせ、第二射の体勢を整えたシェミハウルだったが、既に遅かった。
綾子の代わりに小矢が捕まり、今度は銃弾の盾として使えるよう、完全に彼女の後ろにハルファスの体は隠れてしまっている。
「ちっ」
舌打ちを鳴らし、トリガーを引く指にストップをかける。
標準と銃口はそのまま。指先だけが速射の位置で急停止した。
「小矢!」
季夕の叫び声と光琉の声が重なる。
呼びかけた幼馴染の肩越しから、憎たらしいほどに歪んだ笑みを浮かばせる“魔”の半顔が垣間見えた。
コレでは何も変わっていない。状況に全く変化は無いではないか。
確かに綾子の身はこちらが確保したが、彼女の代わりに小矢が相手の手に落ちた。
膠着状態続行。振り出しに戻る。
いや、光琉にとって、捕らえられているのが気心の知れない単なるクラスメイトではなく、馴染み深い人間であるだけにより悪い。
くそ、くそ、くそっ。
何かに対する罵倒が呪詛のように胸中で叫ばれた。
一瞬、こんな状況になるのなら、シェミハウルが綾子の存在を無視して銃を構えた時、当てれば良かったのだ。綾子ごとハルファスに。
と、した思いが過ぎり、その考えを冷酷に過ぎるとも思えたが、歯軋り交じりの一念を抑える事もできずにいる。
「ククククク・・・」
思い切り小気味よく噛み砕かれた笑い声が、少女の肩越しから反面を覗かせるハルファスの歯の隙間から流れ出す。
左肩の肉が細切れとなって飛び、ポッカリと肩に穴を空けながらもソイツは笑っていた。
幽鬼というには存在感がありすぎて、悪霊と言うにはいささか陽気な鬼が、さも嬉しげな笑声を響かせていた。
「やぁ〜っと手に入ったぜ、此花の末娘。
自宅にはイヤに忌々しい結果が施されてあって手が出せず手間をかけさせてくれたが、待った甲斐があった」
手中でもがく小矢を容易く押さえつけ、細首に指を食い込ませて声を封じる。
それを見る光琉の意識が白色化しかけた。
抑え切れない激情が体を突き動かし、怒声を張り上げて殴りかかろうとするも、ハルファスの一言が冷や水となって浴びせかけられた。
「動くとこの女の腕を引き千切る」
余りに淡々としており、冷ややかであって、それが逆に真実味たっぷりだった。
後ろ手にさせた少女の腕を捻り、小矢の口から苦悶の声があがると、光琉としては呻き声を飲み下して立ち止まるしかなかった。
「く・・そ・・・・」
酸味の利いた唾が口の中一杯に広がり、やたらと胸をむかつかせた。
度を過ぎる歯軋りで唇を切って血が流れ込んだのかもしれない。
「抜け目の無い“ガンナー”のこった、日本に、そしてこの町に来たからには、まず此花の協力を取り付けようとするだろう・・・
と、考えていた俺の予測は見事に的中していたわけだ」
哄笑を貼り付けるハルファスの視線が動き、銃を構えたままで動かないシェミハウルを捉えた。
自分が優位な立場にいるのを自覚し、敗者に向ける笑みが顔面に広がる。
「撃てるか? 撃てまい。“ガンナー”シェミハウルさんよ。
この女は今はまだこの国の組織に属していないフリーの人間に過ぎないが、やがて“禍狩(まがり)”の人間となる・・・
殺されたこの女の両親の後釜としてな。
“Ascalon(アスカロン)”としても、流石に公然と“禍狩(まがり)”の一員を殺す訳にもいくまい・・・
組織の人間としては拙すぎるものなぁ・・・」
ネットリと絡みつく嘲笑の響きを声音に乗せて吐き出し、ハルファスは低く笑った。
口惜しさにシェミハウルは唇を噛み締めたりはしなかったが、細められた眼が何よりも苛立ちを表している。
が、相手の言葉に動揺を誘われたのは彼ではなかった。憤慨に歯軋りを交えながら立ち尽くしていた光琉と季夕の2人である。
ハルファスの顔に眉を潜めた視線を送る光琉。唖然・・・というより、思考回路が混乱して動揺がもろに顔に出ている。
病魔を孕む風が胸に開いた隙間から流れ込んできたかのようだ。胸中に吹く一陣の湿った風が病毒を伴う。風は精神に吹き荒れて、思考を掻き乱す。
何・・・今、何と言った・・・
数秒の時間を要して相手が口にした台詞を心の中で反芻する。が、理解するには時間が足らなかった。
呼吸を落ち着かせて、ゆっくりと思い出してみる。
・・・殺された。殺されたと言ったか、今。両親が? 小矢の両親が?
知らない。そんな事は知らない。小矢の母親は、今も海外在住なだけで健在なのではないか。
ゆっくりと鼓膜から入り、流れ落ちた毒が脳髄に広がる。
ハルファスと・・・小矢の顔を交互に見渡し、そこで、ニヤついた笑みと、悲痛な眼差しを見取ったが胸中に暗雲のように巣食う黒い蟠りは晴れなかった。
疑念、疑惑、困惑、混乱・・・そんなものを吹き飛ばすカチリ・・・と小さな音が耳につく。
隣にいるシェミハウルが無表情に銃の撃鉄を起こしたのだ。
照準は寸分狂はず、小矢の身体を隔てたシェミハウルの心臓に固定されていた。
「・・・・ギルドから追放され、野に下っても、貴様だけは殺す」
機械的な無表情の中に、凍て付いた激情を込めて呟かれた言葉が言われるのと、トリガーが絞られるのは同時だった。
光琉が止める暇もない。腹に響く炸裂音が迸り、再度銃口から噴いたマズルフラッシュが一段と濃くなった闇を焼いた。
殆ど何の予備動作も無い射撃。目で追う事などできない銃弾が自分の幼馴染の心臓を撃ち抜く。
血塗れの肉と、夥しいまでの流血のヴィジョンが光琉の脳裏を一杯に埋め尽くした。
が、刹那、現実から逃避するように眼を頑なに閉じた光琉の耳に、予想されたあの肉を抉る独特の音は響いてこなかった。
代わりに、木片を破壊する乾いた破壊音が津波となって鼓膜を振るわせる。
一瞬遅れて顔と目線を向けた先にあるべきものは見えず、撃ち砕かれたベンチの一部がガラガラと音を立てて地に落ちた。
なにが・・・あった・・・?
自問の言葉を自分の目に訴える。
視界からは、ハルファスと小矢の姿が忽然と消えていた。影も形もなく、完全に。
狐に化かされた思いだ。今まで見え、其処に居たものが無くなっている。まるで朝霧が日光に照らされて蒸発したかのように。
周囲を見渡しても、2人、あるいはどちらか一人の姿を捉える事はできなかった。
完全に理解の範疇外だ。姿を隠す時間などなかった。眼を離したのはほんの僅かな瞬間に過ぎない。2秒もなかったはず・・・
なのに、2人の姿が何処にも見当たらない。性質の悪い白昼夢を見せられている気分だった。
「今回はコレでお終いだ。目的の品は手に入った。
肩をやられたのは手痛い代償だったが、代価を払わずに商品を受け取る事はできないからな、支払っておくぜ、シェミハウルさんよぉ。
・・・・だが、やられっぱなしってのは性に合わねぇ。釣りを支払ってやる!」
高らかと哄笑だけが何処からともなく響き渡る。されど辺りに視線を走らせても、発言者の姿を見つける事はできなかった。
何処から聞こえてくるのか、得々とした口調の響きだけが耳に木霊する。
周囲に視線を巡らせる光琉と季夕に対して、シェミハウルは空間ではなく大地の方に目線を落としていた。
公園の敷地すべての地面に鋭く注意深い眼を走らせ、何かを探している。
紫電のように視線が疾駆して、一箇所を補足する。
眼の動きと腕の動きが直結し、眼が凝視している場所へと滑らかに銃口が向けられ、トリガーが引き絞られる。
銃火が闇に牙を立てるように咆哮した。飛び出した鉛弾が何も無い空間に炸裂した。
いや、何も無い訳ではなかった。轟く銃声の雄叫びを聞いて反射的にそちらへ振り返った光琉の眼が、一つの異常を視界に入れていた。
黒いものが地面に落ちていた。物ではないのかもしれない。
厚さなど一ミリも見えないソレは、人型に切り抜いた漆黒の布のように思われ・・・。
―――――影。
影が落ちていた。
所有者のいない影だけが地面に張り付いて・・・いや、シェミハウルに向かって地面を這っていた。
まるで虫かアメーバ・・・・。
悪夢を彷徨う人間に襲い掛かる夢魔の影、恐るべき速度で増殖と分裂を繰り返す黒いアメーバのように蠢いている。
シェミハウルの放った銃弾は狂いなくその影に吸い込まれた。
しかし、銃弾は地面に穴を穿ちつけただけだった。
敷き広げられた黒い布を思わせる影は、急襲してきた鉛の矢を難なく通過させ、黒いカーテンはその一部さえ裂かれる事はなかった。
当然だ。影なのだ。物体ではない、ただの影。影にナイフで切りつけたところで、切り裂けるものでも、突き刺せるものでもない。
ナイフが拳銃に変わったところで結果は同じであり、人体に対して高い殺傷力を持った銃弾だろうが、影を破壊する事は不可能なのだ。
「無駄無駄。弾の浪費だぜ、シェミハウル。
お前は自分の影を破り裂けるか? できんだろう。それと一緒さ。
影にどんな攻撃をしところで、傷一つ付ける事はできるわけねぇだろうが。
今まで数度の戦いでそれを知らないお前じゃあるまい。少しは学習しろよ」
クックック・・・と、神経を逆撫でしてくる笑い声が嘲弄の言葉を締め括った。
一区切り置いた言葉の後に、じゃあな、と続けられた。
手も足も、文句を言うための声もできず、指を咥えて悔しがるしかない光琉たち・・・ひいてはシェミハウルに、影の中から響くハルファスの声は告げたのだ。
これも相手を効果的に馬鹿にする為だろうか、影からニョッキリと腕が伸び、彼らに向かってバイバイと手を振ってくる。
それをシェミハウルが逃すはずが当然なかった。
主人を持たない影から生身の腕が突き出ると、瞬時に腕を伸ばし、黒光りする銃口を定めた。
遠めではっきりと解らなかったが、光琉には影から突き出る腕に見覚えがある気がした。
その判断も付かない内に、シェミハウルがトリガーを絞る。
火薬の破裂音を響かせながら、銃口から飢えた獣の如く飛び出した弾丸は、黒い空間に引き戻されようとしていた生身の腕を捉えた。
「!?」
直後に見た光景と、聴覚から聞こえた音は光琉を戦慄させた。
銃弾が直撃するや否や、黒い切絵の影から血が上がったのである。飛び散った鮮血は肉体から出たものとしか思えなかった。
そして、何より、流血に続いて響いた悲鳴が彼の脳髄に氷雪を吹雪かせた。
腕が内側に引き戻され、その周囲に鮮血の飛沫が舞う。影自体が出血しているようにも思える光景。それに続く悲鳴。
出血する奇怪な影自身が叫んだ悲鳴は、彼にとって、身近過ぎるほどに聞き慣れた声音であった。
無論、男・・・ひいてはハルファスの声ではない。夜に傾斜を深めた夕闇まさに絹のように引き裂いた女の声帯から押し出た悲鳴。
「小矢!!?」
殆ど無意識に出た叫びだった。
突如として視界から敵と一緒に姿を消した幼馴染の声が厚さも重みもないような、薄っぺらな、としか表現できない影から聞こえたのだ。
混乱と動揺が頭の中で二重奏を響かせ、五月蝿いくらいの不協和音がまともな思考力を奪い去っていたが、
雷鳴を伴う暗雲が胸中に忍び込んだ悪性ウィルスのように広がっていく。
まさか・・・そんな・・・まさか。
理性が暗雲から忍び寄る触手を払いのけようとするも、無駄だった。
あっさりと光琉の精神を絡め取った魔手は、精神的な余裕を完全に握り潰しただけでなく、暖かい血液を冷却させる効果も持っているようだった。
肌寒い悪寒が全身を丹念に愛撫し、薄気味の悪い感覚に鳥肌立つ。
男のものにしてはやけに細く、色も白く見えた腕は、ハルファス自身のものではなく、やはり、捕らえられている小矢のものだったのか。
「やたらと発砲するなよ、シェミハウル!
自分の手で人質を殺すつもりかぁ!?」
嘲り笑う叫びに、シェミハウルは刹那の躊躇を垣間見せた。
第二射の為、トリガーに添えられる指に躊躇いを走らせたのは一秒の半瞬ほどの時間だったが、襲い来る影には充分な時間だったようだ。
シェミハウル自身の影と、地を這う影が交差した一瞬、所有者のいない影から生身の腕が地面から生えたように飛び出し、シェミハウルの足を切り裂く。
「ぐぅ・・っ!」
影から突き生えたハルファスの腕が爪を閃かせ、シェミハウルの左足にどれほどの傷を与えたのか定かではないが、
出血の量から察するに、それほど深くはないようだった。
だが、射撃の体勢を崩すのに不足なく、小さな苦悶の呻きを噛み殺してシェミハウルはよろけた。
無様に転ぶ姿こそ見せなかったもの、片手に土をつけて間一髪横転を防いだ格好からでは例え撃ったとしてもまともに弾が飛ぶはずもなかった。
「足を切り落とすにはちょっと腕の捻りが足りなかったか。・・・まぁ、いい。
テイクアウトでこのままこの女は持ち帰らせてもらうぜぇ。じゃぁな、シェミハウル!」
嘲弄の声だけを響かせ、影は体勢を崩したシェミハウルに追撃もかけずにその横を通り過ぎていく。
自分の存在を軽んじられて逆上したわけではないだろうが、シェミハウルの銃口が黒い動きを追った。
「逃がさんぞ、ハルファス!!」
沈着冷静だったシェミハウルの仮面から怒号が迸る。速やかに指がトリガーを絞られ・・・
「ダメェ!!!」
逃げ去っていく影に向けられた銃のトリガーを引き絞られる寸前、横合いから飛び出してきた季夕がシェミハウルの動きを邪魔した。
殆ど体ごと相手にぶつかり、シェミハウルの射撃を阻む。
「何を・・!?
グズグズしている暇は無いのです! 今、ここでヤツを逃がせば・・・っ。
どきなさい! 邪魔です!!」
「小矢に当たる!! 撃たないで!!!」
「くっ!」
最初こそ丁寧な言葉遣いで季夕の説得を試みていたシェミハウルだったが、相手が聞く耳持たないとわかると、すぐさま態度は豹変した。
力尽くでしがみついてくる季夕を引き離そうとする。小娘の力といえど、必死にしがみついてくる腕を振り解くのは困難を極めた。
10秒も経過しない間に、シェミハウルは季夕を引き剥がすのを諦め、無理な体勢で銃を構え直した。
が、その時には既に遅く、奇怪な影は禍々しく蠢き続け、とうに公園の敷地から離れ、道路を横切って遠ざかっていた。
今更発砲したところで当たるはずもなかった。銃弾がどれほど高速で飛ぼうが、軌道は一直線に限られ、曲がる事など不可能なのだから。
トリガーを引いたシェミハウルの行動も、悔し紛れの癇癪にしか見えなかった。
銃弾の軌跡は真っ直ぐ宙に刻まれ、鉛の牙は如何なる手応えをも齎さずに虚しく中空に穴を穿つだけであった。
それが当然のように思われ、事実、銃口から走り出た弾丸は直線の軌道を描いていた。
突如として奇々怪々な現象を光琉が見たのは次の瞬間である。
何の前触れも無く、中空に直線から垂直に向かう軌跡が刻み込まれる。
弾丸が自分の意思を持ったかにして方向転換したのだ。その光景は、先日、女の“魔”を襲った不可解な軌跡と同一のものだった。
あの時も、シェミハウルは如何なる方法によってか、弾丸の軌道を変更して直線上にいない敵を撃ったに違いない。
右に曲がる影を弾丸が自動追尾のように追っていく。
無論、銃弾の動きなど目では追えず、音だけが聞こえてきたのだが、間違いなく銃弾の飛来する残響は遠ざかる影に追い付いていた。
「クハハハ。学習しろと言っただろう。無駄だってな」
銃弾によって中心部を貫かれながら、影は依然変わりなく蠢いている。
全く。毛先ほどの傷も付けられず、中に潜む本体にも、僅かなダメージも与えていないのは明白であった。
「ちぃっ」
口内に含ませもせず、シェミハウルが標的が視界から完全に消えたのを見取ると露骨な舌打ちを鳴らす。
常として紳士を気取っているこの男も、事、ハルファスが絡むと感情的になるようだった。
何か裏の事情があるのかもしれないが、そこまでは光琉の知るところではなかった。
「小矢・・・・」
季夕の呟きは幾分複雑なものが混じっている。
目の前で親友が誤射によって撃ち殺されなかったとはいえ、敵に連れ去られたことに変わりはないのだから、喜べる心境には程遠い。
だが、とりあえず、目の前で長年の親友が殺害されるのを避けられたので、僅かばかりの安堵も表情から見つける事ができたのも確かだった。
と、小矢を捕らえた影の消えた先を目で追っている彼女の腕から力が抜けると、シェミハウルが冷然と払いのけた。
邪魔だ、とは言わなかったが、口には出さない水面下で、それに等しいものがあるのは感じ取れる。
「肝心な場面で逃してしまった・・・か」
やはり、素人と組んだのは間違いだったな。
そこまでシェミハウルは音声化しなかったが、光琉には声には出さない後半の部分が聞こえた気がした。
感情を握り潰しているかのような無表情で、マガジンに弾を補充する彼の姿を見ていると、口にはしない本音が垣間見れるようだった。
発砲した弾丸分を補充し終え、マガジンを装填する。
寡黙に作業を終了させたシェミハウルは一言も、一瞥さえもなく光琉たちから踵を返した。
「お、おい、待てよ!」
余りにもな態度に、光琉の忍耐心もとうとう底をついてしまった。
前々からいけ好かないとは感じていたが、
そうでなくともハルファスとの戦闘中にシェミハウルが取った行動にかなりの苛立ちを誘われていた側面もあるからだ。
加え、説明してもらわなければならない事柄もあり、このまま黙って彼を帰す訳にはいかなかったのだ。
「なんで撃った! 小矢がいたのに!!」
「・・・・。
私の任務は“魔”・・・ハルファスを駆除する事。
任務遂行の為の被害は最小限に留めたいとは思っていますが、被害の発生を抑えるのが不可能であるなら犠牲も止むを得まいでしょう」
鼻息荒い光琉に対し、シェミハウルは淡々と・・・というより、むしろ、やや面倒げに突き放した口調だった。
この男にとってはやはり、異物の排除が最優先なのだ。目的達成の途上で誰が犠牲になろうと、それによって“魔”の駆除を完遂できれば構いやしない。
犠牲なくして得られるものであれば好し、代価を支払わなければ得られないのであれば、誰であろうと生贄の羊として差し出す。
道の途上で倒れたものは、終着点へと繋がる人柱となる。それだけの事でしかない。狂信者という人種はそういうものだろう。
シェミハウルとハルファスの遣り取りを見ていた限り、私情絡みの理由も皆無と言う訳では無さそうだが、そこまでは推測できずじまいだった。
聞かされてはいない私的な理由の如何など問題ではないのだ。
今、問題にすべきは、この男が、光琉が心を砕く人間が盾に使われているのを知りながら発砲したのが問題なのである。
自分にとって親しい人間が危険に晒されて黙っていられるほど、光琉の性格は温厚ではなかった。
「小矢に何かあったらどうするつもりだったんだ!
いや、実際にアンタの撃った弾は敵に当たるどころか、アイツが受けたんだ!」
「・・・だから、言っているでしょう。
仮に、それで彼女が亡くなっても、仕方のない事だ、と」
聞き分けのない子供だ・・・と、相手に聞こえないくらいの低い声で呟いた。
一応の気は使っているようだが、そんなもので光琉の感情が宥められたものではない。
むしろ、シェミハウルの発言は光琉の苛立ちを誘い、激発寸前にまで高ぶらせていた。
「・・・・テメェ。
アンタの銃弾が小矢に一生消えない傷を付けていたら・・・・許さねぇからな」
射抜くと切り裂くを足し合わせた眼光で、シェミハウルの仮面を思わせる顔面を突き刺し、切り裂いたが、多少でも痛痒を感じているのかどうか。
辟易したのか、呆れ混じりの表情で肩を竦めるジェスチャーをわざとらしくやってのけている。
「何かを得ようとするなら、何かを失わなければならない。
両手に物を持った状態で更にもう一つ物を掴む事はできませんよ。
新しい物が欲しいなら、古いものを捨てる。捨てたくないのなら、新しいものを諦めよ。
・・・当然でしょう?」
小鼻を鳴らすシェミハウルは、不敵なまでの冷血の無表情を維持していた。
冷たく霜さえも降らせるような冷然とした目付きで怒気荒い光琉を見返してくる。
唇を噛み切らんばかりに噛み締める光琉の血の気が、一気に頭に上った思いがした。
思考すらも過熱し、熱を生み始め、体内を駆け回る血液が感情の昂りに呼応し、一瞬にして沸騰する。
最早言葉は出なかった。怒気が音声さえも固形化させ、喉の奥に絡み付き、出せない罵倒の代わりに腕が代行して怒りを露わにさせた。
「キサマ・・・・っ!」
相手の胸倉を掴み上げた直後、ようやくに呻くようにして罵声が押し出される。
後は相手の顔面に拳を叩き込むだけであった。
幸いに季夕は意識を喪失させたままの綾子を介抱していて、光琉の行為を妨げられはしない。
そうした事がなくても、止めなかったかもしれなかった。彼女にしても、光琉と同じ感情を共有しているに違いなかったのだから。
爪が掌に食い込むくらいに強く握り締めた拳が飛んだ。
感情の昂りに任せたままの正真正銘、渾身の拳だ。
だが、光琉の振り回された腕は小憎たらしいシェミハウルの鼻柱を圧し折る事は叶わず、空を切った。
最小限の動作で自分の半分も生きていない少年のパンチを避けると、シェミハウルはあっさり光琉の手首を捻り上げてくる。
気迫も、また意思も、相手の横っ面を殴り付けるには余りあるほどだったが、
光琉とシェミハウルの間には歴然とした戦闘経験の差が開き過ぎていて、その差は感情論だけで縮められるようなものではなかった。
「ぐぁっ」
「前々から思っていたのですがね・・・・目上の者に対してはもう少し礼儀を知れ。
私はこまっしゃくれた女と、生意気な小僧は大嫌いだ」
紳士的な口調と態度は何処へやら。急に翼が生えて、空の彼方に飛んでいってしまったかのようなシェミハウルの眼光と口調であった。
ハルファスを取り逃がした事に対する怒りも何割か含まれているかもしれないが、元々、シェミハウル自身、光琉を良く思っていなかったのは間違いない。
キライな人間に好かれようとする意思もなく、キライな相手から好意を貰う努力など無駄の局地だと考えている光琉にしても有難いことである。
口調を荒くしたシェミハウルが、落ちかかる前髪をツイっと気取った素振りで掻き揚げる。
溜息にも思える小さな吐息を吐き出し、彼は口調を改めた。
「そういえば・・・・ヤツが言ってましたね。君を面白い、と。
不思議なことだ。ハルファスがただの少年に過ぎない君に僅かとは言え興味を持つなど・・・・普通なら考えられない。
君の何がヤツの興味を引いたのか大いに関心がありますね・・・」
腕の関節が軋む苦悶に、酸味の利いた唾を口内に溜め込んだ光琉の呻き声など全く意に関せず、シェミハウルは小さく呟いた。
グイッと更に掴んでいる手首を捻られ、もう一度、光琉は苦痛に顔を歪ませる。
鋭く走る痛みの中、目を見開くと、至近距離にシェミハウルの顔があり、眼が合った。
探りを入れてくる眼だ。勝手に人の内側に土足で踏み込み、踏み荒らすような眼。光琉にとって嫌いな眼だった。
シェミハウルの両目に浮かぶ眼光は、手術室のライトを反射させるメスの刃を思わせた。
今から眼光の刃で光琉の精神の膜を切り裂き、心理の奥底まで視姦しようというのだ。
寒気どころではない。
吐き気が悪寒を伴い全身を泡立たせた。薄気味の悪い・・・!
腕が使えるのであれば、今すぐにでもぶん殴りたいところだった。
「・・・・・やはり、何も変わりありませんね。血の気の多いただの少年(ボーイ)だ。
一体、ハルファスは君のどこに興味を惹かれたのでしょう・・・・」
暫く光琉の眼を覗き込んで観察していたシェミハウルが、手首を離すと感想を漏らした。
光琉の右手首はしくしくと骨まで痛み、指の形に内出血しており、青痣がくっきりと浮かんでいた。
青紫に変色した腕をさすろうともせず、光琉は腕を解放された途端、怒りに燃える形相を湛え、再び殴りかかった。
何よりもまず、目の前の男に一発ぶちこまない限り気が治まらなかったのだ。
「もしかしたら、君の中の何かに“魔”であるハルファスが反応したのかもしれませんね」
それは、何気なく呟かれた言葉だったに違いない。
が、その、たった一言が、激発に熱せられた光琉の血流に冷水の一滴となった。
何故かギクリとした。激発にまで昂っていた感情が氷の壁で四方を囲まれ、沸騰していた意識が急速に冷やされていく。
血が滲むほどに握り固めていた拳も、何時の間にか解かれてしまっていた。
シェミハウルから齎された言葉は、たた一言でしかなかったが、光琉にとって無視はできない一言であった。
「なにを・・・・」
馬鹿なことを、と、光琉は続けようとしたが出来なかった。言い知れない感情が喉の奥を塞いで、言葉を封じ込めていたのだ。
振り絞るようにして、ようやく、一言だけが口から押し出せたのである。
彼の意気が萎えたのを見取ると、満足したのか、最初から関心がなかったのか、踵を返すシェミハウルは足を進めた。
再度殴りかかる気力は、今の光琉にはなかった。相手の放った一言が楔のように精神に打ち込まれ、感情優先で五体を動かすことが困難になっていたのだ。
歩を進め、公園の敷地から出て行こうとするシェミハウルを止まらせたのは、季夕だった。
「待って! 小矢は・・・・小矢はどうなったの?
何処に連れて行かれたのっ!?」
意識のない友人の体を抱き支えながら質問する彼女に、シェミハウルは足を止めはしたが振り向こうとはしなかった。
「彼女はハルファスの影に取り込まれました・・・が、すぐに命が危険に晒される事はないと思いますよ。
ヤツは彼女を、ある相手との取引の道具として利用するのに間違いはないでしょうから・・・
ただ、時が経てば、生命も保証の限りではなくなります」
冷淡にも喋られた事柄は、季夕と光琉の心臓に氷の矢となって放たれた。
血管の中を、血ではなく雪解けの冷水が流れているように身体を冷やした。
しかも、凍て付く水は清純なものではなく、汚濁交じりの濁水のようであった。
悪寒。堪らない悪寒が全身を隙間なく包み込む。さらわれた幼馴染に対する2人の考えは同一にして、単純なものが瞬時に浮かんだ。
一刻も早く助け出す、だ。
「何処にいるっ?」
逸早く呼吸を整えた光琉が季夕より素早くシェミハウルに問い質した。
他にも頭を悩ませる考え事はあったが、事が自分の身近な人間に関わる限り最優先される。
他の問題は、何よりもまず、小矢をハルファスの手から取り戻してから考えればよかった。
その為に相手の居場所、または、根城となっている場所を聞いたのだったが、返答には頭が振られた。
「ハルファスの異能は“影”。自らの影を自在に使役します。
影のみを動かし、相手の動向を探り、時に、影の中に自らの身を潜ませ、鎧にするのも可能であれば、他者を自分の影に取り込ませる事も可能。
重みも厚みもない影なれば、世界の何処だろうと行けぬ場所はありません。地上の全てが影の居場所と言ってもいいでしょう。
仮にハルファスの本体を見つけられても、影を切り離され、或いは、先ほどのように影の中に潜り込まれれば追跡は困難です。
そして、夜ともなれば、最早、闇と影の区別などできません。闇に紛れる影を追うなど不可能な技です」
だからこそ、彼はハルファスとの対決を急いでいたのだ。
世界が夜に衣替えをした時、敵を討つ手段が無くなるとの警句どおりに。
黒いナイトドレスに身を包んだ景色の中で、たった一つの影を見分ける事などできはしない。全てが黒一色となって、全ての影が溶け合っているのだから。
淡々と説明された事柄を聞いて、光琉と季夕は愕然となった。
幼馴染を救いたいと思う心に揺らぎは無いが、その手段を完全に見失ってしまったのだ。
意気込みが焦りでことごとく空転し、じっとりと妙に粘つく汗が前髪を額に貼り付けさせた。
純粋に親友の身を案じる季夕とは多少違い、光琉は憤りを覚えてもいた。
今聞かされたハルファスの能力について、もっと早く説明されていれば、さらわれた小矢も無用心に敵に体当たりする前に用心ができたのではないかと思えたのだ。
むざむざ敵の手中に囚われる事も無かったのではないか、と。
否定された現実の可能性を考えた時、やり場の無い憤りはきちんと説明しなかったシェミハウルへと向かって流れ出すのも当然の事だったかもしれない。
だが、聞かされていたとしても、実体の無い霞のような影の動きにどれほどの対策が立てられようものか。
用心していれば、事を理想的に薦められるとは限らない。結局、こうなってしまっていたかもしれない。
説明を終えたシェミハウルは長く呼気を吐き出した。
喋り疲れたわけではないだろうが、饒舌になった自分を戒めようとしたのかもしれない。
彼も、ハルファスを取り逃がした事で落胆し、見切りをつけたと思われる光琉たちに口数多くなっていたのかもしれなかった。
口を閉ざし、止めていた足を再び動かし始めるシェミハウルに、光琉と季夕は押し黙っていた。
一歩ずつ距離を開けていく男をこのまま帰してはならない。まだ、聞かなければならない事がある。そうした思いに駆られていた。
背を向けて歩くシェミハウルを呼び止めるのは容易い事だったが、呼び止めた後、何を聞くのか、何を話すのか、光琉と季夕には判断が付かずにいた。
ただ重苦しい沈黙に耐え、初老の男の後姿が離れていくのを、言い難い口惜しさに耐えながら見送るしかできずにいる。
立ち尽くしたままの光琉と季夕から更に距離を広げようと動かされていたシェミハウルの足が不意に止まった。
僅かな逡巡にも似たものが彼の背中を過ぎり、初めてシェミハウルは2人に向かって振り向いた。
「言っておきますが、貴方たちだけで何とかしようとは考えないことです。
素人が無闇に動いたところで望む結果は得られないでしょう。
いいえ、素人が考えなしに動いても、それは勇敢ではなく無謀。死に急ぐ事でしかない。
貴方たちの最善の選択は、何もしないで待っている事です。
これは助言ではなく、忠告ですよ」
と、シェミハウルは自らの指針を見失った少年と少女に言った。
専門家の助力を仰げ、とも、私に協力を求めろ、とも言わなかった。シェミハウル自身、2人を殆ど見限っていたのだ。
これ以上、光琉や季夕と行動を共にしても、利益はなく、それどころか、有事の際の足手まといにしかならないとの打算が既に打ち立てられていたに違いなかった。
ハルファスに射撃しようという直前で邪魔をされた今回のケースが良い教訓となっているようで、
次回、好機が訪れたとき、再び素人に妨害されては堪らない。そう、シェミハウルが考えても不思議ではない。
無常にも突き放された言葉を聞いて、季夕は顔を青褪めさせた。綾子を抱き支える手に力が篭る。
シェミハウルがハルファスを追うのは考えるまでもなく理解できたが、だからといって、小矢を無事に救い出してくれるとは言い切れない。
先ほどの戦闘を見ている限り、戦闘中にハルファスが小矢を再び盾として使ったとしても、
何の効果も無く、今度こそ、一切の躊躇も見せずに人質ごと撃ち抜くのが確実だと思われた。
そんな危険性を予測できるのに、シェミハウルに後を任せて、自分だけが日常に戻るなどできる筈も無かった。
季夕とは反対に、光琉はそれほどの衝撃は受けなかった。既にシェミハウルの言葉を予想していたからだ。
大体、この期に及んで、引き続き協力体制を求められても光琉は了承などしなかっただろう。共に動くにはシェミハウルの考え方は危険過ぎたのだ。
シェミハウルの戦闘能力と知識などは確かに価値があり、役にも立つ、が、だからといって何も自分の周囲に危険因子を置いておくことはない。
光琉の本音を言えば、シェミハウルから見限られた点、「望むところ」だったのである。
とは言え、知識も経験も不足している「卵の殻を尻にくっつけたような雛鳥」にすぎない素人である光琉に、
今後の見通しなど立てられようもなく、完全に道を見失っていた。
基本的に、嫌いな人間と顔をつき合わさずに済むのは喜ばしい事ではある、が、次にどうしたらいいか、
小矢を助けるためにどうすればいいか、全く、何一つ、解らないのだから、忠告をし終えたシェミハウルがさっさと離れていく姿に、恨みがましい視線も投げていた。
自分の感情と表情に確かな矛盾を感じていたが、何しろ右も左も判断出来ないような状態で放り出されたのだから、致し方なかったかもしれない。
シェミハウルが背中が遠く離れ、ダークグレーの背広が宵闇の中に溶け込んでいくと、むざむざと孤独感が湧き上がってくる。
誰の助力も助言も得られぬと言う孤立した立場になりながら、ただ嫌いなヤツが去ったと手を叩いて喜べるほど楽観視できる光琉ではなかった。
現実問題として、一体どのように敵にさらわれた幼馴染を助ければいいのか見当も付かない。
遠ざかっていくシェミハウルが完全に見えなくなってしまうと、いよいよ孤立感だけが浮き彫りにされた。
今後に向けてあれこれ考えすぎ、眩暈も覚えそうな光琉の近くでは、未だ意識の戻らない綾子を両手で抱き支える季夕が狼狽していた。
彼女の様子は一言、右往左往、それに尽きる。
横で幼馴染が取り乱しているものだから、逆に光琉の心に冷静さが取り戻され、落ち着く余地が生まれた。
こんな時、一人が混乱すると他の誰かは冷静になれるものである。
人間の心理的にそうなのであったが、それとは別に、2人して狼狽しては完全に袋小路に入ってしまい途方にくれるのがオチであった。
どうしたらいいか、どうすればいいかなど、考えなければならない事が多々あり、
そんな使命感や義務感じみたものが光琉の精神を脅かす暴風を鎮静化させた側面もあった。
青くした顔をこちらに向けて、ただただ焦燥に身を焼かれるしかできずにいる季夕に、光琉は差し当たり現実的な次の行動を指示した。
意識の無い片山 綾子を自宅に送り届ける事である。
そろそろ本格的に暗くなる。公園にのベンチに寝かせておくのは幾ら夏だから風邪をひくことは無いとは言え、あまり安全だとは言えない。
「とりあえず、片山を家まで送っていこう。
こんな場所に置いて行く訳にはいかないだろ」
季夕からの反応は妙に鈍い。
まだ狼狽の中にあって、現実に対する意識が足りないようだ。
再度口調を強くして呼びかけると、やっと目の焦点が光琉に向けられた。
「片山を自宅に連れて行くぞ。今後の事はそれからにしよう」
「う、うん・・・・」
まだ反応が硬かったが、この際無視して、強張った季夕の腕から綾子を受け取ると、光琉はクラスメイトをおぶった。
同年齢の女子とはいえ重い。以前、小矢をおぶった事もあるが、今はいない幼馴染と比べても僅かばかり重く感じた。
小矢と綾子の体格の差もあるのだろうが。
どちらにせよ、意識の失っている人間というものは思いの他、重い事に違いは無い。
「で、どっちだ?」
公園を出て、暫く歩いた辺りで、光琉は背後にノロノロついてくる季夕に振り返った。
「・・・え、なに?」
「片山の家だよ、どっちに行けばいいんだ?」
混乱・・・というよりは焦燥から来る思考力の停滞だろうが、反応の鈍い季夕を率先するはいいが、光琉は綾子の自宅の場所など知りはしない。
季夕は彼女と友人なのだから自宅の場所は当然知っているだろうし、道くらい聞かなければ送り届けることもできない。
「え、ええっと・・・・
とりあえず、大通りに戻ろうよ。
ここから結構遠かったと思うから・・・」
体内で濁る焦燥感の影響で少々、思考回路は頼りなくなっているのか、
単に綾子の自宅に遊びに行った事自体が少ないのか、記憶を紡ごうとする季夕の腕がフラフラと道を指差した。
それから数歩も歩かない内に、不意に光琉の足が止まった。
全くの突然であり、道を教えた後、再び思考の迷路にはまりこんでいた季夕は彼が立ち止まった事に気付かずに、ぶつかってしまう。
「いた・・・ぁ。
ちょっと、ヒカル・・・どうしたのよ?」
少々非難する響きのある季夕の言葉に、だが、光琉は答える事はできなかった。
そんな事よりももっと重大な事態が、既に至近に迫っていたのだ。
落ち着きかけていた呼吸のリズムがガタ崩れし、動悸が自然早まる。
不快感を齎す冷たい汗の一滴が背中を滑り落ちる。
それらは全て、頭の中で鳴り響いている音響から引き起こされた現象だった。
独特の音律とリズムをもって鳴る響き。頭蓋骨の内側から、あるいは、鼓膜の裏側で響いてくるような反響は間違いもなくアレであった。
“共鳴”。近くに“魔”がいるのだ。
ハルファスが逃げ去った後で、シェミハウルがハルファスを追っていった後で、脳裏に掻き鳴らされる耳鳴りは高らかに異邦者の存在を光琉に告げていた。
「くそ・・・・こんなときに・・・」
喘ぐようにして低い罵りの言葉が口から出た。
マズイ。最悪だ。シェミハウルもいなければ、小矢もこの場にいない。意識の無い綾子と、狼狽している季夕しかいないと言うのに、“魔”を感じるとは。
はっきり言って、戦えるような状況ではなかった。現在の状況に対して、恨み言の一つでも言いたくなってくるのも当然だった。
「ちょっと・・・・どうしたのよ・・・」
立ち止まる彼の顔を覗き込み、その顔色の悪さに季夕は驚いた。
青褪めた顔色に悪い予感が浮かぶ。まだ何かあるのだろうか、と。
光琉の感じている不安が伝播して季夕にまで飛び火してくる。
何を感じ、光琉が難しい表情で固まっているか彼女に解る筈もなかったが、只ならぬ事には違いないとした予感だけは感じ取れた。
「ちくしょう。今まで見落としていた。
こんな近くで監視されていたのに・・・」