第三章・表/10
ほんの数秒ほどしか役に立っていなかった結界を作る霊符をのろのろと剥がす。
まだ衝撃から抜け切っていない。つい先ほどのあの光景と比べれば、自分達が今までやってきた獣との戦闘などじゃれ合いにも等しい児戯だった。
別に技量を高めたい訳ではなく、シェミハウルのようになりたいとは思わない。通常の生活に戻るのに、そんなスキルは全く無用だ。
実力が高まれば、それだけ無事でいられる確率も上がってくるだろうが、それでも、シェミハウルのようになりたい訳ではなかった。
あれは何か、人として重要な要素が抜け落ちているとしか思えなかった。
「・・・・季夕」
必要以上の時間をかけて四枚の霊符を剥がし終えた光琉が立ち竦む幼馴染に呼びかける。
蒼白となった顔。衝撃が心を乱し、混乱が彼女の中で尾を引いているのが見て取れた。
声をかけても、暫くは反応さえなかった。彼女の肩に手を乗せると、反射的にビクリと脅えたような反応が返ってくる。
「今の・・何、拳銃・・・・・・?
それに・・・人じゃ・・・・
人を・・・・撃った・・・・・」
「いや、あれは人の姿をしていたけど、化物だ、化物なんだよ」
「人・・・・人じゃ・・ない・・・」
「そうだ、獣と同じだ。化物だ、人間じゃないんだ」
「・・・・・そ、う」
小声で呟くが、目の焦点が合っていない。現実ではなく、何処か虚空を見ているような季夕の視線だった。
唇が何かを喋ろうと微かに揺れていたが、認識できる声とはなっていなかった。
聞こえずとも、光琉には大体見当が付く事である。
人間と同じ姿をした“魔”・・・いや、外見だけでは人と変わらないモノを殺すのは、人を殺すのと似た気分を一端といえど味わう。
それは嫌なものだ。だからといって咎める事などできはしない。これから、クラスメイトの為に、同じ事をしなければならないかもしれないのだから。
季夕は、人と同じ姿形をした存在を死なせるのを、快く思えず、それを言いたいのだろうが、綾子の為にはやらなければいけないと考え、口に出せずにいるのだ。
そうした葛藤のようなものを、光琉は彼女の表情から感じ取っていた。
無理も無い。だが、ここでいつまでも立ち尽くしている訳にもいかない。
「行こうか」
「・・・・・・」
声をかけて行動を促したが、やはり反応は遅い。
肩に置いた手に力を入れて、軽く引っ張るとようやく目の焦点が合って、季夕はぎこちなく頷いた。
駆け足でシェミハウルを追おうとした光琉だったが、後ろを振り返ると季夕が付いて来てはおらず、仕方なく彼女と歩調を合わせた。
幼馴染を振り返りながら見つめ、彼女は自分が感じていた同じ疑問を頭の中で反芻しているに違いない、と、光琉は思った。
人とそっくり“魔”を始末する。
今回のケースは光琉が遭遇した最初のものとは事情が異なっていたが、似たような疑問を感じさせるには充分だ。
相手が、人に対して敵意も害意も持っていないのにも関わらず、殺す必要があるのだろうか、と。
何よりも現場に残る死体が精神に重く圧し掛かる。精神に欲求される負担は獣の比ではない。
血を流す骸を見ていると、まるで自分達が人を手にかけた気分になって吐き気すら覚えるのだった。
今回のシェミハウルは、一言もなしに撃ち殺した。ただ、呼びかけ、振り向いた途端にズドン。
敵に戦闘準備を整える余裕など与えずに先制の一撃で確実に仕留める。戦術的にも理に適っており、理解できるが、理解したくなかった。
サラリーマン風の男が殺すほどに危険な“魔”であったかどうかも解らない。確かめる事すらしなかった。
せめて、敵かどうかを確認してから対処すればいいものだが、シェミハウルはそうはしなかった。
まずは敵かどうかの確認・・・こうした考えは素人考えに過ぎないのだろうか。
シェミハウルの言葉を借りれば、“魔”の言葉を信用すると、命が幾つあっても足りない。
話し合う必要など無い。毒草は発芽する前に摘み取るが賢明、と、なるのだろう。
だが、光琉たち・・・少なくとも彼自身にとっては、相手が、本当に危険な存在かどうかこそが重要であった。
ただ“魔”というだけで、好戦的、友好的に関係なく殺していたのでは限りが無い。
そもそも好んで殺し合いを臨んでいる訳ではないのだから、無駄な流血は無い方が良いに決まっている。
手当たり次第に・・・発見したら殺害しているのでは、虐殺者と何ら変わりはないじゃないか。
それこそ、化物なんかより余程危険であり、排除しなければならない異分子に思えた。
光琉が相手を「敵」であると認識するのは、自らと、自分の周囲の人と、生活の静けさに危険を及ぼす因子であって、それ以外のものではなかった。
降りかかる火の粉は、人であろうと化物だろうと対処しなければならないが、こちらに悪意を持って接してくる意志がないのなら、どうでもいいのだ。
暫くは季夕の歩調に合わせて歩いていたが、シェミハウルの後姿がもう見えないと解ると、歩幅を広げた。
まだ考え込んでいる季夕に声を掛け、彼女も走らせた。ここで小矢とシェミハウルを見失えば事だ。
大通りに戻り、急いで周囲を見渡したが、シェミハウルの姿も、小矢の姿も当然のように見つからず、焦りを感じた。
2人ともハルファスを尾行しているのだ、同じ位置に立ち止まっている筈もない。
歩道を行き交う人の隙間を縫うようにして小走りに駆ける。
数分ほどの遅れがあるだけで、そう遠くへは行ってない筈だと自分に言い聞かせながら、焦燥感を有耶無耶の中に投じる。
見つからないとなれば、自然焦りが生まれたが、同時に、平静さを刃毀れさせられた精神は余計な考え事を浮上させた。
小矢の“魔”に対する態度。シェミハウルの考え方。それに・・・自分が“共鳴”を感じる理由。
一気に複数の考え事が精神の表層面に浮かび上がってきて、思考回路がパンク寸前に陥る。
それは逆に光琉にとって功を奏した。別種の問題が一度に思考回路に流れ込んで、正常な思考力を奪ったのだ。
浮かび上がってきた問題が再び沈静化して、精神の奥に追いやられた。
「どうしよう・・・」
ここに来て、ようやく季夕も考え事に区切りを付けたらしく、焦りの色を声に出す。
どうしようも何も、小矢とシェミハウル、或いは綾子とハルファスを捜すしかない。
田舎町だ、シェミハウルとハルファスの2人は白人なのだから目立って、良い目印になる。
それに2人とも結構な長身だから、視界に入れば見逃す筈もなかった。
どうしても見つからないとなれば、最悪、携帯電話で所在確認するしかないが・・・着信音、もしくは、会話の声で相手に気取られはしないかと心配した。
着信音は、バイブモードに設定しておけば何とかなる。だが、前以てシェミハウルに注意されているならともかく、
小矢や季夕が設定変更しているかどうかは解らない。少なくとも、光琉は今の今まで着信の設定変更に気付かなかったのだ。
シェミハウルからすれば、そんなものは基礎中の基礎で、教えるまでもないくらいの初歩の初歩に位置する気構えかも知れないが、
こちらは素人なのだ、言われない限り気付かない事が多々ある。
そうした注意は、最初に言っておけ、と、口の中で罵った。
「とりあえず、もう少しこの通りを捜そう。
本気で見つからないなら、連絡を入れて何処にいるか教えてもらうしかないな」
あまりに捜して見つからないようでは、いよいよはぐれたと考えねばならず、そうなれば光琉自身が考えたように、
また、季夕に言ったように誰かに連絡を入れて居場所を教えてもらわないといけない。
追跡中に対象の居場所が解らずに聞くなんて、間の抜けた話であるが、実際そんな状況に陥っている光琉たちには笑えない事この上なかった。
連絡を入れるなら、シェミハウルがいいだろう。携帯電話の着信設定なんて当然バイブモードにしてあるだろうし、
状況を一番理解しているから会話の声で相手に勘付かれる真似は絶対にすまい。
だが・・・・やはりというか何と言うか、気の進まないのは確かであった。
だが、そうした懸念も杞憂に終わった。
大通りを真直ぐ進み、T字の分かれ道に立って周囲を見渡したら、左に折れた道でシャミハウルの姿を簡単に見つける事ができた。
シェミハウルがいるのだから、当然、小矢も近くにいて、2人がそれほど先に行っていない事に、光琉はホッと安堵の吐息を漏らした。
ようやく追い付くと、遅れてきた光琉たちに、シェミハウルは無言でだったが、視線は冷ややかなものであった。
ゆっくり行ってくれれば焦る必要など無く追い付きやすかったものを・・・
と、思わないでもないが、今回は遅れた自分に全面的な非があるので、冷たい一瞥に黙って耐え、反論はしなかった。
改めて道の先へと目をやると、人波の中にハルファスの長身と、ブロンドの髪がが目印となり、その隣に綾子も見つかった。
見る限り何事も起きてはいないようだ。起きていたら起きていたで、シェミハウルも小矢も呑気に尾行を続けている訳がなく、
今頃人目が付き難い場所に結界が張られ、抜き差しなら無いほどの鋭い緊迫感を孕んだ空間の只中に身を置いているに違いないのだ。
そうした本能で危険を察するような空気が感じられないのだから、ハルファスはまだ何も目立った行動を起こしていないのだろう。
まぁ、尤もまだ起きていないだけでこれから何か起きるのだろうが、と、光琉は考え、次の瞬間には脳裏に浮かんだ考えを打ち消した。
それを認めてしまえば、自分は実は静かな日常ではなく、血生臭い非日常こそを求めているのを認める事になりかねず、
忌避を抱かせ、何より、クラスメイトの命を左右する事にも繋がりかねない。不見識な考えはするべきではなかった。
尾行に戻っても、これといって変わった事はなく、ただただ気ままにぶらつくクラスメイトと連れの男の尻を追い回すだけだった。
時折、10分に一回程度の割合で、季夕が肩越しに振り返っては、シェミハウルをチラリと見ていたが、
先ほどと比べて変わった事といえばそれくらいで、これは季夕の中で思い悩む、またはそれに類似する思考が働いているからだろうと考えられた。
それまで変わりなく大通りを歩いていた綾子の歩調が、ハルファスに手を引かれて急ぎ足になった。
光琉は最初、おや?っと首を傾げはしたが、それだけだった。
別にどうという事はない。手を引くくらいそこらのカップルでもやっている。
と、軽い考えでいたのだが、それが、右折し、左折し、また右へ・・・と、右左折を繰り返す内におのずと大通りを外れ、別の場所へと向かっていった。
だが、それでも、それほど危機感は抱かなかった。場所が場所だっただけに、ここで目立つ事をするとは考えられなかったのだが、
逆に言えば、こんな場所に何の用があるのだと怪訝には思えた。
綾子の手を引くハルファスが向かった先は、マンションやアパートメントが並ぶ住宅地だった。
整然を考えられて建造された共同住宅の林の中辺りにある公園でハルファスが立ち止まるのが見えた。
周囲に建てられた共同住宅に住む住民を考慮してこうした場所で、公園は良く見かける。
それほど大きくも無ければ小さくも無い。そこそこの面積と少々の木々、それにシーソーやジャングルジムといったお決まりの遊戯施設。
公園はそれこそどこでも見かけるような普通のものだったが、一体、何の理由があってここに来たのかが光琉には理解できなかった。
まさか、童心に返って遊ぶ訳でもあるまいに。脳裏に浮かんだ想像に苦笑を誘われる。
となれば、年頃の男女らしく、公園に来た目的はアレだろうか。まだ日も明るいのにお盛んな事だ・・・
と、光琉のある種の考えは、老人じみている。
しかし、シェミハウルが言った「“共鳴”は“魔”特有の現象」の言葉が頭の中を反響し、
そちらを引き摺って他の事にろくな思考力など回す余裕がなかっただけでしかない。
実際、こうしている間にも、脳裏の奥に追いやったはずの思考がまたぞろと這い上がってきているのだった。
ふと隣を見れば、シェミハウルのやたらと難しい表情が目に付いた。
彼は光琉とは別の事を考えているらしく、口端はニコリともしないでいる。
堅苦しい表情は一見無表情のようだったが、僅かに細められた眼がそこに気難しさという顔を与えていた。
「拙い・・・ですね」
頬肉の一筋を歪ませながら、ポツリと呟かれた。
余りに小さな一言だった為、隣にいた光琉でも聞き落としてしまいそうだったぐらいで、小矢や季夕の耳には全く届いていない。
呟き終えたシェミハウルが視線を下に這わせて考え込む素振りを見せたが、それはほんの一瞬だけで、視線が跳ね上がる。
木々と背の低い植木の間からハルファスの動向を覗く小矢と、親指の爪を噛んで焦燥に駆られている季夕にも聞こえる声が出された。
「どうやらヤツは、尾行に気付いていたようですね。
ここでやるつもりです・・・」
残念ながら・・・と、最後に付け加えたが、少しも残念がっているようには聞こえなかった。
所詮、素人混じりで行った尾行だ。シェミハウルは最初から殆ど期待していなかったのかもしれない。
だが、シェミハウルの言葉を聞いた小矢と季夕の顔色は一変した。すぐに互いに顔を向き合せ、視線をかち合わせる。
そんな・・・だとか、まさか・・・とか言った類いの疑念が表情から滲み出す。
ハルファスがこちらに勘付いたような素振りは、尾行中一度も見られなかったのだ、突然そんな事を言われても、いま一つ納得できなかった。
が、次に顔色となって表れたのは焦りと平静さの失調である。何と言ってもシェミハウルは専門家であり、素人ではない。
その彼が言っているのだから、やはり正しいのだろうか、と、心が揺らいだ。
光琉自身もそうだったが、少なからぬ動揺を与えられ、精神力とやらを心を落ち着かせるのに使わなければならなかった。
「この公園を結界で囲ってしまいましょう」
落ち着きを失いかけた小矢たちに、即座に指示を出したシェミハウル。
公園の敷地はそれほど広くないが、外延に沿って木が植えられ、木々の間には大人の腰の高さほどある植木が並んでいる。
身を低くしてうまく進めば、ハルファスに見られずに公園に結界を張る事もできるだろう。
即行動に移ろうとした小矢だったが、数歩も進まないうちにシェミハウルに呼び止められてしまった。
「一つ確認したい事があるのですが・・・
霊符の結界ですが、アレには、中にいる“魔”を結界の外に出さないような捕縛の効果もありますか?」
その質問には頭が左右に振られた。
「いえ・・・私の持っている結界は周囲の人たちの意識から霊符で囲んだ空間を逸らせるだけのもので、他に効果はありません・・・」
「そうですか・・・」
それと解るような明らかな落胆がシェミハウルの顔に薄く広がっていく。
思案の表情を作ると、腕が上がり、指先で左眉に斜めに入る古傷を沿って撫でた。
暫しの無言。
傍で見ている光琉は不思議がった。
何を気にしているのか、とんと掴めない。
そう言えば、初めて会った昨日の夕刻の別れ際に、日が落ちてからハルファスを捕まえるのは困難を極めるとか何とか言っていたような・・・。
思案に従って、自然、目が上に向けられた。
空は黄昏色に染まっている。
薪の中で燻る火に照らされたような薄紅の空模様。
しかし、完全に日が没するにはまだまだ時間がある。
腕時計に目を向ければまだ6時過ぎだ。暗くなるまでには数十分の余裕があった。
日が落ちると・・・・何だ? 一体どうなるのだ?
ハルファスは“魔”の中でも特別強い上級の“魔”だと言っていた。
災害とまではいかないものの、自然現象などといった超常の力を使えるとなる・・・。
日が落ち、夜になるのと、ハルファスの異能の力は関係があって、何処かで結び付くに違いない。
そこまで考えたが、結局、考えはそこまでだった。
それ以上、考えを続けるには、上級の“魔”が使う異能力についての知識が乏し過ぎる。
人型の化物は、たった一度会ったきりでしかなく、その時は爪を武器に硬質化・鋭利化しただけでしかなく、自然現象を云々するような事はなかった。
光琉の経験に元ずく知識からでは、ハルファスの能力がどんなものか推測する事は不可能だったのだ。
何か拙いのだろうかとする小矢と、遠慮しているのか恐れているのか、一歩距離を取ったような季夕の視線がシェミハウルに注がれる。
やがて、シェミハウルは思い切ったように顔を上げた。
「やりましょう。
太陽の光が夜の闇に追われて消えるまでに、まだ暫くの余裕があります。
その間に何とかできれば・・・・あるいは・・・・」
シェミハウルにしては珍しい物言いでそう告げた。
自信や確信だとかいった決定的なものを欠いた口調は、狂信者にしては珍しいと光琉は思う。
元々、異なる思考と他の物の見方を大きく欠き、偏見と独断と、一種類の価値観にのみすがる人間が狂信者と呼ばれるのだ。
光琉はシェミハウルを狂信者・・・それに近いものとして見ていたのだから、彼のそうした口調はやけに珍しかった。
それだけ、危険が大きく、確信がないと言う事だろうか・・・
ここに至って、シェミハウルの頭の中にハルファスを見逃すと言う一句は完全にないだろうから、確信とは戦闘して勝利しえる確信の事を言う。
今ここで、ハルファスが本当に危険な存在かどうかをきちんと確認したい考えも光琉の中にはあったが、
今更かもしれず、口にしたところでシェミハウルの失笑を買うだけに過ぎなかっただろう。
そもそも彼自身の考えでいくと、彼と彼の周囲の人たちに危害を加える相手が「敵」であるのだ。
ハルファスが彼の生活範囲に入り、日常を脅かす“魔”であるのなら対処しなくてはならないが、今のところそうではない。
彼の目の届かないところでハルファスが何をやらかそうと知った事ではないのである。
今のところ、ハルファスが光琉の日常生活を脅かしたことはなく、その意味で、敵対する必要はないのだが、
季夕の友人が関わっているのだから無視もできず、その流れの延長線上でここに居るだけだ。
小矢が身を低くしながら植木の陰に隠れて移動を始めた。
なにぶん元から背の低い彼女だから身を屈めれば完全に木の陰に隠れてしまい、公園のほぼ中央にいる綾子やハルファスが見つける心配は少ない。
視界の中、彼女が公園の隅にある街灯に一つ目の霊符を貼り付けているのが見え、小さい人影はすぐに視界から消えた。
四方を囲む四つ張り終えるまでに数分といったところだろう。
目線を転じれば、ハルファスはいまだ公園の中央から動こうとはしておらず、綾子と並んでベンチに腰掛け何やら話し込んでいた。
一見して動く気配もなければ、こちらの動きに勘付いている様子も見受けられない。・・・・そう演じているだけなのかもしれないが。
更に視線の転じると、季夕の姿が目に入る。
軽く握った拳を口元もやりながら季夕はじっとハルファスと綾子を注視していた。
今は我慢しているが、ハルファスが綾子に何かしようとする動きを見せればすぐにでも飛び出していきそうな雰囲気をまとっている。
彼女の中で、シェミハウルがとった“魔”を裁く容赦のない行動に対する疑念からは吹っ切れているようだった。
目の前のハルファスと綾子に集中力を向けた結果であって、一時的なものに過ぎないには違いない。
しかし、有能なスポーツ選手全般がそうであるように、目の前の事態に向ける集中力は尋常ではなく、
例え表層面だけであったとしても、精神の働きを制御してみせる術は完全なように思えた。
元々、季夕は一つの事に集中しだしたら、周りが見えなくなって、目標に向かって直向に進める性格をしていたから、
少なからず彼女のそうした性格が精神集中の手助けを担っているのだろう。
光琉には無理なことだ。こうしている間にも、次々と考え事が浮かんできて、余計な思考を追い払うのに手一杯で、一つに集中する事なんかできない。
「まったくもう・・・じれったい・・・
綾子に何か起こる前になんとかしたいのに・・・」
焦りを感じられる一言を呟く季夕。
小矢は今、何枚目の霊符を張っているのだろうか。
その間、待つことしかできずにいて、忍耐心に試練を与えているようだった。
横ではシェミハウルが寡黙な表情で沈黙しており、ただ視線だけをハルファスに向けて固定していた。
左眉に刻まれた傷跡に指先をゆっくりと這わせながら、事の訪れるのを静かに待ち構えている。
焦りも気負いもなく、静かに。
小矢はまだ戻らない。何枚目の霊符を張っているところなのか。
こんな時、時間はやけにゆっくりと感じられる。
彼女が結界を張る為に動いてから、数分も経っているように思えたが、時計を確認してみるとまだ一分も経過しておらず、うんざりさせられる。
神経と忍耐を磨り減らす事、これ以上のものはないように思われた。
その矢先、視界に写る光景に変化が訪れた。
ただ単に綾子と会話していたハルファスが動いたのだ。
やや強引に綾子の肩を引き寄せると、一言もなく顔を近づけていく。
「!」
季夕の息を呑む音が聞こえた。
ハルファスの行為は彼女の過剰なまでの反応を誘い、季夕が飛び出していく。
あの馬鹿!
止める暇もなく茂みから飛び出した彼女に、咄嗟に口の中で罵倒が出たがもう遅い。
引き戻そうと腕を伸ばしても、もう手が届く範囲にはいなかった。
「馬鹿正直すぎる・・・・」
呆れたようにシェミハウルが率直な呟く。まったく同感だった。
素直な感情表現も時と場合によりけりで、この場合は邪魔にしかならない。
初めて光琉とシェミハウルの意見と表情が一致して、顔を見合わせると、揃って吐息を吐き出し、先走った季夕を追いかけるべく茂みから出て行った。
「ちょっと、アナタ!!」
ベンチに座るハルファスと綾子の前へと進み出た季夕の第一声が響いた。
「え・・・? 季夕・・・・?
どうして、ここに・・・・?」
見知った2人を入れた3人の姿を視界に認め、綾子は面食らった表情になっていた。
隣では、ハルファスが目の前にしゃしゃり出てきた小娘に一瞬、怪訝な顔付きになったが、すぐに冷笑に取って代わられる。
「なんだぁ・・・お前。
シェミハウルかと思ったんだがなぁ・・・違ったか?
ん、おうおう、やっぱりシェミハウルもいやがったか、嬉しいゼ。
どこか物陰から隠れて狙い撃ちでもしてくるかと思ったんだけどなぁ。
いやいや、中々に見上げた心意気だよ。騎士道精神ってヤツかい?」
遅れて季夕の後ろに立ったシェミハウルの姿を捉えたハルファスの唇がニヤリと釣り上がる。
この時点で、シェミハウルの隣に立つ光琉の事などは、彼の眼中にないようだった。
「何時ごろから気付いたか知らぬが、お前は私の存在に勘付いていただろう。
それで狙い撃ちをしても、お前は横にいるお嬢さんを盾に使うに決まっている」
「お見事。良く俺の考えを見抜いたもんだなぁ。付き合いが長いだけはあるぜ、シェミハウルさんよ。
しかし、まぁ・・・騎士様に無実な一般市民を手にかける汚名を被せてやろうと思ったんだが、中々旨くはいかないものだ」
「腐ったお前の考えそうな事だ・・・」
「賛辞、として受け取っておくぜ」
忌々しげに吐き捨てられたシェミハウルの言葉に、ハルファスは唇の両端を吊り上げて笑った。
毒々しい光沢でもその笑みには塗りつけられていたかのような印象だ。
「それにしても、久しいなぁ・・・“ガンナー”。かれこれ10年振りか?
いや、お互いに歳を取ったものだ。最初見た時は誰だか解らなかったぜ」
ククク・・・と、含み笑いを押し殺し、悦に入った金銀妖瞳(ヘテロクロミア)が歪んで、シェミハウルを見ている。
実に親しげな口調のハルファスとは逆に、シェミハウルの視線は射殺さんもばかりに鋭く、冷徹な表情の裏からもジットリとした殺意が滲み出ていた。
「フン。良く囀る。お前はあの時と全く変わってないぞ。
あの当時の“堕”ちたままの姿だ」
忌々しげに、そして吐き捨てるように返したシェミハウルの言葉。
何が刺激されたのか、ハルファスは大口を開けて笑った。
「クハハハハ! 違いない。衰えてないからな。まだ全然さ。半減期を迎えるまでにまだまだ時間はある!
すこぶる快調だ。心身共に絶好調ってヤツですか? 全く、“魔”さまさまだよ」
子気味良く膝を叩いて笑っていたハルファスが唇の両端をキュゥと吊り上げる。まさに凶悪そのものだ。狂気にも等しい笑顔だった。
ゾクリとした悪寒が光琉の背筋を駆け上がる。それは自分の考えを改めさせられた一瞬だった。
なるほど、シェミハウルの説明は正しかった。少なくとも、ハルファスに関しての事柄は。
コイツに何を言っても無駄そうだ。ハイエナに腐肉漁りを止めろと言っても聞かないように、コイツにはどんな言葉を言っても無駄に違いない。
こんな化物相手に友好的解決など望めるはずもない。
純然たる悪徳を感じさせる光が金銀妖瞳(ヘテロクロミア)の左右の色違いの瞳に灯り、爛と輝く蒼と黒の目を見返すシェミハウルの両眼に敵意の閃光が弾けた。
「黙れ! “魔”に堕落した邪心の徒が!
汚らわしい口で小賢しげにペラペラ囀るなっ!」
「そう嫌うなよ。オレたちの仲だろ?
ああ、そうそう・・・・最近じゃ色々噂を聞いてるぜ、“ガンナー”さんよ。ご活躍らしいじゃないか、いやいや、実に喜ばしい事だ。
我が事のように賛辞申し上げるよ・・・・色々話し合おうじゃないか」
「これ以上話す事など何一つない。害虫と利く口など持ち合わせていないのでね。
黙って駆除されろ、毒虫が・・・・」
異国人同士の遣り取りの中では、光琉も季夕も完全に置き去りにされていた。
全く会話がつかめず、だが、それが当事者たちにとっては関係しているらしいのは解り、どうやら共通の過去を共有しているらしいのも推測できたがそれだけだった。
割り込める余地などなく、ただ緊迫した空気の中で交わされる言葉の遣り取りを聞いていた。
事情の一端を知る光琉たちですらそうなのだから、真ん中に挟まれた綾子にとっては全くの埒外であった。
自分の連れと見知らぬシェミハウルの嫌悪感漂わせる遣り取りの狭間に置かれている綾子はオタオタするばかりで、
ハルファスに肩を抱かれてもさして抵抗らしい抵抗は無く、ただただ自分の友人である季夕と、ハルファスと、シェミハウルを交互に顔を向けて困惑していた。
「綾子、こっちへ!!」
「え・・・えっ・・・?」
「いいから、こっちへ来なさい!!」
季夕の叫びが飛んだが、事情を知らぬ綾子はどのようにも動けずにいた。
狼狽。それが彼女の心の乗っ取り、体の支配権を制御しているかのように頭だけが右往左往して振り動かされている。
周りの事情も、自分の置かれている状況も何一つ解っていないのだ。説明するまでは動こうにも動けないに違いない。
だが、こうなった状況下で説明できるはずもなく、また、できたところで彼女が理解できるとも限らない。
第一、一触即発状態になっているシェミハウルと、何をしでかすか見当もつかないハルファスがそんな余裕など与えてくれるはずもなかった。
季夕としては力尽くでも友人をこちらに引き寄せたいところだったろうが、下手に動けば、それだけハルファスを刺激しかねず、如何にも手の出しようが無いといったところだ。
呼びかけ、綾子が自主的に動き、ハルファスが何かしらの行動に出る前に、綾子の腕をこちらへと引っ張るのが最善に思われた。
一方で、シェミハウルは今すぐにでも攻撃態勢に入りたいところのようで、背広の懐へ、腕を即座に突っ込めるよう整えていた。
指先の筋一本に至るまで張り詰めさせていたが、まだ背広の内に忍び入れる手前で宙に置かれている。
背広の内に収められている拳銃を取り出す一線を堪えさせているのも、一重に綾子の存在があったからだ。
今ここで銃など構えれば、綾子の混乱は確実に極に達し、近くにいるハルファスにまず縋ろうとするに違いなかった。
そうなっては、彼女を助けるどころの騒ぎではなくなる。
いや、彼女から見たら、拳銃などといった殺傷力を有する器具を持つこちら側にこそ、恐怖を感じるだろう。
「おやおや・・・・そっちの彼女は片山さんのお知り合いか。
“Ascalon(アスカロン)”の騎士にして“ガンナー”の異名を持つシェミハウルさんとはどういう関係だか・・・
“禍狩(まがり)”の人間かな? それにしては素人臭いが。クク・・・・・まぁ、どっちでもいい事に違いないがな」
面白おかしそうにしてハルファスの表情にニヤついた笑みが飾られる。
季夕の友人に向けた真剣な感情も、この男にはこの場を盛り上げる舞台効果の一つでしかないようだ。
人の感性を負に刺激する笑顔の裏で、友人の為に必死になる彼女から更なる激情を引き出そうと、
手中にある片山 綾子を精々楽しめる余興の道具として活用しようと悪企みを巡らしているに違いなかった。
キッと強く睨み付ける季夕の鋭い視線も微風程度にしか感じていないのか、ハルファスはあくまで下卑た笑みを絶やさなかった。
腐肉漁りのハイエナか何かが笑うとあのような醜悪な表情になるのでは、とさえ思わせる。
くそっ。
完全に素人の人間を間に挟んでの抜き差しならぬ事態を前に、光琉は呟きを喉の奥へと押し込める。
一体、誰に対しての、あるいは、何に対しての罵りの言葉か、彼自身にも良く解っていなかった。
目下一番危険視されるハルファスに対してか、状況を理解しえない綾子に対してか、
この状況下を作り出したそもそもの理由となった感情的になって飛び出した季夕に対してか、それとも、現在の状況そのものに対しての怒りなのか。
とりあえずは、くそっ。彼の中に、それ以外に言う言葉が見つからなかった。
不意にハルファスの色違いの目線がピクリと動き、光琉の方へと転じられた。
人を食った印象しか見せなかった男が、初めて別の顔を見せたようだ。
片眉が微かに跳ね、人を小馬鹿にする事を趣味としていたような瞳からは喜色の色が消えている。
代わりに、何かを探り、同時に思想するような視線を放っていた。
居心地が悪くなる。ハルファスからの視線を浴びる光琉は怖気を感じて無意識に肩を竦めていた。
何だろうか、この男は。何を探っているのか。何を見ているのか。
場違いにも、この場に居合わせる素人が珍しいだけなのかもしれないが、どうもそれとは違うように思える。
人相占いをする易者のような眼差しに似ていた。
捉えどころのない奇術師から分析官の雰囲気へと豹変したハルファスの視線には、光琉のみならずシェミハウルも訝しがった。
どれほどの付き合いになるのか知らないが、シェミハウルにとってもハルファスの表情の変化は珍しいもののようで、油断ならぬものでもあった。
実際、ハルファスが何を考えているのか、シェミハウルとしても掴めないのだろう。
ただ言える事は、どうせろくでも無い事を考えているに違いない、と、だけであった。
「ははぁ・・・ン。なるほどね・・・」
数秒の空白を間に挟み、一切の茶化しを含まない声音でハルファスは呟いた。
「面白い小僧を連れているなぁ、シェミハウル・・・」
顔の筋肉の筋一本に至るまで詳細に、それこそ舐め回すように観察し、ハルファスはニッと口端を吊り上げて笑う。
途端、光琉の全身に怖気が走る。新しい玩具を手に入れた猫の目付きは、戦慄にも似た悪寒を与えた。
何だ一体・・・何を見て笑っている。言葉の真意も明瞭でなければ、洞察もできない。
悪寒だけが鳥肌を誘い、なんともいえない気分を悪さを連れてくる。
コイツを見ていると、シェミハウルに抱く生理的嫌悪さえも微細なものに思えた。
むしろ、可愛い物ではないか、気にもならない。だが、色違いの舐め付けてくるような視線だけは我慢ならなかった。
横にいるシェミハウルも、ハルファスの言葉に誘発されてか、怪訝な視線を投げかけてきた。
彼にとって光琉は異国で会った素人協力者の一人に過ぎなかった訳だが、何か別の要素があったのだろうか、と、疑わしげに探りを入れてくる。
そう・・・例えば、上位“魔”であるハルファスが反応するような何かを・・・
だが、いくら観察してみようと解らなかったのか、光琉に向けた視線をそこそこに切り上げた。
単に、ハルファスがこちらの心理的動揺を誘うおうとして打ってきただけの手かもしれないと思い直し、目の前の“魔”にこそ視線を投じた。
「綾子、ソイツから離れて! こっちへ!!」
「・・・どうゆうこと?
なに・・・これ?」
一方で、季夕はハルファスの言葉など全く聞いていないかのように自分の友人にのみ集中していた。
だが、やはりというか、友人から返ってくる反応は狼狽だけで、彼女を苛立たせる。
そうした2人の遣り取りさえ、ハルファスの興をそそるようで、ニヤニヤとした薄ら笑みが絶え間なく張り付いている。
考える。相手に対する不快感も嫌悪感も一時脇へどけて考えた。
この状況下でどうするべきか。どう動くべきか。何をするべきか。どう行動するのが最も最善なのかを。
いっそ、ハルファスの方から何かを仕掛けてくれば状況に変化が訪れようものだが、彼は何もしてこようとせず、この場に集った人間が繰り広げる喜劇の観客を徹していた。
喜劇。観ている方にとっては喜劇にも見えるかもしれないが、舞台上で不本意や役回りを演じさせられている光琉たちにとっては面白いはずもなかった。
こちらはハルファスを始末したいのだが、ハルファスには少なくとも今、その意思はないらしい。
しかし、彼の手元には季夕の友人が・・・ここでシェミハウルが先ほどやってみせたような早撃ちでも披露しようものなら、ハルファスは綾子を壁として使うだろうか。
成功するかもしれないが、万が一・・・いや、確率の問題ではない、失敗の可能性を考えれば、それは暴挙としか言えず、
無辜の市民を巻き込む真似はシェミハウルは控えたいようで、銃を抜く気配を見せない。
彼が懐に手をやった瞬間、ハルファスが動くに決まっている。銃を抜いてトリガーに指をかけたい衝動に屈さずにいるだけでも、光琉にとっては救われた気がした。
一番救われているのは、友人を失う危険性を回避できた季夕と、銃弾の的とならずに済んでいる綾子本人だろう。
奇妙な三竦みというべきだろうか。たった一人の当事者を除いて、苛立ちと不安を与える代わり、忍耐心と精神に負担を与えてくる。
何時までこんな状況が続くのか解らないが、そう長く耐えられそうもなかった。
・・・まさか、ハルファスは日が完全に没するのを待っているのだろうか。
ふと、そうした考えが脳裏を横切り、一瞬、体温が数度下がった感覚に襲われる。
シェミハウルの説明からすれば、ハルファスと相対するのに夜―――明かりが無くなった時間は、不味いことになっている。
何がどう不味いのかサッパリだが、とにかく不味いのだろう。
このまま日が沈み、夜の到来を待たれれば、状況に好転を期待するどころか、悪化する一方のようだった。
本気で何とかこの状況を変化させる小石が投じないものか、とさえ、光琉は祈った。