第三章・表/9






監視を開始してから30分が経とうかとしている。時間の流れは想像以上に遅く、もう30分も、と言うより、まだ30分と表した方が適切だった。
光琉は我侭を飲み込んで、胃の中に落とし、シェミハウルと一緒に黙々監視を続けている。金銀妖瞳のハルファスに動きはない。
入ったCDショップで視聴している綾子の傍、相変わらず悠々と洋楽CDを手に取っては、綾子に話しかけている。
遠くから眺める限り、音楽の興味を人波程度に持っている外国人に過ぎない。
しかも時折、新譜の視聴に集中している綾子に話しかけ、逆に怒られて慌てて謝ったりしているのを見たりすると、人畜無害な好青年にしか思えない。
シェミハウルのハルファスに関する情報は間違っていたのか。アイツの一体何処が危険な化物だというのだ。
無言のまま視線だけをシェミハウルに向けて問い質す。相手からの反応は無い。無視。委細、無視してのけている。

ここまであからさまに無視されると面白いはずもなく、視線に鋭さを加えた。
やがて、根負けしたのか、顔だけは綾子達に向けたままシェミハウルはやや面倒そうに言った。
それがまた癇に障ったが、大人しく聞いた。

「・・・・ハルファスがこんな人の多い場所で騒ぎを起こすような知恵無しなら、10年も前に我々が片付けていますよ。
 何かやるとなれば、人目のない場所。もしくは・・・夜。日が没してから。それまでは黙って監視を続けてください」

表現と口調はやたら丁寧だが、光琉には高圧的に感じた。
他の人間・・・例えば、小矢や季夕だったら、シェミハウルの物言いに不満を抱かずにいれるかもしれないが、彼には無理だった。
初めて会った時からどうにも好きになれない。・・・尤も、好きになろうとした努力などもしていないが。
穏やかで知性的な笑みと、丁寧な口調。プラスになりこそすれ、印象をマイナスに傾けさせる材料にはならないのが普通なのに、どうも気に入らない。
極めつけは、学者のような、観察者を思わせる静かな瞳。アレで見られると、虫唾が走る。
彼以外の人間はまた違った印象を持つのだろうが、光琉の持つシェミハウルの印象は一言で事足た。
・・・・気に入らねぇ、と。

何が、或いは、何処が嫌いなのか、苦手なのかと聞かれても答えることなどは出来はしない。
答えられたとしても、理論付けされた説明にはならない。感覚的なものでしかない、多分に生理的嫌悪が理由なのだろう。
殆ど条件反射と言っても良いような精神作用を、言語化して説明できるほど、光琉は口達者ではないのである。

実はハルファスは善人側で、シェミハウルこそが化物なのではないのか。自分達は騙されているのでは。
一瞬ではあったが、そんな思考が横切って苦笑を誘った。ここまで嫌っていると、かなり深刻なものだ。毛虫を嫌う子供の心理と似たようなものだろう。
なるほど、ハルファスの方がどこかの組織から派遣された人間で、シェミハウルが危険な“魔”であり、
かの有名なメフィスト・フィレスに享受された狡猾な知恵でもって、人間を利用し、天敵とも呼べる退魔の専門家を人間の手で始末しようと画策した訳か。

そこまで考えて、流石に自分自身に呆れた。いやいや、ここまでいくと思考ではなく、ただの空想に過ぎない。
それはそれで面白いかも知れないが、残念ながらそうはならない。シェミハウルに「共鳴」現象は引き起こされず、耳鳴りを誘発されてもいないのだから。

あれこれ考えている自分に気付き、頭を一つ振って余計な考えを追い出した。
今は監視にこそ集中すべきであった。人ひとりの生命が係っている。
光琉にとっては幾ら有象無象の列に並ぶ人間だが、季夕にとってはそうではない。
大切な友人であり、光琉からしても顔も名前も知らない「その他大勢」と比べるまでもなく生命の価値は幾分高い。
綾子の身に、直接的な危害が晒されたとなれば、何とかして助けてやりたい。
その為には、くだらない戯言に頭を働かせるより、目の前の事態を真面目に対応した方が良いに違いないだろう。

だが、ふと、心を掠め去るシコリが残っていて、それに気付く。
先ほど季夕と話していた時、自分の言葉に感じた矛盾。
一体何が食い違っていたのだろうか、と、あの時の会話を頭の中で反復した。

程なくして違和感の正体が思い浮かんでくる。そうだ、耳鳴り。耳鳴りだ。
ハルファスの存在を感じて鳴り出した耳鳴りは、何時もと違っていた。
これまでの耳鳴りは、もっと顕著なものであった。
金属が擦りあわされるような甲高い音。頭の中を我が物顔で闊歩したのは、一貫してキィィンと響く高音だった。
それがどうだ、今回脳裏で聞こえたのは一転して低音。おぼろげに霞んだ重低音が頭蓋の中で反響したのだ。

甲高い金属音から、地の底から響いてくるような音と表現が変わった。
これは一体何を意味するのか。何か意味があるのだろうか。あるのだろう。あるに違いない。
だが、どんな意味があるのか、光琉には全く理解出来ないでいる。
敵の実力によって耳鳴りの音響も変わるのだろうか、それとも、出身地や種族、生別によってかもしれない。
考えてみたところで回答にたどり着く糸口は一向に見つからない。何分、予測が多すぎ、加え、知識が少なすぎて絞り込めずにいた。

無知でいるというのがこれほどまでに苛立つものだとは。
知らないでいる事は決して不幸なことではなく、むしろ、幸福に繋がる。
いつか読んだ書籍の中に、このような一説があったのを思い出した。確かに一理あると思える。
何一つ知らないでいれば、必要以上の面倒事に頭を悩ませる必要も無い。
ただ、直面した問題に対して逐次的に対処していけば済む。
必要最低限度の事だけを考え、不安や疑問、悩みから遠ざかって気苦労を減らせる。それは確かに幸福に違いない。
無知でいるが故に許される特権であり、正統に享受されるべき恩恵だ。

光琉にそうした安楽を受け取る資格は既に無い。
彼は知ってる。僅かとはいえ知識を持ち合わせていた。通常とは掛け離れた異なる世界の知識を。
その僅かな知識を得た代わりに、無知でいる事は剥奪されてしまったのだ。

僅かな知識。それこそ、一握りにも値しないような極々少ない情報でも、知った事に変わりは無い。
後は、心残りを抱えたまま思考停止して、記憶を時の風化作用の侵食に任せるか、全てを知ろうと望むか、どちらかだけ。
そして、光琉は、出来るのであれば知りたいと思っている。
他の誰でもない、自分自身の事なのだ。知らないままでいるのは気分が悪かった。
だからこそ、色々と思考を重ね、思案して、腐心しているのだが、考えは纏まる気配すら見せず、苛立ちばかりが積み重なる。

だめだ。考えても解らない。
暫しの熟考の末、光琉は超過回転で熱さえ孕んだような頭にストップをかけた。
乏しい情報で幾ら考えても結論は出ない。もっと知識を仕入れなければ考える事もままならない。
とりあえず、この問題は棚に上げて置く事にして、溜息を吐き出す。
つい口から吐き出された溜息は、働いていた脳みそが排出した排気ガスといったところである。
考え悩み、答えが出ないとなって一時、脳の働きを休止させる時に出る溜息は子供の時からの癖だった。
傍から見ていると、不快感を誘われるらしいから、その癖は直した方がいいと小矢から言われてきたが、今も直っていない。
注意されて中々改善されるものではない。無意識でついやってしまうから癖なので、こればかりはどうしようもなかった。

必死に考えて、結局殆ど解らないに等しいが、しかし、たった一つだけ確実に理解している事はあった。
それは、ハルファスは間違いなく化物・・・“魔”であると言う事だ。

頭の中で響いた音がどのようなものであるにせよ、また、どのような響きを打ち鳴らしたにせよ、相手が人間でないのは確信できた。
理論ではなく、殆ど本能によって裏打ちされた確信。根拠も乏しい甚だ非論理的な直感であったが、揺ぎ無い確信だった。
これだけは間違いなく断言できた。ハルファスは“魔”である、と。

音の種類に拠らずに人か否かを識別できる。
根拠も理論も無い。ただ本能だけが真実を告げてくる。
魔性の存在を感知し、察知する能力・・・“共鳴”。

自分の事ながら、どうにも奇妙なものであった。
そもそも、何故、こんな能力を持っているのか。
再び思考回路が三速までギアチェンジしかかったところで追求するのを止めた。
無駄だ。これも考えても仕方が無い。何を考えるにしても知ってる事が少なすぎる。
この状態で何かひとつを追求しても、先ほどと同じ、思考の堂々巡りになるだけだった。

あれこれ考えている内に、綾子は視聴していた新譜が気に入ったらしく購入してCDショップを後にしていた。
彼女の後ろに続いているハルファスは手ぶらのままで何も購入していない。
さて、次はどこに行こうとするのだろうか。綾子たちが移動したのに引っ付いていく。
光琉たちが物陰から出て行くと、CDショップの斜めにあるバック店から小矢と季夕も出て来て尾行を始めていた。

カジュアルな洋服店、アクセサリーなどの小道具店と回っていく。
途中、綾子はクレープを買い求め、焼きたての菓子をほうばりつつ歩く。
のんびりした光景が続く。変わったところは微塵もない。
綾子は当然そうだが、ハルファスにしても他の客達の中に完全に溶け込んでいる。
たまに彼の横を通り過ぎる人間が、珍しい金銀妖瞳の瞳の色に惹かれて振り返っているが、それだけで、別に注意を喚起するような事ではなった。
中学生ほどと思われる4人の女の子のグループがハルファスの近くを通り掛った時には熱っぽい視線を送っていて、
通り過ぎて、少し距離を開けると、彼の方を振り返りながら小声でキャアキャア騒いでいたりもした。
事情を知らない者達は平和なもので、女の子のグループは偶然見つけた良い男の話で賑わい、左右の目の色が違うミステリアスな魅力について囀っている。

自分の連れが人目を引くものだから、綾子は気分が良いらしく、大層ご満悦な表情をして、浮かれたようにハルファスと腕を組んだりしていた。
客観的に見て、ハルファスは随分な色男らしい、と、光琉はやや場違いな感想が浮かばせた。
今までそういた観点で対象を見た事がなかったし、見る気も無かったから別にどうも思わなかったが、
それほどの美男子なら、綾子が連れを自慢したいと考えても不思議は無い。
案外、そんな理由で人の多い総合ショッピングセンターをデートの場所に選んだのでないだろうか。

やがて、綾子達は軽食を取る為に店内レストランに入っていった。
2人が入ったレストランは出入り口が一つしかないものだから、神経を張り詰めさせて注意深く観察しなくても人の出入りは一目瞭然だ。

監視されている綾子たちが緊張感に欠けた最たるものだが、こうほのぼのしていると、光琉たちにとっても緊張の手綱を引き締める手がつい緩んでしまう。
このまま何も起こらないのが一番好ましいが、何だか他人のデートを面白半分で覗いているような気がして気分の良さとは無縁だった。
今更ながらに自分は一体何をやっているんだろうと気になり、
手持ち無沙汰なものだから色々と余計な考え事が頭の中に再浮上してきて、気疲れの溜息が口から出てしまった。

「・・・・」

こうなってくると逆に辛い。沈黙が耐えがたく圧し掛かり、一分一秒でさえ実に長く感じられる。
隣にいるのが気心の知れた小矢や季夕ならともかく、シェミハウル相手では何をする訳でもないのにえらく気疲れしてしまう。
本当は会話するのも気乗りしないが、他にやる事がないこの状況では、無言の時間は針のトンネルのように感じられるのだった。
それに無言の重圧に耐えながら、無為に時間を送るよりはマシだとも思えた訳だが、単に暇だからという側面も否めない。

「・・・獣の外見をした化物は散々見てきましたが、人型ってのは昨日初めて見ましたよ。
 考えなかったわけでもないですが、いるんですね、本当に」

小声の域を出ない話しかけに、数秒遅れてシェミハウルの返答が続いた。

「奴等の外見は、そのままそっくり実力を示しているんですよ。
 “魔”の階級を、我々は概ね、四つに分けております。
 多少の知性はあるが、全体的に凶暴な獣型は下級。または、下位。
 獣型は原始的な戦闘方法しか持ち合わせておりません。つまり、持ち前の牙で噛み付いたり、爪で引き裂いたりと。
 人並みかそれ以上の知性を持ち、力も強く、少々の異能の力を扱える人型を中級、中位。
 異能の種類は様々ですが、中級クラスが使える能力は肉体操作が殆ど。
 自己の筋力を高めたりや、体の一部・・・爪や体毛などをナイフ以上に鋭く、或いは、針のように鋭利に。
 同じ人型でも、上級魔は特異な能力を有する。
 何も無い空間に突如火炎を生み出し、水を意のままに操り、何ら変哲も無い微風をカマイタチに変化させ、大地から砂嵐を呼び起こす・・・
 天変地異とまで大それた事は不可能のようですが、力のない人間にとっては充分脅威になりえる能力を持つのが上位の“魔”。
 ハルファスもその一人・・・・」

そこまで話し終えたシェミハウルは一度区切りを入れ、光琉が静聴しているのを確認してから再び言葉を続けた。

「何かに秀でたモノ・・・単純に言うなら、強い“魔”ほど人間と同じ姿を取っています。
 何百年も昔では、そうした強力な“魔”は、一目でソレを解るような禍々しい怪物の姿をしていたをしていたちと聞いていますよ。
 それこそ、伝承や伝説に登場するような魔物を姿を・・・鬼や悪魔といったね。
 今は逆に、そういった魔物の外見をした“魔”はいなくなり、人間と瓜二つの姿形をしているようで・・・
 擬態・・・でもしているんでしょうかね。魔物の姿では人間の危機感を煽り、逆に討伐される恐れが必然的に高まる。
 獲物を狩り易くする為に人の姿になって、人の中に紛れ込み、人の油断を誘ったところで、襲う。
 その意味で、“魔”が人に化けたのは進化かもしれません。私の自論ですけどね」

ニコリとも苦笑しないシェミハウルの言葉を、光琉は黙って聞いている。
この男の言う、“魔”の獲物とは、やはり人間なのだろうか、と感じ、間違いないなと思い直した。
殊更丁寧な口調を使うシェミハウルだったが、“魔”の事を言う時はあからさまな敵意や嫌悪が表面に浮かび上がってくる。
よくよく“魔”を嫌っているのが話一つで理解できた。彼にとって、“魔”とは忌むべきものであり、排除すべきもので、殺すべき代物なのだ。
その精神や、まるで十字軍(クルセイダース)だ。
異教徒は人ではなく、悪魔崇拝の忌わしい背徳者で、一片の情けも慈悲もかけるに値しない。
殺して奴等の信じる神――悪魔――の元へ送ってやれ。それが異端者にとっての最大の慈悲になる、というわけだ。
光琉には全く理解出来ない。いや、それ以前に、
本当はシェミハウルに対するそうした認識は事実とは異なっているのかもしれないが、少なくとも光琉にはそう思え、そう感じたのは確かだった。

恐らく・・・いや、間違いなく、シェミハウルの中に平穏を望む“魔”の存在など認めていないに違いない。塵クズほどにも。
“魔”を始末――シェミハウルの言い方を借りれば、駆除――する事を人生の指針としているようではないか。
それにしても、どうしてこの男は“魔”に対し、こうまで盲目的に近いまで敵愾心を抱いているのだろうか。
退魔を生業とする組織に入っている人間は全てこうなのだろうか。それとも、この男だけが特別、化物に対する強い敵意を持っているのだろうか。

余り好意的ではない、探りを入れてくるような光琉の視線に気付き、シェミハウルは僅かに肩を竦めた。
飲み込みの悪い教え子の理解力の無さを嘆く老教師の表情をしている。
口に出しては何も言わないが、内心で「やれやれ」と辟易しているのは容易に見取れた。
温和な好々爺の表情の下に滲み出ていて、言葉にしないのもするのも同じようなものだった。

「君が今、何を考えているか当ててみせましょうか。
 “魔”の中にも友好的なヤツがいるのに、奴等の全てを一纏めにして害悪だと括るのは間違っている。そう考えているのでしょう」

余人が同じ事を発した時、冷笑の表現となる物言いを、シェミハウルはあくまで分別の判断に疎い学徒に向かって教えているように、柔らかい口調をしている。
口調の柔和さはともかく、光琉を横目で見てくる眼差しや、真夏に霜が降りそうなほど冷ややかなものである。
考える余裕を与えず、相手の思考回路を氷結させるような視線。光琉も一瞬以上に気概を削がれて鼻白んだ。

「何人か、今までに君と同じような考えを持つ人間を知っています。
 結論から言いましょう。君の考えは大きな誤りです。即刻是正なさい」

口調こそ丁寧だが、この高圧的な言い方はなんだ。
憤怒してもいいところだが、光琉は気を害されこそすれ、言い返すには至らなかった。
相手が反論する精神的な熱を、シェミハウルの冷ややかな視線は凍りつかせているのだ。

「奴等の外見が人の鏡写しであるのは擬態。ならば、奴等が言う言葉も人の油断を誘う撒き餌でしかありません。
 君と同じような考えを持った人間が私の知る限り数十人犠牲になっています。
 気を許し、警戒を解き、懐まで迎え入れたところで牙を剥かれて、ね。
 そこから“魔”が魔たる由縁を学ぶには充分でしょう。それだけの血が流されてきたのですから。
 君がそれでも甘い考えを持ち続けているようであれば、いずれ学びます。君の大切な人間の血が流された時に・・・
 運が悪ければ学ぶ機会も与えられない。一度の過ちの為に君自身が自ら流した血に沈むのですから」

確かに、光琉にしても考えないでない問題だった。
相手が最初から寝首をかく意志を持ち合わせて友好的に近寄るのであれば、それに付き合う人間は滑稽なほどに惨めな道化でしかない。
優しさの所為で巨大な絶望を味わわされるのは悲惨以外の何物でもなかった。深い優しさが仇となる。
その授業料として支払われる代償は巨大すぎ、しかも二度と返ってはこない。
相手を見る目を養え。必要最低限を上回る程度に懐疑的になれ。信頼するに値できるか、観察しろ。注意深く、容赦なく。
今更言われるまでもない。歴史の教科書を捲れば、優しさが仇となって破滅した偉人、世人のなんと多い事か。
だが、他人を疑う懐疑心そのものが、おぞましい魔女狩りや異端弾圧になり、戦争に発展していく裏面も持ち合わせているのも忘れてはならない。

相手を信じなければ、流血回避の道は開けない。疑いの心を持って人に接したのでは、相手から信頼を送られるはずもない。
疑いを先に持て。何かを失ってからでは遅すぎる。後悔先に立たず。失う前に周りを疑え。周囲を疑え。自分の左右を疑え。

結局のところ、人間が前例から学び、それから出された結論は三つに分かれる。
前者二つは極論した言い方だが、間違いではないだろう。程度の差こそあれ、根幹に流れるのはそれらいずれかの観念である。
光琉は今までどちらの側にも属さず、中間的立場にいた。即ち、無関心を決め込む事だ。
相手に対して興味を抱かない。どうでもいい。関係無い。それが彼の根底に流れる考え方だった。
今後はその考え方も改めなくてはならないのだろうか・・・・

などと、シェミハウルの話を聞いた光琉が新たな問題を喚起されている訳ではなかった。
彼にとって重要なのは、あくまでも自分の身の回りの人達の安全だけに過ぎない。
他の人間がどうなろうと知ったことではないし、
顔を見た事が無ければ名前も知らない赤の他人が何人、何十人、何百人死のうと、その死に対する責任など持ってはいないのだ。

テレビで見かけるタレントや、街に流れる歌の歌手が死のうが行方不明になろうが、どうでもいい。
そんな人間達よりも、自分の周囲と、近くにいる人達が問題なければ、それで良いのである。
だから、自分の頭上に振り落ちる火の粉は払うし、自分にとって大事だと言える人間が危ない状況にいるのなら、助ける。
そんな単純明快なものだ。

そして、今現在、光琉が気にしているのは、また別なものだった。
シェミハウルの言葉・・・それを、発言者自身はどこまで信じているのだろう、と。
或いは、発言者自信も信じていない・・・と言うより、どうでもいい事柄を口にしただけなのだろうか、と。

余りに淡々と、感情らしい感情が込められていない口調。教科書に書かれている一説をそのまま音読したように思える言い方。
シェミハウル自身がそうしたものを信じ込んでいるならば、もう少し感情が込められ、口調は熱を帯びても良さそうなものなのに。
今まで読んできた漫画や小説のキャラなら、自分が持つ信念を誇り高く、かつ、狂信的に喚くものだ。
シャミハウルの言葉の中に、そうしたものは一切無かった。感じられなかった。
ある種の専門家は、自分の感情を完全に制御する術でも心得ているのだろうか。
シェミハウルは、自分の言った言葉をどこまで信じ、どこまで従っているのか検討も付かなかった。

光琉の見つめる中、シェミハウルは口を閉ざしたままにいる。
シェミハウルの傷と皺の目立つ手が上がり、指先がピクリと動いた。
だがそれは、どこにも持っていかれぬまま、下がっていく。
上がった腕が元の位置に下がり終えた時、シェミハウルは低く呻くように呟いた。
微かな声が光琉の耳に多少は聞き取れた。

「奴等にかける慈悲など一握の砂ほどにも持ち合わせてはいけない・・・
 殺すべき存在・・・殺して当然の存在・・・」

・・・・やはりこの男は、本質的な部分で狂信者じみたものがあるようだった。
狂信者という人種をこれまで見た事はない光琉だが、似たような人間なら幾らでも知っていた。
特定の何かに異常な情熱を傾ける人間・・・例えば、マニアやコレクターたちが良い例であり、あれは一種の狂信的な熱意といえるだろう。
光琉の見知った人間にもそういった特定の何かに熱を上げる熱狂者がいて、シェミハウルの言葉と眼差しは度を越えた熱を帯びていた。

虚空に投げ出された視線は鋭いだけで焦点は合っておらず、呟き声の口調にも熱病めいていて、聞いた人間の感性をプラスマイナスのどちらかに刺激する。
光琉は明らかにマイナスの方向へと刺激され、背筋が寒くなるのを感じていた。

危険だ。稲妻のように脳裏に轟いた。
こんな男の近くにいるのは、化物と部屋の中に連れ込むのと同じくらい危険ではないか。
疑いの心を持てと言うのであれば、光琉は真っ先にシェミハウルをこそ疑う。
本当にこんな人間の言う事を聞いていていいのか。後々、何かまずい事に繋がりはしないか。
思考の深みに入るが、今更途中下車など出来よう筈も無い。それに、綾子を真に助けたいと思うなら、シェミハウルの力は必要にして不可欠だった。
素人集団で、“魔”の実力者であるハルファスをどうにかできるなどと甘い考えは持てよう筈もなかった。
事に、ハルファスに関する情報を聞かされた後では・・・

否応無く気分を重くさせられた。会話したのが誤りであったと後悔する。
現在、この瞬間にも自分の周囲にいるシェミハウルという異分子。クラスメイトで、季夕の友人の綾子の隣にいる“魔”ハルファス。
目に見えて解る問題だけでも解決させるのは困難で、胃の辺りを重くさせる。眩暈さえ引き起こすように思われた。
問題や悩みに不安・・・・厄介事だけが招いてもいないのに訪れて、規模を大きくしていく。まったくもって、迷惑だけでありがたくもない話だ。

表面上は真面目にハルファスの動向を監視しながら、頭の一角では別の事を考えていた。
自分は本当に、元の生活に戻れるのだろうか、とした、現在抱えている悩み事や不安を総括した最たる懸念をである。
“魔”と言われる存在を知ってしまった以上、無視もできないが、自分の生活範囲に相手が踏み込んできた時にだけ対処すれば良いようにも思える。
だが、今となってはそれも希望的観測の域を出ていない事を自覚せざる得ない。
ハルファスが“魔”の組織的勢力の実力者であれば、間接的にも彼の殺害に協力しているのだから、
後日、ハルファスの所属しているグループの報復活動の対象にされる可能性も充分に考えられたし、シェミハウルにしても、
金銀妖瞳(ヘテロクロミア)のハルファスを殺害し、滞在期間が過ぎて本国に帰国して、それで関係を完全に切れるかどうかも問題だった。
また、後日、なんやかやと理由を拵えては助力を要請され、悪くすれば、退魔の組織に勧誘される事態も予測できた。
・・・尤も、これは過大評価の部類であり、自己過信に過ぎる感も否めなかったが。

15mくらい離れたドリンクコーナーで人込みの中、壁際の席に座っている小矢に目を向けた。
彼女はどう考えているのだろうか。
今はまだ夏休み期間中だからまだいいが、夏休みが終わり、通常のタイムスケジュールに戻れば、おいそれと化物を追って動き回る事など出来なくなってくる。
学校にいる時間を割かれ、時間的な制限を受けるようになれば、
必然的に化物相手に数時間も費やすのは難しくなり、また、3人共が空いている時間と言うのも限られてくる。

帰宅部で通している光琉はまだいいが、季夕は陸上部の正式なメンバーで、有力な選手でもある。
練習がある日はほぼ毎日で、フリーな時間は部活が終わった後と限られてくるだろう。
それでも、彼女は化物を・・・“魔”を追い回し続けるだろうか。

遠目で小矢を見る瞳を細くしながら、光琉は少し間を置いて結論を出した。
続けるに違いない。大体、夏休みに入って、彼や季夕が気付くずっと以前から続けていたに違いなかった。
二年前、彼女の父親が亡くなった時から・・・・

二年もの間、同じ屋根の下で暮らしていて全く気付かなかった自分が愚かなほどの間抜けに思えるが、誰かに罵られても否定できない。
実際、露ほどにも気付かなかったのだから、何と言われようと反論できるようなものでもなかった。

あの当時は、親を亡くした直後の幼馴染に対してどう接していいか光琉には解らずにいて、
余り付き纏って一人の時間を失くすのも悪いと考え、僅かばかり距離を取っていたのだ。
だから、当時、小矢が挙動不審なところがあっても、片親を亡くした精神的なショックによるものだと考えても、不思議は無かった。
実際に塞ぎ込む事が良くあったし、様子が変というのも日常茶飯事だった。
そうした裏で、彼女は化物を狩っていたのだろうか・・・

・・・・・何の為に?
亡くなった父親が継ぐ為か。
故人が通った同じ足跡を辿り、そうやって、少しでも親を身近に感じたいのだろうか。
この世界に、親の匂いだとか温もりだとかを求めているのだろうか。

ただ、光琉が望む「日常」というやつに回帰する為には、彼と幼馴染の3人がきっちり普通ではない世界と縁を切る必要がある。
最初、それは容易くは無いが不可能でも無さそうに思われた。夏休みの間中、小矢の手助けをしながら、同時に、この世界から引き上げさせる。
急速に行う必要は無い。徐々に危険を冒す回数を減らしていけばいい。やがて、完全に元の生活に戻れるだろう。
それが可能だと思えた。

その考え自体が、単なる甘い夢想を綴った希望的観測に過ぎなかった事を、今は痛感する思いが甚だだった。
化物が、獣だけであって、化物退治に出向く回数を重ね、始末した数を増やせば、確実に危険は減る。
町にいるの危険因子を完全に撲滅するのは難しいだろうが、自分達の周囲と、安全な日常を保証するにはそれで事足りるはずだった。
獣型の化物がこの町だけで何匹いるか定かではないが、まさか、全ての犬猫が化物だと言う事もあるまいし、何より、獣の数にしても、無限にいるわけでもないだろう。
学校に行って、家に帰り、休日になれば何処か近場に遊びに行くといった普通の生活の中で、光琉が耳鳴りを感じるのはそれほど多くは無いのだ。
時折、耳鳴りを感じたら、そのつど出向いて化物を始末する。逐次的に対処していく事で周囲から危険を減らし、確実に安全性を高め、
やがて、数ヶ月、半年もかければ、生活圏内から化物の気配を一掃、或いは、遠ざける。それは不可能ではない。
安全な日常を脅かす因子を取り除けば、こうした世界に関わる必要も無くなり、小矢が危地に飛び込む事も、彼や季夕がそれに付き合うこともなくなる。
時間さえかければ、3人共が、化物と命の遣り取りをする異常な世界から決別して普通に戻れる。
充分可能な事だと計画していたのだった。

それなのに、事態は光琉の考えを裏切り、思いも付かぬ方角へと流れ始めている。
化物が獣型ではなく人間と同じ外見を持つモノもいて、シェミハウルに代表される“魔”を狩り殺すのを専門とした組織と関わりを持ち、
今はその手伝いでこの世界で言う上級の“魔”を殺す手伝いをしている。
夏休みに入ったばかりの当時では考えられず、夢にも見なかった立場に自分が置かれているのを自覚せざるをえなかった。

たった半月ほどの間でなんて変転だろうか。
こうも急激に事態が変化するとは予測もしていなかったから、頭の中が周囲の急転にいまいち付いてこれてなかった。
とりあえず、頭の中にパッと浮かぶのは、今回の一件・・・金銀妖瞳(ヘテロクロミア)のハルファスの件を上手く片付ける事が出来るだろうか。
特別な事は何も無かった、昔のままの普通の生活に戻る事が出来るだろうかということだった。

そうした光琉の願いにも似た考えを阻害しているのは、やはり小矢であった。
彼女の“魔”と、それに関わる世界に対する考え方、受け止め方が光琉と違う。
最たるものが、化物に対する執着。思いの他、それは根深いように感じられる。
なにか、固執しているとさえ・・・

思考を一端打ち切った。確証のない推測はどれだけ考えても予測の域を超えない。
纏まる気配もない考えを垂れ流しにしていても、あまり得るものは無い。
視界の中で、綾子たちがレストランから出てきたので、それも思考を停止させる切欠となった。




数十分ほどセンターの中をブラブラしていた綾子とハルファスがようやく店外へ出た頃には、空は太陽が少しばかり傾いていた。
中天の座から離れつつあったが、依然陽光は明るく街を照らし、夕暮れの赤味がわずかながら空に滲んでいた。
時間を確認すると、5時58分。実に4時間以上もショッピングセンター内に居て、3時間以上も尾行している。
一体何をやっているんだか、と、今日何回目になるかもしれない考えが頭をもたげ、徒労の吐息が喉を競りあがってくる。

ハルファスの行き先が人気のない場所へと向かっている、というのなら緊張の手綱を再度握り締められようものだが
、綾子とハルファスが歩いていく場所は人通りの多い大通りで、擦れ違う人の多さとそこで聞こえてくる話し声といったら、
神経を張り詰めさせる緊張感とは無縁のものだった。

このまま、人の多い場所を行き交いして、買い物を楽しみ、お喋りを楽しみ、遊びを楽しみ、
彼女を自宅まで送って、それで終わりとなれば、昔ながらの健全なデートの再現ではないか。
当事者たちはそれで面白いかもしれないが、尾行している者としては些か変な気分になってくる。

尤も、何も無い方が綾子を危険な目に合わさずに済み、彼女が自宅に帰ったのを見届けてから、
一人になったハルファスと懸念なく接触できるからそれに越した事は無いのだが、心のどこかで釈然としないものを感じていた。

おかしいな・・・と、光琉は自問する。
これでは、まるで、何か起こって欲しいと期待しているようではないか。
何も起こらないのが一番良い筈なのに、平穏こそを求めているはずなのに・・・

普通に、平穏な学校生活を送っていたときに良く感じていた気分に似ている。
何ら心配の無い生活の中、刺激を求めている。そんなものに今の気分は似ていた。
何も無い静けさを好むのとは裏腹に、心の片隅には、騒動を好む性質でもあるのだろうか。

内心で肩を竦める光琉だったが、彼が真に望む望まざるに関わらず、厄介事は常に向こうからやってくる。
程なくして、それを改めて思い知らされる事態が待ち受けていた。

綾子たちの後を付いていく途中、不意に耳鳴りが襲ってくる。
頭の中でがなりたてる反響に立ち眩みを覚えそうになった。
脳裏で響く甲高い金属音。新たな“魔”が近くにいるのだ。それもかなり至近、この大通りの中に。

こんな時に!
と、舌打ちを口内に閉じ込めながら、同時に訝しがった。
タイミングが良すぎるのだ。ハルファスの追跡中に新しい化物の登場。まるで、示し合わせていたかのようではないか。
ハルファスが最初から尾行されているのを知っていて、自分たちを用意していた網の中に呼び寄せたとさえ考えられる。

どうする。
ハルファス一人でさえ、戦うとなったら危険すぎる相手であるのに、ここに来てもう一匹の化物も相手にする事になったら、勝算などあるのか。
リスクが大きすぎる。無理に事を押し通しても、綾子を助けるどころか、一網打尽にされかねない。
ここは一度退き、後日の機会を待つのが最善ではなかろうか。
その結果、綾子がどうなっても仕方が無い。まずは何よりも自分の命をこそ優先するべきだった。

前方5mの前を歩く小矢と季夕は、綾子とハルファスを尾行するので頭が一杯らしく、新しく感じた“魔”の気配の全く気付いていないようだ。
“共鳴”を感じられない2人には仕方の無い事ではあるが、もどかしい。彼女等も耳鳴りを感じる事ができれば、もっと楽に次の行動を決められるのに。
走り寄っていって、教えるべきだろうか。

そうこう考えているうちに、耳鳴りが一際高く鳴り響いた。
今、30代半ばのサラリーマン風の男が隣を過ぎった瞬間に。
肩越しに振り返り、男を見ると、ハルファスとは逆方向に歩き去っていく。
後姿が遠ざかるにつれ、耳鳴りの反響は小さくなっていく。

なんだ、ハルファスとは関係ないのだろうか。
それとも、そう思わせておいて、油断を誘うつもりなのだろうか。
いくら考えても解りそうに無かった。考えれば考えるほど悪い予想しか出てこない。

どうする・・・今の男を無視してハルファスの尾行を続けるか、ハルファスが用意した罠の危険性を考えてここは一旦退いた方がいいか。
自らの安全性を第一に思うなら、退くべきだが、季夕がそれを良しとするだろうか。友人の身が関わっているのだから、快い答えは望めるはずも無かった。

自らの行動を決めかねる光琉の隣を歩くシェミハウルの足がふと止まった。
首を回せば、温和な表情を消え失せさせ、無表情に彫り上げた仮面を被っているかのようなシェミハウルが立ち止まっている。
なんだろうか・・・この男も“共鳴”を感じられるのだろうか。
怪訝に思いながらも、声を掛けようとした矢先、出鼻を挫かれて向こうからの声が飛んでくる。

「・・・結界用の霊符、今、持っていますか?」

「・・・え?・・・あ、はぁ。
 一応、四方を囲む四枚ばかりは小矢に渡されていますが?」

「そうですか。では、5分で済みますから付いてきてください」

何を言っているのか、光琉にはいまいち理解できなかったが、シェミハウルはさっさと足の向き先を転じて歩き出している。
5分・・・・? 何が5分で済むというのだろう・・・と、訝しそうな目で背広の後姿を眺めた。
このまま、ここで突っ立っている訳にもいかず、訝しがりながらも彼の後を追って行く。

ハルファスが進んでいる方向とはまるきり逆方向の道・・・来た道を戻る。
そちらに進むに伴い、再び耳鳴りの音量が大きくなってくる。
先ほど横を擦れ違ったサラリーマンの跡を確実に追っているようだった。
後姿も見えなくなったのに、よくも正確に跡を辿れるものだ。
シェミハウルもやはり“共鳴”を感じられるのだろうか。

「何かあったのですか?」

探りを入れてみるために声をかけてみる。

「今、私たちの横を通り抜けた男・・・“魔”ですよ。
 尾行に気付いたハルファスが用意したのか・・・それとも、最初から尾行を想定して用意していたのか・・・
 どちらにせよ、ここにいるのが偶然ではないとしたらハルファスの一派です。放置しておくのも事でしょう」

「・・・何故、“魔”だと解ったんです? 横を通っただけで・・・
 “魔”の存在を感知する音でも聞いたのですか?」

「・・・・音?」

光琉の言葉に、一瞬、シェミハウルは眉を顰めたが、すぐに思い当たる節に行き着いたらしく、「ああ」と呟いた。

「“魔”が同族である他の“魔”を感じた時に起こる“共鳴”現象なんて私には聞こえませんよ。
 長年“魔”と関わり、“魔”と相対してきたからでしょうか、私は匂いで解るんですよ」

「匂い・・ですか?」

「ええ。異物が近くを通りかかるとね、匂うんですよ・・・
 “魔”は臭い。私の鼻はその独特の匂いを嗅ぎ分けるのです。アイツ等の独特の匂いを、ね」

微笑というには霜が降りた笑みがシェミハウルの口端を吊り上げた。
そういうものだろうか、と、考えを吟味するが、こればかりは幾ら考えても解らない。
経験とこちらに関わってきた時間が違いすぎる。熟練者だけが感じるある種の感覚的なものは、論理や思考で溝が埋まるものでもない。
どこまでも経験と時間の密度によってのみ溝を浅くする事が出来るので、
いくら考えを重ねたところで感覚的なものを掴める筈も無く、光琉は頭を振って考えを追い出した。
無用な考え事を追い払ったところで、更に続く言葉が聞こえてくる。

「そもそもアレ・・・“共鳴”は、人が習得できる技術ではありませんよ。才能も努力も全くのナンセンス。
 “共鳴”現象は唯一“魔”・・・或いは、そう・・・“魔”に近い存在だけが感じる現象で、通常、人間の為の現象ではありませんよ」

明確に断じてから、シェミハウルは口を噤んで少し思案顔を浮かべ、ほんの3秒ほど考え込んでから口を開いた。

「例外はあります・・・が、例外は稀でまずありえない例外です」

僅かに肩を竦めて苦笑混じりに漏らされたシェミハウルの台詞は、光琉にとって遅効性の毒となった。
決して即効性はなく、鈍器で殴られたような衝撃はこないものの、何か、胃の腑から毒液がジワリジワリと滲み出てくるような気分だ。
それと知らずに足を踏み入れた場所が底無し沼だったような感覚だろうか。嫌な感触が何処からとも無く湧き上がり、精神を蝕んでいく。
悪寒を伴う感触に、光琉は小さく身じろいだ。

“魔”だけが感じるものを、どうして自分が感じるのか・・・
稀という例外の一つなのだろうか・・・
例外とは、具体的にはどういったものだろうか・・・

浮かんでは過ぎてゆく考えに、一瞬、目の前が暗くなる思いがした。
何だと言うのだろうか。先天的に特殊な才でも備わっていたのだろうか。
・・・それとも。

迷宮の深みへと沈みそうになる思考を断ち切る。
考えても仕方ないと思いながらも、つい考えてしまうが、これも結局、一人では答えの出せないものの一つだった。
頭を軽く振って思考を余計な思考を追い払おうとしたが、上手くいかなかった。脳の底部に異物がこびり付いたように考えの一部が張り付いていた。
浮上を果たそうと試みてくる思考の働きを無理矢理抑え付け、シェミハウルの後に従った。

サラリーマン風の男が大通りを外れた脇道に入り、ゲームセンターの裏手駐車場を進んでいく。
建物の影に位置していて、人気が無く、また大通りから人目が届かないのを確認するとシェミハウルが耳打ちしてきた。

「ここがいいですね。ここに2枚、あの男の先に2枚霊符を張って、結界を作ってくれませんか」

即座に実行した。
ゲームセンターの壁に一枚。数m横に移動した場所にに屈み込んでアスファルトに一枚。
2枚張り終え、先を行くサラリーマンを小走りで追い越す。駐車場の出口付近に一枚。最後に近くにあった道路標識の柱に一枚。
次々とタッチしていく光琉の様子をサラリーマンが訝しがる目付きで眺めている前で、結界はすんなり完成した。
光琉の仕事はこれで終わりだ。後はシェミハウルの専門分野だが・・・・。

「すいません」

サラリーマンの背後に近寄ったシェミハウルが愛想のいい口調で声をかける。
男が何気なく振り返ってくる瞬間、背広から抜いた銃口を突きつけ、躊躇なく二発トリガーを引いた。
超至近からの射撃。外す要素など原子単位ほどもない。45口径の鉛弾が正確に心臓を撃ち抜いた。

「死は万物を平等に迎え入れる・・・安んじて無へと帰れ」

男が何を言う暇も無かった。恐らくは自分の身に何が起きたかすら理解する余裕も無かったに違いない。
目を白黒にさせ、口を僅かに開いた驚きの表情のまま凍りつく男に向かって、シェミハウルが歌うように祈りの言葉を呟いた。
動力の切れた機械人形のように、男の膝がガクンと落ち、地面に倒れこんだ。

その一部始終を傍観しているだけだった光琉は唖然となっていた。目が点になっているとの表現が最も適切なくらいに。
流石に人の死体を目撃するのは二度目ということもあり、血を流す死体自体から受ける衝撃は大きくなかった。
とはいえ、少なかっただけでゼロであった訳ではない。だが、今回はそれよりも目の前で行われた一連の動作に驚きを禁じえなかった。

心理状態は思考停止寸前で、鮮やかだ・・・とした程度の感想しか浮かばないでいた。
それほどまでにシェミハウルの手並みは鮮やかだった。
一瞬・・・まさに紫電の如き一瞬。
相手に呼びかけ、振り向いた直後に心臓へ二発。それで終わり。
突出した手際の良さの芸術に例える事は多々あるが、シェミハウルの芸当はまさに芸術だと呼んでも過言はなかっただろう。

殺しという裏の専門スキルに特化した芸術を目の辺りにして、思考停止にまで陥っていた光琉の精神が徐々に復旧を始める。
再稼動し始めた心理がまず行った事は、背筋に悪寒を感じさせる事であった。
心理的不快感を伴う悪寒。背骨に沿って氷の体温を持つ一匹の毒虫が這い上がってくるような感触。
“魔”とはいえ、今まさに一人を殺した直後であるにも関わらず、微塵の歯牙にもかけずに顔の筋肉一つピクリともさせないシェミハウルを見ていると、
まるで、死神か何かと出くわした気分になり、胃液が逆流してきそうな悪寒に囚われる。

・・・・・無茶苦茶だ。常識外れにも度が過ぎている。こんなのは無茶苦茶だ。
いきなり・・・何の前触れもなく撃つか。ただの通り魔ではないか。性質の悪いことこの上ない。
無茶苦茶すぎる。理解なんてできそうもない。常軌を逸している。

いま少し、光琉に正常に物を考える思考力の余裕が残されているなら、彼は苦笑を誘われただろうか。
元々、通常の常識から外れた世界に自分は足を踏み入れているのにも関わらず、そこで常識を求めるとは、と。
残念ながら、か、当然ながら、か、今の彼にそんな方向に事態を捉える思考力は皆無であった。

硬直する光琉は、視界の中に見知った顔を捉えていた。
季夕が、シェミハウルの数歩後方に立ち尽くしている。顔面から血の気を失せさせた表情をして、息を飲み込んでいた。
綾子とハルファスを追って、大通りを歩いていた光琉たちが逆送していくのを見て、気になって後を追って来たのだろうが、
今までの光景を見ていたのは彼女の表情を見れば一目瞭然だった。

流石に、これには動揺を隠し切れないらしい。それも当然の事だろう。季夕はまだ、人間と化物を実際に見た事が無い。
ハルファスを顔を見たといっても、人型の“魔”が死ぬ光景は見ていないのだ。ともすれば、それは人間を殺しているように思えても不思議な事ではなかった。
・・・そんな印象を持つのも、また、当然かもしれない。

「とんだ所でくだらないゴミ掃除をしてしまいましたね・・・
 一応“結界”は張ってありますから処理班が到着するまで誰も気付かないでしょう」

得々とした調子も無く、朝ゴミ出しに行った帰りのように淡々とシェミハウルは嘯いた。
人の良い教師を思わせる温和な表情で光琉の方へ振り向き、言葉を続ける。

「“魔”を仕留める時に狙う場所は、心臓です。
 手や足を切り落とせば、確かに動きは鈍く、或いは止まりますが、死には至りません。
 普通の人間であれば出血死するほどの血を流しても、コイツ等は平気な顔で動き回ります。尤も出血死でも殺せる事は殺せますが。
 頭を破壊しても殺せますが、その方法だと死体が残る。しかも、悪い事に、死んだ“魔”の細胞組織も血液も、人のソレと変哲無い。
 つまりは・・・完全に人間の死体となるわけです。
 そして、人間の死体が第三者に発見されたとすれば、殺人になり、警察機構の管轄となる。
 ですから、もたつき、時間をかけ、現場を第三者に見られては拙い。色々とね。
 心臓を完全に破壊して殺し、完全に息の根を止め、その痕跡を消すのです。
 ガソリンをかけて火を放つのも、川に沈めるのもお好きに。
 どうせこいつ等は見た目こそ人間ですが、住民登録もされていないのが大半です。
 死体が出てきたところで後日の事ならば身元不明者として特定されぬまま迷宮入りで終わりますからね」

光琉と季夕の表情に全く関心が無いように、シェミハウルはふと視線を下げ、男の死体へと顔を向ける。

「しかし・・・コイツがハルファスの一派と無関係だったとすると・・・・越権行為になりますかね・・・
 組織同士の取り決めで、それぞれの国に巣食う“魔”は各々の国家に属する組織が対処に当たるルール。
 実に馬鹿げた条約ですが、ルールはルール・・・・
 まぁ、後日、適当な理由を報告書に書いて上に提出するとしますか・・・」

苦笑混じりの表情で、無骨な拳銃を背広の内へと戻したシェミハウルが足を動かす。
立ち尽くすままでいる光琉と季夕を交互に眺めやり、「さて、ハルファスの追跡を再開しましょう」と、さも当然の如く言って、道を戻り出した。
どんどん遠ざかっていく彼の後姿を見ながら、光琉は心底怖気を感じていた。恐怖・・・そう、恐怖。恐ろしい、と、本気で思った。




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