第三章・表/8





アルプラザに到着した時刻は1時25分きっかりだった。
光琉は徒歩だと考えて2時手前を予想していたのだが、シェミハウルがホテル前にタクシーを呼んだので大幅に時間を短縮できたのだ。

アルプラザの周囲には、徒歩一分以内で行ける距離に、ビデオレンタルショップとアミューズメントセンター、スポーツジム、それに書店が集中している。
ここに来れば、遊ぶ事には事欠かず、暇を持て余しているのなら暇潰しにはなるとあって人数も半端ではない。
駅前よりも店の種類が豊富かもしれず、複数の車と人が絶えず視界に入りこみ、どれも忙しなく動いていた。
大勢の客で賑わうショッピングセンターを前に、シェミハウルはまず、周辺地域を徒歩で見て回る。
正面入り口前に光琉たちを残し、ぐるりと一周して戻ってくるのに約5分ほどが必要だった。

「それなりの敷地を有していますね・・・」

彼の言うそれなりがどの程度の広さを指すのか光琉には解らない。
広いなと単純に言っているのか、田舎町のショッピングセンターにしては広いと言う事か。
ただ、たった4人でカバーできる面積でないのは確かだ。

正面玄関を除いても、東と南にも出入り口はあるし、二階駐車場からも出入り口はある。
何より、正面玄関自体が10m間隔で総数10近い数の自動ドアを設け、そこを行き来する人をチェックするだけで3人は必要となってくる。
出入り口全てに人を置いて、綾子と連れを確認するのは不可能な話だった。

「・・・・携帯で綾子がいま何処にいるか、連絡取って確認してみようか?」

頭を並べる中、季夕の一言は意外に名案であるように思われたが、シェミハウルが即座に否定する。

「それで相手の所在を確認できても、相手に疑念を抱かせる恐れがあります。
 ハルファスに警戒されては奇襲の意味がありませんよ。
 警戒された結果、行き先を変更されたりすれば、まず危険になるのは貴方の友人です。
 自分の痕跡を消す為・・・最悪の場合も想定できますし」

などと指摘されれば、携帯電話を使うわけにもいかない。
友人を助けたいが為に協力しているのに、自分の浅はかな行動から友人を危地に追いやっては逆効果もいいところだ。
意見を一蹴された季夕は、最悪の場合を想像し、顔色を青くさせながら黙って引っ込む。

振り出しに戻ってしまった。何か良い方法はないものかと雁首並べて、思案する。
3人寄れば文殊の知恵というが、あれは嘘だな、と、光琉は思い、こんな時であるにも関わらず内心苦笑した。
何人集まったって、出来る事と出来無い事は区別される。それこそ、100人いたところで、出来ない事もある。

結局、地上出入り口を固める事となった。正面ゲートに2人、東と南に一人づつ配置する。
あと二人人数がいれば、正面に一人増やし、二階駐車場からの出入り口も見張れるのだが、贅沢はいってられない。
仮に綾子たちがタクシーを使ったとしても、タクシーを二階駐車場に停める人間なんていない。
また、金銀妖瞳(ヘテロクロミア)の男が車を持っていたとして、二階駐車場を使うとしても、正面ゲートからある程度、上に登る車両を確認することができる。
二階駐車スペースに繋がるスロープを車が登る数秒で、全ての車両をチェックするのは困難ではあるが・・・
しかし、休日ならともかく、平日で地上駐車場の空白スペースもあるのに、わざわざ二階駐車場を使う人間はいないと考えるのが妥当だった。

場所の割り振りは、正面ゲートに光琉と季夕、東出入り口に小矢、南出入り口にはシェミハウルが立つこととなった。
光琉たち3人は綾子の顔を知っているので、綾子が来たかどうかをチェックすればいいし、シェミハウルなら金銀妖瞳(ヘテロクロミア)のハルファスを見つければいい。
目標を発見次第、携帯電話に連絡を入れる旨を伝え、それぞれの持ち場に移動する。

所定の位置について、暫くは正面ゲートの前の人目につきにくい場所を選んで身を潜めるように客を観察していた光琉だったが、
10分が過ぎても綾子と連れが訪れる気配もないと見遣るや、中に入った。
正面で入り口を潜ったすぐ近くのフロア、そこからなら三つのゲートから入ってくる客を見渡せた。
最初からここで張っていれば良かったなと考えていると、同じ事に気付いたらしい季夕が中に入ってくるのが見えた。

「初めから中で待ってれば良かったね」

「違いない」

苦笑してくる季夕に光琉は肩を竦めてみせた。
ただ、ここからは、正面玄関から店内に入る客を見渡すには絶好の位置取りだが、身を潜められるような場所がなく、
向こうからもこちらを見つけやすく、二階駐車場に登る車両を確認できない二点がネックだった。

七つの自動ドアからなる正面ゲートの構造は、幾つかの自動ドアが纏まった巨大なゲートが三つ構成で分かれており、
三つの入り口が纏まった正面出入り口を少し入った店内の中からでも、真中に位置するゲートの近くからなら、とりあえず正面から入ってくる客の顔を全て見渡せる。
一度に入店してくる客はざっと20人前後。
不規則な間隔を空けて店内に入ってくる客に視線を走らせながら一人一人の顔をチェックしていると、数分ほどでイヤになってきてしまう。

「・・・ね」

「あ?」

注意力散漫になって出入りする客のチェックも鈍くなってきたとき、中央ゲートから背中合わせのような格好で右と左の出入り口を見渡していた季夕がふと呟いた。

「ヒカルはさ、見たんだよね?」

「・・・・?」

質問してくるが、何に対しての質問か掴めずに首を傾げる。

「人とそっくりの怪物を・・・」

ああ、そのことか、と、頷き、光琉は次の質問を予測して押し黙った。

「どんなだったの?」

「・・・普通の・・・そう、普通の人間と変わらなかった。
 何処にでもいるような・・・道で擦れ違う他人と変わらないよ。
 ハルファスって男は一度見ただけだけど、次に会った女の化物は、人間と大差なかった・・・」

ナイフ並の鋭さを持つ爪が伸びたり、普通の人間であればショック死するか、
出血で失神するかの大怪我を負った状態で動く事さえなければ、普通の人間と変わらない。何ら、変わっていない。
感情もしっかりあって・・・喜怒哀楽も感じているようだった・・・何より・・・

「俺と小矢が戦った女の化物は・・・俺達と戦いたくは無さそうだった・・・・
 危害を加えるつもりはないから、見逃してくれって・・・そう言っていた・・・・」

「えっ・・・?
 それって、どういう・・・・? だって・・・・怪物なんでしょ・・・?
 それなのに・・・・?」

「う・・・ん。無駄な争いはしたくないから退いてくれって、言ってた・・・・
 嘘じゃなかったと・・・思う」

そう・・・あの女の言った言葉は信じる事が出来るに足るものだった。
嘘をついているようなものではなかった。進んで、人と、いや、少なくとも小矢や光琉自身に危害を加えるつもりは欠片もなかった。
今でも・・・そう思える。
あの時見逃していても、何事もなく日常を送れた・・・・街で擦れ違っても、普通に挨拶を交わし、通り過ぎる。
普通の知人程度に付き合って、なんでもない日々を送れていただろう。

「殺す必要なんて・・・・あったのかな・・・・」

今も深く残る疑惑だ。
あの女の“魔”が、それこそ化物じみた凶暴性と残虐性を象徴する思考を持っていたのなら、こんな疑問は生まれなかっただろう。
獣と相対するように、逡巡も躊躇もなく、疑問など生まれる余地も無く、明確な敵と位置付け、認識できていた。
だが、現実に、光琉が遭遇した人間と同じ姿の化物は、人間よりも平和性に富んでいた。皮肉な話には違いないが、事実だ。
彼女は殺し合いなんて望んでいなかった。ただ、人間と同じように、普通に生活していたかっただけじゃなかったのか。
何も殺す必要はなかった。殺す事なんてなかったのではないか、と、疑問は光琉に繰り返し繰り返し問い掛けてくる。

答えは出ていない。そもそもこの疑問に対する回答を彼自身が持っていなかったとでも言うように、そんな権利などないと言うように答えは出ない。
答えは出ずとも疑問だけが繰り返す。降り積もる雪のように、静かに、音もなく。

「殺す必要なんて・・・・あったのかな・・・・」

もう一度同じ事を呟いた光琉が、季夕に視線を向けた。
自分一人では回答が得られそうになく、彼女の考えを聞きたいと感じた末の無意識の眼差し。
目を向けられた季夕が、俯き加減に考え込んだ。暫くの逡巡の後、口から出たものは。

「・・・・・自分や自分の周りに危険を及ぼすようなら、仕方ないけど・・・それ以外なら、ちょっとね・・・・
 その状況になってみないと、解らないわ・・・」

どことなく疲れたように頭を振って肩を竦めると、季夕は心持ち苦笑に近い表情を浮かばせる。
それはそうかもしれない。目の辺りにしていない話を振られても実感など湧かないだろう。
運が良ければ、今日にもその現実を目の前にするかもしれない。
金銀妖瞳のハルファスと呼ばれる化物が、あの女のように話の解る相手であれば・・・・・
・・・・・その可能性は低いのだろう。シェミハウルの話を鵜呑みにする限り、話が通じる相手ではない。

だが、光琉はシェミハウルを今ひとつ信頼していなかった。そして、彼の言葉も丸まる全てを鵜呑みにはしていなかった。
落ち着き払った態度や口調が気に入らないからかもしれない。ただの生理的嫌悪に寄るものかもしれない。
シェミハウルの言った、金銀妖瞳(ヘテロクロミア)のハルファスの説明が、自分達を都合のいいように躍らせる為の虚言だとする可能性はないだろうか。
相手が人を殺す事、人に危害を加えることに些かの躊躇も覚えない化物だと吹き込んでおけば、戦う時こちらも躊躇いを持たずに済む。
それを見越しての、虚言・・・そうした可能性は無いだろうか。

考えていても仕方なかった。
結論を出すには、ハルファスの情報が少なすぎた。
光琉が知る事柄は全てシェミハウルによって与えられたものであり、それだけをもって正しい回答を導くのは不可能の領域だった。
全ては、会えば解る。実際に会ってみれば、判明する。

だが、どちらかといえば、会いたくは無かった。シェミハウルの説明が真実だとすれば、危険極まりない敵を相手にする事になる。
自分一人ならまだしも・・・・目の前で背中を向けて逃げ出せば済む事だが、小矢や季夕が一緒ともなればそうはいかない。
女二人が立ち向かう中、男である自分が逃げ出すのは格好も付かずにみっともなさすぎるという観念以前に、
自分が逃げた結果、二人を死なせるような事があっては、生涯、後悔を背負って生きる事になるだろう。
朝起きても、昼動いても、夜寝ても、苦渋に満ちた悪夢に付き纏われる。
後悔と罪悪感に打ちのめされながら、何かあるつど、あの時、自分が逃げなければ・・・と、悲哀の涙を流すのはご免だ。
死んでも遠慮したい事に違いなく、そんな一生を送るならば、それこそ、死んだ方がましではないか。

「それにしても遅いね・・・綾子・・・
 今日になって行き先変更したのかな」

腕時計を見て時間を確認した季夕が小さくぼやく。
2時21分。30分以上も見張っているのにまだ見つからない。
単に遅れているだけかもしれないが、季夕の言う可能性も無きにしも非ずである。
ここまでして相手が直前になって行き先を変更し、別の場所に行っているとなれば自分達はひどい道化を演じていることになる。

無駄に時間を空費しているかもしれない中、光琉は不思議と苛立ちや残念と感じていなかった。
相手が行き先を変え、無駄足を踏んでいる。それもまた、いいかもしれない。
自分たちの今の立場は、待ちぼうけを食わされる間抜けに過ぎないが、相手が行き先を変更してくれたのなら、無理に殺しあわなくて済むのだから。
対立を一時的に回避したに過ぎず、シェミハウルはまた後日、改めて化物を追うに違いないが、とりあえず、今日は危険に晒される事はないのだ。
目の前の問題を先送りにしただけで、何の解決にもなっていない。それでも、危険なことに自分から飛び込む真似はしたくなかった。

「一度連絡入れたほうがいいかな・・・」

「それはマズイってさっきアイツが言ってただろう?
 片山の連れが本当に化物だったら、変に警戒させて片山の身が危なくなるんだからさ、止めとけよ」

「うん・・・・そうなんだけど・・・・
 でも・・・綾子が行き先変えていたら、ここで待っていても仕方ないし・・・」

「心配なのはわかるけど、焦って状況を悪くしたら元も子もないぞ」

「そうだけど・・・さ」

俯きがちになっている季夕は、手の中で携帯電話を弄んでいる。
光琉にとって人事だが、季夕にとっては親しい友人が関わっている事である。到底、平静を保ってはいられないのだろう。
出来る事なら今日中に片山 綾子の連れが人か化物か白黒はっきりさせて、一刻も早く、綾子の身柄を安全にしたいに違いない。
問題の先送りなどせず、後顧の憂いを完全に断ち、自分も安心したい。その思いが季夕を焦らせていた。

リダイヤルボタンをプッシュして、通話ボタンに指をかけるが、暫くの逡巡の後、通話を押さないまま結局は切ってしまう。
同じ行為を何度も繰り返し、溜息を吐き出すと、また携帯電話を取り出し、リダイヤルして通話を押さずに切る。
焦燥に駆られる季夕の行動を光琉は余裕を持って見守っているが、幼馴染の焦りは理解できるものだった。

今回は危険に最も近い位置に片山 綾子が配役されているだけであって、いつ、自分や季夕と小矢が彼女の役回りを押し付けられるか解ったものではない。
化物と隣り合わせになっているのが小矢や季夕だったとしたら、光琉も気が気ではなくなる。落ち着いていられる余裕は吹き飛んでしまうだろう。
相手が好戦的ではないと解っているのなら、まだ安心もしていられるが、事、小矢は、“魔”に対して異常とも思える敵愾心を持っているので余計に不安だった。
彼女の偏執的な執着と度を越えた敵意は避けられる危険までも自分の元へ呼び込み、
または自分から渦中に飛び込むように思え、現在、光琉の最たる不安材料でもあり、気掛かりになっていた。

「・・・もしかして、見逃した・・・・?」

俯いていた季夕が不安げに呟く。意識せずとも光琉の耳に入ってきて、ピクリと顔の筋肉を強張らせた。
入り口で見張っているとはいえ、どだい人数が少なすぎる。完全に出入りする人をチェックするのは不可能に近いものがある。
彼らがうっかり見落としているだけで、監視対象となる綾子たちが既に店内に入っている可能性は否定できなかった。

「いや・・・どうかな・・・・
 確かに、考えられない事じゃないけど・・・一応、小矢達に連絡入れて確認してみるか?」

光琉の意見に頷いて、季夕は素早く携帯電話のメモリから小矢の番号をプッシュして呼び出す。
3回もコールが続かず、すぐに接続された。

『見つけたの?』

「まだ見つけてないけど、確認の為に連絡してみたんだ」

『そう・・・・こっちもまだ。
 ・・・随分と遅いね、片山さんたち』

「・・・・ねぇ、見落としとかないかな?
 もしかして、もう中に入ってるってこと、考えられない?」

『う・・・・・・ん。こっちは見落とし無いと思う・・・
 私の見張ってる東側の出入り口はそれほど人の出入り多くないし、一人でも充分確認できるから・・・
 でも、他の場所から入ったってことも考えられるよね。
 センターの裏手にある駐車場に近い南口と、季夕が見張ってる正面は人の出入りが多いもの。
 特に正面は2人で行き届いたチェックが出来るとは考えにくいし・・・』

「行き先変更して、綾子が別の場所に行ってる可能性もあるよね・・・?
 今から綾子に連絡取った方が良くないかな? 一度合流しない?」

電話の会話を傍で聞いていた光琉の耳の奥、不意に響いてきた。
壁一枚を隔てて聞こえてくるように鮮明さを欠き、地の底から這い上がってくるようにも聞こえるくぐもった音。
耳鳴り。“魔”に反応して発する「共鳴」という名の耳鳴りが脳裏に木霊した。

「・・・っ」

思わず片手を耳にあて、俯き加減に屈みこんだ。
鼓膜に反響する低く鈍い音の響きが単純な耳鳴りだと思いたかったが、
頭の何処かで「共鳴」だと確信している部分があって、希望的観測を否定してくる。
自分の中の論理的でない直感の確信を信じるならば、意味するのはたった一つ。
目当てのハルファスか、それとも別のモノか、ともかくも化物が近くにいるという事だ。

会話に没頭する季夕は彼の僅かな異変に気付かない。
合流して対策を練り直すかどうかの確認を行うため、小矢がシェミハウルに連絡を入れると決まったようだ。
通話を切ろうとする季夕の腕を光琉が止めた。

「どうしたの?」

「代わってくれ!」

説明不足は充分承知の上で、彼女の手の中の携帯電話をひったくる。
向こうも接続をまだ切ってはいなかった。こちらの変化に気付いたらしく状況を確認してくる声が聞こえてくる。

「聞こえた」

『え? 光琉? どうしたの?』

「耳鳴りが、聞こえた」

『・・・!』

ハッと息を呑む音が聞こえた。電話の向こうで小矢も光琉の言わんとする意味を察したのだ。

『・・・・どの方角から反応が強いから解る?』

「いや、そこまでは・・・・」

『・・・・こっちに近づいてるのは間違いない?』

「それは間違いない」

きっぱりと断言した。
こうしている間にも、耳鳴りは遥か遠くの水平線から聞こえてくる船の汽笛のように徐々に音が大きくなりつつあった。
何に、或いは、誰に反応しての耳鳴りだかは特定など出来るはずも無いが、こちらに向かっているのは間違い無い。
獣か、人か、どちらにせよ化物。人間ではない存在。問題は、近づいてくる相手が友好的か、好戦的かだった。
話し合いで解決するのなら、それに越した事は無い。危険の只中に飛び込むのを、生きる糧と考えているのでも、趣味にしているのでもないのだから。

『・・・とりあえず、そっちと合流するね』

「ああ」

短く応答し、通話を切る。
携帯電話を返してやると、事情が解らない季夕が怪訝な表情をしていた。

「・・・・どういう意味?
 耳鳴りって・・・・なに?」

「・・・・」

自分の事は季夕には話していないのを思い出し、聞かれて押し黙ってしまった。
説明するのは簡単だが、それをどういった言葉で話すか、選択は難しい。
ただ、黙秘を続けて隠し通すような事でもなかったから、充分に言葉も選ばぬままに口を開いた。

「化物が近づくと、俺は耳鳴りとして感じ取れるらしい・・・・
 頭の奥の方で独特の音が鳴るんだよ・・・そうしたら、近くに化物がいるって合図になるようだ。
 “共鳴”って現象だって、小矢が言ってた」

「・・・なにそれ・・・どうして、ヒカルが?」

「さぁ・・・才能でも、あったのかな。
 とにかく、化物が近くにいると、頭の中で、こう、キィィンって音が反響するんだよ」

最後の言葉をおどけた口調で言い締め、肩を竦める。
聞かれたって解らない。光琉自身も解らなければ、聞かされてもいない事だ、説明など出来るはずがなかった。
だが、言った直後、光琉は自らの発言にアレっと首を傾げた。
何か、妙な矛盾を感じた。おかしい。違う。差異点がある。何だ・・・

「・・・・そう」

納得したのかどうか判別に難しい吐息を吐き出しながら、季夕が目線を向けてくる。
本当に、化物の接近を耳鳴りなんかで感じているのだろうか、本当なら、どうしてそんな事が可能なのか、と、探っているようだ。
外見を眺めただけで真偽のほどが解るのなら苦労はない。彼の顔に向けられていた視線もやがて床に落とされ、季夕の口から小さな溜息が洩れる。

途切れる事を知らずに、低い、低い耳鳴りの音響は耳孔の細いトンネルを通って鼓膜を震わせ、脳髄にまで鳴り響いていた。
どうにも歯痒い。耳の奥で鳴っている音が頭の中に聞こえてくるだけで、相手の正確な位置は全く掴めない。
相手が今、何処にいるのか、自分からどの方角に、どのくらいの距離の場所にいるのか解らない。
ただ、耳鳴りが聞こえているから相手が近くにいる。それだけだ。

いや・・・本当に近くなのかさえも光琉には判断できないでいる。
耳鳴りが化物の存在を察知して発生する仕組みだとしても、自分の能力がどの程度の距離までカバーできるのか全く把握していないのだ。
半径1kmほどもカバーできるものなのか、それとも数百m単位か、いや、もしかしたら数十mから十数mの距離でしか働かないのではないか。
相手がどうであれ、人ではない存在がいる。感じている。
自分が解るのはそれだけで、相手のいる方角も距離も解らないのは歯痒いとしか言えなかった。

待て・・・待てよ。
そう、光琉は自分に言い聞かせ、慎重に記憶の回想録をめくった。
今までに耳鳴りを感じた事は何度もあった。夏休みに入ってからは頻繁に聞こえ出した。異常なほどだ。

―――ええい、くそっ。
夏のバカンスを冷房の効いた部屋でごろ寝して、不健康優良児よろしく起き楽極楽に過ごすはずだったのに、
不思議の国のアリスツアーに招待されるとは。マッド・ティー・パーティーを開く帽子屋うさぎが舞台裏で糸を引いているんじゃないのか―――。

連続する怪現象そのものに対する罵りを、内心、一息で言い終えて、熱を持つ思考回路に冷水を浴びせて冷やす。
これまで耳鳴りを感じたとき、自分と化物の距離はどの程度であっただろうか。それを思い出してみる。
夏休みに入る直前に会った犬の化物、化け猫にそれらに続く奇怪な獣と女。
いずれも、それほど遠い距離ではなかった。近い、極至近の距離。殆ど目の前。目と鼻の先。僅か数歩踏み出しただけでばったり顔を付き合わせるような距離。
女の化物だけは、何十mか離れていたが、あれは特別だと考えていいだろう。最初から、探す意志を持って集中した結果だ。
あれ以外では、こちらが意識しない限り、ほんの僅か、数mから十数mまで距離を縮めてから、耳鳴りが聞こえ出していた。
気が付けば、危険に晒されている。そうした状況が殆どだった。それらを考えれば、今、耳鳴りを感じさせている相手も遠い距離にはいないだろう。

後ろを振り向けば、其処に・・・・
悪い冗談だ。悪い冗談だが、完全に冗談の域を出ていない観測でもあった。
相手の距離が解らない以上、実際に後ろを振り返って、其処に相手がいる可能性も充分に考えられる。

何処まで真に足る可能性かは解らないにしても、光琉の精神に焦りを生ませるには不足していなかった。
後ろを振り返り、素早く周囲を見渡す。店内に行き交う客は日常の光景の中、何ら変わらない行動をしている。
食品を詰め込んだカートを押す主婦、馬鹿騒ぎをしながら肩をいからせて歩いている今時の若い人間、必要以上にくっつき、腕を絡めているカップル。
何て事は無い、どこに行っても見かける人の行き交いだ。背後にも左右にも、化物の姿など影も形も見えない。

落ち着きを手放してしまいそうになっている光琉の脳裏で、グワンと、耳鳴りの音階が一つ上がった。
低い音階で演奏されるドラムのような音が、指向性を有しているかに響き、頭の中で響き渡る音に押される形で足が前へ出た。

「あ、ちょっと!?」

突然の行動に季夕が慌てたが、気にしている余裕なんて無かった。
真正面の自動ドアを潜り、外に出る。
昼を過ぎて、客の入りはなお増えつつある。正面で入り口の目と鼻の先にある駐車場にはかなりの数の乗用車が見受けられた。
それでもまだ空いているスペースが見つけられる分、駐車場面積の広さを思い知らされるが、今はどうでもいい。

車が立ち並ぶ駐車場の中、店内に入ろうとする客と、店内から出てきた客が交差する群を、光琉は視線で撫でた。
横に滑らせていた目線が一点を凝視するのにそう時間はかからなかった。
動いていた相手が視界の中に飛び込んできたというより、視線が無意識に、相手に吸い寄せられた感じがした。

「いた! 見つけた!
 あの男だ。シェミハウルの言うように、男が化物だと言うのは間違いない」

人捜しの時に必ず出る文句が口に出た。
ブロンドの髪と白い顔立ち。ここからでは距離が開いており、瞳の色まで識別できないが、間違い無さそうだ。
視覚に入ってくる映像情報ではなく、脳内に木霊する耳鳴りが告げている。

「えっ? どこ、どこにいるの!?」

遅れてきた季夕が辺りを見渡す。
光琉の視線を辿り、彼女も早々に見つけた。
ハルファスの外見を知らない季夕には男の確認など出来ないが、隣にいる女は見間違えもしない彼女の見知った顔だ。
間違いなく友人の片山 綾子の姿。となれば、彼女と気安げに腕を組んでいる相手が問題の男なのだろうか。

遠目から見た感じでは、それほど異様という感じはしない。外国人で白人はまだ珍しい部類だが、別に殊更物珍しくもない。
街中で見かける欧米人はだいたい何らかの職を持って滞在しているようで、それなりに歳も老けている。
まぁ、20代後半から30代半ばが殆どだろうが、綾子の隣にいる男性は割りと若く見えた。
日本人と違い、外国人は大体年相応の顔付きをしていて、男の顔が幾ら若く見えるといっても、
高校生と同列に見ることはできないが、大学生か大学院生と言うなら、それなりに通るだろう。

依然、綾子と連れの男は向かってきてはいるものの、歩調がゆっくりしすぎていて良く見えない。
もどかしさに囚われながら目を凝らして身を乗り出そうとする季夕の肩に手を伸ばし、後ろへ下がらせる。

「あまり前へ出すぎると向こうに気付かれる」

「でも!」

耳打ちしてくる光琉に、言葉に置き換えた焦りを口にする。
ここで焦っても仕方が無いのは彼女も理解していた。まだ小矢もシェミハウルも到着していない。
しかし、もう見える距離にいる。視界の中で人間ではない男と一緒に肩を並べている友人が見えているのに、
今は何も出来ないというのが堪らなくもどかしく、苛立ちを募らせた。
今すぐにでも駆け寄って、あの男から綾子を引き離したい思いが溢れ出しているに違いない。

「無理に動くな! 見つかったらどうなるか解らねーだろ!
 小矢たちが来るのを待てよ!」

「でも!」

更に押し出ようとする季夕の肩を押さえ、一つの柱の影に引き寄せる。
季夕の行動を容認して、感情の任せるままに飛び出させれば、どんな事態になるか解ったものではない。
友人を心配する気持ちも解る。光琉自身、今、季夕の置かれている立場に立たされたら同じ行動を取るに違いない。
自分にとって大切にしたいと思える人間のすぐ近くに危険があるのであれば、前後を顧みず、制止を振り切って、飛び出していくだろう。
待てなどとよく言えるものだ。自分自身が言われる側なら、そんな言葉に従えない。
自分のやっている事が季夕にどんな精神的負担を課しているか理解していたが、この場は耐えてもらうしかなかった。

彼の言葉を察してか、それ以上、季夕は強硬手段に訴えなかったのが幸いだった。
言いたいことを喉の奥に押し込めて、唇を噛み締めている。
自分の肩を押さえ込んでいる光琉の服に手を伸ばし、裾をギュッと握り締めてきた。
自制心が強いのは彼女の美徳だと素直に誉められるが、
それとは別に、季夕のように、感情的でありながら自制心も併せ持つ相手に対し、こうした状況で堪えろとしか言えないのは辛いものだ。

「とりあえず、片山は無事だし、ハルファスもこんな人の多い場所では何も手を出さないだろう。
 今は黙って様子を見よう・・・・小矢たちが来てから対策を練っても遅くは無いさ」

気休めにしかならないかどうかは判断できないが、これで少しでも季夕の心が落ち着いてくれれば良い。
光琉の服の裾をキツク握り締めながら、季夕は無言でコクリと頷いた。

綾子と一緒にいるハルファスがどんな性格をしているかは知らないが、何をするのでもこの場所は人が多すぎて目に付く。
衆人のど真ん中で流血沙汰を演じる狂人でもない限り、大人しくしているだろう。
予想が外れて、ハルファスの精神が常軌を逸した狂気の思考回路を積んでいるなら人目など気にしないに違いないが、その時はその時だ。
尤も、どのような場合でも小矢とシェミハウルの到着を待たねばならないのに変わりは無い。
光琉と季夕では、化物を相手にするのに経験と実力に不足があるは自明であって、特にシェミハウルと比べれば、明らかに素人と玄人ほどに差があった。

綾子たちがこちらに近寄り、柱の影に隠れる光琉と季夕には気付かずにそのまま自動ドアから店内に入っていく。
何をするでもなく黙って見送った。前を横切る時、綾子の連れの男の顔を一応確認したが、やはり前日に会ったあの男に間違いはない。
左右の瞳の色が黒と青で違う相貌は忘れるには印象が強すぎるものだ。

「・・・・ふぅ」

綾子たちの背中を見送った後、知らずに吐息が漏れ、脱力していた。
自覚はなかったがどうやら自分の身体はかなり緊張していたようで、疲労の重みに肩が下がる。
慣れない事はやるべきではないなと思わざる得ない。しかし、まさかスパイ映画の真似事を実践するなど考えても見なかったことだった。
相手に気付かれないように神経を尖らせ、隠れたり追跡したりするのは想像以上に精神に負担をかけてくるようだ。

「どう?」

呼びかけと同時に背後から肩を叩かれる。
何時の間にか小矢とシェミハウルが来ていて、真後ろに立っていた。
綾子たちを追って店内に目を向けていたにも関わらずに解らなかったとすると、外周をぐるりと回ってここに来たのか。

「綾子たち、見つかった?」

「ああ。今、店内に入った」

クイッと顎で指し示す。そちらに2人の姿がまだ見える。見える範囲にいるのだから追うのも容易い。
ハルファスはどうか解らないが、少なくとも綾子の方は監視されていることに全く気付いていないようで、足早に目当てのショップを目指してどんどん先に進んでいく。

「今すぐ追った方がいいのかな?」

「全員揃ったんだし、追うべきだと思う。
 ぐずぐずしてたら見失っちゃうよ。ね、行こう、ヒカル」

「・・・・・」

追うなら今か、それとも、もう少し距離を開けた方がいいのだろうか。
この疑問に対して、光琉は回答を持っていない。判断材料も皆無だった。
誰かを尾行したり追跡したりするための上手い方法も知識も持ち合わせてはいない。
彼に限らず、小矢も季夕もそれは同じだった。
光琉が選んだ方法は、最も安直で確かなものだった。
つまり、専門家に任せる事である。

「・・・・シェミハウルさん?」

シェミハウルはスパイ活動の専門家ではないが、化物退治の中で培った追跡と尾行の知識と経験もあるだろう。
実際は少ないかもしれないが、光琉たちよりかは遥かにマシな筈だ。
何しろ彼等自身はまるっきり無知な素人ときている。それに比べれば、一度くらい経験している人間の方が頼りになるに違いない。

「・・・もう少し、距離を取りましょう。
 監視しながら尾行するには、現在の距離は余りに近すぎる。
 ハルファスが既に勘付いている可能性も高いが、用心に越した事はないでしょう」

ただし、尾行するにも二人一組に別れる事となった。
4人が固まってぞろぞろと一緒に行動したのでは、相手に見つけてくれ、と、言ってるようなもので、目立つ事は出来るだけ避けたいとシェミハウルが説明した。

目立つ事は避けたい? じゃぁ、尾行そのものを止めるんだな。
一瞬、光琉の胸に率直過ぎる毒舌が浮かび上がり、辛辣な毒霧を散布したが、それはどこまでも胸中の中だけであった。
片山 綾子は行き先を変更する事なくここに来て、彼女の連れは、残念ながら人間ではない化物。
事、ここに至った状況下で、今更、毒を吐いてみたところで何にもならない。それこそ、状況はこれ以上悪化しはしないが好転もしない。

だが、ついつい考えてしまうのだ。
自分とは関係ない面倒事に巻き込まれて、シェミハウルと言う赤の他人の頼みで化物と殺し合う羽目になって・・・
この場に自分が加わっているのを疑問に思う心があって、納得して危険に赴くのではなく、危険に飛び込むのを強いられている立場を快く思っていない。

片山 綾子が関係してこなければ光琉自身も関わることは無かっただろう。
いや、片山 綾子が季夕の友人だからこそ、今、ここにいると言っても良かった。
本来なら、見捨てている。それで後日、綾子がどうなろうが、遺体として発見されようが知ったことではない。我が身が大事だ。
休みが明けて教室に登校した際、担任の教師から彼女が失踪したと聞かされようが、綾子の机に花瓶が置かれていようが、関係ない。
・・・・見捨てたことに心に痛みを覚えるに違いない、が、それだけ。
光琉にとって綾子はクラスメイトといえど、その他大勢に区別される一人でしかなかった。

季夕と小矢が頷いただけで、さっさと離れてしまった。
光琉が声を書ける暇もない。よほど堪えが効かなかったのか既に人込みの中に紛れ込んでいた。
彼女等2人とも多分に感情的な面があり、いざ事態が変化すれば真っ先の飛び出す恐れがあったから、
彼としてはどちらか一人に抑え役としてついていきたかったところだ。
綾子と親しい友人である季夕には自制は高望みできない。せめて小矢が理性を発揮して抑え役に回ってくれればよいが、こちらも余り期待できそうになかった。

「・・・全くしょうがない」

同じ方向、つまりは、小矢と季夕が消えた人波に目を向けているシェミハウルが小さく吐息した。
彼も似たような事を懸念したのだろうか。それとも、別のことを懸念しているのか。
人の話を最後まで聞かずに動き出し、見えなくなった少女達の後姿に視線を送る表情は、幼稚園の先生のようでもある。
全く、困った園児たちだ。などと頭の中で考えているのかもしれない。
ただ、視線だけは暖かで穏やかなものではなく、冷ややかものであった。

「仕方ありませんね、我々も行きましょうか」

顔を振り向けてくるシェミハウルに、光琉は一瞬、眉を顰めた。
季夕と小矢が2人で行動した以上、彼はシェミハウルと行動を共にするしかない。彼女たちの激発ばかり心配していて、失念していた。
こうなるといよいよ面白くないではないか。嫌な人間と一緒に行動しなければならないとは。
先行した幼馴染2人に恨み言を言いたい気分になったが、それも今更でしかなかった。




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