第三章・表/7





機械的に鳴り響くベルに、水中にたゆたっているような意識が水上に引き釣り上げられる。
精神的にも肉体的にも重い頭を朝綿の枕から持ち上げる。頭に軽い痺れのような感覚が残っていて、やけに気だるい。
カーテンを閉めていない窓からは容赦なく日光が射し込んで来て眩しいくらいだった。網膜を焼きつかせるかと思うほどの日差しに思わず眼が眩む。
時間を確認すれば11時20分前といったところだった。
眠る前、最後に時計を確認したのは午前3時ごろ。
そこから前後一時間の内に何時の間にか眠っていたようだが、どうにも昨日、今日という日付を区切った心地良い目覚めではなく、
昨日の延長線上にある今日に目覚めた気がする。
思考の一隅で、寝入る前に行っていた禅問答が今も続いているようだった。

とにかくも、まずは仕度だ。11時近くならそろそろ季夕がこちらに来る頃合だろう。
ふらつく足取りでベッドから離れ、階段を下りる。一階で物音は余りしない。
何時もならばこの時間帯、小矢が台所で昼食の支度をしていて良いような気もしたが、まだ少し時間が早いのだろう。

洗面所で蛇口を捻ると勢い良く冷水が飛び出してくる。両手で掬い、冷えた水を顔面に何度も叩きつけた。
真冬であるなら神経を刺すような小さな針と感じられる冷水も、真夏では心地良く覚醒を促される。

「ぷはっ」

顔が水浸しになるほど冷水を浴びると、ようやくしゃっきりしてきた。
頭の奥に残る痺れも、洗顔直後には影を潜めて引っ込んでいる。
時間が経てば、またぞろっと這い出てくるかもしれないが、当面はすっきりしているだろう。

「おはよう」

乱暴に歯磨きして、顔を上げれば、鏡の中にドアから少し覗き込むようにしている小矢の姿が映り込んでいた。

「あ、ああ・・・」

歯ブラシを咥えたままの間抜けな格好で応じるものの、その後が続かない。
小矢の方は、別段変わった様子もなく、そのまま洗面所を通り過ぎていってしまった。
そのまま居続けられても気まずいだけに違いなかったが、釈然としないものがシコリとなって残った。

「あ、小矢」

廊下を行く彼女の背に呼びかけたが、呼んだ直後にしまったと軽く後悔した。
肩越しに顔を向けてくる小矢に、少し光琉は戸惑った。
自分が何を言いたいのか、何を話したいのか充分に吟味せぬまま、口が心にあった言葉をそのまま紡ぐ。

「昨夜は・・・悪かったな・・・」

「なにが?」

「・・・言い方、きつかった。悪い」

「ああ、その事。いいよ、気にしてないから」

柔らかく微笑を返してくる小矢に、だが、光琉は余り救われた気になれないでいる。
彼女の笑みが、彼の言葉に対してではなく、謝罪した時の恥じ入った顔に対してのものであり、微笑みの形を借りただけの表情に思えたのだ。
そうだと考える事自体、屈折した心理かもしれない。だとしても、今の光琉には素直な見方が出来ないでいた。

一歩進んだ時点で、ふと、思い出したようにして小矢が立ち止まる。
水で口をゆすいでいる光琉に向かい、声を掛けてきた。

「そうだ、ご飯、もう出来てるから、食べちゃってね」

「ああ」

返事を聞いて、さっさと廊下を歩き出していく。
光琉が丁度うがい水を流しに吐き出し、タオルで顔を拭う頃、玄関が開く音が聞こえてくる。

「おはよう、季夕。早いわね」

「おはよ、サヤ」

「とりあえず、上がって」

玄関先から聞こえる挨拶。
もう季夕が来たのか。少し早いな。
と、考えながら、光琉も洗面所を後にした。

玄関先では、季夕が靴を脱いでいるところだった。
小矢はそのまま台所か居間に引っ込んだらしく、姿が見えない。
来客用のスリッパを履いて敷居を上がった季夕が、ジロリと一瞥を向けてきた。

「説明・・・聞かせてね」

物言いこそ静かだったが酷く硬い口調に、肩を竦めてみせる。

「・・・解ってるよ」

それだけ言い返し、光琉はそそくさと階段を上がった。
何はともあれ、着替える必要があった。昨日、寝る前に着替えなかったからそのままの格好だ。Tシャツにジーンズ。
一見してまともではあるが、夏場二日続けて同じ服を着ていると流石に汗臭い。
・・なんて、普通な事を気にしている自分がやや可笑しく思えた。
これからまた、普通じゃない世界に関わろうとしているのに、汗臭さを気にして着替えようとしている。
そんな自分が些か滑稽ですらあった。

タンスから真新しいシャツとジーンズを掴み出す。半袖は全部洗濯中で、長袖しか残っていなかったのが少々不満だ。
昨夜からはいたままになっているジーンズは、太股の辺りが女の爪で切り裂かれていてみっともない。
傷自体は大した事がなくて、ちょっとした切り傷に過ぎず、血も出ていなければ痛みもなかった。それだけは幸運であった。

手早く着替えを済ませて扉を開ける。本来ならシャワーも浴びたかったところだ。
予定では、シャワーを浴びるくらいの時間はあった筈なのに、季夕が彼の予想より速く来てしまい、もうそんな時間はない。
すんすんと鼻を鳴らし、体臭を気にしてみるも、まぁ、我慢するしかなかった。逆に言えば、それほど気にならない程度ではある。

部屋を出る前、ふと、机の上に置かれているナイフが目に入り、ジーンズのポケットに押し込んだ。
返し忘れているナイフも小矢に返さなければならない。部屋に置いておけばそのまま忘れてしまうかもしれない。
持ち歩いていた方がいいだろう。

一階に降りて、キッチンに顔を出してみると、小矢がお茶の準備をしていた。
食卓の上にはサランラップがかけられた朝食が置かれている。
各種具の違うサンドイッチが幾つか。準備の良いことだ。これなら手っ取り早く食べられる。
小矢の心遣いに感謝し、サンドイッチを口の中に放り込む。
もたもたしていると季夕に怒鳴られるから、充分に咀嚼もせず慌てて飲み込んで、タイミング良く小矢が持ってきた麦茶で胃に落とす。

「サンキュ」

起きるのが遅いから慌てるはめになるのよ、と、笑ってくる小矢に曖昧に応じながら、残りのサンドイッチも口の中に放り込んだ。
とりあえず、腹さえ満たされればそれでいい。作った小矢には申し訳ないが、味を気にしている余裕はなかった。

居間に入ると、季夕が三人掛けの長ソファに座って万全の体制で説明を待ち受けていた。
詰問調の眼差しを受けながら、ガラステーブルを囲んで向かい合う反対側の席に座る。
丁度、小矢がキッチンからお茶を運んできて、勢ぞろいした。

「・・・で、どうゆう事なのよ?」

身を乗り出して真剣な顔を突き付けてくる季夕。
季夕の前に麦茶のコップを置いて、手渡しで光琉にコップを渡してから、小矢は季夕の隣に腰掛けた。

季夕への説明は、小矢が行う。
口下手とは言わないまでも、光琉が説明したのでは無駄に時間がかかるに違いなく、殆ど暗黙のうちに決まっていた役割である。
昨日あった出来事を話す彼女の説明は実に要領よく要点を抑え、無駄を省いたものであった。
片山 綾子と一緒にいた男、女の化物、そして、シェミハウルについて。

「・・・で、シェミハウルって人の言う金銀妖瞳(ヘテロクロミア)の男ってのが、綾子の連れなの?
 本当に間違いないの? 信じられるの?
 ・・・・いいえ、そもそも、そのシェミハウルって人は、信じられる人間なの?」

「解らない・・・かな。でも、嘘をついているようには思えなかったよ。
 それに、一度は助けてくれた人だし・・・信頼しても大丈夫じゃないかな」

真剣な眼で聞いてきた季夕に、明確な言葉で返答できるものでもなかった。
至極単純明快なYESかNOの答えを期待しているのだろうが、本当に信用できるか否かの答えはこれからだ。
とりあえず、もう一度会ってみない事には如何とも言い難い。
信用に足る人物であるかどうか、見極めるのは無理でも、判断材料として会う必要があった。

「でね、片山さんが今日、何時ごろ、何処で、相手と待ち合わせしていて、何処に行くか解るかな?」

「ん〜・・・・ちょっと待って」

軽く丸めた手を口元にやってきて、季夕は考え込む。
中央に寄っていた眼がパッと離れ、「ああ」と顔を持ち上げる。

「えっと・・・確か、2時ごろ・・・待ち合わせ場所までは分からないけど、行き先はアルプラザよ。
 昨日の電話でCDの新譜を見たいって言ってたから」

それを聞くと、小矢がスッと立ち上がった。

「ちょ、ちょっと、どうしたのよ、サヤ?」

「シェミハウルさんの教えに行くの。
 季夕と光琉はここで待ってて」

「冗談?」

小矢の意見を聞く季夕の声音が変わり、キツイ眼差しで立ち上がる親友を見上げている。
幾分声量は抑えられているものの、口調の鋭さは隠せるようなものではなく、それだけに静かにして確固な拒否の意思を感じられる。

「私の友達が関わってる事態なのに、大人しく待っていられると思うの?
 当然、私も一緒に行くからね」

「でも・・・・ただ、伝えにいくだけだし・・・私一人でも大丈夫だよ」

「・・・・伝えるだけで終わる筈ないでしょ。
 二人の行き先が解ったんだから、後つけるのが当然じゃないの?
 綾子の連れが、その・・・シェミハウルって人が探してる人かどうか確かめて、本人だったら、当然、何時もみたいな事になるんでしょうし。
 大体、シェミハウルって人も、サヤの事を当てにしてるから協力を求めてきたんでしょうが」

「でも・・・」

季夕を何とか説得しようと試みる小矢も、次の言葉が思い浮かばないのか声を淀ませるだけだ。
それでも何とか考えを改めてもらおうと話を続けているわけだが、意味のある言葉にすらなっていない。
発せられる内容は「でも」「だけど」「やっぱり」。凡そ季夕の選択を覆すには程遠い声の羅列でしかなかった。
口を挟まずに傍で見ている光琉ですら、必死に食いつこうとする小矢の様子にイライラするのだ。
当然、面と向かっている季夕に耐えられるものではなかった。

「なんだってそう自分一人で背負い込もうとするの!?
 前に言ったでしょ、サヤ一人に危ない目には合わせられないって!!
 そんなに信用できない? 足手まといなの? 私が!」

怒気を一気にまくし立て詰め寄る。我慢していた分が抑えの緩みに乗じて発火してしまった。
顔面を突き付けるように鼻息荒くしている季夕は、何処までも真剣な表情をしている。
もしここで、火の付いた油となった季夕の怒気に、小矢が更なる発火物でも投げ込めば平手打ちの一つくらいは躊躇なく飛んでくるだろう。

舞台の袖役として傍観者を気取っていた光琉も、思わず固唾を飲み込んだ。
二人の間で交わされる会話の流れの不穏さも然ることながら、会話そのものが、昨日の、自分と小矢の再現を見ているようだった。

「違う! 違う! そうじゃない!!」

激しく頭を振って声を張り上げた小矢。
やっている事は駄々をこねる子供同然。頑なな態度も、親に玩具をねだる児童と異ならない。

「私は・・・私は・・・っ」

一息で吐き出した小矢の語尾が急に弱々しいものに代わる。
目に見えてそれが解るほど、季夕の癇癪に呼応して弾けた感情が急速に沈静化していった。

最早、小矢の口からそれ以上の言葉は続かなかった。
視線を伏せ、固く口を噤んでしまい、泣くのを我慢している幼児の様だ。
ただ、高ぶった感情を発火させ、過剰分を掃いて鎮火したのではなく、胸に燻りを溜め込んだまま、鉄の蓋で厳重に封をした表情のように思えてならない。
顔を向き合わせて直面している季夕は全く気付かないでいるが、一歩退いた位置から見ている光琉には、何故か小矢の表情がそんな風に見えるのだった。

何か・・・違う・・・
違和感。言葉に出来ない違和感が光琉の心に小さな染みを作る。

――――二人が普通に暮らせるようにしたいから。

昔、小矢が言った言葉が思い出される。それに照らし合わせても、今の彼女の表情は何か合致しないものが感じられる。
単なる思い過ごしかもしれない。杞憂に過ぎないかもしれない。
それとも、見方が斜めになって、何でも素直に受け取れなくなっているだけなのかもしれない。
黒いインクの一滴の違和感を胸に抱え込み、光琉は自問した。
小矢には、俺達を関わらせたくない理由がまだ何かあるのだろうか・・・と。

一方で、珍しく語調を荒げた小矢に季夕は、束の間戸惑った。
暴発させた苛立ちも小矢の様子を見て、跡形もなく消え去ってしまったようで、冷静さを取り戻しているようだ。
口を噤んで俯いてしまっている親友の肩に手を乗せ、落ち着いた口調で話しかける。

「あのね、サヤ、一体何を考えての事か解らないし、なんでそう意固地になっているか知らないけど・・・
 私は、サヤだけに危険な事させたくないの。サヤだけが辛い目にあって欲しくないの。
 それに、もう、私も無関係じゃないでしょう。今更、私を除け者にしないで」

何も言わずに黙っている親友に、静かに呟く。

「だから、私も一緒に行くのよ。いいわね、サヤ」

納得・・・しただろうか。
いや、していないだろう。
口を閉ざし、無言でいるだけ・・・承諾も拒否も言わないだけで、その実、拒んでいるのが小矢の表情から覗えた。
それは、季夕も承知しているようであり、次に発した言葉は静かだが強い口調だった。

「・・・これ以上何か言っても、私は付いていくからね。
 止めても無駄。絶対一緒に行くから」

言葉尻を叩きつけるような言い方をされた、小矢は不承不承の感が強かったが、季夕は拘泥せずに立ち上がった。
全く、一緒に行くか行かないかを決めるだけでえらい時間のかかりようだ。しかもこの足並みの悪さには辟易する。
これからシェミハウルに会って、綾子と連れの移動先を教えて、それだけで済めばいいが、
最悪、彼と行動を共にし、戦闘にまで巻き込まれる可能性もある・・・
というより、そうなる可能性大で、用件だけ伝えてハイ、サヨナラとできる確率の方が低いと言うのに、ここまで足並み揃ってない状況は、はたはた不安だった。

先頭切って今を出て行く季夕に付いて行く形でソファから立ち上がった光琉は、うんざりと閉口していた。

「考えてても仕方ないだろ、ほら、行こうか」

突っ立ている小矢の背中を押す。うんとは言わずにコクリと小さく頷いた仕草が、彼女の心境を何よりも強く物語っているようだった。
つまり、状況の流れはどうあれ、光琉や季夕が付いてくるのが不満であれ、拒んでいる小矢だった。
尤も、もう一度口論したところで、退くような季夕とは到底思えない。
だから、彼女は何も言わないのだろう。不承不承の態で行動を黙認しているのである。




町外れに建つ白城神社から駅前近くのサンロイヤルホテルまで徒歩で30分ほどかかった。
到着した時刻は12時を少し過ぎたところだ。

一見しただけで、立ち並ぶ他のビルとは違う異様な外装が目の前に広がる。
シンプルな外見が多い中、一際異彩を放りながら、激しく自己主張するサンロイヤルホテル。
機能美よりも、格式と格調高さを重んじる建築物は見上げているだけでも十二分に伝わるというものだ。
見ているだけで並ならぬ威圧感を覚えて圧倒されてしまう。

玄関門をくぐれば、王宮広間の装いが展開される。
高い天井、豪華な内装、壁にかかる絵画も調度品も意匠をめぐらせた一級品。いや、骨董品とも呼べる。
欧州の人々は物持ちがいい・・・悪く言えばケチで有名だが、大昔の家具や食器を平気で使っている。
それこそ、100年や200年も経つ年代物を。
ホテルの豪奢なロビーを飾る調度品の数々も、母国から移したもので、芸術性も然る事ながら年代ものでもあるに違いない。

見渡して、眼も眩むほどの派手さとは異なる荘厳な趣き。
絵画やブロンズ像などの調度品は色調の強さを抑えてあって、調度品ばかりが極彩色のドギツサさで目立つ物は一つとしてなく、全体の調和が考えられてあるようだ。
一つ一つの配置を考慮し、空間内を飾る一つのオブジェとして溶け込んでいたし、室内の全体的な色彩が白を基調になっていたため、これも目に優しいかった。

楚々たる雰囲気は厳粛ですらあって、まるで教会か何かを思わせる。
酷く高い天井と、高い位置に嵌め込まれたステンドグラスを見上げると、一層、教会に巡礼に来た気分にさせられた。
無神論者の光琉は教会に特別な思い入れもないが、こういった厳かな雰囲気もたまには良いと思えた。
人込みに押しつ押されつの雑多な賑わい・・・いや、光琉に言わせれば雑音の騒乱よりは、静かな場所の方が好まれる。
厳密すれば、このホテルは心和ます静寂と表現するより、心身を律する厳かな雰囲気であって、多少、彼の好みと異なってはいるが。
尤も、ホテルを利用する機会などこの先そう何度もないだろうし、今まででホテルに宿泊したのは、中学校時代に修学旅行で泊まった一度きりだ。

ホテルマンの数はそう多くはない。最低必要限の人数というところか。荷物持ちをしているボーイとフロント等、10人足らず。
ホテルの趣向に拘って、従業員も必要以上にプロ意識の強いエリート然としていて、こちらもホテルマンというより、修道僧か信徒のようだった。
口数少なく、だが、勤勉に働く従業員の作り出す一種特殊な静寂を破って広いロビーを騒がしているのは、マナーの悪い日本人宿泊客の方であった。

それにしても、都心から離れた薄寂れた町に、よくもまぁこんなご大層な物を建造したな、と、光琉は苦笑する。
都心の中央に建っているのならそれほどの違和感もないだろうが、この町では一際目立つ違和感の塊でしかない。
加え、こんな町でこんな瀟洒な宿泊施設を利用する物好き、或いは、酔狂、もしくは、金持ちなんていないのではないだろうか。
古き良き伝統ってものに浸るために全国から道楽者が泊まりにでも来ているのだろうか。

だが、ロビーに行き交う客層を見ている限り、サラリーマンのような姿の客が多く見られた。
格調高い雰囲気に惑わされがちだが、その実けっこう低料金で利用できるのかもしれない。
と思うものの、30代前半に見える若い企業戦士の客も颯爽とした雰囲気といい、ブランドもののスーツに身を固めている服装といい、平社員には到底見えない。
確かな足取りでロビーから玄関に向かう姿には、年功序列の風習が強く残る日本の企業の中、
年齢に侮って舐めてかかる年長なだけの無能者を才覚で蹴落としてきた実力派エリートの貫禄があった。
サービスに比較すれば割安の料金といっても、やはり、それなりの金額は必要なのだろう。
場違いな場所に自分がいるな、と考えながら、埒外にもくだらない事を気にしている自分に苦笑する。
このホテルの利用料金が幾らであれ、利用する機会など一生を考えても一度も訪れないに違いなかった。

隣にいる季夕もホテルの雰囲気にあてられたのか呆然としているだけで、感想も出てこない様子だ。
光琉も似たような状態で、呼ばれてもいないパーティーに紛れ込んだ異邦者の気分を味わっている。
緊張で足取りも硬くした小矢がフロントに近づき、係りの人間に話しかけていた。
従業員が話を聞いて電話を取り、30秒も経たずに受話器を置く。

「すぐ降りてくるから待っていてくれって」

殆ど逃げるようにフロントから駆け足で戻ってきた小矢。
彼女も場違いな場所に来たという感想が強いらしく、しきりにソワソワしている。

「待ってって言われても・・・なぁ」

周囲を見渡して、しみじみと光琉は呟いた。隣で季夕も居心地悪そうに苦笑している。
白一色で統一されたキャンパスの中に紛れ込んだ赤やオレンジや黒の異分子。
単一色に染め抜かれた中の色違いの染みだ。自覚したくなくても、居心地の悪さを感じてしまう。
まぁ、要は慣れの問題だった。気にしなければ、どうってことはない。

それにしても、特定のある趣向に統一された内装は落ち着いていて好ましいものであるにも関わらず、
妙に居心地が良くないのは、住む世界が違うとか、そんな単純な理由からきているのだろうか。
心身共に圧迫されている感じがしてならない。締め慣れないネクタイをしている時に感じる首を締め付けられるような感覚にも似ている。
何とはなしに息苦しい。高尚な場所の空気が自分に合っていないからだろうか、と、考え、光琉は苦笑した。

「失礼します」

呆然と突っ立っていた季夕の前をボーイが横切っていく。
慌てて道を譲り、光琉の袖を引いてくる。

「もうちょっと端に移動しない?」

困ったような苦笑いを浮かべる季夕の提案に異論はない。
余りに大仰な場所に出ると、小市民的な考えが押し出されて居心地の悪さを味わう。
壁際に寄って、ひっそりと待っているのが妥当なところだろうが、光琉が足を向けたのはロビーの端は端でも少々異なっていた。

「・・・」

スタスタと足を向けた先で、無言で腰を下ろす。
彼のふてぶてしいまでの態度に、見守っていた女性陣はやや唖然とした。

彼が向かったのは、ロビー一角に設けられていた談話と休憩用のコーナーだった。
革張りのソファと磨き抜かれた紫檀の机が設置されている場所に、
丁度、使用者が一人もいなかったので、待つ間の暫くの時間、有効活用させてもらおうと言うわけだ。
それにしても、図太い神経と言うか、遠慮知らずと言うか、彼の行動を見ていた二人は呆れているようでもあった。

「ん?」

本人は一向に気にした様子もなく、空いているソファを軽く叩き、二人を呼び寄せている。
主意の反応を気にしているのは彼女たちだけで、他の客も、また、ホテルの従業員も、全く三人の方に関心など向けてはいなかった。
「信じられんないわね」と口の中でぼやいと、溜息を一つ、観念したのか季夕は躊躇いがちにソファに向かった。

「全く・・・信じられないわね」

「なにが?」

家で見せた啖呵(たんか)の良さは何処へやら。恐縮してソファに縮こまっている季夕のぼやきを、光琉がさらりと受け流した。
あまりにも軽く受け流されたものだから彼女としては面白くなかった。ジトっとした目を睨むように向けてくる。
その様子が、光琉の失笑を誘い、更にキツイ目付きを放たれることとなった。

緊張で身を硬くしている季夕とは対照的に、小矢は自宅にいるのとそれほど大差はない。
多少、ぎこちなさはあったが、自由な身動きが出来ないほど緊張して、
ともすれば、ソファの上に正座してしまうのでは、とも思える季夕とは違い、多少のゆとりを持って、柔らかすぎるソファに身を沈めていた。
建物の雰囲気に圧倒されてた時間が過ぎ、今は、心ここにあらずといった様子が否めない。
内心で、季夕と光琉の同行に不平を鳴らしているに違いなかった。

「何をそんなに拘っているのやら・・・」

小声で小さく囁いた光琉の言葉は、どうやら小矢にも聞こえていたようで、意味ありげな視線を向け、一秒としないうちに彼から目を離した。
非難がましいような、恨みがましいような、意味ありげな視線だったが、眼差しの裏に隠された彼女の本意に光琉が気付く由もない。

「・・・にしても、スゴイホテルよねぇ・・・・
 こんな場所に、そんな、化物の専門家が泊まっているなんて、信じられない・・・・」

改めて周囲を見渡し、豪華なシャンデリアがぶら下がる天井を見上げていた季夕が呟きの最後に、はぁ・・・と溜息を吐き出した。

「全く・・・・」

光琉が同感だとばかりに頷く。
ここまで格式と格調を整えた建物は、建築費も維持費も、そして人件費も馬鹿にならないだろうに。
どんな酔狂が巨額の費用を投じて作り出したのか、時代錯誤の嗜好品。
既に過去の遺物となった歴史の残り香を凝縮させて作ったレプリカ。
道楽ここに極まった、と、溜息しか出ない。出資元が何処であれ、何時の時代でも、平々凡々な小市民に金持ちの考えは解らないものだ。

大体、こんなホテルに殺伐とした化物専門の仕事屋が利用しているのもどうかと思えてくる。
漫画やテレビなどで特殊な人間に良く使われるのは、廃棄寸前の廃屋だとか、開発途中で放棄されたバブル時代の遺物だとかではないか。
人気もなく、人の記憶からも忘れられているような場所の方が相応しいと思えるのだが、
木の葉隠すなら森の中の言葉どおり、こうした場所の方が逆にいいのかもしれない。
尤も、このホテルも、一般人が気軽に立ち寄れる場所ではないのは確かだが。

「それにしても・・・・」

グルリとロビー全体を見渡して、居心地が悪いな、と、棘を含む吐息を吐き出す。
季夕も小矢も緊張はしているがそれだけであって、光琉のように胸が締め付けられるような息苦しさみたいなものは感じていないようだ。
自分の中にある反骨精神が現代の王侯貴族の空間に忌避を覚えて反応しているのか。
などと、斜に構えた皮肉を嘯(うそぶ)いても、気分を悪くさせるような息苦しい居心地の悪さは薄くもならない。

「どうしたの?」

「空調が悪いのかな。ちょっと息苦しいような・・・」

シャツの首元に指をかけ、仕切りに広げている仕草を見た季夕に怪訝そうに聞かれて、彼は肩を竦めた。

「場違いな場所に来たから緊張してるだけじゃない? 私もそうだし」

彼と同じように肩を竦めた季夕が苦く笑った。
「違いない」と、同意して、口元をややぎこちなく苦笑の形に綻ばせる。
小矢だけが季夕とは違う種類の視線を横目で光琉に向けていた。

間もなくして、階段を下りてきたシェミハウルが姿を見せた。
昨日と同じように、ダークトーンを基調としたスーツに長身を包む容姿は、一流企業の敏腕マネージャーか辣腕を振るう交渉仲介人といったところだ。
経理課か総務部に自分のデスクを構え、デスクワークを専門にした有能な企業人といっても通用するだろう。

階段を下りて、教会全盛期だった頃の広間に立ったシェミハウルは容姿にせよ挙動にせよ、違和感がない。
これで背広姿ではなく修道服を着ていれば、そのまま当時の神父やら僧侶やらがタイムスリップしてきたと言えるだろう。

映画のワンシーンで似たような場面を見た覚えもしてくるが、不意に、準備するのに随分と時間がかかったな。
貴族さまの嗜みでお昼のお茶でもしていたのか、と、光琉は毒気付きたい気分に囚われた。
実際、毒を吐きかけてやれば、澄ました顔がどんな表情を作るのか、見物に違いない。

「すいません、お待たせして」

相変わらず、日本語吹き替え映画を見ている気分にさせられる流暢な喋りが滑り落とされる。
昨日会った光琉は知っているからいいものの、初対面の季夕は面食らった様子でマジマジと相手を凝視していた。

「・・おや、こちらは?」

思わず遠慮を忘れて向けられてくる、食い入るような季夕の視線に気付き、シェミハウルの焼け落ちた灰色の瞳が彼女の方を指した。
そこで、ようやく非礼を自覚した季夕が思い出したように表情を改めた。

「彼女が昨日の晩に言っていたもう一人の仲間です」

「あ、始めまして、御岳 季夕です」

小矢の紹介を受け、おずおずと前に出てくる季夕。
普段の彼女を知っている光琉からすれば、猫の毛皮を被って、借りてきた猫を演じているのが一目瞭然だ。
まぁ、彼女が小矢よりもその実、礼儀と道徳を重んじる性格であるのは良く知っていることではあったが。

「そうでしたか、こちらこそ、よろしく」

実に温和な、にこやかな笑みを湛えるシェミハウルを見て、季夕の人名録に「好印象」との評価が書き込まれたのは間違い無さそうだった。
基本的に礼儀作法に五月蝿い季夕だが、人の良いところがあって、一度気を許した相手にはとことん度量が深くなる。
気を許さない相手に対しては硬質の膜を張ることができ、いくらでも頑強な態度で臨むこともできるのに、気を許せば、途端に人が良くなってしまう。
根が純真で率直、真面目であるだけに、小矢と比べても季夕の馬鹿正直さは高く、ある意味、騙されやすいのかもしれない。
一長一短。それが人間的魅力だといえばあてはまるが、この場合、彼女の度を越す馬鹿正直さは長所となるか、短所となるか、光琉から見て微妙だった。

「とりあえず、話を聞かなくてはなりませんが、その前に場所を移動しましょうか」

温和な態度は崩さず、形ばかりに苦笑するシェミハウル。
確かに、ホテルの従業員側はどうか解らないが、一般利用客もいるロビーの一角で話せる内容ではないかもしれない。
聞かれたところで、少し頭のおかしい誇大妄想病患者の戯言ととるかもしれないが、無用の問題は避けたいところだ。

ロビーを見渡せる壁際に立っていた年配のホテルマンを呼びつける。
50代後半、人生の年輪が深い皺となって刻まれた人の良さそうな老人だ。
背筋真直ぐにしている様は、まだまだ若い者には負けんぞとする意気込みでも感じられるようだ。
傍らに寄ってきたホテルマンに何やら耳打ちし、年配の従業員は光琉たちの方へ意味ありげな視線を軽く送ってから恭しく一礼した。

「さ、場所を変えましょう」

ソファから立ち上がり、先導する年配のホテルマンの後についていく。
二階へ通じる階段の奥、玄関やロビーからは見えない作りになっている物陰に隠れた位置に扉が一つある。
曇り硝子には「関係者以外立ち入り禁止」の文字が書き込まれた扉。
ホテルマンがポケットを探り、鍵束を取り出すとその中の一つのキィを鍵穴に差し込んで開錠した。

「どうぞ」

「ああ、ありがとう」

恭しくお辞儀して、ホテルマンは下がっていった。

「中へどうぞ」

シャミハウルが片手で促し、光琉たちは室内に入った。
こじんまりとした部屋、丸い木製テーブルを囲んだソファ、壁に設置されている内線電話。必要最低限のものが置いてあるだけといった感じだ。
テレビなどで見かける会社の商談用の場所だけを切り抜いたような部屋は、左右数箇所の窓からふんだんに日光が取り入れられ、思いの外、明るい。

「ホテルの宿泊客の中には、時折、内密の商談で利用する客もいるのですよ。
 そんな時、この部屋が何かと役に立つ・・・・まぁ、もっぱら、我々のような人間が使用していますがね」

扉を閉め、中から鍵をかけたシェミハウルが振り向きざまに肩を竦めていた。

「防音性を重視した作りになっていますから、この部屋なら内密な会話も可能・・というわけです。
 常識外の範疇・・・“魔”に関わる会話も」

また片手でソファに腰掛けるのを促され、光琉たちはソファに座った。
三人が座るのを見届けてからシェミハウルもソファに腰をおろし、足を組み、皺にならないようスーツの裾を直す。

「シェミハウルさんが言っていた、金銀妖瞳(ヘテロクロミア)の人ですが・・・」

最初に発言したのは小矢である。
彼女の言葉にシェミハウルが目が興味深そうに細められた。

「今日、2時ごろにアルプラザへ行くようです。私たちのクラスメイトと一緒に」

「・・・・市の西側最大のショッピングセンターですね。
 全く、昨今の“魔”には昼も夜も、人目も何もあったものではないですな」

苦々しく笑ったかと思えば、一転して表情を真剣なものに変えた。
左眉の古傷を指先で擦り、ブツブツと神経質そうに口の中で何やら呟いている。ショッピングセンター内の客数を気にしているらしい。
平日とはいえ、学生連中は当然夏休みの真っ只中であって、
暇を持て余す若い世代は買う気もないのにぶらついているだろうし、買出しに足を運んでいる主婦もいるだろう。

人の密集する中で化物と殺し合いを演じるのは常識的に考えて不可能な相談だった。
あくまで、隠密に、人に知られる事無く、人に見つかる事無く、速やかに始末をつける。
そうしたルールはテレビドラマや漫画で良く見かける通りのようだ。

「サヤさん、貴方の霊符は人の目の前で張ったとしても結界の効果など得られないでしょう?」

肯定した小矢が頷く。
霊的に特殊な磁場を形成し、人の意識野から特定の場所の記憶を一時的に消失させるのが結界用霊符の効果。
不特定多数の人間を、所謂、「物忘れ」に似た状態に意図的にさせるのだが、
第三者の目の前で霊符を張り、特定の空間を霊的な磁場で囲ったとしても、通常の効果が得られるとは考えられなかった。

例えば、部屋に結界を張ると仮定して、第三者が開け放たれた扉から室内の様子を見ているとし、
室内にいる人間が部屋の四方の壁に霊符を張り、結界を形成させるとする。
そうすると、一部始終を見ていた第三者の目には、目の前の空間が突如として「消えた」事になり、それは最早、「物忘れ」のレベルでは収まらなくなる。
弾三者が部屋に到着するまでに結界を張り終えているのなら、「物忘れ」となり、
そこに部屋に通じる扉が無かったとしても「勘違い」だと自己完結して勝手に納得してくれる。
が、目の前で突然、見ていた空間が無くなれば、それは怪現象であり、自己完結も何も入り込む余地がなくなってしまう。
霊符は人の悟性を逆手に取り、人間の意識の目から特定の場所を目晦ましさせるだけの小道具であって、
至近にいる人間の意識から結界を張った場所の記憶を完全に消すといった万能の道具ではないのである。

「尾行するとして・・・・しかし、そう都合よく人気のない場所へ行ってくれるかどうか・・・・」

確かに、相手が人の密集地から離れなければ、こちらからは迂闊に手を出せず、仕留めるタイミングなどやってこない。
だからといって見過ごすなどと言う考えはシェミハウルにも小矢にも季夕にも無いようであった。
尾行しておけば、本日中にチャンスは巡ってくるかもしれないし、何より、今日中に機会が訪れないとしても、
相手の活動拠点などを突き止める事が出来るかもしれない。
希望的観測に過ぎないな・・・と、光琉は内心で締め括った。

「尾行とかそうゆう事よりも、まず、綾子の連れの男が本当に化物の類いなのか・・・・そちらの確認が先決だろ?」

綾子の連れの男が、シェミハウルの言っている金銀妖瞳(ヘテロクロミア)の化物だと決め付けて進む会話の中、光琉が口を挟む。
人間なのか、人間じゃないのか、それを見極める方が大前提の筈なのに、あたかも、化物だと決め付けている会話の流れが気に入らなかった。
確かに、金銀妖瞳(ヘテロクロミア)の瞳なんて、世界的に見ても稀有なものだろうし、日本だけに限れば、まず見ない代物には違いない。
だからといって、綾子の連れの男が金銀妖瞳(ヘテロクロミア)イコール化物であるとは一概に決められないだろう。

「人間かどうか、それを確認する為にも、本人を見ておく必要はありますよ。
 その結果、相手が“魔”であった場合どうするか、方針を決めておく必要もまたあるかと。
 相手が始末しなければならない“魔”だと確認したとき、その後の対策を何も持っていないのでは迅速な対応が出来ませんからね。
 指を咥えて目の前を通り過ぎるのをみすみす見送ったところで、何らの益にもなりませんよ」

ここからにして、シェミハウルと光琉の認識は違っている。
相手が明確な敵意を持っていないのであれば、放っておいても良いのではないか。
何も好んで殺しあう必要もないのだし、危険の種を自分から発芽させるのもどうかと思える。
君子、危うきに近寄らずが光琉の根底にあるのに対し、シェミハウルは全く逆の考えを持っている。
危険な存在、危険だと思われる存在、危険になりうる存在は発見し、確認次第速やかに消去せよ。
まるでテロリストに対抗する特殊部隊だ。
ある意味、シェミハウルに対するその認識はあっているのだろうが、どちらかといえばナチの考え方に近いように感じられる。
異分子は即座に淘汰、抹殺せよの姿勢が見受けられる。

シェミハウルの精神構造の中には「先制的防衛権」なる造語でも書き込まれているに違いない。
未来に於いて危険の火種となる可能性を持つ因子は、まだ芽である時期に摘み取るべし。
社会の土壌に毒草が発芽してからでは、周囲に被害を齎(もたら)す。被害が出る前に毒草になる可能性のある芽は全て握り潰せ、というわけだ。
全く理解出来ないが、“魔”を専門に扱う職業人には、それが普通の考え方なのだろうか。

「まぁ・・・・それはそれとして、昨日、私が求めた協力に対する返答をお聞かせ願いたいのですが。
 霊符に関して、私は専門外なので、種類や使用法、効果など不透明な部分が多いのです。
 貴方達の協力が得られるのであれば、是非もないのですよ。それに、一人では困難な状況に出くわしてもも、数人いれば」

「あ、それは」

「返答する前に聞かせて欲しいのですが、具体的にどのような事をすればいいのですか?
 協力する見返りにそちらは何をしてくれるのですか? 協力している期間は?」

首を縦に振って応じようとする小矢を制し、光琉が身を乗り出す。
漠然と協力という言葉だけを真に受けて、後で危険な場面だけを押し付けられたら堪ったものではない。
明確に聞いておく必要を感じての意見だったが、小矢も季夕も、シェミハウルまでも少々驚いた顔になっていた。

この状況下で、ど素人に過ぎない子供が良くも冷静さを保っていられるものだとする驚きのようだ。
実際には光琉本人は冷静でいるというより、現実性が麻痺しているので、とりあえず現実的な側面から片付けてしまおうと、その程度の認識しかない。
それにどうせ小矢や季夕の考えからすれば協力するのは既定の事実になるだろうし、協力するのであれば詳細を知るに越した事はない。
上手く担がれて、利用されるだけ利用され、見返りも無しでは割りに合わな過ぎるというものだ。

「そうですね・・・・まず期間ですが、それほど長くここに滞在している訳にはいかないのですよ。
 八月一杯まで。それが期日となるでしょうね。期日までに、私はハルファス・・・金銀妖瞳(ヘテロクロミア)の“魔”を退魔したい。
 貴方達には、私の仕事の助力を願いたいのです。まぁ、具体的にはその場その場で臨機応変的に私の支援をして欲しいのです。
 その間、貴方達が遭遇した“魔”を始末するのに、私は尽力を惜しみません。それが見返りとなりますね。
 本来は、他国に巣食っている“魔”はその国ごとの専門組織が対処し、他組織の介入は中々認められないのが通常なので・・・
 ですが、幸いにも貴方達はフリーランス。煩わしい規則も適応外になるでしょう」

不器用そうに肩を竦めて苦笑するシェミハウル。
化物専門に取り扱う組織間でも、国や集まりごとに色々問題を抱えていそうだ。
取り扱っているのが化物というだけで、ややこしいいざこざは普通の組織間のものとそう違いが無さそうである。
実際に組織に所属している人間でしか解らない苦労もあるのだろう、シェミハウルの苦笑は呆れ混じりのものだった。

「説明は解りました。解りましたが・・・・支援というと、どの程度のレベルのことをする必要がありますか?」

「そうですね・・・結界の形成、霊符による戦闘のサポート。
 基本的にこの二点が私の求める貴方達の協力です」

結界と支援。いつもやってる事と何ら変わりは無い。
ただしシェミハウルの話を鵜呑みにするのならば、だ。
その真偽をここで議論していても仕方なく、光琉一人が反対したところで、小矢と季夕は既に乗り気になっている。
頭を切り替え、彼は別の疑念を切り出した。

「ところで、一つ聞きたいのですが、貴方の目的の化物・・・金銀妖瞳(ヘテロクロミア)の男について説明して欲しいのですが・・・」

全く、何故こんなに息苦しい。酸素の少ない高山の頂上に立っているようだ。
静かで居心地のいいはずなのに、居心地悪い。見えない手が全身を圧迫してきている。
不快感をオブラートの皮膜に包み隠した光琉の言葉に、一瞬、シェミハウルは口を噤んだ。
神妙な仕草でゆっくり右腕をもたげ、人差し指の指先で左眉に刻まれた古傷を撫でる。
その表情は傷の由来を懐かしんでいるような感傷的なものにも見え、逆に忌むべきものとしているようにも見えた。

「欧州・・・特にイギリスに勢力を持つ“魔”の集団のNo.2。
 “影の踊り手(シャドウ・ダンサー)”などと異名が付けられるほどの実力者。実力は間違いなく“魔”の中でもトップクラスの相手。
 我々の組織Ascalon(アスカロン)も過去三度に渡り、有能な騎士幾人も差し向けましたがどれも駆除するには至っておりません・・・」

シェミハウルの説明を聞いた光琉は、一瞬、目の前が真っ暗になった。
化物を殺すのを専門にしているシェミハウルが素人に協力を求める相手であり、手ごわいだろうとは予想していたが、改めて聞かされると絶望感が込み上げてくる。
危険すぎる。街角で犬や猫の化物相手とは比べ物にならない。プロフェッショナルの人間でも勝てない相手を、素人集団で何とかなるようには到底思えなかった。
過剰な楽観主義に毒されていない光琉としては大いに躊躇い、出来るならスパッと手を切りたいところだ。
それにしてもシェミハウルは何を考えているのか、本当に素人を交えた集団・・・といっても4人だが、それで何とかなると考えているのだろうか。

チラリと横に座る幼馴染の方へを見ると、二人とも表情を硬くしている。顔色も良くない。
季夕からは、不安の色が確実に読み取れたが、だからといってシェミハウルの申し出を断る意思はなさそうだった。
顔の筋肉を強張らせて緊張しているのも、気構えの現われというところか。光琉には面白くない。

一方、小矢の方は、張り詰めた表情をしているが一見して解るような感情は浮かんでいなかった。
重々しく沈黙を護り、身体を強張らせている。意気込みすぎているが、臨戦態勢は完了ということろだろうか。

三人の内、二人がシェミハウルの申し出を是と受け取っている。ここで光琉一人が拒否しても何もならない。
駄々をこねれば、最悪、彼は外され、シェミハウルと二人の少女で化物を相手にする予想も容易く浮かぶ。
そうなっては目も当てられない。何の為に今日まで一緒にやってきたか、意味がなくなってしまう。

「大変危険な相手です・・・・何よりもまず、人をバカにするのが好きで、鴉のように腹黒い。
 殺人嗜好者。何のためでもない。自分が楽しむためだけに人を殺す正真正銘の“魔”。
 無論、直接的な戦闘に直面させないよう、考慮しますが、それでも危険である事には変わりありません。
 それを踏まえた上で、私の申し出を受けてくれますか?」

丁寧な口調で心構えを訪ねてくるシェミハウルだったが、返答は既に決まっていた。
小矢と季夕はゆっくりと頷き、光琉は半ば諦めの心境で首を縦に振った。

「快い返事、感謝します。
 では、早速行動開始といきましょうか。
 時間は無限でも無尽蔵でもないのですから」

柔和な表情で笑ったシェミハウルが壁にかけられた時計に目を移す。
時刻は1時16分ほどだった。今からここを出れば、2時手前ごろにはアルプラザにつくだろう。
運が良ければ、綾子と連れの男とばったり出くわすかもしれなかった。




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