第壱章・表/2




心臓から全身を駆け巡る血流の中に冷水でも入れ込まれたかのような冷たい衝撃が襲う。
鼓動がやけにハイペースで飛び跳ね、血管を流れる血液の音が小煩く鼓膜を震わせた。
直視しているはずの現実が不安定にもグラリと傾く。我が目を、我が耳を疑うが、悲しいかな、光琉を取り囲む現実に変化はなかった。
今、目の目にあるがままだ。眩暈を抑える光琉は、それでも、この光景が幻覚や幻聴であれと本気で祈った。

光琉の儚い希望を打ち砕くように、奇異を体現する犬は「クク・・・」と人間じみた笑みを含ませ口端を歪ませる。
動物の瞳に人間そっくりの感情の色が色彩の深みを強め、「余裕」と表現する色になる。
ただ、眉間に皺が刻まれているのは、傷口は見た目よりも深く痛むからなのだろう。

この時、犬は嘆息したのだろうか。怪物犬の両眼に何かしらの感情の揺らぎを感じさせる陰影が一瞬ではあったが確かに入ったのだった。
それも束の間、唸り声を口内で回転させながら、姿勢を低くし獲物に飛び掛る体勢を取る。

「グルルゥ・・・・・」

逃げなければっ!
強烈に思うものの足は地面に縫い付いてしまったかと思うほど微動だにしないでいた。
足だけではない、腕も腰も肩も、全身の反応が遅い。
理解の及ばない恐怖と言うのはそれだけで人間の理性を蝕み動きを封じる効果がある。
それでも賢明に逃走を試みるが、油の切れた螺子式人形と変わらない鈍重な動きにしかならない。
酸欠寸前の息苦しさを味わいながら、光琉がなんとか半歩後退した途端、鋭い犬の両眼に刃に灯る火が輝いた。
攻撃的な火が灯る獣の眼が、実は自分ではなく横を素通りして後方に放たれている事に光琉は気付けなかったようだ。

「オオオオオォォォン!!!」

獰猛な雄叫びが闇を引き裂いた。
本能を貫く恫喝に、光琉は反射的に身を竦めてしまう。
相手の居竦んだ隙を狙い、バネにした四肢を解放して飛び掛ってきた。
左右に大きく割けた口からは、刃よりも鋭利な歯が立ち並び、凶悪なまでに輝き放つ。

「うあぁぁっ」

咄嗟に顔の前で両手をクロスさせたが、どれほどの役に立つものか。
あの牙と顎ならば、肉を切り裂いて骨ごと腕を喰い千切るのも容易い。
大砲の前に掲げた紙の盾でしかなかった。

「ギャウッ!!」

眼を瞑り来るべき衝撃に構えた光琉に、だが、薄暗いヴェールの中に苦痛の叫びを響かせたのは彼ではなかった。
飛び掛ってきた怪物犬は、光琉の腕に凶暴さの象徴でもある牙を突き立てる事無く唸りを上げながら後ろへ飛び退く。
怯えを隠せない光琉が異変を感じて恐る恐ると顔を庇うように重ねた両腕の隙間から覗う。

飛び掛る前の位置まで後退した怪物犬。
唸り声を口の中で荒れさせる表情は怒りと憎しみで悪鬼の如く歪んでいた。
怒りが地獄の業火となって燃える黒瞳は、憤怒を糧に爛と輝く紅玉(ルビー)。
身の内に盛る炎に照らされた紅い瞳の片方は自身の血によって紅く染まっていた。
血を流す右目は眼球から潰され、瞼の間から黒っぽい芽のような物が突き出ていた。
犬の片目を潰した物は小石であった。細長い石が犬の眼球に突き刺さり、後ろ半分が瞼の間から突き出ていたのだ。

「グルル・・・ルル・・・・」

血塗れの眼と怒りに燃えるルビーの眼から放たれる殺意の矢。
射抜かれれば本当の痛みさえ受けるだろう視線の矢尻は光琉を擦り抜け、その後ろに向けられている。
不可思議に思ったが、怒りを剥き出しにする手負いの怪物犬を前に、顔を背けてよいものかどうか。
背を向けた途端、前脚の爪で引き裂かれる光景を想像し、光琉は振り返るのにも躊躇を覚えてしまう。
緊張を孕んだ雰囲気は光琉の予測を裏切り、たいした時間を待たずに終わりを告げた。

唸り声を潜めながら凄惨な目付きで睨みを効かせていた犬は、
相手を牽制しているかのように攻撃態勢を取りながら数歩後退し、茂み付近まで下がると一気に後方に飛んで光琉の前から消えてしまったのだった。
肺の中に溜め込んでいた空気を盛大に吐き出し、緊張の途切れた全身は体重を支える力さえ手放したのか、その場にへたり込んでしまう。
座り込んだ光琉の耳に、石と石が打ち合わさる渇いた音が突然入ってくる。
ゆっくり、犬にも注意を払いながら振り向いた時、光琉は一呼吸吸い込んだ。

「あ・・・」

振り向いた先で視界の中に見えるモノ・・・
犬の片目を潰したのだろうと予想できる石を、片手で3個ほど弄ぶ男が立っていた。
が、眼を奪うのはそれではない。単純に若い男の容姿が視線を引き付ける。
初夏にも関わらず上下とも黒で統一された服装に身を包む20代前半の男。
象牙を彫り上げたかのような、生気の感じない薄気味悪い白いの肌。
マネキン人形にも似た作り物めいた顔の造形は整っているが故に不気味だった。
刀の切先もかくやの鋭い黒瞳を、長い前髪が僅かにではあるが翳らし、眼光を弱めていた。

息が、止まる。
視界に入っている男が、とても人間とは思えなかった。
人形だと言われたならば納得もできよう。
血の通わない完全な機械人形なら。
血と肉を持つ生暖かい生物が、これほどまでに薄気味悪いはずがないのだから。

肩越しに振り返ったまま、光琉は酸素の塊を唾液と一緒に嚥下した。
まるで性質の悪い夢に迷い込んでしまった気分だ。
普通とは確実に異なる犬と出会い、意味も解らぬまま襲われ、次は黒衣を纏う白い男。
現実にありっこない。何時の間にか自分は御伽噺の世界に来てしまったのではないか。
白い兎を追って縦穴に落ちたアリスのように、知らず知らずの内に不思議の世界に足を踏み入れてしまったのか。

そうでなければ、夢。
見たくも無い白昼夢の回廊を呆然と自分の意識は歩いているとしか思えなかった。
速く醒めろ。
それだけを願うところだ。

「・・・・」

声無き光琉の願いも虚しく、どうやら性質の悪い夢は現実らしい。
研ぎ澄まされた刀身を思わせる黒衣の男の視線が、光琉の顔面に容赦なく白刃を突き立てている。

無言。
全くの無言。
へたり込んだ光琉に対し、静かな視線を投げ与えているだけで、硬く引き結んだ口を開く気配さえない。
暗く黄昏た黒と表現できる不吉で不気味な瞳に見据えられているのだから生きた心地がしない。
この世の者ではない悪魔やら悪鬼やらに見据えられている気分だった。

「あ・・・ぅ・・・・」

勝手に口から滑り出たのは人語にさえなっていない呻きだった。
冷や汗が背中とシャツの間に滑り、服を重く濡らす。
喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
全身を硬くする光琉だったが5秒もしない内に黒い男は関心など示さずに、視線の残光が光琉の顔を斜に薄く切り裂いた。
そのまま無言で背を向けて立ち去っていく男の背中に、何か声を掛けようかとも考えたが、喉を通す前に男の姿は消えていたのだった。

人形じみた男の姿が完全に木々の中に消えたのを確認した後も、光琉はその場から動けずに硬直を続けていた。
許容量以上のモノを見聞きして、脳は過負荷の状態にある。
停止した思考に浮かぶのは一面白い世界。
自身が脈動する鼓動の音と、繰り返し行う浅い呼吸音だけが鼓膜を強く刺激する。
何処から何処までが現実で、何処から何処までが現実と異なっていたか、明確に断ずる事は出来なかった。
妙に人間味を感じさせる犬と遭遇した時か、それともこの雑木林に足を踏み入れた瞬間からか、人形のような男もまやかしか。
いや、それらよりも前、もっと前、あの奇妙な感覚と耳鳴りを感じた時から現実では無かったのではないか。
遅々と活動を再開した思考回路の一隅で、取り留めも無く、誰にとも聞かせる事の無い考えを走らせている。
誰か答えられる者が居るなら答えて欲しかった。
見聞きしたこの記憶は現実なのか、と。

「光琉っ!?」

自失にも等しく呆けていた光琉に遠くから呼び声が投げられた。
犬の雄叫びを聞きつけたのだろうか、それとも、光琉の叫び声が林の外まで聞こえたのだろうか、駆け付けて来たのは小矢だった。
腰を抜かしてへたり込んでいる幼馴染に駆け寄ると、彼女は驚きで眼を見開かせた。
光琉に視線を向け、引き剥がし、周囲の木々を確認するような目付きで見渡してからもう一度彼を見る小矢。
少々眉を潜ませ、怪訝な面持ちをしている彼女だったが、その表情に気付く余裕はこの時の光琉には無かった。

「大丈夫!?」

肩を掴んで揺さぶってみても明確な反応は得られなかった。
曖昧な言葉で頷いている光琉は小矢の呼び掛けに答えていると言うより、自分自身を納得させているようである。
軽いショック症状が抜け切らない彼の身体を探り、どうやら大きな外傷がないのを確認すると胸を撫で下ろした。

「怪我は・・・無いようね」

無事を確認して、再度光琉の肩を揺さぶる。今度は強く。
ようやく眼の焦点が合いだす光琉は小矢の顔を認め、初めて気付いたかにして瞬きを交えた。
じっと見つめている眼に、少しづつではあるが理性の光が戻り始めてくる。

「・・・・小矢・・?
 っ!?」

訝しがりながら遠慮がちに訪ねてきた声に、少女はゆるりと頷いた。
首肯した幼馴染を気の無い視線だけ向けていた光琉の瞳に、急速に意思の現れを宿したかと思えば、ハッと顔を上げ、忙しなく視線を巡らせる。
視線で雑木林の中に穿たれた空間を横に切り裂きつつ、何かに脅えるように低く浅い呼吸で肩を上下させる。
こうしている間にも、まだ、何かが自分を狙っているでは?
そんな疑問が頭に掛かり拭えずにいた。

「はぁ・・・・っ」

一頻り血走った眼を右へ左へ飛ばし終え、何の気配も無いのを確認すると光琉は背を丸くして両手で顔を覆う。
俯き加減になった顔には、流れる汗が次々と頬を伝い垂れ落ちていく。
激しかった動悸は落ち着きを取り戻していくが、全身を燻らせる熱を冷ますにはもう少しかかりそうだった。

思わず先ほどの出来事を小矢に向かって口走りそうになる。口を開くまではいくのだが声は中々喉から押し出てはくれなかった。
当然だ。自分自身が理解し、把握できていない出来事をどうやって他者に伝えるというのだ。
よしんば声を出したとして、どのように説明する、どんな言葉を選んで告げると言うのだ。

犬が突然襲ってきた。
それだけだ。
光琉が言葉として説明できるのはその程度だった。

怪我が無かったのは確かに不幸中の幸いではあるが、大騒ぎする事でもないのは確かである。
犬に襲われた程度でしかないのだ。
良く良く思い出せば傷付いた犬。
手負いの獣は得てしてそういうものではないか。
身を護る事を優先させ過敏に反応し、攻撃的になる。
運悪く自分はその現場に居合わせてしまっただけ、半狂乱に陥るようなものでもない。
先ほどの出来事を聞かされれば、誰もがそう答える。
普通ならば。

頭の隅で何かが点灯していたあの感覚。鼓膜の奥で螺旋に縺れるような耳鳴りの音。
両方とも大分薄れていったが今もまだ欠片ほどには残っている。
こびり付いている。

神経に残された奇妙な感覚の末端が囁いている。
ソレが教えるのだ。
「否」と一言。
この奇妙な感覚があるから、怯えが消えてくれない。
安心できないでいる。
焦りも怯えも本物で、だが、光琉が抱える深刻さを誰かに説明する事は出来なかった。
全ては感覚的なものに由来し、言葉としての説明には向いていなかった。

「大丈夫? 立てる?
 顔色悪いわよ?」

「あ・・・あぁ」

未だ考え事に没頭している光琉に、小矢は左手を差し出す。
耳に入っているのかいないのかの様子で首肯だけで応じると彼女の手を掴む。

「っつ」

差し出された手を掴んだ瞬間、小矢は小さく呻いて眉を顰めた。
訝しがり向けた視線をついっと彼女の腕に動かす。
長袖の夏服に隠された肘に近い二の腕の部分、白い袖に僅かに赤い染みが付着している。
よくよく見れば、他の部分より袖が膨らんでいるように見えるのは、ハンカチで応急処置してあるからか。

「小矢の方が怪我してるじゃねぇか」

真新しい血の跡を見つけた光琉が口調を荒げた。
半ば呆けていた意識が、幼馴染の血を見て急速に覚醒したようだ。
詰問され、血の跡が付く袖の上から二の腕を撫でるようにして、小矢は曖昧に笑う。

「あ・・・うん・・・・。
 私も犬に襲われて・・・引っ掻かれて・・・・多分、光琉に襲い掛かってきたのと同じ犬・・・。
 でも大丈夫だよ。掠っただけだから。
 もう血は止まってるから、心配しないで」

確かに傷はたいした事は無さそうであり、出血は止まっているようだった。
動かしたり、力を入れたりすると小さく痛むだけなのだろう。

「あのな・・何時も言ってるだろう。
 もう少し自分を大事にしろよ」

大事無いと解っても小矢に向けられた光琉の眼差しはそれほど和らぎはせず、口調も穏やかなものではなかった。
明らかに怒った目付きと叱る口調の彼に対し、小矢は少し困ったような笑みをしたままだった。

赤の他人が傷付いても器用に嘆く事ができる博愛精神の権化などとは、小矢は全くの無縁だが、事が知り合いに及ぶとその限りではなくなってくる。
まず自分より相手を第一に考える傾向が強く、前後を顧みない事もしばしばあった。
季夕や光琉もそうした傾向があるにはあるが、小矢は度が過ぎているように思われる。

光琉にせよ、季夕にせよ、過去に小矢に助けられた事が何度かあった。
助けられた方は無傷だが、助けた本人は怪我を負い、それでも、彼女は笑みを浮かべるのだ。
「良かった・・・」と、心底安堵した笑顔を。

幼い頃からその笑顔を見て何度思った事だろうか。
もう少し自分も大切にしろ、と。

だが、それを言っても聞かない小矢だった。
咄嗟の時は考えるより速く身体が動くらしい。
特に、光琉や季夕、それに妹の瑠香といった小矢自身に近い人間の事に対してはどうやら理性では説明が付かない無意識の行動のようだ。

「私の傍に居る人が怪我するより、私が怪我した方がずっといいよ。
 自分の怪我だったら、我慢できるもの」

何時も何時も、昔からお決まりになっている台詞を言う小矢の顔は、やはり昔から変わらず、少し困ったような笑顔を浮かべる。
それでいて、はっきりとした口調と態度に、幼馴染の付き合いが始まってから何度注意したか解らない光琉は諦観の溜息を付いた。

「何時もの事だから諦めるが、余り無理はするなよ。
 俺や季夕が怪我するのを見たくないと小矢が思っているように、俺達も小矢に同じ事思ってんだからな」

「うん。解ってるよ」

返事だけは完璧な小矢に、光琉はそれ以上何も言えずに肩を竦めるのだった。

「とりあえず、帰ったら、きちんと怪我の手当てしろよ」

と、立ち上がろうとした光琉だったが、彼自身、両膝に手を当てて力を入れ直さなければ危うげなほどぐらつく。
立ち上がった後も何度か頭を振り、記憶棚から先ほど違和感で固めれた記憶を追い出そうと試みた。
務めて気にしない表情を作り、不安げに顔色を覗いてくる小矢の視線を受け流しながら光琉は歩き出した。

2人が雑木林を後にした時、林の入り口の一本の木から半分焼けた紙切れが剥がれ落ちた。
風に揺れて舞う黒く焦げた紙切れ。
瞬く間にそれは灰に変わって散っていく。




坂道を登った所に神社は見える。
小矢と妹の実家であり、光琉の居候先でもある白城神社に付いた頃には夕暮れの黄昏は柔らかな残照を残して半ば以上地平に没していた。

家に戻った後は脇目も振らずに自室に向かい、そのまま光琉はベッドに倒れこんだ。
四肢を投げ出して枕に顔を埋める。
身体自体に異常は無い。
ただ動きたくない、それだけ。
頭の芯が痺れてとにかく考えるのが億劫になっていた。
眼を閉じても睡魔は訪れる兆しも見せない。眠くは無い。ただ思考が重く考えるのがだるいだけで。
それなのに、脳細胞は活発に働き、頼んでもいない記憶を本棚から引っ張り出し色々思い出させてくれた。
セピア色に風化されるには真新しすぎる新鮮でリアルな記憶。
つい先ほどの体験を脳裏に投射して映す。

犬。
いや、アレは本当に犬と呼べるモノだったのだろうか。
少なくても、あんな人間臭い表情を作る犬など見た事が無かった。
しかし、アレを犬ではないとするなら何と呼ぶモノか。
外見は確かに極々真っ当な犬だったのだ。

いや、そもそもの事の発端は何だったか。
坂の途上で感じたあの鼓膜の奥底でとぐろ巻くような耳鳴りと、何とも言い難い奇妙な感覚。
思えばあの感覚に操られるようにして足を進めた。
雑木林に踏み入り、犬との位置が近づくにつれ感覚も耳鳴りも強くなっていった。

偶然・・・とは思えない。
だけど、解らない。
説明は誰に対しても、それは自分に対しても出来なかった。

脳細胞に小さな棘が刺す痛みが縫い込んでくる。
解りもしない事を考えすぎた。「1」と「3」の情報しか持ち合わせていない者が「2」に辿り付こうとしても不可能だ。
「1」から「2」を飛び越えて「3」を数える。
永遠に堂々巡り。
考えても仕方が無い事かもしれない。解らないものは解らないのだ。

・・・変なものに遭遇した。

結局の所、自分で自分を納得させる言葉はそれしかないのかもしれなかった。
思考を無理矢理打ち切っても釈然としない断片が繰り返し繰り返し先ほどの記憶を思い出させた。

ちっ、何なんだよ、一体・・・
と、内心の苛立ちを隠そうともせずに毒気付く。
割り切って納得してしまえば楽になれるだろうが、無意識で拒否している部分がある。

「くっ・・・」

どうにも煮え切らなかった。忌々しげに口を歪ませ、呼吸を吐き捨てる。
一度上半身を起こし、再度顔を枕の上に落とす。そのまま寝返りを打って仰向けになり天井に眼をやる。
何の変哲もない木造のくすんだ天井にまで記憶を投影してしまいそうで気が滅入り、知らずに溜息も漏れてしまう。

元々彼は物事を深く考える性質ではない。
何かあっても考えるだけは考えるが、解らないとすぐに放り出してしまう。それ以上は追求しようという気すら起きないのだ。
何と言うか、光琉の思考の回廊は奥行きがなく、僅かな距離で行き止まりになるようだ。
回廊の最奥に「回れ右・引き返せ」の標識でも立っているのかもしれない。
とは、季夕の言葉で、万事気軽に構える幼馴染に対する悪意のない揶揄である。
気の強い彼女の意見を聞いた光琉自身のコメントは、といえば・・・
「まぁ、確かにそうかもしれないな」
と、幼馴染の発言を苦笑混じりで認めているのであった。

その光琉をして、ここまで悩ませる出来事も悩む事も初めての事だ。
対応が解らない。どうしていいのか困惑する。何故こうも気になっているのか理解できない。
何時ものようにお気楽な回路の作動を待っていたが、思考の袋小路で立ち尽くす光琉の精神に「回れ右」を命じる声は聞こえなかった。

内心で燻るような、蟠るような白い靄。全くこうも不快な気分にさせられるとは。
頭を掻き毟りながら何度目かの溜息を吐き出した時、控えめなノックの音がテンポ良く二回続けられた。
ドアを開けて来訪者を確認するまでもない。彼の他に家にいるのは限られている。
それに規則正しいノック音は光琉が日常で何時も聞いているものだった。
ベッドの上に寝転がりながらノックに応じると、来訪者はノック音と同じに控えめにドアを開け、隙間から小さな身体を滑り込ませた。

予測した通りと言うか、部屋を訪ねてきたのは小矢の妹である此花 瑠香である。
光琉達とは三年年下なのだが、外見を見る限り更に幼い。
平均よりも二周り小さな身長。姉と同じ全体的に線の細い体躯。華奢を通り越して危うげなほど儚く感じられる。

毎日決まった時間になると光琉の部屋を訪れ、食事の準備が終わったとか、お風呂が空いたとか、雑事を伝えに来る瑠香だが、
これは、彼女が好んで自発的に行っているのではない。
姉である小矢に言われての事だ。
命令にせよ、強制にせよ、誰かがやらせないと、瑠香は他人と接触を試みすらしない。
元来は排他的な性格とは全く対極だったのだが、ある事件を切欠にこうなってしまった。

二年前の夏、友人たちと遊びに行った帰宅途中に脇見運転の車が突っ込み跳ねられた。
脊椎と後頭部を強打し、一時は半植物人間状態となって意識が回復するのは絶望視されていた。
だが、事故から四ヵ月後、瑠香は奇跡的に意識を取り戻したのだ。

「姉さんが、夕飯の用意が出来たって・・・」

淡々と告げる声量は微風の囁きも同然のものであった。
対人恐怖症で脅えて言い淀んでいる訳でもなく、赤面症で恥ずかしがっている訳でもない。
そのように外見で内心が解り易く露呈した仕草をしてくれるなら、光琉が毎日対応に困る事もないだろう。
少女の挙動にも表情にも口調にも、感情が余り感じられない冷淡とさえ受け取れる調子だった。

回復の見通しがないとまで言われたが奇跡的に意識を取り戻した時、この少女は後遺症とばかりに失ったものが二つある。
一つが、髪の色素。
腰まで届きそうな長い髪は、ごっそりと色素が抜け落ちて雪で織った絹糸にさえ見える。
元々は豊かな黒髪だったのだが、意識を取り戻してから数ヶ月も経たない内に変質してしまったのだ。
一つが、笑顔。
生来、人懐こい良い意味での「天真爛漫」を体現していたが、
事故後は人が変わってしまったかのように感情表現の仕方を忘れてしまったか、感情そのものを亡失させてしまったのか、表情を殆ど出さなくなった。
誰の前でも言葉遣いと態度を変える事無く、一律して無感情、無機的になってしまったのである。

事故前の少女を知る人間にとって、余りにも変わり過ぎ、言葉が見つからなかった。
医者の診断によれば、事故のショックとストレスで精神が消耗した結果と言う事らしい。
瑠香の外見が成長を放棄して当時のままなのも、精神的な要因が大きいようだ。

「ん・・・・」

水晶玉同然の瑠香の瞳に見られて、少々光琉は返答に窮してしまう。
本音を言えば、食欲などない。
頭の中が乱雑に散らかり過ぎていて食欲が湧いてこないでいる。
折角用意されたものを無碍に断るのも悪い気がし、何より呼びに来てくれた瑠香に悪い。

他の誰にも必要以上に優しくしない光琉だったが、この少女に対しては別だった。
瑠香がまだ幼い事もあるが、何よりも彼女は一度実質的に死を言い渡されたのだ。
昏睡で意識不明の状態は死ではないが、生きているとも言えない。死んでいないだけ。
奇跡的に回復しても後遺症の残る身となった瑠香を、光琉は光琉なりに色々心配して、気を使うのだった。

「・・・・・・・解った。一緒に降りるよ」

多少迷う素振りを見せていた光琉だったが、静かに返答を待つ瑠香の視線に居心地悪さを覚え、結局食事を取る事になった。
小さく頷き部屋を出て行った瑠香の後について、ベッドから立ち上がると彼も部屋を後にした。




「あら、降りてきたのね。
 呼びに行ってくれてありがとう、瑠香」

台所では、怪我の手当てを済ませた小矢がテーブルに皿を並べている最中だった。
彼女の言葉に頷き、瑠香もその手伝いをする。
整然と料理を並べていく二人の邪魔にならないよう気をつけながら光琉は何時ものイスに腰掛けた。

見る間にテーブルの上に並べられていく料理。
夕食のメニューは夏を意識したもののようで、野菜の豚肉ロール揚げ、冬瓜の煮物、揚げ出し豆腐と豆ごはんが並んでいる。
食事の仕度は基本的に小矢一人が朝、昼、晩と三食全て賄っている。
元々料理や掃除と言った家庭的な事が好きらしく、
飲み込みの速い彼女が色々と自主的に調べたりしている内に小矢の料理の腕は趣味の範囲を超えてしまい、
街中で良く見かけるファミレスや喫茶店の類いより品数多く、味も良い料理を作れるようになっていた。

ただし、味は高水準だが見た目は中学生の家庭科の授業レベルである。
元来不器用な性質である小矢にとって、華麗な包丁捌きで材料を綺麗に切り揃えるのは難問であったのだ。
事器用さに関する限り、彼女は親友である季夕の足元にも及ばなかった。
しかし、季夕は季夕で、見た目は素晴らしいが味は反比例して保障できない料理しか作れない事を追記しておく。

味が辛すぎたり甘すぎたりくどすぎたり・・・と、季夕の料理は極端なのである。
過去に一度、家庭科の調理実習の時、彼女が作った玉子焼きを食べたが、一口で戻しそうになった。
コンデンサミルクに口を付けてちゅうちゅうやっている気分を玉子焼きで味わったのは、光琉にしてもあれが初めての経験である。

その次は、やけに塩辛いショートケーキを毒見させられた。
これなら酒の肴になるかなぁ・・・と、塩辛いクリームの底に沈んでいく意識の最中考えたり考えなかったり・・・
そんな事を経験して、季夕の料理だけは土下座して泣き叫んでも許しを請いたい光琉であった。

「ぅ・・・・」

ついうっかりあの味を思い出し、思わず胃の辺りを擦る。
胸焼けを引き起こす味の記憶には、脂汗さえ流れるというものだ。

小矢とは別に、光琉は簡単なメニューしか作れず、3日もしないうちにメニューのレパートリーも底を尽きてしまう。
瑠香は小矢ほどとはいかないまでも充分及第点以上の料理を作れるが、基本的には、姉の横でキッチンに立ち、手伝いをするのが日課となっている。
極たまに光琉や瑠香がメインとなってキッチンに立つ場合もあるが、月に数回あるかないかくらいなものだ。

皿が全部テーブルの上に並べられると、パタパタと動き回っていた小矢と瑠香がイスに腰掛け、三人の食事が始まる。
光琉と、小矢、それに瑠香。食卓を囲むのは三人だけ。
これが日常。毎日繰り返される当然の光景。

この神社に住んでいるのは三人だけしかいないが、此花姉妹の近所に保護者となる小矢と瑠香の祖母がいる。
ただし、神社ではなく近くの別棟にて暮らしているのである。
必ず月に一度は小矢と瑠香が会いに行くか、祖母の方がこちらに来るかして会ってはいるが、一緒に住む意思はないようだ。
故人となった祖父と暮らした家が祖母にとっての唯一の「家」なのだろう。
その旨を小矢から聞いた光琉は返答に困惑した。
老人の感傷には違いないが、否定する気にもなれない。ただ、言葉に詰まるだけで・・・
そうした哀切の念を解するには光琉の年齢は若過ぎるのだった。

それとは別に月に何度か、近所に住む季夕が食事を一緒にする時もある。
昔は頻繁に来て、そのまま一泊するのも良くある事だったのだが、年々宿泊する回数は減っているのは確かだった。
小矢も瑠香も子供のままではいられずに大人になったと言う事か。
尤も、単に遊びに来てそのまま泊まってしまう事が少なくなっただけで、交流そのものは何も変わっていない。

たまに季夕が遊びに来て、夕食を共にした後、そのまま泊り込む事もあるが、それこそ極たまにである。
季夕は部活の顧問や部員から期待されており、その期待に応えようと彼女も部活動に熱意を入れているので、昔のように自由な時間が取りにくくなっているのだ。

ただ、今日の食卓は普段とは違い、談笑は小さく低く、会話の流れも賑やかとは程遠い。
光琉は雑木林で見た奇異な出来事がどうしても頭から離れずにいて、押し黙っていた。

「ねぇ、光琉はどうして林の中にいたの?
 家に帰るコースから離れてるじゃない。
 遠回りになるし、普通行かないでしょ、あんな所」

食事を進める中、思い出したかのように問い掛けてきた小矢。
箸の動きを止めた光琉の表情に困惑の色が一瞬横切った。

「う・・・ん。
 なんでだろうな、なんとなく・・・としか言えないな・・・」

口を開いては閉じ、首を傾げながら心底言い難そうに言い淀む。
何と説明すればいいのか、彼の中で未だに明確な回答が導き出されていない。

「そういや、何で小矢はあそこにいたんだよ?」

「私?
 家の近くの坂の途中でいきなり犬が飛び掛ってきて・・・。
 逃げてるうちに林の中に入ったんだと思う・・良く覚えてないんだけど・・・。
 それで、林の中で追い付かれちゃって、怪我も、その時に・・・」

「ふぅ・・・ん。
 気をつけないとな、お互いに」

「うん。
 この頃、野犬が増えてるみたいだしね」

頷く小矢の言葉を聞き終えた光琉は、脳裏に独り言を過ぎらせる。

野犬・・・・なのか。
本当に・・・・。

ずっと気になっている事。
自分でも何故ここまで気になるのか解らない。
だけど、曖昧にしておく事は、光琉には出来そうに無かった。

「でも、良かったわよ、怪我しなくて。
 気をつけないと、今度は本当に噛み付かれるかもよ?」

再び考え事に没頭しようとなる光琉を小矢の声が現実に呼び戻す。

「ん・・・さっきも本当に噛み付かれそうになったんだけどね。
 通りがかり・・・かな? その人が追っ払ってくれてね・・・」

「えっ・・?」

苦笑して話す光琉の言葉に、小矢は表情を硬くして顔を上げた。
驚きに近い表情で次の語句を繋げようと口を開きかけたが、ふと視線を逸らし、そのまま押し黙ってしまう。

「そう・・・」

数秒を要して小さく呟いた小矢はそれきり何を言っても心ここにあらずで生返事が返って来るばかりだった。
途端に口数の減った食卓で、箸を進める音だけが静かに響いていた。




【第壱章・表 完】


BACK
TOP

風俗 デリヘル SMクラブ