第三章・表/6
「うわっ!?」
思わず素っ頓狂な叫びを光琉があげた。
ミュージックシーンの最先端をいっている着メロなどではない。どんな携帯電話にでも最初から入っている凡庸で個性の欠片もない電子音の響き。
ジーンズのポケットの中で着信音を響かせる携帯電話は、単調な電子音と一緒にブルブルと振動していた。
液晶画面を確認すると、やはり、と言おうか、季夕からの連絡だった。
『お、やっと出たね。
家に行っても誰も居なかったから、心配したよ』
聞き慣れた声。些か場の空気にそぐわない能天気さがあったが、ホッする。
心を圧迫する重圧が少しだけ薄くなったのを感じつつ、光琉は応じた。
「ああ・・・昼頃から小矢と出ていたんだ。気分転換に、さ」
『え・・・・? ああ・・・サヤと、一緒なの?』
何故か、電話の向こうで季夕のトーンが落ちたような気がした。
「そうだけど」と何気なく応じるが、向こうからの応対がやけに鈍い。暫くして「そっか」と返って来たきりだ。
何とはなしに押し黙ってしまった感のある季夕の様子を余所に、光琉はふと思いついた。
綾子と仲の良い季夕なら、彼女の携帯電話のナンバーも知っているかもしれない。
「片山 綾子、知ってるだろ?」
『え? う、うん』
「いきなりで悪いけど、今、連絡取れるか?」
『へ? ついさっきまで、電話で喋っていたけど・・・
ああ、なんだか、素敵な男にナンパされたとか言って妙にウキウキしてたよ』
「それ、何時ごろの電話だ? 片山が今、何処にいるか解るか?」
『ついさっき。ほんの20分くらい前かな、うん。
彼女の自宅からの電話だったから、今の時間、家にいるんじゃないかな?
明日もデートに行くとか・・・言ってたし。だけど、それがどうかした?』
何の事を言っているかさっぱり掴めない季夕が、少し考え込んだ素振りの後、答えてくる。
それを聞き、光琉は胸を撫で下ろす。どうやら、無事のようだ。
「片山は家に帰ってるんだな?
そうか、それならいいんだ」
『・・・なに? なにか、あった?』
どう答えるべきか逡巡した光琉は、とりあえず、この場にいるもう一人の幼馴染へと視線を送った。
電話の会話から小矢も綾子が無事なのは理解している。今この時に心配する事は無くなった。
クラスメイトが無事。彼女が明日また男と会うのなら、それをシェミハウルに伝えるのが優先だろう。
何も自分達だけで危険な橋を渡ることは無い。専門家がいるのなら、任せるべきである。素人の生兵法は怪我の元でしかない。
まず、明日の朝頃に季夕と合流し、綾子のところへ連絡を取ってもらおう。
待ち合わせの場所と時間帯を聞き出して・・・いや、もう季夕が知っているのなら、その必要は無い。
片山 綾子の明日のスケジュールを教えてもらってから、シェミハウルの居るサンロイヤルホテルへ。
その後は・・・・その後は専門家の仕事となる。
小矢が小声で言ったのを聞き終えると、光琉も賛同して頷いた。
自分達だけで対処する真似はしたくなかった。
「ちょっと・・・な。詳しいことは明日話すよ。朝方こっち来てくれるか?」
『うん、解った。明日の10時頃、そっちへ行くから』
話をまとめて電話を切る。
問題は先送りされた。明日になれば、今日解決されなかった問題が待っているが、考えるのは明日で済む。
さしあたり、今夜は、ややこしい考え事から遠ざかれたと思えて良いのではないだろうか。
「は―――――――ぁ」
意識せずとも気だるい溜息が口から這い出た。
もう、この路地には用は無い。結界を張っていた霊符が剥がされても、街路に人気はなかった。人の来る気配さえもない。
だが、住宅の窓からは明かりが漏れ、夕食の会話が聞こえてくる。丁度そんな時間帯だ。
薄暗い路地に立ち、平和な家庭の談笑の笑い声を耳にしていると、自分が遠い異世界の住人になった気がしてならない。
ただの感傷だと思い込むには、光琉のやっている事は世間一般的な普通とは掛け離れていた。
無意識の自覚は、精神に架空の苦味を広がらせた。
顰め面をして、小難しい考えに没頭している中、場違いにも奇妙な音が鳴った。
腹の音だ。
どんな時でも、どんな状況でも、腹は減る。腹がくちくなれば、腹の虫は自然、飯の時間だ、何か食わせろと不平をたてるものだ。
思わず自分の腹の手を当てて赤面する光琉に、小矢は鳩が豆鉄砲を食らったような、キョトンとした表情になっていた。
暫く彼を見つめ、小さく吹き出す。クスクスと笑う彼女の様子に、光琉は苦笑した。
表情ほどに、内心は傷付いても恥ずかしがってもいないのだが、こうした笑える時間は少しでも長く持続させた方が良かった。
「帰ろっか。夕食の仕度をしなきゃね」
何処かおどけて、弾むような口調で言った小矢に、光琉は頷いた。
笑っていたのも束の間で、自宅までの道のりは、やはり、口数が少なかった。
家に戻って夕食の仕度を始める。料理を作る前、冷蔵庫を開けた小矢が「しまった」と唸った。
毎週日曜に買い込んでいる材料が底を突く寸前であった。家に戻る前に近くのスーパーによって買い込んでくるべきだった、と、残念がった。
冷蔵庫の中には、まだ2、3日分の材料があるから、それまでに買いに行けば大丈夫だった。
尤も、普段のようにおかずの皿を豊富に用意する訳にはいかず、ありあわせの2品だけでご飯を食べる。
何とも質素な夕食ではあったが、光琉は別に不満はない。
元々、豪勢さにも味にも固執しない性質で、食事とは、単に空腹を満たすためだけのものだと考える傾向が強いのだから。
無論、味も品数もグレードが高ければ嬉しいが、満腹にさえなれば、不平など出ないのである。
テーブルの上の料理を半分かた平らげた頃、ひょっこりと瑠香が顔を出した。
今しがた帰ってきたのか、元から部屋にいたのか解らない。玄関で彼女の靴を気に掛けて、確認していなかった。
どちらにしても、幽霊のような雰囲気を持つ瑠香である。何処に現れてもおかしくないし、一日中姿が見えなくても、それはそれでおかしくない。
「今帰ったの?」
「・・・・うん」
「夕飯、食べるでしょ?」
「・・・うん」
姉からの言葉に、口数少なく答える瑠香。
妹がイスを引くのと同時に、姉は立ち上がり、お椀にご飯をよそう。
三人が集まった食卓。それなのに、家族の夕食風景とは程遠い。
二人だけの時よりも口数が少ない。姉妹間で交わされる言葉も「どこいってたの?」「散歩・・・」それで終了だ。
何とも気まずい。かといって、光琉自身、姉妹間の関係をもっと友好なものに改善させる考えなど持っていない。
「ごちそうさま」
残っていたご飯とおかずを大口の中に詰め込んで、光琉は逃げるように席を立った。
情けない話、重苦しい沈黙の場から逃げ出した。
この場合、疎遠気味な姉妹の間に立ち、
もう少し会話が成り立つように橋渡ししてやるのが最良なのかもしれないが、彼の性格からそれを求めるのは些か酷であるかもしれない。
人と人との間で生きた緩衝材の役割を担える人間は、それなりの思慮深さと気遣いと包容力、それに優しさを兼ね備えた人格者だ。
残念ながら、光琉には、そのような資質を持ち合わせてはいない。姉と妹のギクシャクした間柄をどうにか修復したい気構えはあるが、気だけだ。
気持ちだけで、互いの個性の歯車が円滑に噛み合えるような油にはなれない。
だが、どうにかしたいと思う気持ちもあったのは確かで、席を立った後、廊下で瑠香が出てくるのを待った。
待つ時間は暫くであって、その間に退室した部屋からは会話もなく、話し声は聞こえてこなかった。
黙々とした食卓風景が飾られているのかと思うと、ゾッとしないでもない。
今、壁を挟んだ部屋の中で見られる食卓の様子を想像した時、当然、心楽しくはならなかった。
ドアを開けて出てきた瑠香を呼び止める。
色素の薄い顔がこちらに向けられ、感情の起伏とは袂を別ったかのような熱のない瞳が注がれた。
「・・・なに?」
小さな唇が揺れるように動いて、殆ど可聴域最低限の声で呟く。
見るものが見れば、そうした話し方さえ可愛いだとか思う男もいるのだろうが、光琉は別だった。
寒気がする。まるで幽霊か何かと対話している気分になってくる。
もう少し、はっきりとした物言いをすればいいのに。と、思わないでもなかったが、口には出さずにいた。
「もう少し・・・なんとかできないかな」
さて、どう言ったものか。
ウィスキーだとかのアルコールを思わせる琥珀色の目を正面から向けられ、光琉はややたじろぎを覚えた。
水で薄めていないアルコール。無類の酒飲みには涎を垂らす一品かもしれないが、アルコールに縁の無い光琉にはキツイ。
正面から見据えられている少女の瞳からも、そんな感じを受ける。
意味を掴みかねて小さく首を傾げる瑠香。
一呼吸ついて呼吸を整えてから、改めて切り出す。
「小矢の事・・・嫌ってる?」
言ってから、しまったとの一言が胸中に過ぎった。
相手の反応に戸惑ったわけではない。自分の言い方にこそ拙いものを感じた。
もう少し、気の利いた言いようも台詞もあったのではないか・
台詞が率直に過ぎたと後悔しても今更だったが、瑠香の方は光琉の内心に全く関心を寄せず、鋼鉄のような無表情にヒビ一つ入っていない。
「いいえ」
得られた回答は簡潔を極めており、感情の一分子も篭っていないかに思われたが、それだけに嘘を言っている様子も見られない。
あくまでも平然と、淡々とした声音であった。
彼女の発した言葉を光琉が吟味する間に、発言者自身は少しばかり考え込んだように視線を落とす。
曲りなりとも同じ屋根の下で暮らす家族に対して失礼な見識ではあるが人形細工を連想させる少女には珍しく、何かを言いよどんでいた。
「嫌いじゃない・・・・嫌いじゃない、けど、苦手・・なのかも」
僅かな逡巡の後、ポツリと呟き、顔を俯かせる。貴方には関係ないでしょと、そんな最悪の言葉が返ってこなかっただけでホッと胸をなでおろす。
だが、瑠香の表情と仕草は、恥じていると言うより、もっと複雑な感情の働きが裏にあるような気がしたが、光琉には皆目解らない。
思案げな仕草の瑠香を見ながら、光琉は何とな口を噤み、瑠香も黙っていた。
無言。暫く互いに無言になって、廊下には静寂が降りた。
壁一枚隔てた向こうから、夕食に使った食器を洗う水の音が聞こえてくる。
「気にしてくれているのね、ありがとう」
唐突に瑠香が呟き笑った。慎重の違いから、上目遣いで微笑む。
笑い慣れない笑顔はぎこちなく、それは笑みとはいえなかったかもしれないが微笑には違いなかった。
完全に意表をつかれ、今度は光琉が逡巡する番となる。
反応に困って苦笑する。仮にも年下の相手に翻弄されるとは、少々情けないとばかりに。
「努力、してみる・・・・姉妹・・・なんだものね」
自分自身に言い聞かせるようにして、瑠香がうわ言のように呟いた。
努力するようなものだろうか、と、思わないでもなかったが、口には出さず、光琉は頷くだけに留めた。
そこで別れた。これ以上言うことも無い。
言ったとしても、「うん、努力してくれ」などと月並みな台詞しか口には出せなかっただろう。
この時、光琉は気付かなかった。自室に向かって階段を上がっていく彼の背を見ながら、瑠香がポツリと何かを呟いた言葉に。
「努力しても、無駄になるかもしれないけど・・・・」
一方で、階段を上がっていく光琉が思い悩んでいた。
異性相手の問答はどうもやり辛くて仕方が無い。
男であれば何気ない台詞であっても、女性相手なら、途端に相手の気を悪くしかねず、色々と考え込んでしまうのだった。
「はぁ・・・・・」
憂鬱な呼気を吐き出す。
姉妹の間に自分がどれほどの力になれているのかと考えると、気分が一段と沈むようだ。
自室に入り、そのままの格好でベッドに身を投げた。乱暴に倒れこんだせいでスプリングが軋む。
小矢と瑠香の関係・・・これは、まぁ、急く必要もないのではないか。
人と人との関係なんて、そうすぐに変化するものではないだろう。
友人であれ、親子であれ、兄弟であれ、姉妹であれ・・・
じっくりと時間をかけて改善させる方法を模索しても、それはそれでいいような気もする。
それに、当人たち同士、嫌っている訳でもないのだ。苦手なだけ。
人付き合いに疎い瑠香なら解るが、小矢が妹を苦手と言うのは少々似つかわしくなかったが、そうゆう事もあるのかもしれない。
後は本人たちに任せてしまってもいいような気がした。
問題の一つを思考の脇にどける。
それとは別に、頭を悩ませる問題は他にある。
明日、朝、季夕がこちらに来てから、どう説明したらいいのだろうか。
いっそ、彼女への説明は小矢に任せようかとも考えないではない。
しかし、その後はどうするのだ?
季夕に説明して、シェミハウルに報告にいって、それで、その後は?
と、自問する。
助力を求められれば、行動を共にするかもしれない。
いや、友人の安否がかかっているのだ、季夕の立場からすれば是が非でも一緒に行くと言い出すだろう。
光琉個人としては、余り乗り気になれない。化物と戦う、それ自体もそうだが、シェミハウルと一緒に行動するのに抵抗があった。
妙に丁寧な態度、口調、それに裏に何かを潜ませるような、それでいて相手を観察してくるような目。
とてもじゃないが好意など持てない。いけ好かない男。シェミハウルから持った正直な印象はそれだ。
シェミハウルと行動を共にすれば、やはり、化物と戦う事になるのだろうか。
また、人間と・・・いや、人間の似姿をした化物と・・・・
今まで化物は獣だけかと考えていた。だが、そうではなかった。人間と同じ姿で、人間じゃない存在もいた。
化物が獣型だけだと誰かに言われたわけではなく、彼が勝手に思い込んでいただけに過ぎなかったのであるが、当然ながら良い気分はしない。
嫌な・・・感覚だ。
相手は、姿形だけでなく、血も、肉も、そのまま人間だ。
化物だとは理解しても、頭のどこかで人間を殺しているような感覚が払拭できずにいる。
瞼を閉じれば、鮮明に思い出す事が出来るし、意識を耳に向ければ、残響が今も聞こえてくるようだった。
血だ。あの赤い血。真赤に染まった肉片が飛び散って、壁に、道路に、クシャっと広がる。
そして、声。叫び声。普通の人間の、痛みに喘ぎ泣く声。
脳髄にこびり付いた真紅の映像と叫び声が、忌々しい毒虫となって彼の精神を蝕んでくるようだ。
暫く悪夢に見そうな予感さえして、薄ら寒い思いに囚われた。
頭を振り、乱暴に掻き毟る。
落ち着かない。気分が重苦しくて最悪に近い。
そもそも、これは、何時終わるのだろうか。
小矢は、何時、こんな世界から手を切るのだろうか。
それこそが、最大の疑問点であり、最大の関心事であった。
彼女は言っていた。
―――――二人が普通に暮らせるようにしたいから・・・・と。
でも、そんな事、一体何をすれば叶えられるんだろうか。
この町の化物を全部狩り殺せれば、普通の、それこそ日常に戻ってくるのか。
そんなのは、無理だ。この町だけにしても、一体どれだけの数がいるのか全く解らない。正確な数の検討もつかない。
後5匹かもしれないが、10匹かもしれないし、100匹かもしれない。500匹だとも考えられる。
このままのペースでやっていけば、何年かかるか知れたもんじゃなかった。
余計な心配は捨てて、さっさとこんな世界から手を切るべきではないだろうか。それが一番現実的な方法ではないだろうか。
元々誰かに乞われてやっているのではない。自主的に行っているに過ぎないのだ。
嫌になったからここで投げ出して、その所為で化物に殺される犠牲者が増えたところで、誰からも恨まれる謂れなどないだろうに。
何故、小矢はそうしないのだろう。
「ふぅ・・・・」
溜息一つ吐いて、寝返りを打つ。
腰の辺りに硬い感触を覚えて、ポケットを探れば、冷たい金属が指に当たる。
小矢の使っていた折り畳み式のナイフだった。返し忘れてポケットに入れたままになっていた。
寝返りを打った拍子に柄が腰に当たったのだろう。
飛び出しナイフで無い為、いちいち指で刃を摘んで出さなければならない。
パチリと音が鳴り、ブレード部が固定された。刃渡り7cmほどのナイフ。そこら辺のホームセンターで売ってるような安物。
唯一市販品と違うのは、ブレード部に何か文字らしきものが刻まれている点だけ。
霊符に書かれている図形のような、記号のような文字。何て書いてあるかなど理解出来ないが、恐らく霊符と似たような効果を持っているのだろう。
そうでなければ、女の姿をした化物を刺した箇所が、いきなり火を吹くはずもない。
柄を握り締める手の中で、ナイフは手持ち無沙汰で弄ぶ。
角度を変える刃が、照明の明かりをエッジの部分に沿って鈍くも鋭くも反射させていた。
ナイフ・・・何故こんな物を小矢が用意していたのか解らない。
護身用だと言われればそれまでだが、護身には霊符だけで事足りるような気もした。
女を刺した時の血は拭っているが、血色だけは完全に取れていない。刃に赤い膜が薄く張っているように見える。
錯覚かもしれない。光琉にはそう感じるだけだ。
脳裏のプロジェクターに投影された映像が浮かび上がる。
女の化物との戦闘中に垣間見せた、小矢の、あの、凍りつくような表情。
妙な違和感がした。それが違和感と呼んでいいものなのか解らないが、酷く妙な感覚。
幼馴染だから、長年一緒に居たから、そんな事で相手の全てを解ったつもりになれるほど、光琉は傲慢な性格ではなかった。
それでも、他の誰よりも彼女の事を知っているだろうと、彼女の近くに居るだろうと、そんな自信はあった。
・・・・・今となっては慢心でしかなかったと解ったが。
何故だろうか・・・
女の化物と戦ってる時の小矢からには、執拗にして偏執的な執念を感じた。
光琉の知る、そして、季夕の知る、おっとりした小矢のイメージが壊れていく。
何がそこまで駆り立てるのか・・・
――――二人が普通に暮らせるようにしたいから・・・。
・・・・・本当に?
本当に、ソレだけか?
頭がやけに重い。思考が一向に纏まらない。纏まる気配もない。
ブレードを固定したままになっているナイフを折り畳み、机の上に置く。
どうにも気分が重かった。考え事のしすぎだ、とも思わないでもない。いや、まさにそうだ。
自分の周りが、今までちゃんと其処に在ったものが、触れる事も出来たものが・・・揺らぐ。
化物の存在を知ったときも似たような感覚に捕らわれたが、その時は、彼の周囲を構成する物に揺らぎは無かった。
彼の世界を構成する外枠だけが虚ろになっただけで、彼を取り巻く周囲は変わらなかった。
光琉にとって身近な世界の構成物質である人物達は・・・以降も、そこに在って、触れる事も出来た。
それなのに、今は、人物の一人の像が・・・・・・揺らいで見える。
指を伸ばし触れようとしても、水面に浮かぶ虚像に指を突っ込むように、実体に触れられないような気がして怖かった。
もし、指をさし伸ばしたとして、指先に触れるものが暖かい肌の温もりでなく、冷たい水の感触であったら・・・・
もう一度寝返りを打ち、横顔を枕に埋めた。
ふと目線だけ上げてナイトテーブルの上にある時計を見上げる。
まだ11時にもなっていない。
控えめなノックの音が聞こえた。
この時間に何の用かと疑問に感じたが、ベッドに腰掛けて身を起こし、迎え入れる。
誰だ、との疑問はない。この家にいるのは、彼を除けば小矢と瑠香の二人だけ。
「ごめんね、夜遅く」
「何? どうかしたか?」
訪問者は小矢の方だった。まだ頭の片隅に彼女に対する疑問が残っていて、口調が普段の調子にならなかった。
相手は微妙な口調と表情の違いに気付いた様子も無いようで、用件を告げてきた。
「明日、シェミハウルさんのトコ、私一人で行くわ。
光琉は季夕と家で待ってていいから」
思わず、眉を顰めて見返した。何を言っているのか解らない、のではなく、本気で言ってるのか、と、聞き直す顔つきをして。
反射的に文句に近い否定の言葉を言おうとして開かれた口は、最初の一言を発してそのまま閉じられた。
まぁ・・・そうだな、と、考えてみる。何も、会ってそのまま殺し合いの場所まで連れて行かれるような事態にはなるまい。
それ以前に、シェミハウルの求める助力の意味は、光琉達の戦力ではなく、単純に霊符を指しているとも考えられた。
彼等自身の戦力など、高が知れている。たった三人、素人の寄せ集め。シェミハウルから見れば幼稚園のお遊戯に見えるかもしれない。
シェミハウルが求めているのは、霊符だけなのではないか。必要な時に、必要な種類を、必要な枚数提供してくれ、と、求めているのではないだろうか。
尤も、シェミハウルの発言を思い出しても、容易に真意を洞察できなかったが。
霊符だけを望んでいるのなら、別段危険な事はないだろうし、危険に遭遇せずに済む。
他に、まぁ、シェミハウルを毛嫌いしているので、彼からすれば余り会いたくないのも本音であった。
しかし、どちらにせよ、大人しく家で待っているような事にはならないだろうと予期するところだ。
光琉個人で言うなら、待機していても良い。何かあったら電話をかけるように小矢に念を押し、それまで家で待っているのが楽でいい。
ただ、季夕がそれを良しとして大人しく待っているとは考えられなかったが。
彼女の性格からしてそうだが、友人である片山 綾子が関わっているのだ、絶対に大人しくしていられるはずがない。
自分から動いて、何とかしようと意気込むだろう。これについては賭けてもいいほど、光琉は確信していた。
御岳 季夕と言う幼馴染は、自分が出来る事、自分が出来る範囲の事は自分でやらないと気が済まない性質をしている。
責任感が強く、精神的な潔癖で、信頼できる稀有な資質と言うべきか。その点については、光琉も認めるところであった。
その彼女が、今回に限り大人しく家で待っていられる筈はない、と、考えられる。
「そうだな・・・・家で待っていてもいいが、季夕のヤツがそれを承知したら、そうするよ。
その時は、大人しく待っている。もし、何かあったら、連絡寄越せよ、絶対。
だけど、季夕が拒否したら、俺達も一緒に行く。それでいいか?」
至って平然を装って、返答した光琉である。
何の事はない。彼自身、やはり心配なのだ。
もし、何かがあっても、小矢の性格上、彼と季夕を巻き込ませまいとして連絡しない方が考えられる。
と、言うより、小矢なら間違いなくそうするだろう。
実際、そうなってはお手上げだった。仮に何事か起こったとしても、小矢の状況が解らない、場所が解らない、何も解らない。
焦燥と不安に苛まされて、向こうからの連絡を待つしかない。無事を祈りながら・・・・
そんな状況にならない為には、彼女と一緒に行動するのが最良にして唯一の方法であるように思われた。
「そう・・・・ね」
小矢の方は、反論のありそうな顔をしていたが渋々といった様子で首肯した。
「あ、ちょっと待ってくれ」
不満顔よりは余計な事を考えすぎている思案顔で部屋を出て行こうとする彼女を、呼び止める。
大きな疑問符を頭上に浮かべて振り向く小矢に、だが、光琉は言うか言うまいか決めかねているようで言い淀む。
切り出す最初の一言が上手く出ないと解ると、一度口を噤み、口調を改めた。
「・・・・今日のお前、なんか、変だった」
「・・・・そう、かな」
「いくらなんでも、アレは、やりすぎじゃなかったのか?」
「・・・・そう、かな」
「あの女は・・・本当に、殺さなきゃならないほどに危険だったのか?」
「・・・・・」
頭にこびり付いて離れない疑問だ。夕方会った女・・・女の化物は、最初会った時、敵意も悪意も向けてはこなかった。
人間らしい・・・いや、人間よりも余程気持ちのいい雰囲気を持っていたではないか。
あの女と比べるまでもなく、見るにも聞くにも耐えないような不快感を刺激するだけの正真正銘の人間が大勢居ると言うのに。
光琉の知っている人間の中で、あの女は断然良い部類に入り、好感も持てる。
好感も好意も持てないような苛立ちを誘うだけの人種、下には下の人間が、それこそいくらでも続いている。
「あの女は、本当に危険だったのか?
どうしても、どうあっても殺さなくてはいけなかったのか?
アイツよりも死んだ方がいい人間なんて・・・・いくらでも・・・」
語尾が弱まり、それ以上の言葉は出なかった。
冷ややかな小矢の眼。光琉を直視するのを避け、床に逸らされた眼差し。
ひっそりと眉を顰め、口を噤む表情は、何かを言いたそうであり、また、拒絶のようにも思われる。
反論を拒否しているのか、それとも、光琉の言葉を否定しているのか、どちらとも違うのか。
ただ、彼女は何かを隠したような表情で呟いた。
「そう・・・そうかもね」
小さな呟き。すっと床に這わせる視線を瞼の奥に伏せる。
言いたい事があるのに、それを言わずに押し黙り無言になっているかのような彼女の表情を見ていると、苛立ちが気泡となって湧き上がる。
敢えて苛立ちを押し隠して、光琉は別の話に切り替えた。
「なぁ、小矢、一つ聞きたいんだけど・・・・
何時になったら、終わるんだ?
この町の化物が全部居なくなったら、それでお終いになるのか?」
返答は、やはり、無言。苛立ちだけが募る。
沈黙の粒子だけが室内に降り積もる時間が暫く続き、ようやく小矢は控えめに口を開いた。
「・・・無理に付き合う必要はないんだよ?」
「そんな事を聞いてるんじゃない!!」
突き放してくるような口調と態度に、光琉は声を荒げて掴みかかった。
力加減など忘れ、小矢の細い両肩に指が食い込むほどに強く掴む。
苛立ち。幼馴染の今までとは違う態度に苛立つ。
有刺鉄線を挟んだような口調と態度。今まで見た事もないような表情、聞いた事もないような声に苛立ちが湧く。
今まで・・・一度も・・・・?
ふと、何かが脳裏を過ぎった。
ノイズが走るヴィジョン。酷く不鮮明な映像。
通り過ぎる風の如く刹那に浮かんで消えたヴィジョン。
光陰の尾を追うように脳裏を過ぎり去った感触を探ろうとした矢先の光琉の耳に、小矢の呟きが聞こえてくる。
「いたい・・・・」
「あ、悪いっ」
乱暴なまでに指を食い込ませていた小矢の肩から手を離し、慌てて飛び退いた。
一瞬、脳裏に浮かんだヴィジョンの追求はそれで断たれてしまい、代わりに、後悔が心に広がった。
相手に向けられていた苛立ちがベクトルを変えて自分へと向けられる。
何をしているんだ、俺は・・・・
険悪な雰囲気にさせるつもりはなかったのに・・・
何故こうも上手くいかない。何故こうも空回りばかり・・・
自責の念に駆られ、相手を見ていられない。小矢も顔を伏せ、彼の方を見ていなかった。互いに目線を逸らしながら無言。
一言もなしの無言の時間は、秒針が進むのさえスローで、一秒経過させるのにも心身の消耗を課してくる。
静寂が耐えられなくなるほどに息苦しいかった。
「ごめん・・・」
搾り出すようにしてもう一度呟いた光琉の謝罪は、室内に停滞する重く、苦い雰囲気を和らげさせたかどうか。
顔を伏せたままの小矢が小さく頭を振った。
「今夜はもう休むね。おやすみなさい」
疲れを感じさせる小声を漏らし、小矢は静かに部屋を出て行った。
ドアが小さく音を立てて閉まりきった後も、暫くその場に立ち尽くし、光琉は溜息混じりに頭を振る。
何気なく視線を向けた先で、机の上に置いたままになっている折り畳みナイフが目に入る。
「返しそびれたな・・・」
憮然として呟くと、そのまま脱力してベッドに倒れこんだ。
思わず溜息が出る。いや、溜息しか出ない。
空回り、空回り、空回り・・・・
自分一人が真剣になって、躍起になって、空転している。
いや、違う。正確には歯車が噛み合ってない。そんな状態だろうか。
互いの歯車が噛み合ってない状態で回転して、ガチガチと不快な金属音のみを鳴らしている。何一つ有益な事はない。
本当にこれでいいのか。
本当にこれが最善なのか。
お決まりの考えが頭に浮かぶ。思考のループ。回答などない禅問答。
思考の袋小路に追い詰められて、答えの出ない疑問を重ね続ける。
なんて無意味な行為だろうか。しかし、答えられない問い掛けだけが勝手に浮かんでくる。
何もすることが無く、手持ち無沙汰にベッドで横になっていると、余計な事ばかり考えてしまう。
前に小矢と行動を共にすると決めた筈なのに、心の何処かで否定している自分が居る。
彼女の力になるのを否定しているのではなく、彼女がこんな事を続けているのを否定している自分が居る。
小矢の普段とは違う拒絶するような態度の訳も解らなければ、感情的になる自分自身も理解できなかった。
もう少し、自分はドライな人間だと思っていたのに、つい、感情を露にさせてしまう。
解らない事だらけだ。自分の事も、幼馴染の事も、段々と解らなくなってくる。
霧が降りた森を彷徨っているのか、暗闇の迷宮で出口を探しているのか、そんな気分だった。
ベッドの横に置かれた時計で、秒針が静かに時を刻む。
単調なメロディとも取れなくは無いテンポは、別の時に聞けば心地良く聞こえもするのだろうが、今の心境ではただの不快な音でしかない。
ささくれた神経を逆撫でしてきて、苛立ちを募らせるだけでしかなかったが、それでも、時間だけは無為に空費されていく。