第三章・表/5





「・・・・・・・・・えっ」

素っ頓狂な声を漏らした。現実を理解できていない声音。
今しがた、爪によって小矢を切り裂こうとしていた女の視界の中で、左肩の付け根から彼女自身の腕が映っていない。
目線を斜にずらすと、3mも向こうの道路に女の左腕が鈍い音を立てながら落ちた。
マネキン人形のようにも見える細腕。指先から異様に長く鋭い爪が伸びる腕は、紛れもなく彼女自身の腕だった。
ついさっきまで、自由に動かせていた腕。それが、胴体から千切れて、アスファルトの上に落ちている。

「あぁっ・・・・ああああ」

「人と言う種から生じた突然変異でもなく、人界以外の二界から降り、或いは、上って来た存在では無く、常世に自然発生した歪み。
 されど、不死性を謳い上げる規定化された魂魄として現出したのでも無く、血肉を持ちて受肉した存在。
 血と肉を備え、呼吸し、生存する生命ならば、どのような代物であれ、外的な因子で充分破壊可能だ」

女の悲鳴に、別の音が混じった。成人した男の肉声に続いて爆竹が破裂したような音が二回。
細い銀色の線が中空に瞬いた。鋭い刃の切っ先で、空中に鋭利な太刀筋の傷をつけたような不可思議な軌跡。
変則性に富む銀の煌きが、獲物を狙う猛禽となって標的を急襲する。

二本の足が揃って舞い上がった。空中に現れた不可視の舞踏会場で、関節の制限から解き放たれた左右の足は別世界のステップを踏んでいる。
奇怪な舞も数秒で幕となり、ゴロリと鈍い音を立てて稀代の舞い手だった両足は地に堕ちた。自らが撒き散らす鮮血のカーテンを引きながら。

「あああああぁぁぁああっ!!!」

さながら蟲も同然に地べたに這いずり、己が血で濡れるアスファルト上を残された一本の手で蠢く女の姿は、滑稽を通り越して哀れですらあった。
無残に千切れた四肢を襲う痛みに端整な顔は苦痛に歪み、死霊にも似ている。
ルージュよりも流れる血で染まった唇は大きく押し広げられ、絶え間ない悲鳴を迸らせていた。

「例えば、刃物。元から異者専用にあしらえた代物でなくてもいい。それこそ、普通のカッターナイフでも貴様等を切り裂くのは可能だ。
 ただ、殺し切るのが困難だと言うだけで、全く無効な訳ではない。
 幾ら人を超えた能力を持つとは言え、悲しいかな、受肉したモノのそれが自然の理。
 さりとて、悪戯に勇を誇り切り付けようとも、相手が規定外の範疇であるのなら刃を振るった後で必殺の逆撃を喰らうのも道理・・・
 ならば貴様等を処理するのにどうすればいいか―――至極簡単明快。ただ一撃をもって戦闘不能にまで追い遣ればいいだけの事」

再び男の声が聞こえる。
しかし、姿は見えない。声が聞こえるのみだ。
腕一本となった女も事態の異常さを痛感しているのか、血走った眼を辺りに飛ばし、声の主を必死になって探っている。
光琉と小矢も同じだったが、二人にしても声の出所はおおよその見当を付けられるとしても、声の持ち主は依然として発見できなかった。
それが実に奇妙だった。
女を攻撃した手段は姿を見せない所から飛び道具以外に考えられないが、ならば何故、姿が見えないのか。
民家が並ぶこの区画の構造上と、飛ぶ道具の性質を考えれば、攻撃対象と直線上にいなくては命中させられない筈なのだ。
それなのに、声の主は360度見渡しても何処にも認められず、攻撃だけを不可解な方法で実行してくる。
姿無きゴーストが化物を嬲り者にしているように。

突如として、三度破裂音が響いた。
重くもあり、軽くもあるような音。一瞬の事でしかなかったので良く聞き取れなかったが、耳慣れしている音でないのは確かなようだ。

――――バカンッ。

と、小気味の良い音が聞こえてきそうなほど、盛大に割れた。
バッと視界一面が赤く染まる。
紅。真っ赤だ。
赤一色。
鮮烈なほどの紅。
血で施された真紅のカーテンが一瞬、視界を完全に覆った。

女の頭が砕け散った。西瓜割りで、木刀が西瓜の中心を綺麗に叩き割ったようだ。
果実ならぬ肉が、脳髄が、果汁ならぬ血が、脳漿が、周囲に円を描いて飛び散った。
見方を変えれば、極彩色のどぎつさを施した花火かもしれない。
鼻を刺す火薬の匂いに変わって、胃液を逆流させる血臭が漂ってくる。
壁にも道路にも、血と肉の装飾は施され、一足早いクリスマスオブジェ。
だが、そんな事を考えられる余裕はなかった。ただただ目の前の光景に思考停止を強いられるだけで、頭の中は真っ白になっている。

頭を失った女の身体が電池切れの玩具となって地面に倒れこんだ。
首から上に、下顎だけが残り、歯と舌が付着し、喉の奥まで見える。まるで人体模型図か、人体解剖図。
血塗れの喉の奥から、細々とした叫びが震えるように流れ出し、やがては、螺子の切れたオルゴールとなって消えた。
声に代わって血がゴボゴボと喉から溢れ出す。それだけ。

光琉にしても、小矢にしても、突然の事に理性も思考も、完全にストップしていた。
だが、それは幸いだったのかもしれない。感情の波がストライキを起こしてくれたお蔭で、凄惨な現実をリアルなものと認識せずに済んでいるのだから。
正常な思考力を有している時に、この惨状を目の辺りにすれば、卒倒して意識を手放すか、周囲の目も憚らずに吐くか、どちらかだろう。
ただ、やけに血臭が色濃く嗅覚を刺激してくるが、逆に血の匂いが強すぎて、鼻がまともに機能しなくなっていた。

呆然と周囲を見ている光琉。視覚からの映像を脳が受信しているが、理解できていないのは、彼の表情を見れば一目瞭然だった。
路地の奥から響く靴音が聞こえてくる。何かに操られるようにしてソチラに目を向ける。
夕暮れに染まる街路。オレンジの残照を背にして、一人の人間が光琉達の方へ歩いてきた。

黒い革靴にダークグレーの背広。若者ではない。顔には生きてきた人生の年輪が刻まれている。
40歳ほどの中年の男性。
エリート企業戦士の姿を体現しているような男の手に、普通のサラリーマンには全く縁のない物が握られていた。
鈍い光沢で黒光りする鉄。シャープな曲線と直線が織り成すフォルム。
映画の中で良くお目にかかる事もあるが、日本の中で生きている限り、実際に目にする事はまず無い代物。
男の右手に握られていたのは―――拳銃、だった。

一瞬、自分の目が捉えたものを疑った。
何だ・・・・アレは・・・。
拳銃・・・・・本物の・・・・拳銃・・・・。
撃ったのか・・・それで・・・・殺したのか・・・・。
本物・・・本物・・なのか・・・・。

冷や汗が止まらない。震えが止まらない。
同じフレーズばかりが頭の中をグルグルと彷徨って、まともな考えなど何一つ浮かんでこなかった。
精神に与えられた衝撃に立ち竦む。

混乱の極にある精神状態の中、足音が不意に聞こえ、光琉は怯えと驚きが混在する中で反射的に肩を竦めた。
規則正しい歩調で頭の吹き飛んだ女の死体に近づくダークグレーのスーツ姿の男。

「死は万物を平等に迎え入れる・・・安んじて無へと帰れ」

寸分狂わず心臓へ二発。生命の源を破壊された女の身体が黒い泡沫となって弾け飛ぶ。
漆黒の泡が舞う中、銃口で十字を切る。硝煙で死者を送る儀式のように。

銃弾が直撃し、女の胸の風穴が開くのを見届けると男はおもむろにスーツの内ポケットから携帯電話を取り出した。
小声で何事か話し、すぐに切る。極短い通話時間、呆然となっている光琉の耳に流れ込んできたのは、
「丁度酔い具合に現場には結界が張られている、処理が済むまでそのままにしておけ。現場に踏み込む際は結界を壊さぬよう注意しろよ」
との言葉だった。

携帯電話をポケットに戻すと、壁に寄りかかり息を詰まらせ傍観者となっていた小矢に手を伸ばしてくる。
手を伸ばされ、小矢はまず驚いた。傷だらけの手だった。大小無数の傷に埋め尽くされた手だった。
恐る恐る伸ばされた少女の手を掴み、立ち上がらせると、男は光琉の方へと踵を向ける。

「大丈夫かい?」

穏やかな声。何の感情もなく、簡単に女を始末した人間と同一だとは信じられないほどに、穏やかな声だった。
無理に立ち上がろうとする光琉を片手で制し、男は穏やかな声を続ける。

「無理はしないほうがいい。暫く休んでるべきだ。
 ・・・・いや、すぐにこの場から離れたほうがいいか」

ふと何かに思い当たった様子で、男は言い直した。
言い終えると、光琉達の返答も聞かずに抱き起こし、足早にその場を離れていった。
その間、光琉と小矢は一切抵抗しなかった。
小矢はどうだったか解らないが、光琉は血塗れになり、胸に風穴を開けて息絶えた女の死体に見開いた目を向けていた。
殺された彼女が人間でないと知っていても、死体は人間と同様であり、初めて目にする死体だった。
また、目の前で殺されたと言う衝撃が抜け切っていないようだった。

住宅地を離れ、何も無い一角に出る。
左右には道路だけ続き、あとは小高い山に入る為に舗装された道と林が広がっている。
道路から繋がる山道は舗装されているとはいえ、土の上に砂利を敷き詰めただけの簡素なものだ。
夕刻を半ば過ぎた時間に加え、市のハイキングコースにも指定されていない。辺りに人気は皆無だった。

それを確認し、男はやっと一息ついた様子だった。
光琉もようやく少しばかりは冷静さを取り戻している。
受けた衝撃の大きさが許容範囲以上だった為、ショックを完全に払拭できないが、まずまず頭も働くといったところだ。
18年間普通に生きてきたのだから、死体を見るのは初めてだったのだ、平然としていられる筈が無い。
獣の屍骸なら慣れてはいないが、経験はある。が、流石に人・・・・と類似した生き物の死体は衝撃的であった。

「ここならいいでしょう」

と、男が声をかけてくる。
近づかれて分かった事だが、男の白い頭髪は白髪だとばかり思っていたが、どうやら違うようだ。
色褪せたプラチナの髪。遠目には、白髪に見えるほど、光沢を失ったプラチナの毛髪。
彫りの深い顔の造詣も、日本人のものではない。左眉から眼元にかけて斜めに走る古い傷痕がやや癖のある印象を残す。
ナイフでつけられたような線一筋の傷痕は大分薄れているだけで、目立たないわけではなかった。

中肉中背。光琉よりは高い身長だろうが、それほど違いがあるわけでもないだろう。
ただ、白人の口から、流暢な日本語が流れ出ているのには違和感を禁じえない。
日本語吹き替え版の洋画を見ているような気分がしてくる。

ようやく、受けた衝撃から精神の一部が立ち直り、思考の一角に正常な考えを巡らせるだけの回路が繋がる。
まず、最初に、思っていたほど立ち直りの早い自分に驚き、次に、目の前の事態に対する疑問が浮かんだ。

それにしても、この男は何者なのだろうか・・・・。
手にする銃は本物なのだろうか。女の手を、頭を吹っ飛ばした威力を見る限り、偽物だとは思えないが・・・。
どうやって日本に持ち込んだのだろうか・・・・。
いや、そもそも、どうしてここにいるのか。
あの一角は小矢の結界によって、普通では知覚できないよう施されているのに・・・・。

「実に見事な結界だった・・・。
 周囲の人間の知覚から、完全にここの存在を忘れさせている。
 全く素晴らしい・・・」

「あ、貴方は・・・?」

感嘆の意を漏らす男性の背に、小矢が疑問符を投げかける。
振り返った男性が、声と同様、穏やかな笑みを浮かべて告げた。

「シェミハウル。シェミハウル=カーライル。
 Ascalon(アスカロン)の騎士です。
 貴方達は?」

「私は・・此花 小矢。彼は水城 光琉といいます。
 あ、あの、助けていただいて、ありがとうございました」

緊張した声音で名前を告げた小矢に、シェミハウルと名乗った男性が柔和な笑みで笑う。
そんな光景すら、光琉は上の空で聞いていた。
頭の中で耳から入ってきた意味不明な単語が暗号模様の羅列を描いてくるくると風を巻いている。

アスカロン? 騎士?
何の事だ・・・・?

男性の話を聞いても、光琉には全く理解出来ない。
理解の範疇を・・・と言うより、純粋に知識が足りない。教えられていない事を理解できるはずもなかった。
眉間に皺を刻み、訝しそうな表情のままの彼の表情から、その内心を読み取ったのか、シェミハウルは灰色の瞳を伏せた。
左眉に走る古傷に指をあて、傷痕に指先を這わせる。何処と無く、笑みが苦笑に変化したように見える。

「“魔”の存在は、別にここ、日本だけとは限らない、と、言うことですよ。
 コイツ等は何処にでもいる。それこそ、世界中の何処にでも。まるで蟲のように湧いて出てくる。そう、毒虫のようにね。
 害虫を放置しておけば、大量に発生して甚大な被害を齎(もたら)す。
 そうなる前に駆除するのが私の仕事。・・・貴方達と同じようにね」

化物の存在を明るみに出して容認する訳にはいかない。この世界は、人間によって支配されている。その法則を今更崩す訳にはいかない。
人間からすれば、「魔」とは「歪み」。人間の法則に納まりきらず、人間の範疇を超えた規格外の存在。
世界が生んだ歪み。歪(ひずみ)から発生した超自然のモノ。それが―――――「魔」。
これがこの世界で生きる人間が持つ、彼等(魔)に対しての知識だった。

理解出来ない存在を恐れるのは人の本能であり、理解出来ない力を排除しようとするのは人の知恵である。
人にとっての「歪み」であり、存在していてはいけない代物。
正式な名称をソレに与える事は、ソレの存在を認める事になる。故に様々な呼び名があり、呼び方があった。
「魔」と総じるのは便宜上の事で、何処までいっても仮の名でしかない。

歪みは正さなければならないとするのが、人間の必然。
自然、「魔」に対抗するための人間が出現するのも、必然。

人の能力の上限を超えた「魔」に対するのに、人が群れをなすのは極々自然であった。
群れが集団となり、勢力になるのも時間の問題。そうした人々が集まり、やがて、一つの組織が生まれる。
秘密裏に、そして、極秘裏に、怪異を葬る組織。「Ascalon(アスカロン)」もその一つ。

そうした事を説明されても、光琉には、全くついていけないのが本音であった。
自分達と似たような事をやっている人間が、世界中にいるのか。
と、その程度の感想しか持てない。
だが、逆に、得心もしている。思考の一角で、納得している自分がいる。
夏に入ってからというもの、彼の常識は崩れっぱなしで、常軌を逸した世界に少しは慣れてしまった自分もいるのだ。
信じられない、と言うより、認めたくなかったが、どうやら、彼の思考は、彼自身が思っているより順応力が高いらしい。
そうであっても、喜べるものではない。また一歩、普通から離れてしまったようで、その内心は複雑であった。

ようやく三半規管の混乱が静まり、光琉は立ち上がれるようになった。
少し足元が覚束ないだけでその内に無くなるだろう。歩く分には問題は無い。
傍から見ると、どうにも危なっかしく、小矢が彼の肩を支える。

「道教の霊符・・・目にした経験は何度かありますが、ここまで正確なモノは初めてですね」

小矢から受け取った札の一枚を眺め、感嘆と声を出す。

「これは・・・貴方が?」

と、聞かれて小矢がやや困惑気味に頷いた。
彼女も光琉と同じく、シェミハウルに対してどのような態度で対応すればいいのか今ひとつ判断できていない。

「その歳でこれだけの札が書けるとは・・・
 いや、それ以前に、この国に、これだけの符術士がいるとは・・・
 コノハナ サヤにミズシロ ヒカル・・・・
 これだけの符術士だ・・・一度くらい名前を聞いていても良さそうなものなのに、それにしては聞き覚えが無い名だ・・・
 待てよ・・・・確か・・・・・」

殆ど口の中だけで呟いた声であった為、シェミハウルの感想は小矢にとって聞き辛いものであった。
素直に感嘆しているのは表情から見て間違いないが、どうもそれだけではないようだ。
思案げに顎に手をやり、また、左眉の傷に指先を這わせた。考え事をする時の癖らしい。
思考しているのか、思い出しているのか定かではないにしても、結局、答えは見つからなかったようで、一度頭を振った。
クルリと顔を向けるや、唐突に切り出してくる。

「良ければ・・・私の仕事を手伝ってはくれませんか?
 私は、こうした結界が苦手でして・・・・
 無論、そちらのギルドの了承が取れれば、で、構いませんから」

「・・・・・・」

「本来、異なるギルド間の協力は確かに異例の事ですが、全く前例が無かったわけでもありませんので、私の方からそちらに連絡を入れましょうか?」

「・・・・」

その申し出に対し、やはり困惑するしかない小矢達の反応をどう受け止めたか、シェミハウルは眉を顰める。
傷痕を触れる指の動きが止まった。数秒も要さずに、何かに思い当たったらしく、顰めていた眉を跳ね上げ、小矢と光琉を顧みた。

「・・・まさか、ギルドに所属していないフリーランス?
 いや・・・コノハナ・・・此花・・・・
 禍狩(まがり)の非公式名簿で確か・・・・
 失礼ですが、此花 久芳(このはな ひさよし)の関係者ですか?」

禍狩などという名称には全く聞き覚えが無いが、最後の人名には並々ならぬ反応があった。
その名に反応したのは、小矢だけではない。光琉にしても親しい名であった。
尤も、ここ二年ばかり呼んだ経験など無いに等しい。
その名で呼ばれていた人間が故人となってから、日常で呼ぶのが自然控えられていたのだ。
数年ぶりに、他人からその名を聞かされた。

「父・・・です。
 お父さんを知っているんですか?」

一歩前へ出た小矢に、シェミハウルは苦笑を浮かべた。

「面識はありませんがね。名前だけは。
 此花 久芳・・・・この世界では割と有名ですよ。
 何処にも属さないフリーの符術士。依頼の内容によって、世界中の何処へでも現われ退魔を行う。
 実力は並。しかし、彼の真価は彼の使う符にある。彼が持つ霊符は、それこそ真に神懸り的な力を持つ、と。
 我々の世界、特にアジア中心では、久芳氏の・・・。
 いえ、此花 蛍(このはな ほたる)の作った霊符と言えばちょっとしたブランド物ですよ。
 世界中の公式・非公式を問わないハンターが何度か世話になり、命を救われています。私もその一人です。
 お二人の死後、あれだけの完成度を誇る符をお目にかかる回数が少なくなりましたが・・・そうですか、貴方がお二人の娘・・・・」

何気の無い眼差しを小矢へ向けてくるシェミハウル。
波紋一つもなく落ち着き払う灰色の瞳は、まるで観察者のようだ。
左眉に走る古傷を指で何度もなぞる癖も研究に没頭する学徒が理知的な頭脳を最大限に働かせる為の儀式の一つであるようにも思われた。

つっとその目線が動かされ、今度は光琉を注視してくる。
透き通る理性の泉のような灰色の瞳に彼の姿が映され、湧き上がる不快感を感じた。

表に出さない心の内面を勝手に覗かれているようで、嫌な気分だった。
他人から観察されて快感を得るような変態的な性癖の持ち主ならいざ知らず、
ガラスケースに入れられた研究用のモルモットにされる気分は、光琉にとって好ましいものではない。

後2、3分ほども、観察者の目を向けられていたら、光琉は何かしらの行動に出ていたかもしれない。
彼の忍耐心が切れるすんでのところで、シェミハウルは学者然とした眼の色と雰囲気を薄れさせた。

「此花夫妻の娘で、霊符を書ける才能。面倒なしがらみのないフリーランスとなれば是非もない。
 先ほどの件考えて、私の仕事に協力してくれないものでしょうか?
 無論、無償の協力は求めませんよ。貴方達の協力を求める代わり、私が出来る事に協力は惜しみません。
 ・・・どうでしょう?」

小矢は頼りなく視線を路上に這わせ、口を噤んでいた。
その仕草が意味するものが拒否の姿勢ではなく、考えあぐねいているのは表情を見れば解る。
チラリと、行き着く当てもない蚊のように舞っていた彼女の眼が、後ろにいる幼馴染に止まる。

シェミハウルの話は、条件も悪いものではない。
経験の乏しい彼女や、光琉に季夕に比べ、戦闘力の差は、先ほど女の化物を仕留めた限りを見ただけでも歴然としている。
互いに協力体制を取れるのなら願ったりだ。

小矢一人ならば、シェミハウルの要請を飲んでも良かった。だが、彼女の決断はそのまま幼馴染達の命さえも道連れにさせる。
協力体制を取ると言う事は、シェミハウルの言でも解るように、相手の仕事を手伝う事だ。
つまり、シェミハウルほどの実力者でも一人では難しいような仕事・・・つまりは敵と小矢達も向かい合わねばならなくなる。
自分一人の判断で、幼馴染達の身を危険に晒す事になるのだ。
そうした考えが、少女に返答を出させるのを躊躇わせていた。

「この場にいないのですが、後一人、関わっている子がいるので、早急な返答は出来ませんね」

シェミハウルに答えたのは光琉だった。
彼にして、言葉は丁寧なものを選んだつもりだったが、友好的とは正反対のベクトルを行く感情が態度と声音の端々から滲み出ていた。
そんな幼馴染を非難してか、向けられてくる窘めるような小矢の眼差しを、あえて無視してのける。

難しい表情を崩さない光琉と小矢の様子に、シェミハウルが少し目線を逸らして考える素振りをするや、「ふむ」と独り言のように囁き、目線をまた戻す。
少女の顔から葛藤、または、それに近いものを、恐らくは正確に非常に近い精度で読み取ったのだろう。交渉の返答を急くような真似はしなかった。

「そちらにも色々都合がおありのようだ。今日のところはこれで。
 私はこの町のホテル・サンロイヤルに宿泊しています。考えがついたら返事をください。待っていますよ」

教え子に向かって老教師が浮かべそうな笑顔を向け、踵を返す。
とりあえずは、この奇妙な雰囲気も終わる。もうすぐ空も暗くなるだろう。
まずは、家に・・・帰路を歩く道は多分、重い空気になるだろうが、家に帰る。
家に帰ってから夕食だ。それから風呂。
そうやって、日常へ戻る。これからの事もあるが、それらは全て先送りだ。とりあえず、日常の雰囲気に戻ろう。
話に入り込む余地が無く、ただただ傍観者となって舞台の下の観客席で見ているしか出来なかった光琉は、そうたかを括って肩の力を抜いた。

離れていくシェミハウルの後姿を見送ろうともせず、目線を下げたところで、「ああ、そうだ」と呟きが聞こえた。
声に反応して顔を上げれば、シェミハウルが大股で五歩ほど進んだ場所で立ち止まり、振り返ってくる。

「そうそう、一つ、大事なことを忘れていました。
 もし、ハルファスという男を見つけたら知らせてください。私の捜している男です。
 左右の目の色が違う金銀妖瞳(ヘテロクロミア)の男・・・・」

二人のうちどちらかが息を呑んだ。緊張が音も無く駆け寄ってきたようにも思えた。
何の変哲も無い日常に復帰するのは、延期されたようだった。
こちらの意思を無視して、事態だとか、状況といったものが、勝手にあらぬ方へ流れていっている。
飲み込まれて、押し流されて、気がつけば滝壺に転落しているかもしれない。
少女の顔に浮かぶものが、葛藤から焦燥へと素早く入れ替わる。光琉は突っ立っていているだけで、一言もない。

「どうやらこれは・・・・
 もう、会っている、ようですね」

息子や娘のような年代の二人の顔からシェミハウルは彼等の内心を洞察した。
一瞬、男の眼が抜き身の刃のように鋭く光ったが、本当に一瞬でしかなかった。
剣呑な眼光を理性のオブラートで包み込んで、冷静を維持しつつ足を戻らせてくる。
シェミハウルの表情と歩調から、彼の維持する冷静さが大地に根を下ろしたものか、
それとも、細い一本の糸で支えられているだけの演技によるものなのかを読み取るのは難しい。

恐らくは五分五分。
いや、少しだけ、どちらかに天秤は傾いているのかもしれない。

詳細は省き、流れだけを説明した。それには二呼吸ほどで充分事足りた。
子一時間ほど前、堤防の遊歩道で自分達のクラスメイトと一緒にその男・・・金銀妖瞳(ヘテロクロミア)の男が居た、と。
説明を終えた時、シェミハウルは相変わらず左眉の古傷を指先で撫でながら、暫し、無言であった。

「それで、行き先は何処だか解りますか?」

至極尤もな問いに、蒼褪めさせた顔を横に振るう小矢。
顔色の悪さでは、光琉も似たようなものだ。
焦りと不安が入り乱れ、ざわめき立っていた。
最初から女など見過ごして、綾子達を捜すべきだったかもしれない。

「あの時、綾子達を追っていれば・・・」

今更言っても詮無きことでしかないのは解っていても、口から出てしまった。
今からでも遅くないかもしれない、追うべきだろうか・・・
だが、動き出したところで、何処へ行けばいいのかも解らない。
気持ちだけが急いているだけで、行き先の当てなど全く持っていない。

「失礼ですが、貴方達二人だけでハルファスを追っていれば、まず間違いなく死体が二つ増える事になっていましたよ。
 もちろん、その中にハルファスは入っていない。返り討ちにあった貴方達の死体です。
 はっきり言って、運良く追わずにいたから、今、生きていられるのです」

焦燥に駆られる光琉に、辛辣な評価が投げられた。
悪意の嘲りや陰湿的なものとは無縁の淡々とした口調は、冷静な声の調子、それだけに、事実を正確に突いているのだと思わせる。
反論の言葉もなくし、絶句しているのか、苦虫を噛み締めているのか、光琉は黙って肩を落とした。

「そろそろ日が完全に落ちる。
 日が没した後では、捕獲できない・・・闇夜にアレを捕まえる術は限りられている・・・」

斜に傾いた陽光が薄明かりの黄昏のみを残し、没しようとしている。
明度を落としていく日の光と入れ替わりで街路の電灯に明かりが灯され、家々の窓の隙間からも灯される明かりが漏れ出していた。
夏の日は長いと言っても、ここまでくれば完全に暗くなるのも時間の問題だ。もう数時間もせず、空の色合いは月が似合うものになるだろう。
空が黄昏から薄闇へと急速に転落していく様を、シェミハウルは忌々しげに見つめていた。

空に放っていた尖った視線の向きを光琉達へと切り替える。
顔から厳しさは消え、母校の老教師のような柔和な表情になっていた。

「今日のところは失礼しますよ。
 また、後日・・・何かありましたら、サンロイヤルホテルまで。
 フロントで私の名を出せば、すぐですから。協力の件もよろしくお願いしますよ」

では・・・と、笑顔まで付け加えてシェミハウルは背を向けた。
今度は振り返る事無く遠ざかっていく。見送るまでも無い、薄暗い街中に彼の背中が溶け込むのはすぐだった。

シェミハウルの姿が消えても、二人はすぐに動こうとはしなかった。
難しく顔を顰めて考え事に没頭しているようだが、その実、実のある思考は皆無に等しいだろう。
何かから急かされて考えているだけに過ぎない。

何故、だとか、どうして、の類いが頭に浮かぶが、何に対する疑問符なのか、理解できていない。
断片的に得られた情報から、推理しているつもり、推測しているつもりになっているだけだった。
それも、自分が何について推理・推測しているのかも判断できていない。
漠然と、ただ漠然と、脳内に思考を垂れ流しているだけに過ぎなかった。
思考の末に何が分かるかと言えば、結局、何も解らないのに等しい。

Ascalon・・・騎士・・・ギルド・・・フリーランス・・・ハルファス・・・金銀妖瞳・・・霊符・・・此花 久芳・・・此花 蛍・・・
実体が解っている、もしくは、全貌を知らないまでも、何割かを理解している言葉でさえ、不可解なピースと一緒に組み込むと出来上がってくるのは不思議の国だ。
ここは不思議の国、迷い込んでしまったアリスが彼自身だとすれば、深い縦穴までアリスを誘った兎はだぁれ?

ええい、くそっ!
口内で罵倒を噛み殺す。
解らないことが多すぎてイライラしてくる。胸に広がる黒い靄の所為か、胃にもたれて仕方が無い。
気分が悪い。とにかく気分が悪い。思考回路まで油っぽくなってくるようで、吐き気すら感じる。
元々深く考え込んだり、思い悩んだりするのは性に合わない。
それなのに、見たもの全てをありのまま受け入れられる単純な性格という訳でもないのが矛盾にしているのかもしれない。

先ほど聞かされた色々な言葉が頭の中で飛び交い乱反射していたが、この場で重要なのはたった一つに絞り込めるのではないかだろうか。
綾子と一緒にいた金銀妖瞳(ヘテロクロミア)の男を捜すか、否かを。
頭を悩ませるのは大小さまざまな疑念はあるものの、とりあえず、目先にぶら下がっているものの最たるものは、この一つに尽きるのではないだろうか。

シェミハウルの言葉を真に受けるのなら、光琉達が勝てる相手では無い。
綾子を見つけられたとして、助けに行ったとして、返り討ち。
ありがたい事にシェミハウルが保証まで付けてくれた。確実に確定された返り討ち。
勝ち目なんてない。でも、だからといって放っておくのか。

我ながららしくない事に思い悩んでいるな、と、自覚しないでもなかった光琉ではあるが、片山 綾子は名前も知らない赤の他人とは違う、クラスメイトである。
見知った知り合いの中から犠牲者が出るのは、当然、気持ちの良いものではないし、望ましいものでもない。
それに、見殺しにしたりすれば、彼女と仲の良い季夕も悲しむだろう。恨まれる可能性も否定できない。
幼馴染の一人が、自分を見る時に恨みがましい眼で見てくる。何故、あの時助けてくれなかったのか、と、糾弾してくる。考えるだけでもゾッとする。
赤の他人相手ならとっとと見捨てる事も出来そうなものであったが、へたに面識のあるクラスメイトが関わっているだけに始末が悪い。

追うべきか、追わざるべきか。どちらかを選択するは光琉には荷がかちすぎた。
「どうする?」と、相談を持ちかける眼差しを幼馴染へと投げた。
目線を向けられた方は、彼よりも深刻な顔をしていた。
自分一人の思考に入り浸っているようで、向けられた眼差しに咄嗟には気付かないほどだった。
俯かせていた顔の向きを変えて、視線が交差すると、小矢も光琉と似たような瞳で見てくる。
迷い、焦り・・・そんなものがごっちゃになって濁る眼をしていた。

ここで、彼女の手を掴み、「どんな人間だろうと、見捨てておけるもんか。助けるんだ」などという台詞の一つでも吐いて行動すれば、男らしいのかもしれない。
だが、残念ながら、光琉は純粋な英雄願望の信奉者でもなければ、博愛精神の持ち主でもない。
まず、第一に自分が大事だ。自分と親しい人達は自分と同じくらいに大切に思っている。
それ以外の人々はどうでもいい、とはあからさまに過ぎるが、女子供、それに老人が犠牲になるのは確かに心痛ませる。心痛ませるが、それだけだ。
狂人の起こした通り魔殺人で小学生が次々と刃物で殺傷された、そんなニュースを見て、「ああ、ヒドイな」と淡々とした感想を持つ程度でしかない。
感想を持つだけで、自分の安全を顧みず危険に飛び込んでまで助けたいとは砂粒ほどにも思わない。

いっそ、シェミハウルが「今から追いましょう」と提案してくれれば、事態はもう少し簡単であったかもしれない。
言われるままに彼と共に行動し、敵を捜しに行く。運良く見つけられれば、作戦はシェミハウルが立ててくれるだろう。
光琉達はそれに従えばいい。それだけだ。
気に食わないだろうが、とりあえず、何らかの行動を起こしているのならば、余計な心配に頭を悩ませる必要はなかった筈であった。
そうはならずに、シェミハウルは言うだけ言って、光琉の心に不安の種を蒔き終えたら、さっさと帰ってしまった。
全く、なんて無責任な。光琉の立場としては、そう思わざるえなかった。
もう少し何か、今後の指針となるものや、助言の一つでも与えてくれればいいものを。

二人揃って困惑の表情を浮かべる。無言。どちらとも話しかけない嫌な無言が続く。
不安に掻き立てられ、考える内容だけはあるのだが、声としては何も出てこない。何か言うのを憚られる。そんな、重たい空気。
胃もたれを起こしそうな陰鬱の空気を破ったのは、予想もしていなかった携帯電話の着信ベルであった。




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