第三章・表/4





「キャッ!?」

女が曲がろうとした曲がり角から一枚の紙切れが飛来し、女の手にぶつかるや、突然発火したのだった。
腕についた火の粉を振り払う女。半ばまで燃えカスとなった紙切れ。
火種を燻らせながら宙に漂い、アスファルトに落ちていく紙切れは、霊符であった。

「・・・その札が反応するという事は、やはり、貴方は・・・“魔”」

角から聞こえてくる声が小矢のものだと判断するのに、光琉といえど多少の時間が必要だった。
今まで聞いたことがないような冷徹な口調。感情を押し殺しているとかのレベルではない。
底冷えするような冷気さえ塗されているような口調であった。声に続いて曲がり角から小矢が姿を見せる。

「貴方達・・・・」

高級そうな洋服の袖が焦げている。そんな事に一切の関心を払わず、女は射抜く眼差しで物陰から現れた小矢を貫いていた。
天然の色気に、化粧で艶を加えた小悪魔然とした表情も為りを潜め、彼女の顔は氷の幕で覆われたかのようにして冷たい。

「何処かの組織の人間・・・?
 いいえ・・・違うわね。組織に所属している奴等が持つ独特の匂いはない・・・
 でも、それなら、一体何の為に・・・?」

女性の言葉は、小矢や光琉に問い掛けているというより、どちらかと言えば、自問自答しているようだ。
訝しがる眼差しを小矢に、次いで、背後の光琉に向けて放ち、顔から消え失せた余裕の代わりに、焦りや戸惑いといったものを微かに浮かばせる。
特に小矢に対しては、不気味なものでも見るかのような目付きをしており、
自分よりも一回り小柄な少女の真意を洞察できない焦りと戸惑いが、女性の双眸に見て取れた。

「ねぇ・・・悪い事は言わないから、退いてくれないかな。
 私は、貴方達と喧嘩するつもりはないの。
 無意味なことはしたくないのよ。お願い」

嘘偽りを口にしているとは思えない。信じても良いような女の口調であり、表情だった。
少なくとも、光琉には女性が嘘を並べ立て、この場を逃れようとしているだけには見えなかった。
本当に、この娘を仕留めなければならないのか。そうまでする必要があるほど、悪なのだろうか。
寝かしつけておいた疑惑の念が眼を覚ますのは容易かった。
相手が動かないでいるのならば、先手を制し、一撃をもって必勝に帰すのが上策なのだが、光琉は動けずにいた。
目の前の相手が、本当に始末すべき敵なのか、という、彼にとって軽視できない問題が行動する足を重く封じていたのだった。

「小矢・・・本当に・・・」

囁きに載せた質問を飛ばせる。自分一人では胸の内にある問題を解決できそうに無い。
彼よりも若干戦闘の経験が豊富な幼馴染に向けた問いの答えは、残念ながら返ってはこなかった。

相手の交渉を黙殺するが如きに、ほぼ無言のまま小矢が左足で路面を蹴り付けた。
五指に挟まれているのは霊符。計三枚の霊符を指に挟み、叩き付けるように腕を薙ぐ。
完全に意表をついたと思われた行動は、だが、相手の看取するところであった。
小矢の腕の間合いからバックステップで逃れ、女がそこから跳躍して更に距離を取る。

「待ってよ・・・本当に私、やりあうつもりは無いんだって・・・」

女の言葉を最後まで言わせまいとして、小矢が更なる追撃をかける。
体捌きも攻撃の組み立ても、凡そ熟達しているとも、洗練されているとも言い難い小矢の動きは、相手にあっさりと見切られて躱されていく。
一打目の拳が空を突き、二打目の蹴りが宙に空振った。三打目の肘打ちは事前に見切られ、後背に周り込まれる。
がら空きの背中を押され、小矢が足を縺れさせ、危うくアスファルトに顔を突っ込む寸前で足を踏ん張り、身体を支えた。

傍から見ていると、滑稽な喜劇のような光景だ。実力差がありすぎて、事前に段取りをした殺陣の演舞を鑑賞している気分にしかならない。
二人の俳優の内、片方は少なくとも本気でやっているらしいが、真摯な行動が余計に裏目に出てシュールですらあった。
鼠が豹に向かっていく無謀な戦い。傍観している光琉が鼠の姿に痛々しささえ覚えてしまう。
どう贔屓目(ひいきめ)に見ても、小矢に勝てる見込みなどない。それでも立ち向かっていく姿は、果敢なのか、単なる無謀でしかないのか。

「く・・・そっ」

光琉の膨大な記憶の中を検索しても、凡そ聞いた例のない言葉を忌々しく噛み殺す小矢。
充分な余裕を持って追撃の手を避け続ける女に負けじと更なる攻撃を放つ。
小矢の気迫も執念も異常であった。形相からして、既に尋常ではない。
太古の怨念にでも取り憑かれたかのような小矢の固執に、不気味な寒気すら感じてしまう。

「ちょこまかと・・・!」

力任せに腕を、足を振り回す攻撃など当たるはずもない。
容易く避けられ、躱され、大振りな攻撃の後には背後へと周り込まれ、拳も蹴りも、次々と虚しく虚空を過ぎる。
振り抜いた腕が宙を薙ぎ、バランスを崩しかけた小矢の足元を女は靴先で引っ掛けた。
体制を崩されて転がりそうになる小矢を、すんでのところで光琉が抱きとめる。

「小矢・・・もう止めても・・・
 コイツは別に、敵じゃ・・・ないだろ」

「いいえ、敵よ」

「でも・・・コイツ・・・まるで・・・」

まるで、人間じゃないか・・・
と、小声で呟く光琉の言葉を意に関せずとばかりに、小矢は無視してのけた。
その二人の姿に、呆れているような女の声が被さる。

「ねえ、もう、いいでしょ?
 無駄だし、無意味じゃない、こんなの?
 ・・・最後の忠告よ。
 私は、貴方達に危害を加えるつもりなんてないの。
 だから、退いて、お願い」

真摯さと真剣さを同等分に拝した口調。
彼女の言うとおりだった。相手に敵意が無いのは、女の行動から見ても解る。向こうは一切手を出していない。
防戦一方に回り、反撃をしてこない事実を見ても、理解できる。
相手が敵意も害意も持たない以上、こちらも仕掛ける必要はないではないか、と、女の申し出は光琉を同調させた。

これ以上は、真に無意味でしかなかった。
向こうから仕掛けられ、自分の身を護る為に殺し合うのならば必死にもなれる。
相手が敵意と害意を漲らせる危険な化物であるのなら、禍根を断つ意味で先に仕掛けるのも納得できる。
が、これ以上は真実、無意味な行為でしかない。
そんな光琉の考えとは裏腹に、或いは、女性の気遣いを傲然と無視するかにして、小矢が光琉の腕から走り出した。

「忠告は・・・したわよ、私」

歯を食いしばって向かってくる小矢を視界に収める女は、何処かすまなそうに謝る口調を漏らす。
今まで防戦に徹していた彼女が、初めて、自分から動いた。

真っ向から突っ込んでくる小矢に対し、右腕を鞭のように撓(しな)らせる。
影を目で追うのがやっとの速度。空気を切り裂く不気味な音が空間に弾けた。
光琉が助けに入るのも間に合わない。今までの女の言動から察するに、小矢を殺す事は無いだろう。
撓らせた腕で延髄を叩き、意識を失わせる、それくらいではないか。
刹那の一瞬に放たれた一振りで、無意味な舞台の幕は閉じたかに思われた。

「つっ・・・・!!」

小矢の動きは、観客と、舞台の上に立つ女をも驚かせた。
まるで女が攻撃してくるのを予想していたように、正面から切り込む足を急停止させ、左の壁へと大きく飛んだ。
ブロック壁を掌で叩き付けると、追い討ちを仕掛けてくる女の第二撃からアスファルトの上を滑るように身を屈めて躱す。
地を滑りつつ、壁を叩く。勢いを殺すためにやっているのだろうか。

それにしても、無駄な動作が多いが、小柄な体型を活かした動きで相手を翻弄させるのは見事であった。
焦りからか、大振りに振られた女の第三撃を避けた時、突如として反撃に移る。

頭上の空気を切り裂いて女の鞭のような腕が通り過ぎた直後、身を屈めた体勢のまま、小矢が相手の右足に拳を叩き込んだ。
直後、打撃を受けた足の一部が弾ける。赤黒い肉と血が飛び散る。小矢の顔にも、返り血は飛んだ。
拳に霊符を巻いていたのだろう。接触によって、霊符が“魔”に反応したのだ。
目に見えて解るほど、先ほどまでとは打って変わって無駄の少ない動き。
二年に渡り、奇怪な獣を相手にしてきた、これが経験の差だと光琉に見せつけるほどに。

「な・・・」

自分の方が実力的に上だと確信する慢心から許してしまった一撃。
勝敗の帰結に繋がる決定打とはならないものの、女が被っていた余裕の仮面に亀裂を入れさせるには充分だった。
拳大に穴を開ける足を押さえ、女がフラフラと後退していく。
一瞬の間を空けて生じた隙に付け入り、腹部へ向けて蹴りを放った。

「かはっ」

蹴り飛ばされた裂きで壁にぶち当たる。瞬間、壁と背の隙間に雷光が炸裂する。

「ぎあぁ!?」

訳も解らずに奇声をあげてよろめく。身体の支えを求めた手が、壁に当てられた途端、女の右手が吹き飛んだ。

「うぎゃぁぁ」

手首から上が火球と一緒に弾け飛び、肉片が四散する。
手を失った手首からは白い骨が覗き、夥しい量の赤い血がアスファルトに流れていた。

さっきから小矢が相手の攻撃を躱す際に壁を叩いていたのは、二つ折りにした霊符をブロックの隙間に押し込んでいたわけであった。
周到な罠。隙の多い動作で相手の油断を誘い、慢心を増幅させたところで罠に陥れる。小矢の戦術を、だが、光琉はむしろ狡猾だと思った。
相手が獣欲猛る化物であるなら、小矢の戦い方を素直に賛同する事も出来たろうが、
服が焦げて生身を晒す背中は大きく裂けて肉の焼ける匂い放つ黒煙を上がらせ、手を細切れの肉片にさせられた右手首からは、
生々しいほどの鮮烈な赤い血が噴出させ、苦悶に顔を歪ませる女の姿を見れば、悲壮感さえ感じ、胸を締め付けられた。

本当にここまでする必要があるのか。本当にこの女は敵なのか。殺さなければならないほどに危険な存在なのか。
疑念が生まれる。叫んででも、小矢に問い質したい。だが、声が出ない。
電撃で背中を裂かれ、火炎で片手を失った女が悶え苦しむ横で佇む小矢の眼に、冷酷なほどの灯火を見てしまったから。

こんな表情をする小矢を知らない。
こんな眼をする小矢を知らない。
こんな残酷な小矢を知らない。
長年一緒にいた時間の中で、一度たりとも見たことの無い小矢の顔付き、眼光、行動・・・
本当に、コイツは、自分の幼馴染である彼女なのだろうか。

冷たく霜を降らせる光琉の脳裏に、そんな考えが過ぎり去った。
しかし、それも束の間のことでしかない。

「・・・私の手・・・・キレイな手が・・・・
 背中も・・・・足も・・・・・私のキレイな身体・・・・
 キレイな・・・キレイなカラダ・・・・キレイなワタシが・・・・
 アハ・・・・・アハハ・・・・・クフフフ・・・・・・・ウフ・・・・ウハハハハ」

片膝をついて身を屈め、血を撒き散らす右手首を押さえる女が狂った笑い声を漏らす。
唇を彩るルージュは汗で滲んで広がり、真赤な笑みは次第に大口を開けて放たれ、睨み殺すばかりの形相と相俟って鬼女そのもの。

「アハハ・・・・ヒドイよねぇ・・・コンナの・・・・
 ワタシ、ナァンにもシテないのにさァ・・・・
 アナタタチのコトをキかけて・・・忠告マデしてあげたのにサぁ・・・
 ヒドイ仕打ち・・・・ホント・・・ヒドイ人達・・・・
 どうしよっかなぁ・・・・ウーン・・・・決めた。
 八つ裂きよ、キミ達。バラバラにして、魚のエサにしてあげるワ。
 キミ達の肉に飛び跳ねる魚を見て、お酒を楽しむとシマしょう」

ヒュと風が切り裂かれた。突然、女の横に立ち並ぶブロック壁の一角切り裂かれた。
石壁に穿たれた溝。鋭利な軍用ナイフか何かで素早く切り裂かれたような傷痕が、上から下にかけ縦に四つ並んでいる。
一体、何を用いて壁に傷を付けたのか、とする光琉の疑問は、次の瞬間に吹き飛んだ。
女の左手の指先から、細長いものが奇妙にも伸びている。

まさか・・・爪か?
いや、まさか・・・

視界に映る情報を性格に受容するのを脳が拒否している。
女の五指からは、腕の長さほどもある細長いものが伸び、猛禽の爪と同じ放射線の緩やかなカーブを切っ先にまで描く。
死神が持つ大鎌の刃の部分を、そのまま女の指先に移植したような非現実的な光景を前にして、
彼の脳細胞は視覚から送られる情報の受容を拒んでいたのである。

大鎌の爪を振るって女が切り込んでくると、視覚の映像を脳が拒む暇など放棄した。
鉤爪から逃れようと身体が勝手に動く。女は爪を振り下ろす。後方に飛び退き、光琉は間合いを広げる。
相手の腕と、爪の長さを目測して広げた距離だったが、彼の目測は誤っていた。
僅かな誤差から爪の切っ先が彼の足を浅く抉った。
後一歩踏み込まれていれば、足の腱(けん)を断ち切られていたかもしれない。
相手がその一歩分を踏み込めなかったのは、一重(ひとえ)に、小矢に与えられた霊符のダメージが足の動きに規制をかけたからだ。

「ぇっ」

右太股の肉を裂かれる鋭い痛みが痛覚を刺激する。
数歩の距離しかない後方に着地した衝撃にも耐えられず、足に瞬間的な痛みが走り、彼はそのまま尻餅をついてしまう。
座り込む彼の頭上を、横に薙ぎ払われた爪が切り裂いた。間髪いれずの第二撃から光琉を救ったのは、皮肉にも足の傷であったといえた。

更に斜めに振り下ろされた爪の斬撃から、咄嗟に身体を転がして逃れる。
アスファルトを削りつけながら、爪は再度、彼に襲い掛かってきた。
大きく振られた爪が、転がって躱そうとする光琉の背中を薄く切り裂いている。

脳髄にまで届く痛みが、一瞬、彼の動きを遅れさせた。
背中から左肩にかけての切り傷に手をやる光琉を踏みつける。
腹を強く踏み躙られる。吸い込んだ空気を全て吐き出してしまうほどの苦痛。
ゆっくりと、女の左手が上がった。爪の切っ先を揃え、狙いを光琉の首の中心へと定める。

「っ・・・あ・・・・」

必死の抵抗を試みるが、腹を女の足の力は凄まじく、大地に縫い付けられたように縛から脱する事が出来ない。
彼の抵抗を全くの無駄だと言わんばかりに、女は足首を捻り、踵を深く捻じ込んだ。

「かはっ」

露払いだとでも言うように、事も無げに光琉の抵抗を封殺する。
もがく彼の視界に、女の顔が入り込む。上から見下す視線。
不快な害虫に与えるのと同じ、微塵の容赦もない冷たい眼差し。
遊歩道で見かけたときの、純然たる子悪魔のような雰囲気は完全に霧散し、代わりに、化物と同質の凶暴さが女の顔を醜く歪めていた。
たった一つの事だけが頭に浮かぶ。
即ち、化物・・・・

「キミの顔、結構好みだカラ、首から上ダけハ無傷で残しといてあげルね。
 ワタシの部屋に飾ってあげる。ウフフ。毎日行ってきマスと、お帰りナさいのキスでもしようかしラ」

「そいつは・・・嬉しいな・・・」

声量は、女の靴底に腹を踏み抜かれている為、可聴域ギリギリの低さだったが、
それでも、この状況下にありながら、こんな皮肉を言える自分自身に、光琉が一番驚いていた。
自分の生命線を他人握られているという恐怖の中、本能のより深い場所で、
憎たらしいほど冷静に鎮座しているナニかが、声帯を乗っ取って、勝手に言葉を喋ったような感じさえする。

光琉の内心などはお構いなしに、凄まじい眼光を放つ女の左腕が動く。
切っ先を揃えた爪が、まさしくも鷹の鋭い嘴(くちばし)のように迫った瞬間、ドンッと女の身体が揺れた。

「いた・・・・」

足の小指を石か何かにぶつけたように小さく呟き、女の首が90度回転した。
女の肩越しに、小矢の頭髪が見え隠れしている。女の背中に凭(もた)れるようにして自分の身体を密着させている。
二人の間に何があったのか、と、光琉が疑問を感じた数秒後だ。ゆっくりと小矢が女の背中から離れていく。
女の腰から何かが生え、それを小矢の手が握っている。ソイツがズッ・・・と粘りのある音を立てて引き抜かれた。

「ナイ・・・フ・・・?」

自分の声とは思えないほどに震えていた。
まさか、小矢が女をナイフで刺したのか。
7cmほどの刃渡りが血に濡れている。
刺した? 本当に!?

疑心暗鬼も極まったが、すぐに心を荒れさせる波は引いていく。
そうだった、この女は人間じゃなかった。コイツは化物の仲間。人間じゃないモノの一種なのだ。
今更ながらに自覚する。途端、フツフツと怒りめいたものが浮き上がる。逆恨みであるのは十分承知していたが、思わざる得なかった。
畜生、化物のくせに人間を同じ姿形してるんじゃねぇよ。化物なら化物らしく絵本の挿絵にある怪物の似姿をしてこい、と。

「アナタ・・・・」

と、更に言葉の続きを発しようと、女の唇が動いた直後、ナイフで突き刺された腰の辺りで火球が弾けた。

「ぐぅぅ・・・アァアアァァア!!」

一瞬のよろめきの後、女が腰を捻る。断裂した血管から血が飛び散った。
すかさずナイフを振り翳す小矢が刃を女の右肩に突き刺す。
ドラマや映画にあるような目立つ音はしなかった。光琉の位置からでも殆ど何も聞こえないに等しい。ただ、形容しがたい鈍く微かな音。
それだけに、逆に気味が悪い。リアルすぎて・・・いや、現実だからこそ、ゾッとする。

口から滑り出る女の叫びを、更に閃いたナイフが切り裂く。
右肩から斜めに背中を切り付け、腰の辺りから抜け出る刃を上へと跳ね上げる。

「がぁぁぁぁああああっ!!」

背中をVの字型に深く切り裂かれた女の絶叫。
女の放つに相応しくない叫び声。苦悶の呻きを口の隙間から零しながら、前のめりに数歩よろめく。
爆竹程度の爆発が連鎖発火して背中の傷を焼いていく。再び上がる叫び。

こうなると、どちらがより凶悪なのか。
総身に走る寒気は、血塗れのナイフを握る小矢と、激痛と怒りと憎悪で凄まじいまでに壮絶な表情をした女、どちらから与えられた悪寒か。

「死――――――――――」

更なる追い討ちをかけようとナイフを構える小矢に向かって、血走った両眼がギロリと放たれた。

「邪魔ヨ!! 小娘! 引っ込んデろッ!!」

腕を振り回し、背後にいる小矢を薙ぎ払う。
爪で切り裂くには如何せん距離が近すぎて、横に振るわれた女の腕、いや、肘が、小矢の右腕の付け根を強打した。
鈍い炸裂音。骨が軋む音だ。次いで―――。

「きゃぁ」

小矢の悲鳴が被さる。
元より体重の軽い彼女が、一撃で薄っぺらな紙で作られた人形同然に吹き飛んでいく。

「小矢!」

殆ど無意識の行動であった。
腹を踏みつける女の足首を両手で握り、身体を横に回転させ、女の下腹部と胸に二段の蹴りを叩き込む。
既に片足と腰に深い傷を負っていた女には蹴りの衝撃に耐えるだけの足腰の強靭さはなかった。
体勢をぐらつかせる間隙を突くような蹴りが放たれた。膝を崩れさせた女の首元を、靴底で蹴り飛ばす。

短く呻きながら、女が転がった。腹を縫い付けていた縛から脱すると、光琉は小矢の元へ駆ける。
肩を掴んで抱き起こす。「つっ・・・」と、彼女は苦悶に眉を顰めた。
手に、必要以上に力が入りすぎて、思わず、打撲した肩を強く掴んでしまったのだろう。
慌てて肩から手をどかす。入れ替わるように、彼女自信の手が、腕の付け根を押さえた。

「大丈夫。・・・ちょっと、痛いけど、骨には異常ないみたいだから」

肩を手をやったまま、彼女の目は、肩にでも光琉にでもなく、起き上がろうとしている敵に注がれていた。
腕に、足に、腰に、背中。それぞれの傷は決して軽傷でもないにも関わらず、女は起き上がってくる。
亡霊か、機械仕掛けの人形のようだ。人間であれば、激痛と出血多量の双方から、当の昔に意識を失っている。
糸の切れた操り人形が、自力で立ち上がってくる恐怖映画のワンシーンを見ている気分だ。

「あぁ・・・モウ、本当にムカツくワ・・・・
 忠告は聞かない。勝手に仕掛けてくる・・・・・
 ホント、一体、何の恨みがあるの、キミ達・・・・
 あぁムカつク・・・ホントウにムカツく・・・」

身体障害者のように、片足を不自由そうに引き摺りながら近寄ってくる。
一歩歩くごとに傷から血が飛び、道の上に点々と赤い染みを残す。
小矢を庇って光琉が前へ出た。いや、しようとしての行動ではなかった。
シネマスクリーンに登場するグールかゾンビを思わせる女の風貌に怯え、半ば恐怖によって突き動かされたのだ。

「くそぉぉぉ!!」

特攻してくる彼を、蚊蜻蛉(かとんぼ)のように叩き払う。
横殴りの強烈な打撃を横っ面に受け、まさに羽虫となって光琉は側面に吹き飛ばされた。

「くっ」

アスファルトの上を転がる彼を見遣り、小矢が唇を噛み締める。
ナイフを構える彼女の懐に、一速で女は飛び込んできた。
反応する間もない電光石火の動き。一気に間合いを詰め、小矢が握るナイフを叩き飛ばす。

「あっ!?」

乾いた音を滑らせて、ナイフはあらぬ方向へと転がっていった。
それを目線で追う小矢の首を掴み上げる。

「細っこい首・・・
 このまま圧し折ってやろうカシラ・・・?」

残忍な微笑が口元を飾る。
小矢を睨む両眼に、獲物をいたぶる猛禽の嗜虐性が塗されていた。
首を掴む指に力が込められ、気管を圧迫するまでに締め上げられる。

「ぁ・・・・が・・・っ」

当然、必死で首を絞める女の腕をどうにかしようとしているが、どうにもならない。
女の腕を振り解こうとしても、そのたびに女の指が首に食い込み、小矢の一切の抵抗を容易く排してしまう。
苦悶に呻く小矢の頬に、首を締め上げつつ人差し指を這わせる。

「ヘェ・・・・・ガキっぽいけど、良く見れば可愛い顔してるじゃない・・・アナタ。
 肌もキレイ・・・スベスベ・・・羨ましい・・・・ズタズタに引き裂いてやろうかしら。
 これくらい当然でしょう? アナタもそう思うわよね? 
 ワタシの体をここまで痛めつけたんだから、それ相応の報いは受けてもらわないと・・・」

小矢の頬を愛でるように滑っていく女の人差し指から爪が伸びた。
ツプっと爪の鋭利な先端が肌を刺す。先端が食い込んだ肌から朱色の玉が滲んだ。
米粒ほど大きさしかなかった玉が半瞬ごとに体積を増し、遂には自らの重さに形を留めて置く事も出来ずに滑らかな頬を滑り落ちていく。
血の雫が流れるのを待ち構えていたかのように、女の舌がペロリと舐め上げた。

「ンフフ・・・・二目と見れない顔にしてあげる・・・・
 引き裂いて、切り刻んで、細切れに・・・・細かく刻んだら魚のエサ」

鼻歌混じりに口ずさみ、頬の上に爪を斜めに走らせる。軌跡を沿って紅い筋が追い、白い肌から血が滲み出した。
痛みに漏らす少女の呻きが稀代の歌姫が謳う甘美な歌声として聞こえているのか、女の表情は酔い痴れているようですらある。

「フフ・・・・」

嗜虐に満ちた冷笑を閃かせ、更に至上の囀りを聞かんとして、首を締め上げる指を力を入れた。
酸欠で逝かれてはつまらない。間違って首を骨を折ってしまってもつまらない。
力加減を充分考慮しながら、相手に意識を失わせず、苦痛を長引かせる方法で、女の指は少女の細首をジワリジワリと締め上げていく。

「ぐぅ・・・っ」

数m強を跳ね飛ばされた光琉が幼馴染を助けようとして身を起こしかけたが、その傍から上半身を支える両腕は崩れてしまった。
視界が歪む。世界が回っている。歪に曲がりくねった世界の中、両の掌は大地の感触を確かに伝えているのに、それを支える腕の部分が曖昧だった。
先ほど横っ面を殴打された衝撃で脳が揺れたとしか思えない。前後不覚になるほどアルコールに酔った感覚にも似ている。
平衡感覚を失調させた彼には、すぐに立ち上がることさえ出来なかった。

「・・あ」

歪んだ視界の中で、ふと、アスファルト以外の色形が見える。
それが、小矢の持っていたナイフであると理解するにも時間を要したが、すぐに手を伸ばす。
ナイフに伸ばされた手が虚空を掴む。目に見える映像の中では自分の手は確かに柄を握っているはずなのに、実際の感触はゼロだった。
眼鏡を探す近視眼のように、周囲を手で探る彼の姿を傍で見れば一言で足りる。無様だ。
指に柄の冷たい感触を感じ、やっとの事でナイフを握ることができた。
よしんば立ち上がっても、化物相手に素手では心許無い。彼にナイフを取らせたのは、殆ど無意識の仕業だった。
刃先をアスファルトに突きたてながら懸命にも立ち上がろうとするが、半身を起こしかけたところでバランスを崩し再び路上に転がってしまう。

「く、そ・・・・」

余りの不甲斐なさに血が滲むほど唇を噛み締めた。
自分の身体が全く意思に従わない。手足が面従腹背で臨み、身体はそれまでの主人であった意思に対して反旗を翻してきやがった。
予想もしていなかった五体の反乱に、光琉の思考は治める術を持たず、ただただ焦燥に絡め取られている。

前後左右、天地すらも判断できないほどの強度の視界の歪みが薄れていく。
とはいっても、立ち上がるに及ばず、大地に蠢く地虫のようにアスファルトを這いずるしかない。

「健気だ事・・・・
 あの子、あんなになってまで、まだ、アナタを助けようとしているワ・・・」

そう言った女の声音に冷笑の響きは無かった。同情めいた色を瞳にたゆたわせていた。
芋虫さながらの格好でズリズリと寄って来る光琉の姿を視界の端に納め、一点して小矢へと視線を転じる。

「アナタの所為なのよ。私はキチンと忠告した。それを無視したアナタがいけないノ。
 アナタは、自分自身の無謀によって、自分の命だけでなく、あの子の生命も投げ捨てたの。
 自覚なさい。全部アナタの所為。あの時、ワタシの忠告を聞いて退いていれば、こんな事にはならなかったのに・・・」

残念ね・・・と、小さく付け加えた女の指が、更なる力を込めて小矢の首を締め上げた。

「が・・・・・っ」

酸素を求めて大きく開け放たれた口。
腰の辺りにぶら下がる両手が抵抗を示すかにして上下しているが、それだけだ。
やがて、些細な抵抗の兆しも無くなると、女の指は小矢の首を解放した。
その場に崩れ落ちる幼馴染の姿は、一瞬、光琉の呼吸を凍りつかせる。

まさか・・・
彼の脳裏に最悪の予想図が過ぎるが、現実の軌跡とは交じり合わなかった。

「げほっ! かはっ!」

座り込んだ小矢が激しく咳き込む。
胸元に両手をやって籍を宥めにかかるが、顔色はよくない。
半死人の表情で酸素を吸い込み、噎せ返る。

反撃の意思を挫けさせた少女の姿を眼下に眺めやり、女が左腕を振るった。
引っ込んでいた爪が指先から瞬時に長く伸びる。

なんとかしてその場に行きたいものを、其処までの距離が今の光琉には余りにも遠かった。
遠い・・・高い・・・・・
手を伸ばしても、指先にすら触れられない。
たった数m。たった数mがなんて遠さだ。

「呉葉の掲げていた協調など所詮は夢物語でしかなかったのかしら・・・・
 残念だわ・・・・・・・私、あの考えに賛同していたのに・・・・残念・・・
 とりあえず、アナタはここで死になさい」

切っ先揃えた銃剣の如く、女の爪が揃って小矢に向けられる。
阻止したくても、満足に動けもしない光琉には手段が無かった。
ただ、指を咥えて見ているだけしかできない。
なんて不甲斐ない身体だ、と、踏ん切りを覚えたとて、どうする事もできないでいる。

「くそっ!
 くそっ!
 くそっ!
 くそ・・・っ!」

自分自身に対して罵倒を並べ立てたところで、平衡感覚が戻ってくるわけでもなかった。
徐々に徐々に、必死になって地面を這いつくばり近づくが、遠い。余りにも遠すぎる。
震える両手で身体を支え、上半身を起こしてみても、膝が笑って立ち上がることは叶わない。

「動け・・・
 動いてくれ・・・・!
 頼むっ・・・!!」

ガクガクと震える足に、憎しみさえ込めた拳を落とす。
満足に動かない膝を殴りつけても癇癪でしかない。何の解決にもなりはしない。
そんな事は解っていても、やり場のない苛立ちが胸の内で燻り、心が焼きつきそうだった。
何かにぶつけなければ気がすまなかった。胸の中で苛立ちが爆発してしまいそうだ。

――――――ドクン。
心臓が大きく鼓動を打った。
乱れた思考が何か一色の色に塗り潰されていくような感覚に陥る。

―――――ドクン。
心臓が跳ねる。
鼓動はやけに高く、やけに大きく、そして、やけに近くから聞こえてくるようだった。

――――ドクン。
目の前が、血の色をしたカーテンに閉ざされようとしている。
あぁ・・・いつかの感覚の再来だ・・・

「じゃ、サヨナラ」

特に感情も込めずに呟かれた言葉。
鋭利な爪を揃えた腕が突き出された。
自分が叫ぶ声を、何処か遠くから光琉は聞いた。

やけに乾いた爆発音が二発鳴った。
予想していたものより、軽い音。
強い衝撃を受けて身体がビクンと震えた。
肩の付け根から千切れた腕が宙を舞っていた。
ソイツが弧を描くや、バウンドしてアスファルトを転がっていく。
白くて細い腕。
指先から、鋭い刃の爪が伸びる女の腕。

「・・・・・・・・・えっ」





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