第三章・表/3
幼馴染の全く予期せぬ行動に驚いて呼びかけたが、説明は委細無し。
返って来た返答は簡潔と性急を極めた。
「一緒に来て!」
訳もわからず先行く小矢を追う。
それでも只ならぬ雰囲気である事だけは、はっきりと感じていた。
遊歩道を出て、川沿いに曲がった道を走る。
綾子が消えたルートを正確に追っているのは言われずとも解った。
だからと言って、どうして綾子の後を追っているかまでは解し得ない。
何となく答えは既に出ている気がしたが、胸の奥でそれを押し殺していた。
曲がりくねっていたが真直ぐに続き道は目の前で終わりを見せた。
道は三叉に分かれ、左から市街地、川沿いの続き、河に二分された市の東方へと伸びている。
ここから先は、綾子が男に連れられてか、男を連れてか、どちらの方角へ行ったのか検討もつかない。
追跡の手は、ここで完全に絶たれた、ように思えた。
「一体どうゆう事なんだよ?」
分かれ道を前にして、光琉は説明を求めたが、小矢は黙ってとでも言うように片手を出して彼の発言を抑えてしまった。
幼い顔立ちを小難しく固まらせ、横に流す視線を光琉へと向けてくる。
「耳鳴り・・・感じる?」
「・・・いや」
怪訝に思いつつ、首を横に振る光琉。
小矢が自分に何をやらせたいのか、その意図が全く見えてこない。
「・・・もっと良く探ってみて」
「だから、なにを・・・?」
「耳鳴りの強くなる方角を、よ」
「だから、今はもう治まったって」
「ちゃんと集中してみて!」
光琉の半ば辟易した口調は、予想だにしなかった小矢の厳しい一言の元に断たれた。
反射的に上体を居竦んで驚き、まじまじと長年の幼馴染を向けて訝しそうな眼差しで見る。
奇怪な化物と対峙している時の険しく、かつ、真摯な表情を浮かべる小矢が視界に映る。
「集中して・・・探ってみて・・・・・速く」
改めて言い直された小矢の言葉ではあるが、語尾に焦りが見え隠れして、幾分きつい口調だった。
言葉と行動の真意が掴めずじまいではあったが、彼女の真剣さに感化され、言われるままに従う。
三つに分かれた道のそれぞれに真正面から向き合い、光琉は耳鳴りの音を探った。
まずは駅前に繋がる左の道から。
「・・・・・」
何も感じない。小石が転がるほどの音も聞こえはしなかった。
「ダメだな・・・」と肩を落として諦め、次に中央の道に向き直った。
「・・・・・・」
隣にいる小矢が焦れた目を光琉に向けている。
その視線に急かされるが、気持ちばかり焦ってもどうにもならない。
そもそも精神集中などというものは、光琉は苦手であった。
落ち着いて何かを考えるのは、性格云々以前に気質からして合わない。
神経を擦り減らす作業は、光琉の心身に負担をかけてくる。
慣れない集中で神経の糸が磨耗して切れてしまいそうだ。
自然に眉が寄り、眉間に皺が刻まれる。
「・・・・・・・!」
額に滲んだ汗が玉となって頬を滑った時、不意に心の琴線を弾く指に触れた。
脳裏の遠方から小さな鈴の音に似た耳鳴りが流れ込んでくる。
霞を掴むような手応えの無さ。だが、確かに耳鳴りは可聴域最低限の音量を響かせていた。
「・・・聞こえた」
弱い口調は、信じられないとでも訴える光琉の内心を代弁していた。
まさか、本当に聞こえるとは。
小矢の言葉を疑っていたわけではないが、虚実半々であったのが彼の本心だった。
「どっち!?」
「このまままっすぐ・・」
言い終えない内に小矢は駆け出していた。
光琉が指差す方角、川沿いの道を。
胸騒ぎは何の根拠も無い個人的な不安でしかない。
だが、虫の知らせだとか、予感だとかいうものがあるように、時に、根拠も確証もないが迷信じみたものでも馬鹿には出来ない。
今、光琉の胸に蟠るものも、その類いのものであった。
「・・・・」
横に並んだ光琉が小矢に探るような視線を投げた。
耳鳴りが起きる理由。それを小矢は知っているのだろうか。
彼には何一つ解らない。ただ、耳鳴りは、悪夢の世界へ誘う切符だ、と、認識する程度である。
その認識が間違っているのか、はたまた事実を正確についているのか、確認する術は小矢が持っているように思われた。
しかし、当の本人は依然、沈黙を護り、足を動かす事のみ専念している。
光琉の視線に気付いているのだろうが、あえてそれを無視していた。
「説明してくれよ・・・何か知ってるんだろ、耳鳴りの事を・・・・」
胸に蟠る疑念を口にしたが、返答はすぐには返って来なかった。
問い質す視線に力を込める。詰問となった眼差しの前に、諦めたように、ようやく小矢が重い口を開いた。
「“魔”の存在を感知する・・・・近づけば近づくだけ、その音は大きく。
耳鳴りは、“共鳴”、というもの・・・
私も、聞いただけ、だけど・・・・」
「・・・・」
「つまり、光琉の感じる耳鳴りは、“魔”の存在を感知して鳴っているの・・・」
押し黙っている傍から、目の前に事実を突きつけられた。
突拍子もないことに違いないが、ここ一ヶ月以内に起きた一連の出来事全てが突拍子もない。
多少慣れてしまった節は否めないにしても、困惑と動揺の二色のインクを、光琉の心に落とす。
なんで・・・?
まず疑問が浮かんだ。
どうして自分がそんな事を感じるのか、理解出来ない。
記憶のフィルムがフラッシュバックのように、脳裏に次々と浮かんだ。
学校帰りに会い、プールの帰りに、遊歩道で人を食っていた犬。小矢を襲った化け猫。今まで始末してきた獣。
全て、耳鳴りがその存在を知らせていたのではないか。化物と対峙する前に、耳鳴りは必ず起こっていたものではなかったろうか。
“共鳴”・・・?
捉えどころのない感情の靄めいたものが、音も無く胸に広がっていく。
さながら、ヘドロが沈殿する金魚鉢の濁った水面も、数滴の墨汁が垂れ落ち、黒い波紋を広げているような不快感だ。
「なんで、俺が・・・そんな事を・・・?」
無知でいるのは罪ではない。だが、半端に知ってしまうと疑念は次々と生まれる。それこそ、工場から無限に排出される大量生産の消耗品のように。
この時、光琉の口から出た声音は、問い質すような力の篭った代物ではなかった。
小矢は口を噤んでいる。この件に関して、これ以上の説明は無しだと、口を閉ざす表情が言っている。
彼女の沈黙によって、結果的に救われたような気がした。
中途半端に知っても、無理矢理疑念を押し殺すことは出来る。・・・不快感は残るだろうが。
だが、全てを知ってしまえば、後戻りは不可能のように思われたのだ。
後味の悪さを自覚しつつも、追及の言葉を胸の奥へ押し込めた。
ともかくも、目前の問題へと意識を移す。
耳鳴りが化物の存在によって発生する原理であるなら、遊歩道で耳鳴りを聞いたのは、あの時、近くに化物が居た、という事だ。
必然的に、あの場にいた綾子と、その連れに疑惑の目が向けられる。
夏休みが始まる前まで、教室で耳鳴りを聞いたことはない。同じ教室の生徒、クラスメイトである綾子は違う。
・・・となれば。
小矢が急ぐ理由も、ようやく納得できた。
アスファルトを蹴り付ける足腰に力を入れなおす。
胸に、疑惑の念が黒い染みとなって残っていたが、とりあえず、黙殺して、目先の問題に専念した。
「・・・っ!」
キィィンと、脳裏に響く音階が跳ね上がる。
近づいているのか、一歩一歩ごとに耳鳴りは酷く鮮明になりつつあった。
余りに甲高い旋律。頭痛のように感じる。眩暈に眩む視界の中、周囲に視線を巡らせる。
突然立ち止まり、額を押さえながら周りを見渡す光琉の様子に、小矢も足を止めた。
日は傾き出しているとはいえ、未だ太陽は強く輝き、熱を有する陽光が惜しみなく降り注がれている。時間にすれば、4時か5時頃だろうか。
河川敷には遊歩道が続く。最も施設と整備が整っている場所から遠いので、人数はそれほどでもないが、家族連れや男女のグループが目立つ。
笑いあう顔、談笑に興じる顔、どこにでも見かける至って平々凡々な表情。そこに異物が混じっているような雰囲気はない。
日中、それも人の目がある中だ。化物が混じっていれば容易く見分けがつきそうなものだったが、
左右に映る景色の中に怪物の姿形はおろか、影さえも見受けられない。
「人ばかりだ・・・ホントにいるのかよ・・・」
思わず弱音を吐いてしまう。注意深く周囲を見渡せど、綾子の姿さえ見つけられはしない。
遊歩道は、ありふれた休日の光景を見せ、耳鳴りの音だけが甲高く脳裏に轟いていた。
「ホントに・・・ここ?」
小矢の確認を求めてくる声にも、答えられはしない。
光琉も同じ心境にいる。誰かが答えてくれるなら確認を求めたい。
口を重苦しく閉ざし、視線だけを忙しなく動かす。
ざっと一周見渡し終える直前の一刹那、耳鳴りが一際音階を上げた。
反射的にこめかみを押さえた光琉が、見渡した視線の軌跡を逆戻る。
遊歩道の石畳を少し逸れた場所、川よりも堤防近くに立てられた小さな休憩小屋。
昔ながらの木造作りの小屋は、近代的に整備された遊歩道の雰囲気とはそぐわない。自然公園などで目にすれば、それほど奇異とも感じないものだが。
建てられた時期だけは新しいのだろうが、全木造の小屋の一角だけが時の風化作用から逃れた感が否めず、奇妙な違和感を浮き彫りにさせていた。
まるで、現代の都市を描いたジグソーパズルに、過去の風景を模写したピースを嵌め込んだ様な異彩が目に付く。
さして広くもないのが外観を見ただけで判別できる。大人7人も入ればゆとりを持って休憩などできはしないに違いない休憩小屋。
その木造の外壁に3人の男達が輪を作っていた。光琉と同じか、少し上ぐらいの年代の男達が、それぞれに薄っぺらな笑みを貼り付けて会話している。
耳をそばだてれば、「今、暇してるの? どっか遊びに行こうよ」とか、「いいじゃん。時間あるでしょ?」とか、個性の欠片もない誘い文句が聞こえてくる。
ナンパか、と、興味の失せた光琉に、だが、脳裏で鳴り響く耳鳴りのシンバルは、そこをこそ指差して打ち鳴らされていた。
2、3言交わし、手応えの無いのを悟ったか、ナンパに成功しなかった男達が不満を鳴らしながらその場から去っていく。
木造の外壁を背にする一人の女性が残された。歳の頃は、光琉や小矢よりもやや上といったところ。恐らくは大学生なのではないだろうか。
綾子よりも濃い目の化粧も違和感なく決まっており、元々の作りが良いだろう端整な顔を、
アイシャドウとルージュで更に引き立たせ、やや露出度の多いファッションを違和感なく着こなすスタイルといい、
全く物怖じしていない雰囲気といい、一般人というより、何処かモデルじみてさえいるようだった。
中高生に狙いを絞ったティーン向けファッション雑誌の表紙を飾っていても、別に不思議ではないと思わせる。
なるほど、これなら男が声をかけるのも無理は無い。そう納得させるだけの容姿をしている。
ただ、光琉から見れば、ブレスレットやピアスなど、少々装飾過多で、どぎつい印象を受ける。
一般的に見れば、10人中7人は好意的評価をくだすだろう。
少女と呼ぶには些か外見的な雰囲気に憚(はばか)りがある女性が、何か、或いは、誰かを捜しているようにキョロキョロと辺りを見渡している。
ふと、顔半面を隠すようにして頭を押さえている光琉と視線が交錯した。
光琉を見る女性が、爪先から頭のてっぺんまで観察し、好奇心に輝く猫の目となった。
「ふぅ・・・ん」
陰謀を企む策謀家、というよりは、近所で悪戯を企む悪童っぽい女性の表情。だが、そこはかな色気が香となって焚かれている。
極々自然な仕草で最大級の色気を発散させるものは、先天的な才能か、後天的に養われたものか定かではないものの、演技ではないようだった。
長い睫毛を僅かに伏せる流し目も、片手の指先をほっそりとした顎に添える仕草にも、微塵の違和感は無い。
素でやっているのだと思われるのだから、天然の小悪魔と言うべきところか。
「まぁ、充分及第点かな。今日見た中じゃ良い方だし。
で、君もナンパか何かかな?」
光琉の全身を眼差しの愛撫で舐め上げて、つっと、彼女は目の焦点をずらす。
途端、女性の表情から魅惑する色が失せて、代わりに苦笑が浮かんだ。
「ナンパじゃ・・・ないみたいね。可愛い彼女がいるようだし。残念。少し好みだったのにな」
芝居がかった仕草で肩を竦めてみせ、相変わらず唇を苦笑の形に歪ませたまま、女性は歩き出した。
光琉と小矢の横を通り過ぎる時、片手をヒラヒラ翻す。
「今度からは、彼女と一緒にいる時は他の女に目を移さないほうがいいよ。
まっ、今度一人の時にまた会えたら、相手してあげてもいーかな。
ふふ・・・じゃあね」
コロコロとしたからかう笑い声を残し、彼女は去っていった。
後に残された小矢が女性の影が消えるまで後姿を見送って、光琉の方へ振り返る。
まさか、耳鳴りの原因があの女性だと光琉は言うのだろうか、とする表情。小矢にしても信じられない。
「まさか・・・」
「間違いない・・・あの女だ」
疑問を発した小矢の声は、言い終えることもできずに途中で遮られた。
片手で頭を抱え、こめかみを掌で覆い隠す光琉が、頭痛に耐える半病人の表情をしながら、確信めいた声音を吐き出したのだった。
「え・・・でも」
それじゃ、綾子の方は?
と、小矢は続けようとしたが、言葉の後半部分は飲み込まれた。
心当たりが浮かんだのは、急なことであった。
そういえば、遊歩道に来た時に、妙に人目を集めている女がいなかっただろうか。
良く良く思い出してみると、あの時見た女の格好と、今の女性の服装と一致するのではないか、と。
だが、そうなると、綾子の連れであった男の方は別なのだろうか。
今更ながらに思い出せば、確かに、綾子が光琉達に近寄ったのも、女性が遊歩道をこちらへ向かって歩いていたのも、同じタイミングだったように思える。
そして、来た時と同様に離れて行ったのも。
「あの女の人、片山さんと喋っていた時、近くにいたよね?」
「・・・言われて見れば、見た気がするな。そう言えば」
「その時に光琉が感じた耳鳴りは、綾子の後ろにいた人じゃなくて、あの女の人だったんじゃないかしら」
そう言われれば、どちらに耳鳴りが誘発されたのか、光琉としても確信を持てない。
どちらを追うべきだろうか。
綾子か、それとも、今の女性か。
耳鳴りに苛まされる光琉の精神は、天秤の傾斜が危ういバランスを取り、どちらともにも傾こうともしない。
今から綾子を捜して、それで見つかるかどうかの確証もない。だが、あの女性の後なら、耳鳴りの音量を辿れば容易く追っていける。
しかし・・・と、内心で、彼は、続けた。
本当に今の女性は化物の仲間なのだろうか。今まで見てきた獣とは訳が違う。普通の・・・そう、至って普通の人間のようだった。
奇怪な獣に感じる薄気味の悪さも、邪悪な獣欲も、あの女性からはまるで感じなかった。
最善なのは、どちらともにも手を出さず、見過ごすことだ。
綾子と一緒にいた男にせよ、今の女にせよ、指向性を有した敵意をこちらに向けている素振りもなかったのだ。
無闇に藪(やぶ)を突っついて蛇を招く愚だけは、彼にして、最も避けたいところである。
そもそも光琉達は、自分達の日常を維持する為だけに、自宅と通学路周辺を中心にした生活範囲の中で、獣を狩って来たのだ。
そこまで考えて、はた、と、垂れ流しにされる思考を止めた。
相手に敵意もないのだからやはり見過ごしても構わないのではないか、との思いが、一瞬、光琉の心を捉える。
だが、今ここで見過ごして、後日の災いになるのもご免蒙(こうむ)りたい。
後日、見過ごしたのが起因となり、親しい者達の生き死にに関わるような破目になり、あの時追っておけば、と後悔しては目も当てられない。
たった一度きりの遭遇だが、獣に食い殺された人間の死体も見てきた。化け猫に襲われる小矢の姿も見てきた。
色褪せるほどに古くもない過去の記憶が、光琉を疑念に駆り立てる。
捉えどころのない不安が光琉の内には確かにあった。後日の禍根を断つ意味で、やはり、どちらかを追うしかないのだろうか。
「追うわ・・・」
逡巡の時間は短くはなかったが、迷う時間を断ち切って決断したのは小矢であった。
「・・・どっちを?」
「今の女の人を」
「しかし・・・片山の方は?」
「彼女と一緒にいた人は普通の人間だって事も考えられないことじゃないわ。
でも、今の女の人は、光琉が“共鳴”を覚えたのなら、間違いなく、それは・・・普通じゃない」
だから、綾子の方は放っておくのか。
そう疑問に思わないでもなかった。
常ならば、真っ先にクラスメイトの安全をこそ確保するのが、小矢の性格から考えても当然なのではなかったろうか。
だが、この場に於いて、小矢の立場と光琉の立場が逆転しているような錯覚を覚える。
真実、それが単なる錯覚に過ぎないかどうかは解らなかったのだが、小矢の心配性な性格と、光琉の果断速攻の思考とが入れ替わってしまったようだった。
それほど親しいわけでもないクラスメイトの心配をするなど、自分らしくなかったが、妙に急いてる感のある小矢に対し、彼が抑え役に回らねばならなかったのである。
本来、抑え役や参謀といった、集団の中の良識派、
或いは、慎重派の役目を負うのは小矢であったのだが、当の彼女が真っ先に前屈姿勢でスターティングダッシュを決めてしまったものだから、
不本意ながら、抑え役となれる人間がこの場には光琉しかいなかった。
「でも、それで片山が・・・」
光琉が言い出した言葉を、最後まで聞かずに小矢は動いた。まるで、その後に続く言葉を振り切るかのように。
30mほど先を走り、「速く!」と彼を呼ぶ。思慮の欠いたこの強引さも、小矢らしくない。
どうにも奇妙な違和感が拭えずにいる。女が化物か否かもそうだが、別の何かが心の琴線に引っ掛かる。
爪先だけが琴を何度も弾くが、疑惑の指は触れず、違和感の正体が掴めない。
「なんなんだよ」
低く響く鋭い舌打ちを歯で噛み切って、光琉は小矢を追った。
汚物に濁る沼に片足を突っ込んでしまった気分だ。足に藻が絡んで来て仕方がない。
不快感に耐えながら、彼はとにかくも小矢を追った。らしくなく強引な彼女を一人にしておく事などできなかったから。
橋を渡り、少し歩けば住宅街。そこで簡単に女に追いつけた。
電柱の影から女性を背後を覗く小矢が、飛び出そうとする光琉の肩を掴む。
電柱に一枚の霊符を貼り付け、慎重に足音を消して道の反対側に移り、その壁にもう一枚を貼る。
どうやら、小矢は、この古い建物の並ぶ一角を戦場にするつもりらしい。
年代ものの一軒家が立ち並ぶ区画は整備が行き届いているとはお世辞にも言えず、乗用車一台がやっと通れるほどの狭い道で、複雑に入り組んでいる。
道の幾つかは大通りへと繋がり、東側で最大のショッピングプラザに続くが、幾つかの道は、そのまま行き止まりや別の住宅区画に続く小道となっている。
土地勘の無い者なら、容易く迷ってしまう一角だ。
市の西側の道なら歩き慣れている所為もあるが、光琉でも道がどこに繋がっているか大抵解る。
東側はそれほど出かける機会もなく、大通りを中心とする道しか知らない。こんな寂れた住宅街の入り組んだ地形になど解るはずもない。
馴染みの無い景色に、眉を細め右往左往している土地勘に不慣れな光琉を残し、小矢は残り二枚の霊符を貼るべく小道に入っていこうとする。
「私は向こう側に札を貼りに行くから、光琉はあの人の気を引き止めておいて。
護身として、攻撃用の霊符を渡しておくから、決して、この界隈から出さないように。お願いね」
「あ、おい・・・」
光琉の質問など受け付けずに、小矢は霊符を携えて小道に駆け出した。
蟻の巣のように入り組み乱れる複雑な道を全て記憶しているとでもいうように、確かな足取りの小矢はすぐに光琉の視界から姿を消す。
戸惑いの呼気を吐き漏らしつつ、物陰から踏み出す。女は、次の角を曲がろうとしていた。
「・・・ちょっと待ってくれるかな」
「ん?」とでも言うようにして、女性が振り返る。
一瞬の怪訝な表情の後、彼女はすぐに顔を明るくさせた。
「アラ、さっきのキミじゃない。
なぁに? なんのようかな?」
キョロキョロと光琉の左右を見る女性。恐らくは小矢の姿を捜しているのだろう。
それが見当たらないと解ると、レッドよりはピンクに近いルージュを引いた唇を綻ばした。
「さっきまで一緒だった彼女はどうしたの?
もしかして、さっきの彼女と別れて私を追ってきてくれたのかな、キミは」
クスクスと屈託なく笑う仕草自体は幼女のものと変わりないが、化粧で飾られた顔と唇から発せられると艶っぽいものが滲んでいるようだ。
小悪魔的な、という表現は、この女にこそ相応しいと思わせる。天然の色気とかいうものは、これをいうのか、と、場違いな感想を持つ。
「どうしたのかな?」
注がれる光琉からの視線に、悪戯っぽく小首を傾げてみせる。
改めて見ると、何も異常な事は無い。どこの学校にでも一人はいる女子だ。さぞや男子生徒から人気を集めているだろうアイドル的な女子生徒。
街角でも時折見かける女性だ。通り過ぎれば、男が振り返り、羨望混じりの熱っぽい視線と、好色の眼差しを向けられるに違いない女性。
魅力的なのは認めるが、それだけだった。少なくとも、凶暴さ、邪悪さといった危険な雰囲気は感じない。
本当に奇怪な獣達と同じ存在なのだろうか、と、そう疑ってしまう。
耳鳴りがなければ化物だと信じられない。街中で擦れ違ってもそのまま通り過ぎてしまうだろう。
いや、耳鳴りがあってもそれは変わらない。目の前にいる女が、化物の仲間だと信じられない。
視界の中央に入っているから嫌でも見える女の姿。見れば見るほど普通の人間と変わりない。
この娘が・・・本当に・・・・?
一握の疑惑が胸を過ぎる。確信が持てない。耳鳴りが鳴っていようと、信じられない。
こちらに対する敵意など微塵も感じられない。逆に、相手に対しての敵意も抱けない。
本当に、本当にそうなのか? コイツは化物なのか? 普通の女の子じゃないのか?
疑惑が疑惑を呼ぶ。見れば見るほど、耳鳴りを信じられなくなっていく。確信が薄れていく。
自分は酷い勘違いして、場違いな場所にいるのではないか。そんな疑念に取り憑かれてしまう。
「ん〜・・・用が無いなら、もう行くけど?」
ただ見つめてくるだけで、何も言わない光琉に痺れを切らしたのか、女性が踵を返す。
小矢はまだ来ていない。霊符を貼り終えていないのだろうか。もう少し留めて置くべきだろうか。
瞬間的に、思考が脳裏を過ぎった。光琉が戸惑いながらも引き止める言葉を吐き出そうと一語を発しかけた時、それは起きた。