第三章・表/2
誰も居ない街路。右を見ても、左を見ても、後ろに振り返っても、誰一人としていない。いるのは自分だけだ。
人の死に絶えた景色は薄暗く、路地の端々に立つ電柱と、その上部から小枝のように伸びる電灯は蛍火ほどの明かりも灯していなかった。
薄気味悪さを誘う静寂と静謐だけが我が物顔で夜気に包まれた街路を支配し、完全なる従属下に置いている。
墨汁に少量の水を加えただけの濃い闇を、ただ、月の女王の御手から垂れ下がる細々とした光の糸。
辺りを覆う暗闇の濃度に対し、光の彩色は余りにも脆弱を極め、ともすれば微風の一撫でで途切れてしまいそうなほどだ。
にも関わらず、天上から垂れ下がる蜘蛛の糸のような細い絹筋は存外な頑強さを見せつけ、夜に包まれる地上にまで途切れる事無く垂れ落ちていた。
黄金率で律された満月から零れる幾重にかの光の糸。その細い光線だけが、見渡す限りの闇色の景色に射す僅かな光明だった。
「はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ」
夜の街角を、光琉は駆けていた。
街路は暗黒の迷路さながらに複雑に入り組んで、自分が何処をどう来てここに至ったかを全く記憶していなかった。
己が疾駆する街並みの景色に見覚えは無い。
ブロック壁と植木、木造の一戸建てに鉄筋建設の住宅が立ち並ぶ界隈は、ありふれた街並みの景色模様で、
見慣れ、通い慣れた道のようでもあり、全く見知らぬ異郷の街並みのようでもあった。
「はぁはぁはぁはぁはぁはぁ・・・・」
視界の両端に流れる景色に構っている暇はなかった。ここが何処であるのか、そんな疑問を考えられる余裕もない。
必死になって手足を動かし、少しでも速く、僅かでも速く走る事しか頭に無かった。
呼吸は千路に乱れ、肺機能に負担をかけてくる。呼吸器系に障害を患う病人を思わせる喉鳴りが止まらない。
肌を滑る汗が服の布地に吸い込まれ、錘(おもり)を課せられて強制労働に従事させられている囚人の気分だ。
それでも足を停滞させることなく動かし続ける。
不安げな視線を背後へ彷徨わせては、一心不乱に足を動かし続けた。
「はぁはぁはぁはぁはぁ・・・・」
自分が追われている?
何故? 誰が?
逃げなければ。追い付かれる。逃げなければ。
と、頭を占める恐怖。だが、誰に、と、問われれば、彼自身も答えられない。
とにかくも逃げる。自分の置かれている状況すら理解できずに逃げる。
追われているという漠然とした恐怖そのものから。
「はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ・・・・」
苦悶の呼吸を振り撒きながら背後を振り返る。
追っ手の気配がないのを確認して、胸を撫で下ろす。
と、彼の視界に、突如として横合いから黒い影が躍りかかる。
「!!?」
影は右から、左から、そして頭上からも襲いかかってきたる。
覗く鋭い牙が、爪が、網膜に恐怖の象徴として焼き付く。
視界一杯を埋め尽くす影。見ればそれは獣の群、群、群。
「うわぁぁぁぁ!!」
彼の放った絶叫は、爪によって切り裂かれ、牙によって食い千切られた。
強襲に倒れた光琉の上に、獣達が圧し掛かってくる。手にも足にも圧し掛かり、完全に動きを封じてくる。
獲物が最早、抵抗らしい抵抗を出来なくなったと見るや、光琉を抑えつける獣達が一斉に牙を剥く。
「あああああぁぁああぁ!!」
食われる。貪り食われる。
手足を押さえる獣の爪は肉に食い込み、牙が靭帯ごと噛み千切る。
悪寒伴う唾液塗れの舌が骨を這いずり回り、次には骨も齧られた。
思考を焼く白い光が脳裏に瞬いて、痛覚の中を灼熱する痛みが乱反射を起こして神経が焼き切れてしまいそうだ。
地獄の責め苦に並する激痛に悶え苦しむ最悪の時間は、さほど長くは続かなかった。
顔の横間近にあった獣の頭が、のっそりと動き、牙が光琉の喉に突き立てられる。
「あああぁ・・・」
本人は絶叫のつもりでいるだろうが、肉ごと声帯を噛み切られては、叫び声も血の泡に変わり果てている。
肉の間を冷たい牙が通っていく間も、彼は感じていることしか出来ないでいた。自分の首を牙が貫いていくのを。
喉の一部を食い千切った獣が餌を咀嚼し、嚥下している横で、別の獣が待ちきれなくなり光琉の首に喰らいつく。
ブツリ、と、決定的な音を、光琉は聞いたような気がした。彼の生命を司る決定的な何かが、千切れる音を。
肉を貫いた獣の牙は閉じ合わさる時、ナイフの刃のように彼の頚動脈を完全に断裂させたのだ。
肉の断裂面を覗かせる首筋から、勢い良く血が湧き出た。
それは光琉の体力であり、生命そのものだった。それが流れていく。身体の中から失われていく。
ごっそりと抜け落ちていく喪失感は、氷の妖精の愛撫となって、光琉の全身を隅々まで弄った。
目には見えぬガラス細工の凍て付く手が、繊細な指が、肌の上を舐め、途方も無い冷たさに包み込まれていく。
ゆっくりと、ゆっくりと。
氷結した泉に身を沈めていくような感覚は非常に緩慢であった為に、自分の肉体から生命が失われていく過程を、光琉は身も凍るほどに痛感していた。
留まる事を知らずに飛び散っていく鮮血の噴水。血飛沫を浴びる獣達が、眼を細め、恍惚に入る表情となっている。
薄暗闇の幕が下りる視界に、獣達の悦に浸る顔付きが映っていた。
耳に聞こえる音が遠い。やけに不鮮明に響く哄笑の狂想曲は、遥かな地平から聞こえてくるようであった。
意識が混濁化しつつあった。最早全ての感覚が遠い。
肉体に喰らい付いては貪り食われる感覚も、今の光琉にとっては鳥の啄(つい)ばみ程度にしか感じなかった。
・・・・ブラックアウト。
全ては暗闇に閉ざされる。
血の宴に酔い痴れる獣達の悦に満ちた笑い声が、彼方の海岸から流れる鳥の囀(さえず)りとなって聞こえていた。
揺るやらな軌跡を辿って、意識は覚醒する。
ベッドの上で目覚めた光琉がまず感じたのは、例えようもない不快感だった。
寝汗を吸った服が肌に張り付いて、それも不快であったが、夢見の内容と、尾を引く手足の感覚が最も不快だった。
「また・・・同じ夢か」
夢の中で獣に噛み千切られ、貪り食われていた自分の手足に視線を落とし、やや憔悴の色が混じる声音で呟いた。
例え夢の中の光景だと解っていても、自分が生きたまま食われるのは心地良いはずが無い。
手足に痺れが残っており、それが悪夢の置き土産だと言わんばかりに鈍く主張していて、一層不快感を誘われた。
昨夜、異形の獣の始末を終え、肌に纏わり着く汗を愚痴る季夕と別れ、帰宅したのが21時過ぎである。
遅めの夕食を軽く取ってから、手早くシャワーを浴び、早々に床に着いた。
ベッドに入ったのは良いが、眠りにつくには時間的にも速すぎ、高揚した意識が睡魔の訪れを阻んで瞼は中々下がってこなかった。
まるで読んではいなかったが、本の活字を眺めている内にうつらうつらと来て、寝入ってしまったようであった。
ベッドの上に放り出される本は開かれたままで、天井には電光が灯っている。
汗で張り付く前髪を鬱陶しげに掻き揚げた光琉は重い吐息をついた。
最悪の夢見は、一体何時ごろから見始めたのか、彼は記憶している。
あの夜からだ。小矢と行動を共にすると決めた夜からだ。悪夢を見始めたのは。
毎晩というわけでもないが、かなりの頻度で悪夢に魘(うな)される。悪夢の内容も多少の差異はあるものの、大体は似たような展開だ。
常に追われ、何かから逃げ惑う。追ってくるのは獣であったり、ただの黒い影であったり、物語に登場するような悪魔であったりする。
それらに追われたて、逃げ惑い、抵抗虚しく捕まり、最後には食われてしまう。
追ってくるものが異なるだけで、粗方同じ筋書きは同じ流れを辿り、不快な結末を用意する。
夢見の内容から考えるに、自分が、異形の獣と対峙するのを酷く恐れているのだろうか。
そうかもしれない。そうに違いないかもしれない。自分自身でも、似つかわしくない事をやっていると思う。
平々凡々に生きてきて、それが突然、理解の範疇を超えた世界へ招待されたのだ。
戸惑うな、迷うな、脅えるな、と、言える方が間違っている。
常軌を逸した騒動の渦中に自らの選択で飛び込んだとはいえ、全てを許容できるほどの精神的な骨格を持ち合わせてはいなかった。
だが、逞しくあれない自分自身を自覚しても、苦笑する気はなかった。
平然としていられる方がどうかしているのだ。何の戸惑いも恐れも不安も持たずに受け入れられるとしたら、狂人ではないか。
奇怪な化物を目の前にすれば、意識は戦闘に向けた走路(ベルトウェイ)を滑走するが、それはいわば慣れのようなもので、
一度戦闘が終わってからも、彼の精神はそちらの世界に繋がれたままになっているわけではない。
しかも、彼が怪異の世界に足を踏み込んでから未だ10日足らず。何年も化物の相手を続けていれば、
完全に慣れるやもしれないが、今現在の光琉が悪夢に魘(うな)されるのも仕方の無いことであった。
自信や技術以前に、根本的な経験と時間が、彼には足りなかった。
煩わしい眼差しで時計を確認すれば、まだ朝の12時前。休みに入ってから昼過ぎ起床が当然になった光琉にして、珍しく早く起きたものだ。
やおら鈍くも重くもある頭を振って階下に降りる。まずは服の布地と肌の隙間に湿る寝汗を何とかしない事には、気分の悪さはどうしようもなかった。
階段を降り切ってそのまま廊下の奥へと歩き始めた途端、足音を聞きつけたのだろう小矢が台所のドアからひょっこり顔を出してくる。
「おはよう、光琉。今日は早いね。
ご飯、もう少しで出来るから」
ドアの隙間から流れる香ばしい匂いに刺激され、食欲が素直に飢えを表明する。
小気味良く鳴る腹の音で行儀の悪い返事をしてから、光琉はさっさと浴槽に向かった。
朝シャワーを浴びる小洒落た習慣など持ち合わせていない彼にとって、目覚めた直後に浴びるシャワーなど久々だった。
熱めのお湯を頭から被る。上から下へ滑り落ちる湯の流れは、肌に軽度の火傷の痒みを残す。
少々熱いが、悪夢の尾鰭(おびれ)が忌々しい置き土産として残された意識から、害虫のような蟠(わだかま)りを洗い流すには丁度良かった。
汗の付加物であった不快感が頭から爪先に滑るお湯の流れに絡め取られ、それに伴い、頭は芯から冴えてくる。
シャワーを浴び終えて、着替えを済まし、キッチンへ行った頃には、テーブルの上に料理の皿は並び終えられていた。
だが、はて、テーブルに置かれた皿の数が少ない。どう見積もっても二人分の料理しか並べられていない。
「瑠香はどうしたんだ?」
「・・・・さぁ。
部屋を見てきたけど、いなかったわ。
玄関にも、瑠香の靴が無かったから、また何処かへ行ったんだと思うけど」
顔に何とも言えない表情を貼り付けて答える小矢が席に座る。
冷たくはないが暖か味を些か欠く口調は、自分の感情を持て余しているようにも思える。
事、瑠香の事柄に関する限り、どうも小矢は対応が奇妙になる。
大怪我から奇跡的に回復した彼女の妹に、姉の方は、どのように接していいかを決めかねている、というより、一歩距離を開けた位置から接しているような感じがする。
また、妹の方でも、姉に対して遠慮というものではないだろうが、目に見えない壁を周囲も張って、他者の中から自分の存在を隔離しているように思えてならない。
音声化された言葉で説明を聞いてはいないが、小矢の態度と、瑠香の様子とを見ている限り、そう思えてくるのだ。
無論、光琉の認識が誤解であるかもしれないのだが、少なくとも、彼自身には姉妹間の関係がそのように見えるのだった。
夏休みに入ってからというもの、常識では計れない多事が続き、自分の事ばかりで他に気を回す余裕が無かった為、
すっかり失念していたが、今更ながらに考えてみれば、瑠香は充分奇異だ。
同じ家で生活しているにも関わらず、顔を合わせた記憶が殆ど無い。夏休みに入ってから、両手の指で数えて余る。
まる一日、24時間、一言の会話もない、顔を合わせもしない日もザラにある。
朝早くから外出し、夜遅くになってから帰宅するが、その間何処へ行き、何をやっているのか皆目検討もつかない。
瑠香の年齢なら、長期休みに入り、友人と遊び呆けて殆ど家に居つかないのも普通なのかもしれない。
そう思わないでもないのだが、自分を納得させるのに、今三歩ほど足りなかった。
しかし、それが事実を正確に突いているのだとしたなら、悪い遊びを覚えてやしないかとも心配に思えてくる。
年頃の娘を持つ父親の気分に等しく、そんな、無用かもしれぬ気掛かりを心配しているとは、自分ごとながら可笑しな気分である。
気苦労の多さに、苦笑と失笑の狭間をいく笑いを、口端の片方に引きそうになったが、上手くはいかなかった。
そうしている間にも、食事は終わった。
以前から食卓にそれほど会話が多かったわけではない。一緒に住んでいるのだから、話す話題は別の場所で使い切っている。
だが、最近はそれにも増して話題がなく、食事の席で口数が少ないのは、歓迎されることではなかった。
黙々と皿を洗い、片付ける幼馴染の小さな後姿を視界の中央に入れながらも、結局、会話の切欠を掴めずにいる。
無言で自分の向けられてくる視線に気付いた小矢が振り返り、小首を傾げて見せた。
「ん? なに?」
「あ、いや・・・」
言葉を濁す光琉に、「変なの」とでも言いたげな表情をした小矢だったが、ふと、彼の顔に何かを見取ったらしく、まじまじと見つめてくる。
「顔色悪いよ。どうしたの?
そういえば、最近、顔色良くないんじゃない?」
「ん・・・・ちょっと、な。
なんてゆうか、夢見が悪くて・・・」
おどけるように、わざとらしく肩を竦めたが、言動の端々から隠しきれない疲労めいたものが滲み出ていた。
それを自覚しつつ唇の片端だけを少し歪ませ苦笑したが、小矢の顔に不安の影が薄く被るのを見遣ると、慌てて口元の苦笑を打ち消す。
表情を改めてから、言い直した。
「最近・・・悪夢を良く見て・・・・
でも、まぁ、大した事じゃないから、心配すんなよ」
そう言った光琉の言葉が強がりの類いであったのを、小矢は看取していた。
無駄に心配性な幼馴染の少女に余計な心配をかけさせまいとした光琉の考えは、長年一緒にいた時間の長さの前に、呆気なく見破られてしまったのだ。
顔に漂う不安の影を更に強め、下から覗うような眼差しを小矢は光琉に向けてくる。
「やっぱり・・・光琉・・・
昨夜の一件を最後にして、もう関わらない方が・・・」
「またそれを持ち出すのかよ。いい加減止めろよ。もう、決めた事だ。
それとも、何か、俺はそんなに頼りないのか?」
ここ数日間で、小矢から何度同じ言葉を聞いたか解らない。光琉にしてみれば、いい加減「またか」の気分が強かった。
そんな事に関わりなく口調がきついものとなったのは、純粋に幼馴染を心配する気持ちが強かったからだ。
化物に食い殺されて死体もない、棺だけの葬式になど彼は出たくはなかった。
不運な交通事故によって亡くなった彼女の父親の葬儀が、まさにそれであった。
交通事故と、車の爆発に巻き込まれ、収めるべき故人の遺体のない空虚な棺。
送るべき死者がいない葬列に並ぶのは、一度きりで沢山だった。二度は多すぎる。
顔を伏せてしまった小矢の様子を見て、光琉は後悔した。
彼は幼馴染を脅えさせたり、怖がらせるつもりなどなかった。
「ごめん・・・」
自分の未熟さを痛感して素直に詫びた。
気の利いた男ならもっと上手く場の空気を変えられようものだが、生憎と彼は不器用な性質で、
目の前で幼馴染が表情を曇らせていても、沈み顔を笑顔に変える魔法のような言葉を持ち合わせてはいなかった。
暗い影リを見せる小矢の表情を見て、何を思ったか唐突にこう切り出した。
「午後から予定ないだろ? 久しぶりにどっか遊びに行かないか?」
「え?」
「天気もいいから、その辺ブラつくだけでも気分転換にはなるだろ」
重苦しい場の空気を流す為、光琉は唐突に話題を変えることが侭(まま)ある。
不器用は不器用なリに気を使っているということには違いないが、些か切り返しが突然すぎて、小矢はオロオロと戸惑ってしまいもする。
しかし、結局は押し切られる形になるのは昔からそのままで、この時も小矢は不器用な光琉の不器用な誘いに苦笑を浮かべて応じた。
「しょうがないな」と言うような表情に、だが、それは上辺だけの笑みでしかないのかもしれなかった。
日差しが強くアスファルトを焼き、跳ね返った熱気が気温を暑くさせている。
思い出したように吹く風も、暑く濁った空気をそよがせるだけであって、涼感を醸し出すのに大して役にも立っていない。
風に掻き乱された空気が沈殿し、アスファルトから立ち上る熱波を吸い込んで、足元に粘りつくような感覚を与えてくる。
「アチィ・・・」
容赦なく照り付ける太陽を恨めしそうに仰ぎながら、光琉は憮然と呟いた。
クーラーの冷房に慣れた身体に、外の気温は炎熱の世界を思わせる。
シャワーを浴びた肌はひっきりなしに汗が噴き出して、もう半袖のTシャツを濡らしている。
「で、どこいくの?」
「行き先・・・行き先ねぇ・・・」
殆ど勢いだけで家から出たのだから、当然のように全く何も考えてなかった。そんな事を聞かれても正直困る。
熱気で肌を上気させながら、手を扇いで少しでも風を送っている小矢もきつめの眼差しをしている。
こんな暑い中、よくも連れ出してくれたな、と言わんばかりの目付きに、光琉は心持ち怯んでしまう。
「とりあえず、街中に出てみるか」
呑気に、無計画に呟きを放って、光琉は歩き出した。
玄関の前でぼうっと突っ立って行き先を考えているより、とりあえず出掛けた方が建設的だ。
出向いた先で、また、行きたい場所が思い浮かぶかもしれないのだから。
と、さっさと前に進む彼を慌てて小矢は追いかけた。
初夏の装いなどとうに脱ぎ捨て、真夏に衣代わりをした空気。
町の中心に行くほど、気温は高くなってくるような感覚に捕らわれる。
事に、最近は、昼間は冷房の行き届いた室内で引き篭もって活動時間が夜に移った光琉にとって、
乾燥し、どこか埃っぽい空気と、そんな町の中に溢れる人込みにはうんざりさせられる。
白蟻の行列が家の内壁を食い荒らしている様を眺めているようなものだ。
ここまで来るのに30分も歩き通しだった顔に、汗が筋を描いて頬から顎へと流れ落ちる。煩わしげに拭いさるが、すぐ後にまた一つ汗が滲み出す。
ショッピングモールやブックストアーなどが集中しているとあっては、流石に人が多い。むしろ多すぎる。
頭上から降り注ぐ陽光で熱射病になるより早く、人の多さで酔ってしまいそうだった。
大体、この気温の高さは照り付ける太陽だけではなく、一箇所に群がるように集中する人の多さにも原因が求められるようだ。
「人が沢山だねぇ・・・」
「そうだな・・・
もうちょっと人の少ないところに行くか・・・」
別の場所といっても、遊べる場所は何処も似たようなものだろう。
この暑さを少しでも紛らわせる為に噴水のある公園もいいかもしれないが、やはり人は多いだろうな、と思い直す。
しかし、そうなると本気で行く場所がなくなってしまう。
さて困った、と、腕を組んでも良い考えが浮かぶはずもなく、適当に人込みの少ない道を選んでぶらつく事にする。
自販機でスポーツドリンクを二つ買い、片方を小矢に渡す。
風の向くまま、気の向くままに流し歩く。
日差しの強さと気温の高さだけは不満に違いないが、だが、こうしたのもたまにはいい。
あても無く気ままにぶらつく。
思えば、ここ暫く、こうやって気楽に外に出かける事などなかった。
ただ、目の前の事態に対処しようと付いていくのが精一杯で・・・周りを見る余裕などなかった。
「まぁ、たまにはブラブラするのもいいかもな。
・・・・暑いけど」
さして上手くも無い冗談を口にした光琉は、自分のジョークセンスの無さに苦笑した。
彼の苦い笑みに釣られたのではないだろうが、小矢も小さく笑って頷く。
「でも、ホント・・・良い天気・・・」
背を少しだけ仰け反らせて小さく伸びをする。
片手で陽光を遮りながら眩しそうに太陽を仰ぎ見る小矢の顔も幾分晴れていた。
それだけでも、気晴らしに外へ出掛けた意味も充分あるというものだった。
気が付けば、河の近くまで来ていた。
市に流れる河の中で最大の規模を誇る一級河川の白嶺川(しらみねがわ)。
二週間以上前、犬の化物に襲われ、命からがら撃退した場所の近くだ。
とはいうものの、河自体が三つの市を跨ぐほどに結構な長さがある為、あの場所からは随分離れている。
北へ、つまりは源流を目指していけば、あの場所に近づけるが、近づく気などさらさら無いのは当然の事だった。
「下に降りてみるか」
町の中心部近くでもあるので、流石にこの辺りの遊歩道は整備が行き届いていた。
雑草の代わりに花壇が備え付けられ、色取り取りの花を咲かせ、
子供連れでも楽しめるようにと少ないながらにジャングルジムや滑り台にブランコといった遊戯施設もある。
やはり、と言うべきか、遊歩道にも人気は多い。
親子連れにカップル、ゲートボールに興じている老人達もいれば、ナンパに精を出している男のグループもいる。
恋人に怒られている男もいて、何事かと目を向けてみれば、痴話喧嘩のようだ。その先に、やけに目立つ女性がモデル並の足の運びで歩いている。
顔までは遠めで判別し難いが、女が通り過ぎると、男の半数は振り返って見ている。2組、3組のカップルが同じように痴話喧嘩に発展しているが、原因も同じなのだろう。
それでも、鮨詰め状態の雰囲気がないのは、長大な河の流れに沿った遊歩道の敷地面積が広い為である。後2、30人増えても、気にはならないだろう。
空いているベンチの一つに腰掛けて、残り半分ほどになったスポーツドリンクを煽った。
街中とは違い、吹いてくる風が河で冷やされた空気を運んでくるので熱気に焼けた肌に心地良い。
真夏の太陽の下、家を出てから歩き通し、やっとの休憩に「ふぅ・・・」と小さく呼気を吐き出す。ようやく落ち着けた気分だ。
隣ではベンチに座る小矢が両手の中でスポーツドリンクのペットボトルを転がしながら、穏やかな笑みを浮かべていた。
視線を辿った先に、遊戯施設で遊ぶ子供と、少し離れた場所で見守っている両親の姿があった。
ジャングルジムで遊ぶ男の子がうっかり手を滑らせて地面に落ち、小矢が反射的に腰を浮かせる。
すぐに母親が子供の傍に駆けつけるが、子供は自分で起き上がり、少し泣くのを我慢して、笑顔を見せた。
再び元気良くジャングルジムによじ登る男の子の姿に、穏やかな安堵の顔を浮かべたのは母親だけではなかった。
その光景の一部始終を見ていた小矢もまた、母親を同じように胸を撫で下ろし、柔和な微笑みで笑っている。
「良かったぁ・・・」
横で幼馴染の一喜一憂を見ていた光琉は、小矢の解り易い表情の変化に苦笑を誘われたが、半ば呆れてもいた。
よくもまぁ他人事にここまで親身になれるものだ、と、そんな事を漠然と考えていたりもするが、
小矢の他人に対する気配りと気遣いは昔からの事で、そんな考えも今更の事でしかないが。
まぁ、暗く沈んだ表情をしているより笑い顔の方が遥かに良い。隣で仏頂面をされても困る。こちらの居心地も悪くなると言うものだ。
仮に隣にいるのが小矢ではなく妹の瑠香の方であれば、理由なしの居心地の悪さを感じているだろうか。
能面細工の無表情の瑠香が無言で隣に座っている想像をして、僅かに肩を竦めた。
「そういや、瑠香は何処に行ってるんだろうな」
「そう、だね・・・」
頭に浮かんだものをそのまま口にしただけだったが、小矢は何とはなしに言葉を濁らせた。
「あの子の事は、あんまり良く解らないなぁ・・・」
無理に繕ったような笑みで笑う小矢だったが、話題を振った光琉の方が胸に針の痛みを感じたことだろう。
それにしても、覚えている記憶の限り、昔の姉妹間の仲は悪くは無かったはずであった。むしろ、良好といってよかった。
姉妹と言うより、歳の近い友人同士のような間柄であったと覚えている。
姉と妹の関係が一転したのは、二年前に起きた交通事故が切欠になっているのは違いなく、二人の間柄は悪化と言うより疎遠な感じである。
姉妹や兄弟という関係は、年齢を重ねるごとに疎遠になるのが普通なのかもしれないが、小矢と瑠香の姉妹間は光琉から見ても奇妙なことだ。
一人っ子で、血の繋がった兄弟がいない彼にはどうにも理解し難い事ではあるから、単に杞憂の可能性も無論ある。
複雑な表情で「姉失格だね、私」と言う小矢の言葉にも、なんと答えたらよいか容易に判断が付かない光琉であった。
そもそも、彼女の言葉が本心からのものなのかどうかさえ解らないでいる。
「普段どおり接したらいいんじゃないか?
普段どおり・・・余計なお節介焼いてさ。
普段どおり、いらない心配して。
普段どおり、ありがた迷惑な助言して。
色々と気を使いすぎるくらいに気を配っている普段のままでいいんじゃないかな」
「なによ、それ。ヒドイ言い方だよっ」
返答に窮した末に、思ったことに多少の皮肉を塗せて素直に述べる。
ムっとした表情だけは作りながら頬を膨らませる小矢の口は笑みの形を取っていた。
「だってホントのことじゃん」とでも返すように光琉がニヤリとしながら見返すと、小矢は小さな笑い声を噴き溢す。
釣られて光琉も思わず笑った。
なんでもない事に笑える。
それが当然だと思っていた時は全く意識していなかったが、自分を取り巻く世界が変わり、
今まで当然であった事がどれほど心地よいものであるか、それを再確認している思いだった。
他愛のない会話と、意味もない笑い。それがこんなにも心を軽くさせるものだとは。
自然に湧き起こる小さな笑声を響かせる光琉は、そうした事を考えていた。
「そうだね・・・・本当に・・・・」
暫くは揃って笑いを含ませていた小矢だったが、ふと生真面目な表情に戻ると囁きに等しい声で呟き漏らす。
伏せ眼がちになった眼差しを中空へと投げ、もう一度「そうだね」と小声で呟くが、心ここに在らずといった様子だ。
彼女の見慣れない雰囲気にたじろぎ、咄嗟に何と反応してよいか判断できない光琉だった。
結局、彼は何も言わなかった。どういった言葉が適切であるか解らなかったのもあるが、
小矢の口調と表情から、が何らかのリアクションを求めているようにも見えなかったからである。
殆ど自分に言い聞かせる意味合いで、または、ただ反芻してみせただけではなかったろうか。
何となく、それ以上の会話が続かなくなってしまった光琉の袖を、小矢がクイッと引っ張ってくる。
「ね、アレ、クラスメイトの片山さんじゃないかな?」
彼女が指差す方向には、会話を弾ませている一組の男女が遊歩道を歩いている。
男の方は全く見覚えが無い。そもそも男は日本人ではないようだ。だが、女の方には確かに見覚えがあった。
濃い目のメイクをして綺麗に着飾ってる姿には記憶棚の人物像と一致しないが、
肩口まで切り揃えて外跳ねしている髪型と少しきつめの目元は見覚えのあるものだ。
片山 綾子(かたぎり あやこ)だったか。
そのフルネームを記憶の引き出しから探すのに3秒ほど必要とした。
光琉にとって彼女は単なるクラスメイトで、それ以上でもそれ以下でもない事実が、名前を思い出すまでにそれだけの時間を必要とさせたのである。
談笑しながらこちらに歩いてくる途中で、どうやら向こうも光琉達に気付いたようで、軽く手を振ってくる。
大方ナンパでもされたのだろうと興味なさげな光琉もとりあえずは片手を上げて挨拶を返してやった。
そのまま視線を外そうとした矢先、異変は、前触れもなく光琉に襲ってきた。
「やっ、偶然ね、小矢に光琉」
人見知りと言うものを知らない綾子はクラスの中でも外でも、相手が誰にせよ名前で呼ぶ。別段、小矢と彼女が仲の良い友人同士である訳でもない。
サバサバした性格と、年齢以上に大人っぽく見える外見で、クラス内でも人気が高いらしいが、小矢はやや苦手であった。
小矢にしては実に珍しい事であったが、嫌いなのではない、綾子のようなタイプは苦手なのである。
「うん・・・偶然だね」
「今日は、季夕は一緒じゃないんだね。残念」
芝居かかった仕草で落胆を演じてみせるクラスメイトの様子に、やや困惑した面持ちで応じた小矢であった。
確かに偶然には違いないが、行く場所など限られた小さな町だ、偶然の出番も必然的に高いと言わざるを得ない。
そんな事などお構いなしに綾子は話を続けてくる。
ついっと小矢の肩から顔を横に覗かせて、光琉を見ると、悪戯の計画を練って内緒話に興じる悪童めいた仕草で小矢に口を寄せてきた。
「また幼馴染クンと一緒なの? 飽きないわねぇ、ホントに」
「う、うん。変、かな?」
「別に変じゃないかも。でも、少し変かも。
でも、そうね、あんまり幼馴染とばかり一緒にいると、他の男が寄り付かなくなるよ。注意した方がいいかも」
相手の反応をからかうようにクスクスと笑うクラスメイトに、小矢は困ったような笑みを浮かべるだけだった。
殊更に綾子は悪意を感じさせる口調をした訳ではないにしても、
男女関係に関しても妙に軽い感じがする綾子の性格が、そうした事に疎い小矢には苦手なのかもしれない。
だが、陰湿さのないさっぱりした性格で、季夕などとは気が合うようで、教室で仲良さげにしている姿を度々見かけた。
ちらりと、綾子の背後にいる男に視線を移す小矢に目敏(めざと)く勘付き、綾子の唇が意味ありげに笑みを浮かべる。
新品のアクセサリーでも自慢するかのよう僅かに胸を逸らした綾子の、元々自己主張の激しい豊かな胸が更に強調された。
「さっき声をかけられちゃってね。
彼、割といいルックスしてると思わない?」
最後の言葉は、自分の連れである男に聞かせないためか、やや声量を抑えた小声で囁く。
小矢がチラリと視線を動かした。綾子の目に適うとあって、後方にいる男は確かに端整といっていい容姿をしていた。
日に日に増加する外国人居住者は最早珍しい存在ではない。ブラジル人などがその大半だが、綾子の後ろの男は白人であるようだった。
白い肌に、ブロンドの髪。ずば抜けていると表現は出来ないが、かなりの長身をしている。光琉が170台であるから、180は超えているだろう。
シャツと革パンツのスタイルは、ちょっとしたロック歌手のようでもある。顔立ちも整形でもしたかのように整っている。
何かスポーツでもやっているのか、引き締まった体型で、着る者を選ぶ服装を隙無く着こなしていた。
それにしても、瞳が珍しい。眼が合った瞬間、小矢も息を呑んだ。
良く観察しなければ解らないが、左が碧眼、右が黒瞳と色違いになっていた。金銀妖瞳(ヘテロクロミア)の眼など、初めて見る。
左右の眼の色が違うだけで、人間の印象はこうも神秘的になるものか。
歳の頃は、20台を過ぎていると思われ、25前後のように見える。
金銀妖瞳(ヘテロクロミア)に気付くと、そこにばかり注意がいってしまいがちだ。
瞳の色が左右異なるという神秘性が、心を惹き付けて病まないのは確かだろう。小矢にしても実感する。
ただ、神秘的に留まらず、色違いの左右の瞳に、得体の知れないものを感じるのは、単なる杞憂だろうか。
微かに眉を顰める小矢に、男は顔を向け、砕けた笑みを投げてくるのだったが、上辺だけの笑顔のようで余り好意的な印象を持てなかった。
どうにも不気味なものが拭えない。金銀妖瞳(ヘテロクロミア)の眼が人間離れした印象を与えているだけに過ぎないのかもしれないが。
「気をつけた方がいいよ、片山さん・・・」
「何をそんなに心配してるのよ、相変わらずの心配性ね、小矢は。
あっと、いけない。そろそろ行くね、あんまり長話してると、遊ぶ時間もなくなっちゃいそうだし。
それに、お互いの連れが待ちくたびれるしね」
軽いウィンクを残して、綾子は足早に男の下へ戻っていった。
肩を抱こうと伸ばされた男の手を、スルリと軽くあしらう綾子の挙動は流石に場慣れしているからなのか。
あと一手というところで燕を手の内から取り逃がした男は、肩を竦めて苦笑したが、それ以上無理強いはしなかった。
遊歩道を外れ、階段を上がっていくクラスメイトと男の姿を見送った小矢が、僅かに薬味混じりの苦い吐息を漏らす。
クラスメイトの行動を軽率だとは思うものの、恐らく、いや、間違いなく、そのような考え方は古いのだろう。
自らの全時代的な頑固さに呆れながらも、やはり、見知らぬ男に軽々しく付いていく綾子の今風の考え方を受容することはできないでいた。
「やれやれ」とした面持ちでベンチに振り返ると、光琉は額に指を当てて、何やら思案げな格好をしていた。
「光琉、どうしたの?」
屈んで彼の顔を覗き込む。歯痛に耐える表情をした光琉が煩(わずら)わしげに頭を振った。突発的な偏頭痛に悩む主婦のような仕草だ。
姿勢を正して、光琉は額に垂れる前髪を乱暴に掻き揚げた。中指の指先がこめかみをノックしている。
「いや・・・なんだかな、変な耳鳴りが・・・」
以前から時々感じているあの耳鳴りを、光琉は感じていたのだった。
金属が擦れ合う時に発する音に似た音響。決して不快ではないものの、嫌な感じには違いない。
この耳鳴りの現象が起こるたび、決まって凶事が周囲で発生する。まるで、耳鳴り自体が不幸を運ぶ魔鳥の羽ばたきのように思えてならない。
かなり大昔、それこそ子供の頃から長い付き合いとなって、最早伴侶にも思える耳鳴りが起こりだしたのは何時頃からなのか記憶にも無い。
埃に埋もれた記憶の本は忘却の淵に転がっていて、手に掴む術もないが、
それでも最初の頃は、耳鳴りが鳴ったとしても、何の意味もない単なる耳鳴りで終わっていたはずであった。
耳鳴りそれ自体が不吉な色彩で塗装され、凶兆の啓示じみた影を帯び始めたのは、少なくとも、ここ一月以内からだ。
「近頃良く起こるんだよ・・・なんでかな。
まぁ、今は大分治まったけど。
綾子の香水の匂いが苦手だったのかもな。
アイツが離れたら治まったし」
殊更に楽観的な台詞を嘯(うそぶ)いたのは、小矢の手前であったから為である。
内心で胸騒ぎに似た嫌な予感を覚えながら、表面上は至って平静を装う。
気晴らしに出掛けた先で、幼馴染に無用な心配を喚起させない配慮だったが、光琉の気遣いも全くの徒労となった。
「・・・まさか」
微かに蒼褪めた小矢の顔は愁眉に曇り、目線は落ち着きをなくして動き回っている。
亡霊に脅える子供の佇(たたず)まいで、何を考えているのか、予備動作も無しに踵を返して駆け出した。
「お、おい!?」