第三章・表/1
「はぁはぁはぁはぁはぁ・・・!」
激しい息遣い。
夜の街角を疾走する人影は季夕であった。
時折、思い出したかにして背後を振り返る。
夜とはいえ夏の夜、しかもまだ8時頃に過ぎない。街角に人の姿が点在していても良さそうなものだが、視界に映る人影は一つもない。
一つブロックを隔てた大通りからは眠りを知らない人の声が聞こえてくるのに、
彼女が走る街灯に照らされた路地は全くの別世界に思えるほど閑散としていた。
人の気配も、人の声も聞こえない。この路地の一角だけが、完全に世界から切り離されてしまった印象すらあった。
・・・・いる。
確実に背後から追って来るモノの息遣いが聞こえる。
剥き出しの野生じみた獰猛な息遣いが。
走りながらも肩越しに背後を見やる彼女の視界の端に、路地を照らす白光の元、揺れる動く小さな影を認めた。
「く・・・っ」
気合を入れ直すように唇を噛み締めて、崩れかかる情けない自分の足腰を叱咤し、力を込めた。
だが、陸上で鍛えた彼女の快足を以ってしても、背後からの追跡者を引き離すのは容易ではなかった。
走り始めてから300m、全走行距離の半分を示す五本目の電柱を通り過ぎる。
徐々に季夕のペースが落ちてきた。元々彼女は100m走を得意とする短距離ランナー、長距離には向いていない。
それでも、高校が誇る有力選手、100mを11.2で完走できるスピードを持つ季夕だ。男であっても、彼女の速度に拮抗するのは難しい。
人間の記録など意に関せずとばかりに、四歩足の獣は狩猟に秀でた特性を十二分に発揮させ、詰め寄ってくる。
体力と気力が限界に近づきつつあるのに対し、後背から走り寄るモノは無尽蔵の体力を有しているのか、微塵もペースを落とす事をしない。
いや、距離を重ねれれば重ねるほど、二人の距離は僅かではあるが縮まりつつあった。
近づいてくる息遣いと気配が、彼女を焦らせた。
まだ!?
呼吸とともに荒くなった思考が急かす。
背後から迫ってくる気配はどんどん近くなり、明確な獣の息遣いが耳に聞こえて来た。
四足で地を駆ける音と相俟って獰猛な呼吸音はやけに凶暴な装い露にしている。
まだ!?
焦燥の念に駆られる季夕の瞳は忙しなくしばたいた。
前方に路地裏に繋がる曲がり角が見えてくる。
あれだ!!
と、曲がり角を確認した季夕が意気込む。
距離にして凡そ150mといったところか。
最早ペース配分など関係ないとばかりに、残る全力を使い果たさんばかりに燃焼させる。
ゴールが段々と近づく。それに合わせ、季夕のラストスパートも速度を上げた。
だが、後背より迫る足音は彼女のスピードより速く、差を縮めていた。
近く、高くなる背後の物音も季夕は聞こえていない。ただ、あの曲がり角を目指し走りきる。それだけが張り詰めた精神に過ぎる。
後20m!!
曲がり角の入り口はすぐそこに迫っている。手を伸ばせば届きそうな距離を全力疾走で駆け抜ける。
後先考えている余裕は無い。あそこを曲がれば、あそこさえ曲がれば・・・
「ガルルル!!!!」
雄叫びが、精神集中していた季夕の思考を引き裂いた。
射程距離にまで空間を縮めた背後の獣が獲物に飛び掛ってきたのだ。
凶悪な牙を鋭く光らせて襲ってくる獣の姿が、振り返らなくても彼女には感じた。
「つっ!!」
咄嗟に、季夕もアスファルトを蹴った。目的地まで後2mの距離での跳躍。
半ば無意識からの行動で、両手で頭を庇い、目の前の狭い曲がり角へと身を滑り込ませる。
鋭利な牙が、横倒しになってアスファルトを滑る季夕の肩を掠めていく。
「言巻も 綾に畏き皇祖神 伊邪那岐命(いわまくも あやにかしこき すめみおやかむ いざなぎのみこと)
筑紫の日向の 橘の 小戸の 阿萩原に(つくしのひゅうがの たちばなの おどの あわぎはらに)
禊祓い給いし時に(みそぎはらいたまいしときに)
現坐し 祓戸の 大神達 不意犯しけむ(あれませし はらいどの おおかみたち ゆくりなく おかしけむ)
諸の悪事 罪穢 有らむをば(もろもろのまがごと つみけがれ あらむをば)
祓給清め 給えと 白す事の由を(はらいたまえ きよめたまえと もうすことのよしを)
平らけく 安らけく 聞食せと白す(たいらけく やすらけく きこしめせともうす)」
突如として幽玄な音律が空間に反響した。
地に伏せる季夕には単なる不可思議な音の羅列でしかないが、肉食の涎を滴らせる獣にとって、それは耐え難い音の拷問のようだった。
金切り声を呻き漏らし、のたうち狂う。発狂したとしかおもえない形相には、筆舌できぬ歪な光を宿す両眼が踊り狂っていた。
「ガァアァ! グガァ!」
更に雄叫びをあげながら獣は路面に頭を擦りつけた。耳の皮が擦り剥け、血が滲んでも止めようとしない。
最早、獣の頭に目の前で起き上がる季夕など見えていない。脳内に飛び込んだ不快な音を追い出そうと必死だった。
「光琉、今よ!」
大人三人が優に身を隠せるようなダストボックスからすっと姿を見せた小矢が叫ぶ。
反対側の電柱の影から猛然な勢いで、待ち構えていた光琉が地を蹴り付ける。
路上で苦しみもがき転げまわる獣に全体重を乗せて身体ごとぶつかっていった。
ブロック壁へと引っ掴んだ獣の頭を叩き付け、札を持つ右手を握り固め、拳で殴りつけた。
「くたばれ!!」
拳が無防備に晒される獣の腹部に突き刺さる。
瞬間、火花が飛んだ。紫電の雷光が瞬き、光琉は咄嗟に半歩退いた。
小矢から渡されていた霊符が、拳の威力で獣の腹に食い込んでいる。
細長い紙切れが自ら雷光を纏い、獣を一瞬にして電撃で貫いた。
「グギャァァァ!!」
凄まじいまでの絶叫を放ち、雷の鎖に縛られた獣の表面から無数の火花が飛び散る。
脳髄から足の爪先までを貫いた紫電の光は、獣の毛皮に引火した。
「ガァァ・・・ギュガァァ・・・」
火達磨が獣の叫びを上げる。鋭さのない咆哮は弱々しく、鈍く低い音で力なく地に落ちた。
程なくして、全身を業火に焼かれた獣は、叫び声と同様にゆっくりと崩れていく。
三回に渡り大きく痙攣して、獣は完全に動かなくなった。
肉の焼ける異臭が鼻を刺激し、光琉は思わず口元へ手をやった。
火の勢いは弱まり、黒焦げになった獣の身体が真紅の幕から現れる。
見るも無残に焼け爛れた肉。両眼の眼球など最初の電撃の一撃で潰れ、眼窩からは黒っぽい血が沸騰した泡となって溢れていた。
ブスブスと黒煙を上げる死体は、何度見ても慣れるものではなかった。
全身に火種が燻り続けたまま、獣の身体が炭となって崩れ落ちる。
惨たらしい屍を晒して死ぬ獣。この光景も見慣れる事はできないだろう。
肉が焼ける悪臭と、血が沸騰し、眼球が流れ出す光景・・・慣れるものではなく、忘れられるようなものでもない。
例え、相手が、獰猛極まる獣だったとしても、だ・・・・。
光琉は複雑な思いに捕らわれたが、さりとて、表情に出せる代物でもなかった。
アスファルトの上で尻餅をついてへばっている季夕と眼が合うと、彼女は激しい呼吸音を刻みながらも薄く微笑してきた。
親指を上に突き立てた握り拳を、光琉の方へグッと突き出す。
彼女もこの光景に心底嫌な思いを抱いているだろうに、それを、少なくとも表面上は出さず、無理に強くあろうとする姿が健気だった。
我知らず、光琉は苦笑しながら、呼吸を整える季夕に腕をさし伸ばす。
「囮役、ご苦労さん」
「ん、アリガト。でも、やっぱ犬相手に競走はしんどい・・・・」
差し出された手を掴み、光琉に引っ張り起こされる季夕は深く息を吐き出し、心底の苦笑を浮かべる。
と、その後ろからスポーツタオルを持った小矢が声をかけてくる。
「お疲れ様、季夕。
ごめんね、いつも危険な役ばっかりさせて・・・・」
「いいって。サヤに付き合うって決めたのは自分だしね。
まぁ・・・ヒカルの脚力が私に追いついたら、囮役変わってもらおうかな」
「・・・・あと30年は待ってもらわんと、季夕の足には追いつけんなぁ」
「あのね・・・」
しみじみとした光琉の老人のような言種に、小矢から渡されたスポーツタオルで汗を拭う季夕が白い視線を浴びせる。
背筋を冷たくさせる彼女の眼差しに、光琉は大仰な仕草でわざとらしく肩を竦めくた。
何処かぎこちなさの漂う二人の掛け合いを傍で見ていた小矢が苦笑する。
彼女の笑みも、無理に作った笑みのようであった。
そんな軽口が、この場の異常な雰囲気を和らげるために出しているのだと、三人ともに知っていた。
日常と違いすぎるこの世界で正気を保つには、少しでも日常の雰囲気を演じるしかない。ありふれた日常の匂いともいうべきものを、演出するしかない。
例え、どれほど滑稽に見えようとも、そうしなければ、本当に自分達が別の世界の住人になってしまいそうで怖いのだ。
それに、軽口が叩けるようになっただけでもマシだった。
光琉と季夕が初めて小矢に同行した頃は、異形の獣を一匹始末する度に、何とも言えない沈痛な影を表情に沈ませ、無言で立ち尽くしていたのだ。
獣がのたうちまわって死んでいく光景を、無数の黒い粒が弾けていく光景を見遣りながら、彼等はただただ無言であった。
無条件で非現実的な光景を受け入れていたのではない。その場に自分が居合わせることにも違和感を覚え、なすすべも無く、見ているしか出来なかったのだ。
あの夜、二人が小矢と行動を共にしてから一週間と数日が経過し、ようやく光琉も季夕も笑みを浮かべられるようになったのだ。
演技混じりの笑顔であっても、重苦しい沈黙を纏っているよりはずっとマシだった。
無論、そう思う事自体、単なる慰めなのかもしれないが。
最初の方は危うげだった戦闘も、今ではなんとかそれぞれの役に馴染み、形もさまになってきている。
陸上で鍛えた持ち前の快足を活かして、囮役の季夕が敵を引き付け、或いは誘い、あるポイントまで敵を誘き寄せる。
季夕が敵を目標地点まで誘ったら、小矢の祝詞で敵を動きを封じ、仕上げに光琉が飛び出して霊符を相手に叩きつける。
真の適材適所とまではいかないものの、個々の特性を活かしたチームプレイは、初期の戦闘で力任せにぶつかり、手痛いしっぺ返しを受けて学んだものである。
異形の飛び抜けた能力に対抗するには、こちらも連携を重視した作戦が必要でありと苦い教訓から学び、彼等の戦い方を自ずと決定付けた。
罠を仕掛け、罠の場所に相手を誘き寄せ、確実に仕留める。危険の少ない方法で最大の成果を。
それが基本的な彼等の戦い方であり、戦術であった。
十日余りの日々に彼等が討ち取った異形の数は七匹にも登る。今夜を合わせて八匹目。
殆ど怪我を負う事無く勝ち得た戦果は、光琉達の自信をつける上で大いに役立っていた。
「それにしても・・・相変わらずスゴイ効果だな、この霊符ってヤツは」
消し炭になった獣を思い出し、光琉は呟いた。
異形の生命活動を停止させるのを肉体から繰り出す打撃で行えば、並々ならぬ労力を要するのを、一枚の紙切れが一瞬で勝負を決しさせるのだ。
仕留め役の彼も霊符の力で、今まで大きな怪我を負わずに済んでいるのである。
一枚の霊符がなければ、冥界の門を潜ること、両手の指では到底足りないだろう。
霊符の恩恵は、異形を仕留める決定的な切り札としてだけではない。
この路地の一角に一般人が入り込まないようにさせているのも、また、霊符の効果であった。
霊符の張られた一角は、普通の人間には見えない・・・というより、路地の存在自体を記憶から忘却してしまうそうだ。
例え、目の前に路地があっても、無いものと思い込み、素通りする効果を持つ。
一種の「結界」であると、小矢から聞かされていた。
説明された当初は、光琉も疑わしそうに怪訝な瞳を向けたものである。
だが、この人気の途絶えた路地に立ち、人影さえ見えない周囲を見渡せば、その効力に疑う余地は無かった。
半径150m四方に渡り、計4枚各所に張られた霊符の「結界」は、外界からこの一角を切り離している。
ざっと周囲を見渡しても、それは間違いない。
異形に反応し、様々な効果を生む仕留め用の霊符。
人の意識に作用し、主戦場を作る結界用の霊符。
非力な人間が、異形と立ち向かうには戦術的作戦だけでなく、道具を用意しなければならない。
野生の猛獣と対峙するには、猟銃を持って初めて人間は互角になると言う言葉そのままに。
今や、光琉達が異形と戦う上で不可欠の要素となっている札が、母から小矢が教わった習い事だとすれば、余りに遣る瀬無い。
「うん。お母さんに感謝しなくちゃね」
幼馴染の呟きが聞こえたのか、小矢がそう言って小さな笑みを浮かべたが、光琉の思いは彼女とは異なっていた。
確かに、霊符の効果は認めるし、札の存在によって命を繋いできたのも事実である。
だからと言って、それがそのまま小矢の母親への感謝に直結はしなかった。
彼に言わせれば、出来すぎているのだ。
まるで、小矢が普通じゃない世界で、異形な獣と戦うのを、初めから決め付けていたような手回しの良さ。
実の娘がこんな殺伐とした世界で生きるのを良しとするのか。それが、親の考えるか、と。
護身用の為に教えたとも思わないでもないが、魔除けの効果を持つ霊符だけでも良かったはずである。
仕留め用の霊符の威力と、結界用の霊符の意味を考えれば、どう見ても異形と殺し合うものとしての意義が強いのではないか。
そう考えてしまうと、小矢の両親に対する傾斜を不快の方へ沈める事となった。
自分の実の両親の顔も碌に覚えていない彼にとって、それまで親と言えば、間違いなく小矢の両親であった。
だが、ここに来て、幼馴染の二親に対する評価が、光琉の中では変わってきていたのだ。
彼女の両親に文句を言いたいところだが、父親は他界し、この世にいない。墓石に罵倒を浴びせても仕方の無いことであった。
母親は何処の国に居るのか相変わらず聞く機会がなくて知らず、連絡先も皆目検討つかずなので、文句を言える相手がいなかった。
今度、奇怪を作って、小矢から母親の連絡先を聞いた方がいいだろう。文句を叩きつけるだけに留まらず、何かと都合がいいはずである。
光琉が複雑な表情で押し黙っていると、隣にいる小矢が声をかけてくる。
「帰ろ。とりあえず、今夜はもう終わったから」
無理に繕った笑み。ぎこちない口調。彼女の表情も口調も仕草も、何故か余所余所しく感じてならない。
彼女の中ではまだ、光琉や季夕を巻き込んだ罪悪感に苛まされているのか。
物憂げな表情で頷くと、光琉は季夕と小矢の後を追った。
「あー汗でベトベトする。はやくシャワー浴びたいな」
先頭を行く季夕が、汗を吸い込んだシャツを扇ぎ、それでも足りないのか頻(しき)りに手をパタパタさせ、シャツの中に風を送っている。
顔と首筋の汗は先ほどスポーツタオルで拭き取ったようだが、やはり、一度シャワーで全身の汗を流さないと落ち着かない様子だ。
彼女は囮役として、結界の外から500mを全力疾走したのだ。それくらい汗だくになるのも仕方の無い事ではあった。
今夜に限らず、囮という一番危険な仕事を強いられている季夕に、さて、何と言えばいいのか。
何時もなら悪意のない揶揄を香辛料として薄く塗した毒舌が飛び出そうなものだが、彼女の後についていく光琉には言うべき言葉がなかった。
そう、異形の存在を知らずに、ただ安穏とした日々を送っていたことならば・・・
囮役を自分が引き受けたいと、本気で考える。
ただ、そうするには、彼の脚力ではどう足掻いたところで季夕の快足に適わない。
逃げるのが遅くなれば、自然と危険な場面は回数を増やし、戦いの流れを一気に崩れさせる恐れも出てくる。
加え、仕留め役にもそれ相応の腕力が必要だった。小矢の祝詞の効果から予想より速く立ち直る相手も多々いる。
その場合、力付くで相手を押さえ込み、霊符を使わなくてはならないのだ。季夕に光琉並の腕力は期待できない。
つまるところ、現在のままのスタイルが、最も個々の秀でた能力を活かせる役回りと言えた。
目の前に雑多な音が溢れていた。車の排気音、人の声、靴音。
それまでの無音の世界から一転。雑多な音に満ち満ちた世界がやけに五月蝿く、懐かしく感じるのは単なる感傷だろうか。
薄暗闇になれていた眼に、ネオン煌々と輝く街並みがいやに眩しく感じられる。
「あ、ちょっと待ってて。霊符、外してくるから。すぐに戻るね」
今出てきた路地のブロック壁に貼ってあった札を剥がした小矢が、そう言って二人に背を向けた。
小矢が結界に使った四枚の霊符を回収しに行くと、残された二人は結界の境界線となっている路地出入り口の前で待つ。
待つ間、何とはなしに沈黙が羽根を下ろした。こんな夜は、互いに口数が少なくなり、小矢がいないとそれが決定的なものになるのだ。
所在なげな視線を彷徨わせる。色取り取りのネオン、それに大通りを行き交いする車のヘッドライト、幾種類の光芒が視界に焼き付けられる。
隣で壁に凭れ掛かる季夕も似たようなもので、光琉の方へ視線は向けるものの、口を開く事はしなかった。
道路一つ挟んだ向こう側に、小さな家電専門店が眼についた。
ショーウィンドウに並ぶ大小様々なテレビが同じ一つのチャンネルに合わせられ、同じニュースを垂れ流しにしている。
車の行き交う音が途切れると、人の声に混じりニュースの報道官の声が、光琉の耳にも届いた。
『最近、犬や猫などの動物を虐待する事件が増えてきています。
先週もお伝えしましたように、炭化した犬が発見され、事件の犯人はまだ捕まっていません。
犬猫を生きたまま焼き殺すと言う残酷な手口で、同様の事件は今月に入ってから数件報告されており・・・・』
そんな声が聞こえ、光琉は不器用に肩を竦めた。
報道されている動物虐待の犯人が自分達なのだから、その心境は複雑なものだ。
自分自身、自覚はあったが、他者から残酷な手口と言われるのは痛い。
だが、他に処理の仕方も思い付かないし、考える事も無い以上、獣の屍骸は焼き尽くすしかない。
過去に一度、そのまま放置して帰ろうかと思ったが、小矢に止められたのだ。
多少とはいえ奇怪な獣の姿に変異した動物の屍骸を残しておけば、誰かに発見される可能性が出てくる。
そうなるとTVで報道されるかもしれないし、物珍しさから獣を探す人間が出てくるかもしれない。
そうなった場合、今より犠牲者は格段に増えてしまう。悪い未来を未然に防ぐ為に、屍骸の原型を残してはいけないのだった。
ニュースの声はまだ続いていて、聞き耳を立てずとも光琉の耳に入ってくる。
『死亡者、行方不明者の数が前年度に比べやや多くなってきています。
ここ5年の統計を見ても、家族や友人に何も告げずに失踪、或いは、行方を晦(くら)ます件数が年々増加する傾向にあるのは間違いありません。
死者の中には、何らかの犯罪に巻き込まれた恐れもある、と、警察関係の見解もあります。
また、家族から捜索願の出されている行方不明者の多くは、10代から20代にかけての若者で・・・』
キャスターが感情の篭らない口調で淡々と事件を並べ、続いて、コメンテイターの解説が被さる。
『行方不明者の年齢層から考えるに、その多くは退屈な田舎から都会に憧れて、町を飛び出したものと思われます。
突然の失踪は単に突発的行動であり、何の用意も計画性も無い今の若い世代のやる事に理由を付ける方が馬鹿げているのでは?
都会で現実を知れば、家を飛び出た若者達も帰ってくると思いますがね』
皮肉るような意見には、多少の悪辣さと辛辣さが見え隠れしていた。
辛口で一刀両断のコメントで昼の番組を中心に、
最近売り出し中のコメンテイターが素気なく述べ終えると、キャスターがまた幾つか言葉を並べ、画面は切り替わった。
熱の無い視線をCMを流すブラウン官に寄せる光琉。
以前の彼なら、語られるニュース内容に何の関心も示す事無く、聞き流していた事だろう。
今は、多少異なっている。
行方不明者や死者の中に、あの異形の獣達に襲われた人達も何割かは含まれているに違いないと考えていた。
そして、犠牲者は、骨も皮も、毛髪の一本さえも、遺族の手に帰ることはないだろう。永遠に。
自分達が獣を始末する事によって、本来犠牲者の列に並ぶべきだった人達の何人かは助かったのだろうか。
と、そうした考えを、光琉の思考は持たなかった。
前向きな思考をするのに、以前プールの帰りで目撃した光景が邪魔になっていた。
人間が貪り食われる様。人肉を喰らう獣の、赤く染まった牙と口。獰猛な眼。千切れた腕。
あの夜に見た血の惨劇ともいえる光景を忘れることなど出来そうに無い。
忘れるには、記憶は今も生々しく、光琉の精神に深い傷跡となっていた。
「私達が怪物を倒す事で、誰か、救われた人がいるのかな・・・」
隣で季夕がぽそりと呟いた。
光琉と同じようにニュースの声に耳を傾けていたらしい彼女の顔は、少しだけ穏やかなようにも見えた。
自分達のやっている事で命を救われた人がいるのなら、今までの事も全く無駄ではないと思っているのだろう。
心優しいのだろう。誰かが傷付くより、その人が傷付かずに自分が傷付く方が我慢できるのだろう。
季夕の凛とした雰囲気は、そうした心の強さと、優しさから来ているように感じる。
それは、素直に好感を持てる気質であり、尊重されるべき精神であった。
長年、多くの時間を共有し、幼馴染である季夕以外の言葉なら、光琉は偽善だと罵ったかもしれない。
季夕の台詞であるからこそ、素直に受け入れる事もできる。
受け入れられるが、ただ、素直に是と認める事は、光琉には出来ないでいるのも事実だった。
見たこともない赤の他人を、救う意思は爪の欠片ほどもない。
聞いたこともない名前の誰かを、自分が傷付いてまで助けようとは思わない。
自分と関わりのない人間を助けても、礼の一つも言ってくれるわけではないのだ。
無論、最初から謝辞を求めてはいないが、
万が一、誰かを助ける為に自分が死ねば、それによって命からがら逃げ延びた者は、命がけで救ってやった自分の死に涙してくれる訳がない。
恐らく、というより、間違いなく、ソイツは次の日から呑気な鼻歌を吹き鳴らして安穏とした平和な日常を満喫するだろう。
自分を救うため、代わりに犠牲になった者のことなど綺麗サッパリ忘れ果てて。
そんな人間の為に好き好んで一つしかない貴重な命を溝(どぶ)に捨てるのは、愚かしいまでの滑稽というしかなかった。
誰が死んでも「関係ないね」の一言で片付けるのが、彼の本心であった。
季夕の言葉に対しても、「どうでもいいね」が正直な感想である。
他人から言わせれば冷血漢ということになるかもしれないが、他人の評価をいちいち気にする光琉ではなかった。
学校内ではそんな事億尾にも出さず、表面上はクラスメイト達に合わせ、笑顔で会話しているが、
同じクラスの同級生が襲われる現場を目撃したとしても、見て見ぬ振りして素通りするだろう。状況と相手によっては手助けするかもしれないが、その確率は低い。
やはり自分は冷血漢なのだろうな、と、光琉は自覚した。
こんな本心を小矢や季夕の前で漏らせば、二人とも愛想を尽かすに違いない。
自分が冷血漢であるとの自覚には感慨も薄いが、幼馴染達に侮蔑の目で見られると思うとぞっとしない。
薬味を舐めるような苦い思いが胸中に広がっていく。
「・・・・・・・・・助かった人がいるかもしれない。いないかもしれない。
どっちにしたって、確認の仕様がない。
とりあえず、俺達三人は無事にいる。それだけで充分だよ」
内心の本音を吐露しないよう、充分な時間をかけ、慎重に言葉を選んで光琉は答えた。
答えたつもりだが、相手がどう取るかは相手次第だ。
聞き手からの返答を待つ時間は、光琉にとって正直、居心地のいいものではなかった。
次の瞬間には、親愛の情を浮かばせていた同じ瞳に侮蔑する光が灯り向けられるかと思えば、冷や汗が額からも流れよう。
すっと、何の前振りもなく、季夕がこちらに顔を向けた。
凛とした装い強い双眸は、光琉の内面まで見通すほどに透明な眼差しを送ってくる。
内心の本音を悟られないか、そんな不安もあった。居心地が悪い。恐々となってしまう。
彼女の鋭くも思える眼差しを定められ、光琉は出来る限り内心を表情に表さないよう苦労した。
季夕が何か言葉を言ってくれれば、光琉の精神的負担はずっと小さくなっていただろう。
相手が言葉を口にするまで待つ時間は、彼が期待していたよりもずっと長かった。
「・・・正直だね、ヒカルは」
一心に見つめてくる彼女の眼差しは光琉の中に何を感じ取ったのか、クスリとした小さな笑みを季夕は口元に浮かべた。
全く予期していなかった言葉の内容に、身構えていた分だけ「はぁ?」と光琉は間の抜けた顔になる。
そんな反応を示す彼を季夕は穏やかな笑みをしたまま見つめる。
「見知らない相手は命を賭けてまで護りたいとは思わないけど、自分にとって親しい人は護りたい。
・・・・顔に出てたよ。ヒカルは相変わらず解りやすいね。」
クスクス笑う幼馴染に、光琉はぶっきらぼうに顔を逸らす。
まさか、ここまで本音を悟られているとは思っても見ないことだった。
顔から火が出る思い、とはまさにこのことで、季夕から見える彼の横顔は、やりばのない気恥ずかしさで赤くなっていた。
こんな事をしても、益々からかわれるだけだと自覚しつつも、光琉には他に選べる対応が無かった。
自分の顔を見ながら、隣で季夕は、笑い声を押し殺しているだろうものと想像する。
横からは、噛み殺した笑声も意地悪い声も飛んでは来なかった。
怪訝に感じながら横目を向ければ、視界の端に、微笑みの代わりに物憂げな表情を浮かべる季夕が見えた。
颯爽の意味そのままを体現している彼女のらしくもない表情は、それを見る者の心に灰色の影を投げ落とした。
「季ゆ・・・」
「ごめん、待たせちゃって」
「あ、あぁ・・・・」
やっと霊符を回収し終えた小矢が光琉達の近くへ駆け寄り、光琉の言葉を打ち切らせてしまった。
光琉が再度、季夕の方へ顔を振り向かせた時には彼女は背中を壁から引き剥がし、何時もの顔に戻って合流した小矢に歩を進めている。
「それじゃ、帰ろっか」
と、季夕の一言に彼等は家路につく。
刹那に見せた彼女の表情の意味を、光琉が知る事は無かった。