第弐章・裏/3





店先に出ると、ここ数日間降り続いていた雨は止んでいた。
雨がないだけで、空は相変わらず灰色の様相を態し、今すぐにでもぐずついて泣き出してきそうではある。
朔夜はこのぐらいの天気が丁度いい。欲を言えば、もう少し空を覆う雲が灰色の雨雲などではなく、白い色彩の、風に吹かれるほどに軽い雲を好むのだが。

「・・・・あんまり、遠くへは足を運べないんだが」

自分好みの天候だったとしても無理矢理に引っ張り出された朔夜は、やや憮然とした面持ちをしている。
数日・・・といっても四日ほどだが、その間に小矢は彼の対応や言種に慣れてしまったのか気負いしていない様だ。
悪びれた様子もなく、朔夜の手を引いて歩き出す小矢。

「その辺を歩きたいだけですから、付き合ってください」

苦笑とも諦観ともつかない表情は、朔夜には似合わない類いのものであった。
半ば強引に引っ張られながら、それでも気分の悪さと無縁でいられるのは、少女の為人(ひととなり)の所為だろう。
彼女のペースに引き摺られている自分の姿を顧みて、内心苦笑の一つでも浮かべているのかもしれない。

マンションの周囲をブラリと散策する。
並木道とまではいかないものの、一応整備された歩道を歩き、脇道を見つけては、気紛れな猫のようにふっとそれまでの道を逸れる。
そんな少女の後を、三歩ほど遅れて朔夜はついていった。時折振り返る小矢の言葉に曖昧に受け答えていたが、どうにも慣れない様子だった。

「雨が止んでよかったです。
 でも、もう少し晴れてたほうが良かったかな」

「晴天だと日差しが暑い。
 だが、そうだな。この重たい雨雲はちょっと・・・な」

必要以上に会話するのは、落ち着かない。
今まで送ってきた時間の中で、彼には必要最低限の言葉で事足りたのだ。
このところ、そうした日常のリズムが崩れてきているように思える。
不愉快さはない。むしろ、湧き水のように穏やかさが心に湧出してくる。
だが、やはり、慣れない。

永遠に慣れないかもしれない。平穏な日常というやつに、自分の居場所はないのかもしれない。
夕暮れの街並みを小柄な少女の後を追って歩いていると、自分が酷く場違いな場所にいる気がしてならない。
当然といえば当然だった。今まで歩いてきた道を振り返れば、血で真赤に塗装されている。
夥(おびただ)しいまでの血を撒き散らし、その上を歩いてきた。今更、綺麗な白い道を歩けるはずもない。

開発途中で打ち捨てられた建築物の敷地内。鉄骨が剥き出しのままにされ、妙に生々しく暗い雰囲気は色を濃くしていく夕闇の所為ばかりではないだろう。
何を思って彼女がここまで来たのか解らない。気の赴くまま歩いていたら偶然、足を踏み入れてしまっただけなのかもしれない。
人気のない場所で不意に少女が立ち止まった。夕日を遮る灰色の雲は、裏側で輝く日を受けて薄いオレンジを滲ませていた。
その雲を仰ぎ見るような格好で、少女の声が小さく投げかけられた。

「一つ、聞いていいですか?
 朔夜さんは・・・どうして・・・」

どうして戦っているのか。
声にならない声を聞いた気がした。

少女は肩越しに振り返り、真摯な眼を朔夜に向けている。
逡巡のが入り込む余地もない問いに、彼は明確に答えた。

「死なせたくない者がいる」

微塵も躊躇を含ませない答えを聞いたとき、彼女は驚かなかった。
唇を綻ばせ、小さな笑みを浮かべた。

「・・・やっぱり。
 そう言うと思ってました」

嬉しそうな、満足そうな声と表情は、彼が自分と同じだと感じたからだろうか。

「優しい人だと思ってましたから」

言われた者より、言った本人が照れ臭そうに笑っていた。
小矢の頬に差した赤味は、顔に当たる夕焼けの日差しだけではないだろう。
「えへへ」と幼く笑う彼女を見る朔夜は視線を逸らす事はしなかったが、瞼を少し下げ、瞳を細くし、何ともいえない複雑な表情を浮かべ沈黙していた。
刹那に眼を閉ざした朔夜の瞼の裏に焼き付くのは、今笑った少女の像ではなかった。微笑む小矢の輪郭に、別の少女が像を結んでいる。

紗姫・・・
妹も、こうして微笑んでくれるなら・・・
妹が、こうして微笑むようになれるなら・・・

苦みばしる表情の奥で生き生きとする小矢に眠り続ける妹を重ね見ながら、前を向き直って歩き出した少女の三歩後ろをついていく。
路面に落ちる長い影法師が主人の足に合わせ、重く引き摺られていた。

「・・・俺は優しいと言われるような者じゃない。
 多分、そういう言葉は、お前にこそ相応しいのだろうが・・・俺には、似合わない」

朔夜の囁きが発せられるのを待っていたかのように、通り風が駆け抜けた。
一陣の湿った風は、本来なら聞こえるはずもない彼の小声を小矢の耳へと届けた。

「・・・違いますよ。
 私は・・・優しい性格なんてしてないから」

少女の幼い顔立ちを飾った表情は何と言うものだろうか。
苦笑か、自嘲か、沈痛か、憂鬱か、或いは、自虐であったか。
その表情と、言葉の裏にどのような真意が秘められているのか、朔夜には解るはずもなかった。
元々、彼は他人の心を見抜くのに慣れていない。他人に対しての関心が極端に薄いのだ。
相手が何を思おうが、何を考えていようが、彼は、彼の、自らの道を行くだけ。
いずれにせよ、この少女で最も似つかわしくない種類の表情であったのは確かなように思われる。

と、突然、はっとなって顔を上げる朔夜。
三歩分の距離を一足で縮めると、前を行く少女の肩を掴んだ。

「えっ!?」

強い力で歩きを止められた小矢が驚いて振り返ると、肩越しに彼の張り詰めた顔を見た。
眉を顰めて訝しがる小矢には視線を与えず、朔夜は鋭い視線をあらぬ方へ走らせている。
虚空を貫くような目付きは、少女の言葉一つに対応に窮した世慣れない世捨て人のものではなく、狩猟場に入った狩人のものだ。

「いるぞ」

囁くように怪訝な表情の小矢に耳打ちする。
朔夜の脳裏にはあの感覚が浮かび上がっている。金属を打ち鳴らすに似た耳鳴り。
頭の中で甲高く鳴り響いて不吉な尾を引く旋律に身体は無意識の内に身構えている。

標的。待ち人来(きた)る、か。
瞬時に思考を加速させる。
今まで空振りになっていたのが、ようやく対面できるのかとした昂揚感が湧いて来たが、傍にいる少女の存在が僅かに上昇した体温に冷水を浴びさせた。
彼女もずぶの素人でないにしても、朔夜から見れば実力は三流。戦力として期待できないどころか、はっきり言って足手まといにしかならない。
足手まといを抱えるこの状況下で依頼の遂行するのは、不本意であり、面倒であった。
誰かを護りながら戦うなんて経験は彼にはない。常に一人。誰の助力も必要としなければ、誰かを庇って殺しあう器用な真似もできない。
こうなってくると、彼女の存在は忌々しいとしかいえなかった。

小さいが鋭い舌打ちを口に封じ込めたが、どうやら彼の思考は性急に過ぎたかもしれない。
感じる反応が弱い。相手が、常としてきた標的と同じ上位の者である以上、彼が今感じる感覚は酷く弱過ぎる。
激しく打ち鳴らすような耳鳴りが当然であるべきなのに、脳裏に響くのはまるで鈴の音色。
比べるまでもなく弱々しい耳鳴りに、またしても朔夜は舌打ちした。

待ち人とは異なる別のモノと出くわしたか。面倒なことだ。
と、思った矢先、脳裏に流れる金属音の旋律に異常、と、視界を掠める影に気付く。

近くの家の庭先からひょいとブロック塀に飛び上がってきた影は猫のものであった。
普通の猫ではない。大きさが人間の幼児ほどもある化け猫だ。
一見しただけでも異質と解る猫は、朔夜と小矢に向き直るや否や、不細工な顔にやけに人間臭い笑みを貼り付けた。
これで決定的だ。それが醜く肥えた猫ではなく、正真正銘の化け猫だと小矢も悟ったに違いない。

「この猫・・・まさか・・!」

「ニャア」

恐々と驚きを口にする小矢の言葉を無視した、或いは、肯定したかのように猫はニヤリと笑って鳴いた。
鳴き声も愛くるしくなかった。神経を逆撫でさせる声で一鳴き、前方に続く道を顎でしゃくりつけ、鈍重な見掛けに似合わぬ機敏さでひょいひょい塀と塀を飛び越えていく。
その場で立ち尽くす二人を振り返り、もう一度鳴いて顎をしゃくる。追って来いと誘っていた。

「あっ!!」

小さな影しか見えなくなった猫を追って小矢が駆け出した。
傍らにいた朔夜が止める間もない。「おい」と叫んだ彼の声が走っていく少女の背中にぶつかり、肩越しに振り返る。

「私が追います!
 まだ仲間が近くにいるかもしれません。朔夜さんはここをお願いします!」

それだけ言い終えると、小矢は化け猫を追って行った。
曖昧な表情で小柄な後姿を見送るのは束の間、スイッチを切り替えるように朔夜の表情は鋭くなる。
自分の首筋に無数の視線が突き刺さっているのを感じた。

振り返るまでもない。背後から聞こえるのは猫の鳴き声だ。いや、猫だけではない、彼の頭上にはやけに数多くの鳥が飛び交っている。
スズメに鳩、それに鴉。
羽ばたき音に羽ばたき音が重なり、更にはそれらの鳴き声がミックスされ、聞くに堪えない混成合唱となっていた。
ニャアニャアとうるさいくらいの鳴き声の中、頭上の鴉がしわがれた鳴き声を放ち、不気味な音楽会に一段と不吉な色を加える。
狂った作曲家が作った狂ったメロディーに人間の言葉が被さった。

「やれやれ・・・お前も追って行ってくれると嬉しかったんだがなぁ・・・」

何も言わずに朔夜は振り返った。
やけに体格のいい巨漢の男が立っている。プラチナブロンドの髪、碧眼を持つ中年の男。写真の相手だ。
サロス=マカロックの日に焼けた顔に、苦味を含んだ笑みが浮かんでいる。

「上手く隠していたが、化け猫に混じり、一つ、気になる“共鳴”を感じたのでな、ここに残った。
 やはり・・・居たな」

朔夜が冷然とした口調を目の前の大男に投げ与えた。
サロスの足元には数匹の猫や犬が擦り寄っていて、頑強に盛り上がる肩には鴉が、太い腕にはスズメが降り立ち、翼を休めている。
15匹にも及ぶ獣の群れの中央で巨木のように佇む男。一種異様な光景だった。

「“共鳴”ねぇ・・・お前はこちらの存在を感じたのかもしれないが、こちらはお前に殆ど気付かなかった。ここまで接近するまでな。
 なるほど、イブリズが言っていた真の異端って意味がやっと解った。
 それも呪いの影響かい? 呪われた血は同族とは認められんようだな。便利なモンだな、えぇ?」

肯定も否定もせず、猛然と朔夜は地を蹴った。
サロスは、彼の突然の行動に驚き、「うお」と仰け反っている。迎撃体勢を取っていない。
確実に意表をついて攻撃に入った朔夜に、だが、必殺の一撃を話すより速く、サロスの周囲に擦り寄っていた獣達が動いた。

足元の猫や犬が、肩と腕にとまっていた鳥が、一斉に突進してくる朔夜に襲い掛かる。
普通ならば、それで襲撃者は怯みを見せるだろう。が、今、獣達が襲った相手は普通ではなかった。

突っ込んでくる足を止めず、飛び掛ってきた獣を叩き落とす。横に薙ぎ払う手刀で猫の首を飛ばし、返す手刀で犬の四肢を斬り飛ばす。
鋭い爪や嘴(くちばし)を煌かせて猛スピードで急襲する鳥の群は、放たれた貫手によって数匹まとめて風穴を空けられた。
仲間達とはタイムラグを挟み噛み付こうと襲い掛かった犬の頭を、ハンマーのように打ち下ろした拳で地面に縫い付けてしまう。
頭蓋が砕け、白と朱が混色する血塗れの脳漿が飛び散った。

「シィッ!」

獣の迎撃を歯牙にもかけない鬼神の勢いを見せ、朔夜が唸った。
彼の相手は獣ではない。彼が仕留めるべき標的はプラチナの髪をした男――サロス。
襲ってくる獣の攻勢をいくら退けたところで、標的に手が届かなければ意味がない。
犬の頭を砕き潰した前屈姿勢を引き起こし、地を蹴って飛び上がる。
宙に踊った痩身が腰を捻らせ、強靭な足を剣の一閃に変えた。

空間の一部を断裂させるが如き凄まじい蹴り技。
軌道上にいた鳥の一群がまるで竜巻にでも巻き込まれたかにして、くの字に曲がった体は二つに千切れ飛ぶ。
相手が何者であろうと容易く頭を蹴り千切らんばかりの威力は、鳥数匹を引き裂いた後、虚空を薙いだだけであった。
巨躯に似合わぬ素早い動作で後ろに退いたサロスの眼前を、朔夜の蹴りは虚しく通り過ぎただけであったのだ。
獣達が命を賭して築いた迎撃の幕は、死神の鎌を思わせる朔夜の蹴りから逃れるに充分な時間を稼いでいたのである。

「ふぅ、あぶねぇ」

重量を感じさずに軽やかに着地したサロスが顎に滴る汗を拭う。
間一髪。退くのがあと一秒も遅れていれば、確実に首が飛んでいた。
目の前を切り裂いた蹴りの威力を思い出し、冷や汗が額に滲む。

安堵の色を湛えたサロスの眼は一瞬にして見開かれた。
蹴りを躱された朔夜が着地した足で地を蹴り、執拗に追い縋ってきたのだ。
再び足で繰り出された追撃。コマのように空中で身体を回転させ、腰の捻りを交えての回し蹴り。
巨牛の胴さえ真っ二つにしそうな蹴り技の前で、丸太のようなサロスの腕に力が込められ、横蹴りを凌ぎきる。

「くあ」

蹴りを防いだ腕に骨にまで響く衝撃が伝わり、彼は短く呻いた。
相手が防ぎ切った後、既に、朔夜は懐に入り込み、身体を密着させて拳を構えている。

「このっ!」

蹴りを凌いだままの上体を半ば仰け反らせた格好のまま、サロスは朔夜の攻撃に応じてきた。
常人の三歩分もあろうかというほどの大股で一歩踏み込み、勢いを乗せて放たれた右ストレート。
拳を相手の胸板に突き刺す事だけを考えていた朔夜はガードも出来ず、リーチの笹分だけ、サロスの拳がボディへ吸い込まれた。
喰らった一瞬、頭の中が白いシーツを広げたように真白になった。目の前が暗くなる。
刹那の間に腹を巨大なスレッジハンマーで殴られたような衝撃が突き抜け、朔夜の身体は紙人形も同然に吹き飛ばされた。

「が・・・・ぁ・・・
 ゲホッゲホッ・・・ゲホッ!」

気付いた時には無様に地面を転がっていた。
なんとか上体を起こすが、肺の中の酸素を全て吐き出す苦悶の声が、朔夜の口から落とされる。
何と言う剛力か。向こうの体勢が崩れた状態でなければ、放たれた一撃は致命となった朔夜を絶息たらしめていただろう。
相手のパワーは恐るべきものだ。それは間違いない。だが、そのパワーは純粋に腕力からなるものでもなかった。
朔夜が備える肉体的な防御力を突き破ってくる破壊力。恐らく、通常の腕力に異能の力を上乗せさせた力に違いなかった。

「危なぇなぁ、少しは話を聞けよ。こっちはお前とやりあうつもりはないんだからよ。
 イブリズからも勧誘されてるだろ? 同胞に引き込む。それがあの人の考えなんだからな。
 なぁ、話し合おうや」

朔夜を殴りつけた拳をプラプラさせ、気安げにサロスは話しかけてくる。
地に伏した姿勢のまま、必死の態で荒い呼吸を繰り返す朔夜が睨み上げた。
彼の相貌に灯る冷ややかな殺意に些かの衰えもないと見取るや、サロスが「やれやれ」と呟くように嘆息した。

「まるで狂犬だな、そのツラ」

おっかないと大柄な肩を不器用に竦めて見せるサロスに、無様にも大地に腹這いになっていた朔夜が呼吸を吸い込み、地を叩くようにして飛び上がった。
余りの強打に痺れていた四肢に一呼吸で力を呼び戻すと、酸欠に喘いでいた面影は消え、獲物を襲う豹さながらに疾駆した。

迎撃に飛んできた拳をサイドステップで躱し、朔夜の貫手が左右から繰り出される。
力強い両腕を舞うように動かし、サロスは朔夜の攻撃を捌いたが、スピードでは朔夜に劣っていた。
サロスが、打ち込まれる手数の多さに対応しきれなくなった瞬間、朔夜の拳が遂に横腹に突き刺さった。

「!!」

眼を見開かせバックステップでその場から後退したのは、朔夜の方である。
相手の横腹を貫くとばかりに思っていた拳から、分厚いタイヤを殴ったような異常な手応えを感じたのだ。

「今の一撃・・・貫ける、と、確信でもしていたのかい?
 自信過剰だな。あの程度の力じゃ、俺の肉の壁を打破することはできねーぜ」

飛び去る一瞬、朔夜が驚愕に眼を見開いたのを見ていてサロスは、ニヤリ、と、不敵に笑った。

サロスの能力は攻撃面だけに限らず、防御面でも、身体能力を強化させられるに違いない。だからこその不敵さと余裕を兼ね合わせた笑みを浮かべる。
攻撃力も防御力も、朔夜の能力は標的である男に及ばない。全く口惜しい限りに、朔夜が相手に勝っているのはスピードだけだった。
こうなると、相手を仕留めるには力を充分に練り上げて、至近からの確実な一撃しか手がない。
無論、そうするには、こちらもリーチ分だけ広い相手の必殺の領域飛び込まなくてはならず、確実に仕留める攻撃を仕掛ける前に返り討ちにされる可能性の方が高いと言わざるえない。

勝算の低さに逃げ出したくなるような状況下にありながらも、朔夜は、前方に佇む鋼鉄の巨躯を冷ややかに見上げている。
深く濃い黒の瞳で相手を氷を一矢を放つにして見据えながら、静かに呼気を吸い込んだ。
二拍、三拍と呼吸を整えて、猛然と地を駆って正面から鉄の城へと切り込んだ。

「おお!?」

正面からという実に男らしい行動に、サロスは高揚する声を荒げたが、拳は既に迎撃に動き出している。
微塵の手加減もない正拳突き。真正面から切り込んでくる朔夜の顔面を狙った拳は、威力、速度ともに頭蓋を打ち砕くに不足無い。
口では穏やかなことを言いながら、その実、内心で数多くの仲間を彼に殺された恨みが高く積み重なっているのだ。
同胞の無念と朔夜に対する怒りが、繰り出された拳には篭っていた。
生命の保証など問わん。いや、確実に殺す意思が漲る攻撃。

それを解しながらも、朔夜は右手を無造作に前へと突き出した。
大砲の前の紙の盾同然とばかりに、サロスが繰り出した拳の前に、突き出された朔夜の右手は容易く貫かれ、頭蓋を粉砕する・・・・はずであった。
だが、拳が朔夜の右手に触れる前、彼は逆噴射をかけるような勢いで腕を後ろへと引き戻す。
その間隙を縫い、充分に間合いを詰めた朔夜の腕が横に振られる。勢いだけはあるが、まるで攻撃の型にもなっていない。
にも関わらず、サロスは恐れ戦いて飛び退いた。

「・・・・・」

一手、二手を交えただけの刹那の攻防。重々しい静寂が対峙する二人の間に落ちる。
腕を振り切った直後の姿勢のままで、朔夜は一気に後方数mを逃げた相手に、冷厳にも思える視線を与えていた。
真っ向から、肝を冷やしかねない眼差しを受けつつ、30年配の男は先ほどまでの親しげな軽口も何処へやら、口を真一文字に閉ざしている。

背中に氷柱をぶちこまれた感覚が、サロスの背筋に生生と残っていた。
お得意の近接戦闘を挑まれて高揚していた血液が一気に冷め切ってしまっている。
鼓動が、鼓膜のすぐ裏から聞こえてくるのではと思えるほどにくそ五月蝿く跳ね回り、落ち着く気配さえ見せない。

さして力も込められていなかった攻撃。例え直撃を許したとしてもなんて事はない。圧倒的な筋肉の城壁は子揺るぎもしないだろう。
だが、こちらが豪速の拳を放った時、相手が翳(かざ)した右手を見た瞬間に襲った例えようもないほどに寒気。
心も身体も絶対零度の洞穴に閉じ込められたかのような暗い不快感と悪寒が一緒くたになって全身を包み込んでいる。
相手が防御の為に突き出した右手。・・・・あの刹那、何を見た?

額に浮き出る冷たい汗が頬を伝い顎の先から落ちる。
零れ落ちる汗の雫。汗が一つ肌から滲むたび、それは魂から滲み、生気を薄めたものであるかのように、全身から気概と覇気が萎えていくのを感じた。

「いまのが・・・・お前の名高い能力かい? 
 噂だけは聞かされていたが・・・・初めて見た。心底、ゾッとしたぜ。
 鳥肌が治まらねぇ。死神の影をお目にかかったようにな・・・なるほど、あの人が仲間に誘いたがる訳だ」

と漏らしたサロスの声は掠れ、乱れて、剛毅さだけで作られている顔は蒼褪め、本来の迫力も失墜していた。
心成し、強固な城塞のようにそびえ立っていた彼の巨躯も萎縮してしまっているかに見える。
今、対峙する相手、朔夜を見据え、心底の畏怖を抱いているようであった。

ずいっ・・・と、朔夜が無造作に一歩、間合いを詰める。
彼の足の動きに合わせ、サロスがすり足で一歩後退したのは無意識の行動からだっただろう。
不安定にも均衡をとり、長くなりそうな膠着状態は、だが、すぐに瓦解した。

前へ一歩踏み出した朔夜の身体が仰け反るようにビクンと打ち震える。
能面じみた無表情に黒い相貌は虚空を凝視して見開かれ、表現に難しい歪みが顔の下半面を多い尽くす。
徐々に顔全体に波紋を広げるソレは、苦悶であっただろうか。

「ウ・・・・っ・・・・ぁ・・・・」

怪訝に眉を顰めるサロスの前で、朔夜は自らを抱き、わななきながら膝を折って地に屈してしまった。
ガクガクと小刻みに全身が震える。蒼白となった顔面からはサロス以上の冷や汗が流れ出す。
瞳の焦点は最早何処にも定まっていない。前方のみを見据えているが、大地も草も、サロスも、朔夜には見えていなかった。
喉を競りあがってくる言葉は口から落とされると意味不明の呟きに化け、ただの呻き声にしかなっていない。

「ァ・・・・ア・・・・・」

地底から響く死霊の不吉な呼び声めいた呻きが次々と朔夜の口から落とされる。
黒い両目の周囲は毛細血管が破裂したかにして真赤に血走り、凶相そのものとなった。

「ガ・・・アガ・・・・」

獣声を吐き漏らしつつ、真赤に染まる両眼を左右へ走らせる朔夜。
転がっている獣の死体を見つけると、一も二もなくそれに飛び掛った。

「アアァ!」

犬の死体に喰らいつく。両手で皮を引き裂き、鮮やかな朱に際立つ露出した臓腑を掻き分け、心臓を引き摺り出す。
微塵の躊躇もなく歯を突きたて、生暖かい肉の感触を味わった。餓えた一匹の獣が、同じ獣の肉を喰らっている凄惨さ。
身を屈めて獣の死肉を貪り食う様など、ハイエナ同然。理性など忘却の淵へと追い遣ってしまったとしか思えぬ。

「アァァ・・・・アア・・・」

一心不乱で心臓の肉を食い千切り、咀嚼して嚥下する。
砂漠で干上がる旅人のように流れ出る生血を喉を鳴らして飲み下す表情は恍惚ですらあった。

「・・・・それがお前等の血に刻まれた呪いか」

怖気を振るう異様な光景を目の当たりにしてサロスが低く呟く。
心底の哀れみと、それ以外の感情が込められた言葉に反応したのか、血と肉を貪っていた朔夜が僅かにを上げる。
彼の吐く言葉すら理解していないような獣の表情。理知的な雰囲気など失せ、飢えだけしか感じられない顔付き。
顔半面を血で真赤に染め、口から除く歯も血塗れで、上下の歯の間に噛み潰された肉片が生々しく糸を引いていた。
直後、心臓を喰らい尽くされた獣の死体が黒い泡となって弾けていく。

「哀れ・・・だな。
 こりゃ、まともに話し合える状況じゃねー。
 マジに狂犬だぜ、お前。ホントにこんなヤツが同胞になれるのかよ・・・・」

最後の言葉には侮蔑する響きが混じっていた。
無数に弾けては消えていく黒点の中、腐肉を貪る悪霊の如き朔夜に警戒する足取りで近付く。
グルルと喉を鳴らす朔夜が凶悪に輝く赤い眼光を跳ね上げた。

「ここで消しといた方がいいかもしれんな・・・・
 同胞に引き込んでも、災厄にしかならねぇかもしれねぇ」

グッと四肢に力を込め、いざ攻撃に移ろうかという刹那、朔夜が獰猛な唸り声をあげて襲い掛かった。
朔夜の戦い方を考えれば、今の彼は正に獣であった。吼えながら野生の動きで間合いを詰める。
五指を鉤爪のように曲げた両腕を振り回す。猛る本能のままに行う朔夜の戦闘は、サロスを戸惑わせた。

「チィィ!!」

戸惑ったのも束の間、大振りで単調な動きを見切るや否や、振り回される朔夜の腕に自分の腕をぶつけ、容易く防いでしまう。
相手の動きを止めてから確実な一撃を、と、渾身の力を込めた右拳を振り翳す。
視界の下方で、朔夜が右拳を放つのを見たが、僅かな不安一つ浮かばせずに、サロスは脇腹にグッと力を込めた。

雄々しく盛り上がる腹筋は力を漲らせ、山を連ねた山脈のように逞しく隆起する。
どんな一撃にせよ、それが単なる打撃であるなら、肉の防壁を崩せるはずが無い。
また先ほどのように、その拳も弾き返してやるさ、と、彼は考えていた。
彼にとって恐れるのは、単なる打撃に留まらない一撃だ。そう、一瞬、朔夜が見せたあの腕の能力。
だが、理性を失い、野獣の本性剥き出しにしている今の朔夜に能力を使う知恵などありはしないだろう。
従って、朔夜の攻撃で恐れるものは何一つありはしない。そう、高を括っていた。

ズドン!と、脇腹に響く衝撃。
体内から鳴った鈍い音は、肋骨数本が粉砕したのを自覚させる。

サロスが予想していたより遥かに力強い拳は、異常発達した筋肉の防御幕を突き破り、衝撃を体内にまで響かせた。
まさに、突き抜けるような力の衝撃波が、右脇腹から臓腑と肺機能を貫いて、左肩から突き抜けた。

「がぁ・・・・っ」

肺の中の酸素を全て吐き尽すような呻きが口から落ちる。
与えられた衝撃で肺機能が麻痺し、一瞬、深刻な呼吸困難に陥った。眩暈さえ覚える。
自らの能力を過信し、自信過剰になっていたのは彼の方だったのだ。
予想していなかった朔夜の強力極まる脇腹への一撃は、サロスにその事を痛感させただろう。

前屈みになる男の前で、朔夜が華麗にステップを刻みターンした。
防がれた左腕をサロスの腕から引き剥がし、首狩り鎌を振るうように爪を閃かせた。

「ぐああぁ」

視界を悪魔を思わせる鉤爪が黒い影となって覆った次の瞬間、サロスの顔面に灼熱の痛みの筋が五本走る。
左の攻撃を防がれた朔夜が、力任せに右手を閃かせ、敵の顔に爪を立てて引き裂いたのだ。

「うぐあぁ・・・」

顔を片手で押さえる。朔夜の爪は顔面の皮膚と肉を抉っただけに留まらず、片目の眼球を切り裂いていた。
サロスは朔夜から離れようとしたが、足を縺れさせてよろめく。
左目は完全に見えない。残された右目にも血が入ったか、赤いヴェールを下ろし、視界に映る全ての像を歪ませていた。

掠れた血色の世界で人影が揺らめいたと思った時には、何もかも遅過ぎた。
首筋に激痛が走り、全身の神経にまで余波を広げてくる。

「ああああぁ!!」

戦闘本能だけの獣となった朔夜がまさしくも狼のようにサロスの首に噛み付き、喰らい付いたのだった。
人間のままの犬歯を男の首深くまで食い込ませる。
そのままグンッと顔を左右に振って、肉を食い千切った。筋肉の繊維が噛み切られ、それに伴い頚動脈がブチブチと断裂する。

「ハアアァッ・・・・!!!」

溢れ出る暖かい血を心地良さそうに浴び、朔夜は咆哮した。
途切れる事なく頬に打ち付ける赤い雨。鼻腔に充満する血の香り。極彩色の悪夢じみた光景に彼は酔っていた。

「あ・・・・あぁぁ・・・・ああぁ」

生命の源が真紅の噴水となって体外へと飛び散っていくサロスの顔からは、既に生気に満ちた鮮やかな血色が失われていた。
断末寸前の弱々しい呻きは、声帯を振るわせた最後の声であった。
それすらも、今の朔夜の耳にはほろ甘いメロディーに聞こえるのか、邪悪な歪みが口元に笑みを結ばせた。

膝を崩す男の肩と顔面を掴み上げ、本格的に首に歯を立てる。
緊張していた肉も、大量の血液が流失することによって程よく弛緩していた。
それでいて、歯を突き立てれば、心地良い弾力が残り、益々の悦なる感情を朔夜の胸に沸き起こらせる。

食い千切る。噛み千切る。引き千切る。
獲物の肉体を何の遠慮もなく蹂躙する快感。
滾る血を啜り、喉を潤す充足感。

「ククク・・・・・ハハハハッハッハッハ!!」

高らかに愉悦の哄笑(こうしょう)が放たれる。
全身を鮮血の雨に濡らし、血の臭気を纏(まと)い、
残酷と、獰猛と、凶悪と、邪悪だけが、朔夜を形作る不可欠の要素となっていた。

吐き気を催す饗宴に酔い痴れながら、頚動脈から溢れる血が尽きる兆しを見せると、捕食する場所を胸に移す。
発達した筋肉に護られた胸板も、今や朔夜の両腕に呆気なく引き裂かれた。
邪魔な肋骨を圧し折り、放り捨てる。生暖かい極上の肉が朔夜の眼に晒された。

爪を抉り込ませる。力任せに横へ引き裂く。
胸筋を左右に割れ裂けた光景は、壊れた玩具のようだった。

瘴気さえ吐き出しそうなほどに醜悪に歪んだ口が開かれる。愉悦の形に。
邪教の教義書を掲げる異教の神官のように、両手で掬ったものはサロスの心臓であった。
愛おしむ者へと口付けする表情で、心臓にそっと唇を寄せる。ガッと口が凶暴に開けられた。

「ア・・ガ・・・グア・・・」

歯が肉を噛み千切るのを止めたのは、最後に残る欠片ほどの理性だったか。
芳醇な血の芳香。鮮やかな色彩の肉。掌に感じる温い暖かさ。視覚からも、嗅覚からも、感覚からも、淫靡に誘われる。
甘美にして妖艶な誘惑を振り切ったのは、凶暴な野生の思考に瞬いた紗姫の記憶であった。
眠れる少女の像が、血の色をする思考に一瞬の陽炎となって現れ、欠片ほどの理性を止める楔となった。

「グ・・・・ア・・・アア・・・ア」

鮮血に濡れる生肉を、必死で口から離す。
片手をズボンのポケットに突っ込み、小瓶を取り出すのにも甚大な精神力を要した。
グチャリと心臓を握り潰す。生血が掌を流れる。色鮮やかな流れを作り、瓶に入っていく。瓶を持つ手が震えていた。

「はぁはぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・・はぁ・・・」

血を全て瓶へと収め、素早く蓋をした。長く見ていればソレを嚥下したい誘惑に耐えられそうになかった。
一連の作業を終えた頃には、理性の火が僅かではあるが戻っていた。
精神の片隅では、獣欲が唸り声をあげているが、いずれ理性の檻に完全に封じられるだろう。
今までも、そうやって猛り狂う獣を閉じ込めてきたのだった。

「はぁ・・・はぁ・・・・・はぁ・・・・・」

小瓶をポケットの中に捻り込む。サロスの身体は漆黒の飛沫となって消えていく。
サロスの死体に凭(もた)れるようにしていた朔夜は、支えを失ってその場にドッと倒れた。

全身の力を使い果たしたようだった。
理性のコントロールから解き放たれた野生に精神を支配された時、身体能力の限界を超えて暴れた代償を、彼は支払わなければならない。
全身が悲鳴を上げている。骨が軋んでいる。全身が熱い。血が焼け付くようだ。
指一本動かすのも億劫で、大地に仰向けに寝そべり、荒い呼気を整えるのに精一杯だった。
ここ数週間、紗姫に生血を飲ませるばかりで、自身は血を一滴も口にしなかった代償だった。
暖かい同族の血を求めて、狂わんばかりの獣欲が理性の鎖断ち切って咆哮した結果が、指一本動かせない疲弊しきった身体であった。
他に敵がいないのが、救いであった。この場に残敵が居合わせていたならば、さしたる抵抗も出来ずに五体を切り裂かれている。

サロスの死体は消え去っても、辺りは濃い血臭(ちしゅう)がたちこめていた。
濃厚な血の臭いが敷地内の空気を錆びた味に変化させるほどに、撒き散らされた血の量は多い。
常人ならば吐き声を催すほどに血に淀んだ空気も、朔夜にとっては疲弊の極にある心身を癒す清涼剤であった。

獣の死骸があちらこちらに無残にも散らばっている。
開発途中で放棄された鉄骨剥き出しの建築物は、余りにも濃密な血の空気の中で、不気味さを増し、悪魔が潜む化物屋敷然とした様相を呈していた。

大地に倒れ込んで、夜の闇に侵食されていく空を見上げる視線を周囲へと動かす。
血と肉と死骸の荒野に彼は倒れていた。地獄を思わせる荒涼たる野に。
疲れきった双眸で惨たらしい光景を見つめる彼の脳裏に、あの少女の言葉が浮かんだ。
あの・・・此花小矢と名乗った少女の、言葉。

――――優しい人だと思ってましたから。

疲労している顔を苦すぎる笑みが綻ばした。
口元に浮かんだのは、なんとも自虐的な微笑。

優しい? どこが?

今、この光景を見ても、あの少女は同じことを言えるだろうか。
言える訳がない。死骸散らばる景色の中、自分はさぞや違和感無く溶け込んでいるだろう。
血を吸い込んだ赤黒い地に倒れる姿は、生命の尊厳を陵辱し踏みにじる悪鬼の如き風貌で、嗜虐性と残酷性を満足させ、惰眠を貪っているようにでも見えるだろうか。

「クク・・・ククク・・・・」

笑い声が血臭色濃い夜気に紛れる。
自らをナイフで傷つけるような陰たる響き。
何処までも自虐性を含むそれは、朔夜自身の心を音の刃で切り裂いていた。

優しいなどと言われるには、程遠い。
見ろ、死屍累々足るこの光景を。血肉に塗れた大地で、血塗れの格好で寝ている。悪鬼悪魔の所業に相応しい、おぞましきこの様を。
優しいなどと言われるに値しないモノなのだ。人の為にコイツ等を狩るのではない、何処までも己の、自分の為でしかない。
しかも、一度理性の檻から本能を逃がせば、自我などとうに消え果て、殺戮の宴に身を任せるしかない。
自力で自らの思考を呼び戻すことも叶わず、腐肉漁りの亡者のように同種の血肉を啜る身だ。
貪欲極める破壊欲と殺戮欲だけの野獣。物語の化物、吸血鬼(ノスフェラトゥ)。餓えた喉を生血で潤す化生。
血に染まる紅蓮の衣装を纏うこの姿を見て、優しいなど、言えるはずがないだろう。

自らも制御できない餓える獣の性を抑えたのは、妹の記憶。
朱色に染まる思考の狭間で垣間見た、刹那の煌きのように浮かんだ紗姫の像。
結局、それだけが、野獣の呪縛から自我を解き放つ唯一の因子となった。

上質な血は、紗姫の生命を繋ぐ糧だ。細い、今にも途切れそうなほどに弱く、儚い一本の糸。
自らの命を保つ血は、犬とも猫ともつかぬ獣のものでよい。
それで妹が生き永らえるならば、畜生の腐肉貪る我が身の浅ましさも耐えられようと言うものだった。




朔夜が「サンロイヤル」ホテルに戻る頃には、世界は完全に夜の属領となっていた。
厚い雨雲が夜空から月を隠し、星の輝き一つも見えない黒々とした空の下、街に灯る人口の光が街並みを明るくさせている。
闇夜を照らす月の役目を肩代わりにするように、地上から天空へと光の波は舞い上がるが、層の厚い雲に吸い取られ、空を塗り潰す黒い色彩は些かの薄れも見せない。

現場の後始末は完璧に完了させている。
限界まで酷使した身体が何とか動かせるようになった後、周囲に転がる獣から心臓を抜き取り、生血を啜り、何とか満足に動けるまでに回復してから、処理班に連絡を入れた。
現場では流血の痕跡が洗い流され、死体が片付けられ、浄化作業に追われている事だろう。

今回の仕事は死体の数こそ多いが、処理班の負担を軽減させる事が一つだけある。
どの死体からも殆ど血が残っていないので、戦闘中に飛び散った血以外、死亡後に流れ出た血によって汚された被害は少ない事であろう点だ。
サロスから一番高純度の生き血を抜き取り、ガラス瓶に収めた後、身体に残っている質の低い血は朔夜が飲み干している。
他の獣達の血も同様に、だ。
今後、戦闘中に無様な姿を見せない為にも、餓えは満たしておかなければならなかったのだから、その為に生物の生き血は必要不可欠のものだった。

最近の仕事内容は上位のモノばかりがターゲットになっていた為、朔夜自身が啜る下位の生血がなく、思考を理性も持たない餓えただけの野獣の闊歩に任せる羽目になってしまったのだ。
今回、相手が使役した獣の一団は、そんな朔夜の渇きを潤すのに、全く都合が良かった。
味は脆弱を極めたが、久々にありつけた生血は、彼の中の身体と精神を潤す分には、量的に充分であったのだから。

ボーイに出迎えられて玄関門の階段を上がる朔夜の足が不意に止まった。
背中に突き刺さる視線を感じる。それだけではない、感じたのは、視線だけではなかった。
凍て付く真冬の雪化粧を施したような凛とした独特の耳鳴り。
僅かな響きを聞いただけで、下位の獣や中位クラスの雑魚どもが何匹束になろうとも及ばないと解る耳鳴りの響きに、彼は覚えがあった。

後方を振り返る。闇夜に染まった街中で、駅前近くの中心部はなおも明るく、大通りは車の行き交いが激しい。
黄色に輝くヘッドライトに、紅く輝くテールライトが織り成す光の幾何学模様の反対側の歩道に、視線の主が見つかった。
濡れた鴉羽の艶やかな黒髪の少女。12、14歳ほどの、日本人形のような楚々たる雰囲気を持つ綺麗な着物姿の少女が、歩道を歩くサラリーマンやOLの中、場違いにも立っていた。
自宅へと急ぐ疎らな人波の中、少女は一心に朔夜へ向かって敵意を込めた視線を放っている。

職人が精魂込めて彫り上げた伝統工芸である日本人形が、卓越した職人の腕と、注がれた情熱によって、ついぞ生命を持ったかというほど美しいが、それだけに、一種超越的な異彩を放ち、怖気さえも振るわせる。
喜怒哀楽の全てから切り離され、孤高の無表情を守る相貌の中、敵意露にする両の瞳だけが、いやに光って見える。

槍の鋭利な穂先で突き殺す眼差しを受けながらも、朔夜は怯んだ様子もなく、少女に向かって鋭い視線を逆に放った。
朔夜にとって、その少女との因縁は深いものであった。それこそ、先に会ったイブリズなどとは比べようも無いくらい昔から知っている。
お互いに長い付き合いだとはいえ、それが暖かい関係であろう筈もないのは、互いが互いを見る眼差しで理解できよう。

少女の桜の花弁を思わせる唇が揺れるように動いた。

<死ね 汚らわしい異端の私生児 死んで冥府の番犬に食われろ 貴様等の持つ呪われた血と共に 永遠の地獄に堕ちていけ>

音声化されて声で発した言葉ではなかった。唇の動きがそう言葉を紡いだのである。
朔夜も、少女の言葉を聞き取ったのではなく、唇の動きを読んだのだった。
清楚で可憐な少女に似つかわしくない言葉。いや、人間離れした美しさを持つ少女であればこそ、万の憎悪と億の殺意を篭めた呪詛は逆に似合っていたのかもしれない。

<失せろ雌鬼 それともここで人間を巻き添えにして貴様を殺してやろうか それでも俺は構わんぞ 呉葉>

呪詛の言葉に対し、朔夜も少女に冷徹極まる返答を返した。声としては発せず、唇の動きだけで。
この少女――呉葉(くれは)に命を狙われた事など、一再ではない。事ある毎に狙われ、逆に狙い、追い払い、仕留め切れずに逃がす悪縁が今も続いているのだ。

朔夜の言葉を本気と受け取った呉葉が忌々しげに可憐な顔を歪めた。薄い桜色の清楚な唇が不快な方向へ吊り上げられる。
それも束の間のことでしかなく、少女は行き交う人々の中、小さな身体を街を覆う闇の中に消えていった。
視界の中から少女の姿が、そして、脳裏に反響する耳鳴りも完全に消えたのを確認して、勢い良く前へ振り返る。
うっとおしく顔に落ちかかる前髪を払いながら、朔夜はホテルの中に入っていった。

ホテルの玄関をくぐった際、ロビーは少々騒々しい状況であった。
一見すると何も変化など見られないが、長期間、ホテルに滞在している者にとって、従業員たち、それもチーフクラスの人間の動きが忙しない。
室内の隅で囁きを交し合う従業員の話を聞くと、近々、本国からVIPが訪れるそうだ。

VIPなどと言っても、ホテルの出資元と建造された理由を考えれば正体は容易く見当がつく。
世界の極東に位置する東洋の島国で目に見えて増えた妖かしに対し、ようやく大陸の諸勢力も重い腰を上げた、という事だろうか。
さて、どの程度の狩人が派遣される事やら、些か興味もあるが、いずれにせよ、彼には関係のないことで、朔夜は気にも留めずに階段を上がった。

ドアを開け、室内に踏み込む。
主人の帰宅を察知した鴉が何時戻り高く鳴いた。
一瞥を与え、音も無くベッドサイドに寄った。
片膝を付いて身を屈める。ベッドで眠る妹と目線の高さを合わせ、シーツの中から少女の小さな手を手繰り寄せる。
皇女のたおやかな手に絶対の忠誠を表す接吻する騎士の厳粛な雰囲気で、眠り姫を守護する彼女だけの騎士は、白い尊顔に手を伸ばした。

肌は氷に近い冷たさだが、内部から浸透するような微かな温もりを指先は敏感に感じた。
その感触に、朔夜は口を少し綻ばした。
完全に安堵の笑みにならないのは、数日前に紗姫が血を吐き出した記憶が生々しく脳裏にこびりついているからだった。

少女の温もりだけが、彼を温める。
少女の安らかな顔だけが、彼を癒す。
少女の存在だけが、彼を生かす。

紗姫に生血を飲ませてから一週間も経過しておらず、今夜採取した生血はストックするのが常套(じょうとう)なのだが、朔夜はガラス瓶の蓋を開けた。
生命力の弱まった彼女に何としてでも活力を呼び戻してもらおうとする真摯な願いが、彼に行動を取らせた。

ガラス瓶のコルクキャップを抜いたところで、朔夜の手は止まった。
肩越しに、覗うような視線を滑らせる。泊り客などいないスィートルームが並ぶ階の通路に靴音が聞こえたのだ。
足音は迷うことなく真直ぐにこの部屋を目指して近づいてくる。

扉の前で足音は立ち止まった。
ノックをしてくる様子もなく、数秒その場に立ち止まっていただけで、足音は再び遠くなった。
通路に響く残響が完全に消えた頃を見計らい、朔夜はドアを開ける。白い影がドアの隙間からフワリと落ちる。
カーペットの上に落ちたのは、二つ折りにされた紙切れ。それを拾い上げる彼の顔は険しい。

新しい依頼が来たのだった。


【第弐章・裏 完】


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