第弐章・裏/2





頭の芯を痺れさせる靄は完全に消えておらず、歩調は少々危うげだったが、先ほどよりかは幾分マシになっていた。
「サンロイヤル」ホテルに帰った頃には時刻は完全に深夜を回っていて、人が死に絶えたような通路は静まり返っていた。

宛がわれているスィートのドアを開けると、薄暗い空間から鴉が鳴き声が聞こえてくる。
主人の帰宅に、明かりを灯していないシャンデリアの上で羽を休めていた鴉が鳴いたようだ。
朔夜は無機質な一瞥を与えただけで、鴉から視線を外すと殊更足音を立たせない歩調でベッドに近づいた。

広いキングサイズのベッドに眠る妹は、安らかな、とも、苦しげな、とも無縁な寝顔で浮かべている。
いや、寝顔と言えるかどうか。月明かりに朧朧と浮かぶのは、石花石膏を彫り上げた稀代の彫刻のような白い顔立ち。
幼さの残る、と、いうより、正真正銘幼い顔に、だが、生気が殆ど感じ取れない。
静寂の夜気の中、微かに聞こえる呼吸音さえなければ、少女が生きているなどと誰も信じはしないに違いない。

後、何人殺せばいいのだろうか・・・
どれほどの屍をうず高く積み上げれば、解放されるのか・・・
どれだけの死を振り撒けば、救うことができるのだろうか・・・

指先を、そっと、初冬に降った霜に触れるように慎重に少女の頬に添えた。
温もりがなく、冷たい肌の温度はひんやりとした感触を朔夜の指に伝えてくる。
それでも、僅かな体温を感じることが出来る。
少女が生きている証だ。

懐から血液に満たされたガラスの小瓶を取り出す。
コルクを歯で挟んで抜き取ると、瓶の中の新鮮な血を呷った。
口内に血を溜め込み、妹に口付ける。

普段と同じ行為。延々と繰り返される儀式。
何時も通りの光景に、だが、今夜は異変があった。

生血を口移しで飲ませた紗姫が突然噎せ返った。
小さな唇の端から、飲み込まれなかった血液が零れる。

朔夜の心臓が冷たい鼓動を打った。
動揺の波に思考が攫われるよりも速く、彼は妹の頬に赤い流れを作る血を舐め取り、出来る限り生血の回収を試みていた。

焦りながらも、紗姫が吐き出した血を粗方回収できたのは幸いであった。
再び血を溜め込んだ唇を、今度は慎重に、ゆっくりと、妹の唇に近づけていく。
指をほっそりとした顎に沿え、半開きにさせた紗姫の唇に吸い付くように己の口を重ね合わせた。
少女の口の中に血を流し込み、器用に舌を使って血液を喉の奥へと押し込んだ。

錆びた鉄の味を広げる舌先に柔らかな少女の舌が触れ合った。
初めて感じた柔らかい感触。だが、今はその感覚を味わう余裕はない。
とにかくも妹に血を飲ませる事が頭の中を支配している。

コクリ・・・と、少女の白い喉が鳴った。
唇を離した朔夜は、それを見取ってようやく一息ついた。
短い安堵の吐息が知らず知らずに洩れる。

様々な感情を混在させる黒い瞳で朔夜は寝台に横たわる妹を見下ろした。
唇の周囲を鮮血で彩った幼い顔は微塵の変化もなく、ただ、白く秀麗な寝顔を浮かべている。
しかし、つい今しがた、彼女が命を繋ぐ糧でもある生血を吐き出したのだ。
それが物語る一点は、朔夜にとって既に自明の事であった。

・・・・この日が、訪れると予感していた。
確実に、訪れる、と。
逃げることは、出来ない。
魂を縛る鎖は、生れ落ちる前から、四肢を雁字搦めに絡み取っているのだから。

しかし、速すぎる。速すぎた。
紗姫がここまで弱っているとさえ、彼は全く感じ取れていなかったのだ。
迂闊、と、自身を罵る半面、自らの体内を流れる血を激しく憎悪した。

血。そう、全ては血が元凶なのだ。
朔夜の身体にも、紗姫の体内にも滞りなく流れる血が。

――――呪縛。

これは、忌わしい呪いだ。
遥か昔から連綿と血を縛る足枷。血に刻まれた血の呪い。

その血が、呪われた血が、彼の体内にも、妹である紗姫の身体にも駆け巡っている。
今、こうしている間にもソレは命を蝕み、体内から貴重な生命の欠片を剥がし取ろうと蠢いている。
おぞましい蟲のように、血に潜む呪いは全身を余すとこなく覆い尽くし、一秒ごと、半瞬ごとに、血と肉と細胞の全てから生気を奪っている。
失われる生命の破片を補充する為に、彼等には同族の生血が必要であった。

それでも彼自身は、まだマシな方だ。
自我を持っているし、自由に動かせる身体もあるのだ。
それも、他の同族に比べても並外れた頑強な肉体が。

しかし、彼の妹は、紗姫はそうではなかった。
シーツの海で横たわっている小さく幼い身体にどれほどの力があるというのか。
彼女に、自らの力で同族を狩り、血を啜ることなど出来はしない。
目覚めない、紗姫には・・・・・

少女は意識を夢の園に置き忘れたままで、目覚めることなく眠り続けている。
昔は、二月か三月に一度、何の前触れもなく眼を覚まし、声を聞くことも叶ったが、今ではもう瞼を開ける事もなくなっていた。
眠ったままの状態が続いて、もう二年近くにもなろうか。

その時から・・・何時か、この日が来るとは予感していた・・・・
覚悟していた・・・だが・・・

「くっ・・・・」

堪えようもない悲哀のが胸の痛みとなって朔夜の心に広がった。
鋭い槍先で心臓を貫かれるよりも鈍く苦い痛み。
自分の胸にやった手が勝手に握り締められ、洋服に食い込む爪が深い皺を作っていた。

もう、二度と、紗姫の声を聞けないのか・・・

悪夢よりも更に冷たい想像は、不快以外の何物でもなかった。
服を握り締める手には過剰な力が込められ、握り固めた掌に爪が食い込み血が滲んだ。

唇をきつく噛み締めても、脳裏の奥底からジワリジワリと毒虫が這いずり出し、思考に毒素を吹きかけてくる。
精神の防波堤は爛れ落ち、毒液で出来た穴から容赦なく吹き付けてくる忌わしい風に彼の魂は晒された。
心身を凍り付かせるような冷たく激しい痛みに耐えながら、精神の骨柱を蝕む蟲と、不吉を極める想像を精神から追い出そうと必死であった。

「はぁ・・・・・っ。
 はぁはぁはぁ・・・・」

深く息を吸い込んだ後、朔夜は弱々しげにベッドの傍らに手を付く。
そうしなければ身体を支えきれないほどに、魂を食んで来るような悪寒を伴う想像を追い出すのに疲弊したのだ。

ベッドで眠り続ける幼い姫は相変わらず彫像を思わせる寝顔で、眉一つ動かさない。
だけど、その胸は確かに上下し、彼女が生きていることを表していた。
それだけが、朔夜の心を支える何よりも強い柱。

額に浮かんだ冷や汗を乱暴に拭う。
ふと、今夜の標的であった女の言葉が脳裏に思い起こされた。

――――本当はこんな事、したくはないのだけれど・・・・ごめんなさいね。

―――――――仕方がないの・・・。

―――本当に・・・殺したくはないのだけれど・・・・。

―――――――――――――死にたくないの!!

「それは、俺も、同じ事だ・・・・」

脳裏に反響する女の言葉に、表情を翳らせた朔夜の呟きが重なる。
胸の中に、純然たる本音が込み上げてくる。

したくはない、したくなどない。
だが、仕方がないのだ。生きていく為には、そうせざるえない。せざるおえない。
誰が好き好んで殺しなどするものか。それも同族を。血に餓えた狂犬ではない。
生きる為にこうしなければならなかったのだ。

死にたくはないから・・・・
そして、殺したくはないから・・・・・
妹を・・・紗姫を・・・最愛の少女を・・・殺したくはないから・・・

「死なせたくないんだよ・・・俺も・・・・
 紗姫を・・・・な・・・・」

誰とも無しに呟いた声に答えるものはおらず、薄暗い夜気の中に朔夜の言葉は散っていった。
シャンデリアの上にとまる鴉だけが、主人の何時もと違う雰囲気を感じて、小さく両の翼を擦り合わせている。
主を心配しているような鴉の仕草に、朔夜はふっと強張っていた表情を緩めた。

そういえば、もう、半年ほどになるだろうか。
今夜と同じように、同族の生血を狩りに行った夜、コイツを見つけたのは。

夜半を過ぎた辺り、獲物を狩った帰りで見つけた。
アスファルトの上で死に掛けた一羽の鴉を。
子供の悪戯だろう、投げ付けられた石が腹に突き刺さり、今にも死にそうな鳥。
血塗れの翼を必死で動かそうともがいていた。

助けたのはただの気紛れ。理由など無い。
血塗れになりながら、それでも羽ばたこうとする姿が無視できなかったのかもしれないが。
今にも息絶えそうな鴉を抱え、部屋に持ち帰り、手当てをしてやった。

生き残る確率は50%もなかった。良くて20%。
それでも鴉の手当てをしたのは、コイツをもう一度羽ばたかせてやろうと思ったからだ。
腹に石を食い込ませながら、血に濡れた翼で必死にもがくコイツを・・・

二が月ほども過ぎた頃の朝、黒檀の上で、あの夜、血塗れだった鴉は蘇った。
血塗れだった翼を羽ばたかせ、天井へと舞い上がった。

それ以来、鴉は離れようとはしなかった。あの夜から、今日に至るまで。
まるで、中世時代の騎士のように、主に絶対の忠誠を誓ったように。

記憶の回想を止めた朔夜の視線が上方の鴉に向けられた。
シャンデリアに止まったままで翼を羽ばたかせる鴉を見遣る朔夜の表情は、何処か暖かい。
人形を思わせる仮面が外れ、本当の素顔を晒したような印象がある。
鴉を見る眼差しは戦友に向けるソレで、口元に浮かんだ笑みはくたびれていたが、それだけに人間味があった。

「解ってるさ・・・
 まだ、手遅れだと決まった訳じゃ・・・ないからな・・・・」

その言葉は、向き合う鴉に言ったというより、自分自身に言い聞かせる意味合いの方が強いようだった。
ただ、それにより、朔夜の黒瞳に生気が朧げながらではあったが戻りつつあったのは確かである。

あと、どれくらいの血が必要でも構わなかった。
必要なだけ、他者から命を刈り取っていく。
妹の飢えが満たされるまで。
紗姫が癒されるまで。
何人でも、何匹でも。

ついっと視線が動かされ、紗姫に向けられた。
朔夜の両目は生気を取り戻してはいたが、鋭さと覇気は欠けていた。
刃毀れを生じさせた刃。
完全に払拭しきれない不安が、朔夜という刀身に刃毀れとなっていたのだった。

不純物が沈殿する池のように全身が重い。
飢えが、脳細胞をチリチリと焦がしていた。

鋭さを薄れさせた視線を黒檀の机上に動かす。
一輪刺しの花瓶に似たひょろ長い陶器にのろのろと手を伸ばし持ち上げる。
妙に軽かった。花瓶の口を塞ぐコルク栓を抜いて覗いて見ても、中は空だ。
本来ならば、この陶器瓶に渇きを凌ぐために必要不可欠なモノが入っているのだが、ここ数週間補充を忘れ、切らしてしまっていたらしい。
迂闊としか言い様がない。失意の吐息を吐き漏らして瓶を机上に戻す。
潤されなかった渇きが本能をひりつかせるも、飢餓に陥るほどでもないのが不幸中の幸いだったか。
この程度の飢えであるなら、理性によって抑える事が出来た。

朱色の水を求める渇きを無理矢理捻じ伏せ、朔夜はソファに横になった。
今夜の仕事は完了させたが、依頼はまだ残っているのである。
せめて、疲労を明日に持ち越すのだけはしたくなかった。




日中から朔夜はマンションが立ち並ぶ住宅地に出向いてた。次の仕事の為の下調べの為だ。
住宅地の近くにあった喫茶店の店先で雨を遣り過ごす朔夜は、手元のファイルとマンション群を交互に見やる。
ファイルに記載されている情報はかなり詳細であり、彼を満足させた。

渡されたファイルに同梱されていたのは、一枚の写真。
30台半ばの男。髪はプラチナブロンド、碧眼の眼。イギリスから観光で来日した男である。・・・表向きは。
身長197cm。全盛期を当に超えているとは思えないほどに衰えを知らぬ体格の良さをしている。
名前は、サロス=マカロック。
それが今夜の標的。

深夜過ぎに狩りから帰り、昼近くまで一眠りする。
睡眠時間は大体6時間ほど。それだけ眠れば充分だ。
昨夜の女の毒の体臭も身体からすっかり抜けきり、完全に回復していた。
今夜の仕事に何らの支障も無い。

乱立する建物の群れはどれもこれも安っぽいマンションで、軒並み同じ外観であった。
建物の外観にA−1、A−2と英数字が割り振られている以外で区別は付きそうに無い。
ただ、この近くに潜んでいるのは間違い無さそうだ。
彼の全身を流れる獲物と同じ血が、本能に教えている。

耳鳴りに似た音律が脳裏に木霊している。
共鳴と呼ばれるもので、同族は同族に反応し発生する耳鳴りだ。視認出来るほどに接近すれば、耳鳴りは勝手に止む。
これには個人差があり、朔夜は他の同族よりも多少共鳴能力が強く、数百m以内なら相手の存在を感じ取る事が出来た。
無論、近寄れば近寄るほどに相手の所在も明確に解るのだが、必然的に、それはこちらの存在も相手に気取られる危険性を孕んでいる。

ただ、耳鳴りが非常に弱く、神経を集中しないと聞き取れないものだった。
今、この時、標的は塒(ねぐら)に居ない。朔夜が感じているのは、残り香だ。
標的がここ数時間の間に塒に帰り、そのまま何処かへ出向いたのだと思われる。

ふと頭上を見上げれば、天空には鬱陶しい雨雲が立ち込め、太陽を完全に覆い隠している。
小雨混じりの外気は少々肌寒かったが、熱を持つ初夏の大気の中ではこれで丁度いい。
これで雨さえなければ、朔夜にとっては最高のコンディションである。

別段、太陽の照り付ける晴天が苦手なことはない。容赦なく燃え盛る太陽が、少々眼に眩しいだけで。
眼を細めなくても空を仰げる曇り空を、彼は一番好んでいるだけの話だ。

それにしても、最近富みに仕事の回数が増えていた。
以前は二週間に一回であったのが、最近では週に1、2回の間隔で依頼が入る。
殊更、標的は外国人。
考えるまでも無く解る事だったが、最近標的となっている相手はイブリズの一派と見て間違いは無いだろう。
正確に論ずるならば、イブリズの与する群れが本体から離れて来日して来たという事だ。
ご苦労なことであった。

再三に渡り接触してくるイブリズの・・・いや、その背後にいる群れの統率の目的は朔夜自身であった。
統率者は彼を同じ群れに引き入れるのに執着しているようだが、朔夜はその誘いを蹴り続け、あまつさえ、勧誘してくる一派を夜毎血祭りにあげている。
それでも、朔夜自身に報復してくるような兆しが全く見られないのは、統率者の朔夜に対する執着がそれほどまでに強いのか、狩り殺されていく同胞を使い捨ての道具としか見ていないのか、どちらかだろう。
どちらにせよ、朔夜には関係のないことでしかない。
依頼があれば狩りを遂行する。滞りなく。躊躇もなく。
それだけの事。

手にしていたファイルを整理し、小脇に抱えて踵を返す。
周囲の地形、それにマンションの内部構造はファイルに記載されたデータ。
仕事に足りない地形的な情報は、足で下調べをして頭に叩き込まれている。
後は、獲物が塒に戻ってくるのを待つだけだ。待つ事には慣れている。

喫茶店に入り、適当に時間を潰すことにした。
店は結構流行っているらしく、それほど広くも無い店内にはコーヒー豆の匂いが充満し、老若男女を問わずに客が入っていた。
とりあえず、マンションが見える窓際の席へ・・・と移動した朔夜の足が止まる。
先客が居たのである。

窓際に置かれた4人がけのテーブルに一人の少女が座っている。
改めて店内を見渡したが、他の窓際の席はどれも満席だった。
舌打ちを押し隠しながら相席を願い出ようとした矢先、こちらに気付いた少女の方から声はかけられた。

「あ、あの時の・・・・」

訝しがりながら少女を覗った。
彼女の顔が記憶の糸に引っ掛かるのに大体5秒。
思い出した後、改めて少女の顔を見遣れば、間違いなく以前森林で会った顔だった。

「あぁ・・・」

イスに座る少女と、記憶の中の彼女の顔を重ね合わせ、朔夜は頷いた。

「相席、いいか?」

向こうの返事も待たずに訪ねると、少女は少し慌てたが、すぐに頷いてくる。
相手の了解を得てから席につく。
窓際の少女と向かい合わせの席に座ると、ウェイトレスが注文を聞いてきた。

「コーヒー」

メニューに眼を通さない朔夜の注文をメモし、ウェイトレスが下がった。
その姿がカウンターに消えるのを待って、朔夜は窓の外のマンションに眼をやった。
向かい合う少女は表情を曇らせ、伏せ眼がちな視線を目の前に置かれたコーヒーに落とし、沈黙していた。
朔夜にとっては何てことはない沈黙だが、少女にとっては気まずく感じられているのかもしれない。

時折、所在なげな視線を彷徨わせ、覗うように朔夜を見ては視線を外す。
かと思えば、窓の外をぼんやりと眺めては、少女は小さく溜息を漏らした。
沈黙が気まずいだけでなく、それ以外の理由で表情を曇らせているようでもあった。

「その・・・あの時は、ありがとうございます」

「別に、俺は何もしてないが?」

「でも、ありがとうございます」

と、お礼を言う少女に何と対応していいか朔夜は戸惑い、ぎこちなく頷くしかなかった。
戸惑いを見せる彼を様子に、クスリと小さな笑みを少女は浮かべる。
相席して、初めて憂鬱に染まっていた彼女の顔が崩れたが、それは一瞬でしかなく、顔に落ちる疲労したような影が落ち、微笑を覆い隠した。

コーヒーをトレイに乗せてウェイトレスが運んできて、朔夜の前に静かにソーサーを置くと小さく会釈して下がる。
カップの持ち手を指先で掴み、湯気を顎に当てる。香ばしい芳香が鼻先を掠めた。
一口含むと、芳醇な味が口の中に広がる。コーヒーに通じていない彼でも味の違いが明確に解った。

「ほう・・・」

思わず感嘆の吐息を漏らしてしまう。
酸味と苦味が抑えられ程よく甘味がある。
豆や挽き方、水からして違うのだろうが、そこまでは彼の皆無に等しいコーヒーの知識では解らない。
味だけが、自動販売機で出回っている市販品が紛い物と思えるほどに違うということくらいだ。

「ここのコーヒー、美味しいって有名なんですよ。
 だから、お店は何時もお客さんで一杯で」

頑なだった朔夜の表情で一口のコーヒーで和らいだをの見取ると、少女が可笑しそうに話しかけてくる。
改めて店内を見渡せば、なるほど、どの客もサンドィッチやバーガーといった軽食をつつきながら、置かれた飲み物はコーヒーが目立つ。
視線を前へと戻せば、少女の前にもコーヒーカップがあった。透き通るような琥珀色が薄くミルクで濁っている。
ミルクを入れると、朔夜には甘くなりすぎるだろうから、彼はブラックで丁度良かった。

「確かに・・・美味いな」

感慨深く呟いて、二口目を啜る。
独特の味と香りが口腔一杯に広がり、喉奥を流れ落ちる。
思えば、料理の味をこれほどまでにゆっくり味わうなど、どれほど振りだろうか。

「でしょう」

と、相槌してきた少女は笑ったが、先ほど同様、その笑みは儚くも黒い影に覆い隠された。
向けられていた視線もすぐに伏せられ、テーブルの上を陽炎のように彷徨う。

何時もであれば無論気に止める朔夜ではなかったが、上質なコーヒーに潤う彼の口は滑りやすくなっているようだった。

「悩みごとを抱えてる・・・って顔だな」

たまにはこんな日があってもいいかもしれない。見も知らぬ人間と向かい合って会話するのも。
そう思う自分が妙に人間臭く感じられ、内心で苦笑した朔夜は、そこではたっと気がついた。
そうなのだ、改めて気付いたが、過去に一度顔を合わせただけで、少女の名前すらも知らないのだ。

「小矢です。此花小矢」

困惑した朔夜の表情を読み取ったのだろう。
彼女は彼が口にするより速く名前を名乗ってきた。

「・・・・・朔夜」

僅かな躊躇の後に、朔夜は名前を告げた。
素性の知らぬ相手に名前を教えるのは躊躇われたが、相手が名を言った以上、こちらも言わなければならなかった。
彼にすれば、相手の名前は知らなかったが、聞く必要はないと考えていたところで自己紹介されてしまったのだ。

わざとらしく咳払いをして、奇妙な場の雰囲気を流す。
自己紹介をした直後では、何事もなく会話に続けるには雰囲気が些か気まずい。
朔夜が咳払いをしてみても、奇妙な空気は中々に場から離れず、二人が座るテーブルに気まずい空気を落としている。

数秒ほど、戸惑ったような視線を左右へ移していた小矢は、恐る恐るといった様子でゆっくり朔夜に目を向けた。
言い辛そうに引き結ばれた口は、微かに開く様などは、殆ど主人にぶたれる前に頭垂れる子犬の面持ちに近い。

何かを言おうとしては口を閉ざし、口を閉ざしては話し出そうとして断念する小矢を、朔夜は落胆はしなかった。
最初から無理に聞こうとする意思はなかった。言いたいことがあるのなら、言え。それだけだ。
にも拘らず、言い淀む少女を見ながら、彼の方から助け舟とも思える台詞を切り出したのである。

「あの時の犬を取り逃がしてしまったんだが、処理は無事に済んだのか?」

「えっ?」

まさか相手からそんな事を聞かれるとは考えてもいなかった小矢は、一瞬、眼をきょとんとさせ、瞬きする。
二度、三度瞬きして、ようやく言葉の意味を噛み締め、彼女は頭を下げてきた。

「あっ、やっぱり、林でアレを追い払ってくれたのは、朔夜さんだったんですね。
 ありがとうございます。お蔭で私の友達も怪我せずにすみました」

「あぁ・・・そうか。あの場に居た男は君の知り合いだったか」

応じた朔夜の口調は、感慨深くもない。
確認するだけの淡々としたものでしかなかった。

どうやら朔夜を、自分と同じ立場の人間だと察したらしい少女は、またしても一瞬の笑みを浮かべたが、さて、朔夜にしてみれば、彼女と自分が同じ立場にいるとは到底思えなかった。
同じ世界にいるだけで、立場が異なっているなんて事はざらにある。
彼は他人の殺意の代行者であり、掃除屋だ。誰かに言いように使われるだけの飼い犬でしかない。
そう思ったが、朔夜はそれについては一切口にしないでいる。代わりに、少女の言葉の中に出てきた少年の事を思い出していた。

記憶の淵から少年の顔を引っ張り出さなければならないほど、彼にとって印象深くもないことだが、気になることはあった。
少年と視線を交わしたとき、妙な違和感めいたものを感じた。
ほんの一瞬でしかなかったが、微かながら奇妙な感覚を精神と身体に受けたのだ。

「アレは・・・その後、何とか仕留める事が出来たので・・・心配はないかと・・・」

視線が外ではなく内に向けられる朔夜の様子に全く気付かずに話を続ける少女の声で、朔夜は意識を現実の方へと向けた。
向けたはいいが、今度は彼女の方が口を噤んでしまった。次の言葉を続けられるずにいる顔は、今にも泣き出しそうだ。

普通の男なら、ここで泣き出されては不味いとオタオタしだすだろうが、今、悲痛な表情になっている少女の前に座るのは朔夜であった。
冷淡な無表情を決め込む顔に、戸惑いの色は分子単位すらもない。
普段より饒舌になっていようが、誰に対しても無関心な本質は変わらない。彼が関心を向けるのは、たった一つのことのみだ。
静かに少女が喋り出すのを待つ。喋らなければ、それで会話も終わりだ。仕事に戻り、黙々と標的が現れるのを待つだけである。

「・・・・・ん」

沈黙が落ちること30分。
結局、彼女はそれ以上に何も言わなかった。
当然だろう。長年付き合いのある親しい者ならともかく、今日初めて名前を教えあった者に自分が持つ悩みを口にするはずもない。

「陳腐な言葉だが、自分の信じる事をやればいい。
 悩むのは立ち止まる事だ。その場で蹲り、それから先へ一歩も進もうとしない事でしかない。
 時に身を任せ、時間が状況を好転させてくれると信じて待つのは、夢想家が吐く戯言にしか思えない」

冷然とした口調は棘を含んでいるようだった。朔夜の眼は窓に向けられていたが、窓の外を望んでいるというより、窓に映る自分を見ていた。
言葉は、向き合う席に座る小矢ではなく、彼自身に放たれたもののように聞こえるが、恐らく、少女がそれに気付くことはあるまい。

柄にもない、と、朔夜は思った。
自分は何故、こんな事を話しているのか、自分自身全く理解出来ない。
他人と呑気にお茶を啜るのも、饒舌に話すのも、彼の柄ではなかった。

やや苦い笑みを相手に気付かれないようひっそりと浮かべ、頭を振る。
ソーサーの上に置かれた飲み掛けのコーヒーに手を伸ばしたところで、こちらに向けられる少女の視線の気付いて顔を上げる。

「・・・朔夜さんは神父とか牧師の方なんですか?」

そんな言葉に、朔夜は本気で眉を顰めた。
どうしてそんな事を思ったのか、彼女の考えがまるで掴めない。
何を言ってるんだ、お前は?
と、口に出さないだけで、思いっきり表情に表れている。

「あ、ごめんなさい。
 なんだか、口調がそれっぽかったので」

口元に手を当てて、可笑しそうな笑みを堪える小矢の仕草は子供としか思えない。
クスクスと微笑む彼女の笑顔に儚い影はなかった。恐らくはこれがこの少女の本当の笑顔なんだろう。

自分が神父だと?
彼女の言葉を、彼は内心で一笑に伏した。
それこそ、性質の悪いブラックジョークだ。
死に逝く者を送る事も、死者を悼む事も、自分には出来ない。彼に出来るのは、殺す事だけだ。
消耗品を大量生産する機械の様に、路頭に迷う死者を延々と作り続ける事だけだ。

「でも、ありがとうございます。
 何とか前へ進めそうです」

そう言って立ち上がった彼女の顔には、会った時から落ちていた翳りはなかった。
どうやら自分の中で吹っ切れたのだろう。彼女の顔色を見れば、その程度は彼にでも解る。
出入り口近くにあるレジに向かう途中でクルリと踵を返し、テーブルに座ったままの朔夜に向き直る。

「また会えますか?」

歳相応の笑みで聞いてきた言葉に対し、朔夜は素気なく答えた。

「運が良ければ」

と、だけ。

それでも、彼女は小さく笑みを作り、支払いを済ませて店内から出て行った。
壁に掛かる古臭い時計を見ると、短針が6時を指している。
窓の外はまだ明るかったが、後数時間もたてば、街並みの支配権は夜に取って代わられる。

ふと視線を這わせると、少女が座っていたイスに何か落ちていた。
スカートのポケットから落ちた品だろうか、小さな青いソーイングケースが目に止まる。

まだ彼女が店を出てから間もない。追っていって渡すのは容易かった。
が、朔夜は一瞬躊躇・・・というより、嫌な表情になった。
彼は今、獲物を待ち構えている、言わば張り込み中だ。
それなのに、この場から離れるのは宜しくない。離れた間に標的が帰ってくれば、間抜け過ぎて笑えない。

暫し熟考の末、面倒くさそうにソーイングケースに手を伸ばした。
仕方が無いな・・・と考えていたが、こうした自分の考えも珍しく思え、掴もうとした矢先、伸ばされた指を弾けたように退かせる。

指先が触れた瞬間、頭の中で警報が鳴り響いたのだ。
それは彼の良く知った種類の警報であり、命の遣り取りをする長年の間で養った経験からくる危険を察知する勘であった。

口元が不快を示して歪む。
「ちっ」と、小さな舌打ちを口内で鳴らす。
また厄介な物を忘れていったものだと、少女に向けた罵りを喉元まで競りあがらせた。
窓から外を見ると、少女の後姿が小さくなりつつあった。

ゆっくりと指を戻らせ、ケースを掴む。
相変わらず脳裏では警報が掻き鳴らされていたが、今度は掴む事が出来た。
もし、ケースの中に入っている物がそのまま落ちていたなら、触れるのも危険だが、袋に入れられたままであるならどうって事は無い。

勘定を支払って、店を出る。
辺りを見渡して少女の姿を捜すが、見つからない。
予想よりも随分と移動速度が速い。だが、この道を行ったのは確かである。
走れば楽に追いつけるだろう。

そう、甘く考えていた朔夜が少女の姿を見つけたのは、18分も経過してからだ。
何を考えての事か解らないが、大通りを外れた路地の一角に彼女が足を向けた所為で予想を上回るタイムロスをしてしまったのである。
見つけるのに、存外時間がかかってしまった。しかも嬉しくない事にいらぬオマケも付いてである。
頭の中で馴染み深い耳鳴りが木霊していた。
近くにいる“魔”の存在を感じ取る同種族だけが持つ“共鳴”だ。

全く、時間が無い時に限って、厄介事は頼まれもせぬのに届けられる。
と、人間と同じような事を考える自分に、朔夜は微かな苦笑を覚えた。
しかし、これは幸運かもしれぬ。近くにいる“魔”が何者か知らぬが、今回の標的であるなら願ったりだった。
探す手間が省け、これから張り込みに費やされる無駄な時間を無くせるのだから。

「・・・・そう上手くいけば、嬉しいのだがな」

誰ともなく呟く。
彼の人形に嵌め込まれた硝子玉を思わせる目が、耳鳴りの発生原因である“魔”を既に視界に納めていた。
細い路地を囲むビルの二階非常階段からじっと少女を見ている猫・・・それが耳鳴りを起こさせる元。

と、彼が気付いたのを時を同じくして、猫が無言で少女に襲い掛かった。
敵意の視線に気付いて彼女が振り向くが、即応の姿勢をないまま、表情が怯えのものに変わる。

「きゃぁぁ!!」

人間なら誰しもそうするように、咄嗟に頭を抱え込んでその場に蹲る。
直上から襲い来る物に対して、まるで効果など見込めないと知りつつもか、知らずにか。

少女が身を固くして待ち構える衝撃は・・・無かった。
頭を抱え込んだ腕の隙間から彼女が見たものは、飛び掛ってきた化け猫ではなく、紅いカーテンと黒い影。
半瞬遅れて、目の前に化け猫は落ちた。本来あるべきはずの頭部が消し飛んだ頭の無い体となって。

「ひっ・・!」

愕然としていた目が、今度は脅えて見開かれる。
その眼を上に持っていくと、紅く染まった拳を突き出す朔夜が視界に入った。
彼の姿を見て、ようやく理解した。

「・・・・余計な手間をかけさせるな」

突き放すに似て冷然とした言葉が朔夜の口から言い放たれたが、座り込んだ少女は聞いているのかいないのか疑わしい。
両目は今だ見開かれたまま、驚愕の表情で固まっていた。
そんな少女の顔を見る朔夜の眼差しが冷ややかなものに取って代わられる。
まさか、畜生一匹を素手で葬ったのを見て、驚いているのか。
だとすれば、この少女の実力も高が知れている。素人と何ら変わりは無いではないか。

「・・・忘れ物だ」

驚愕覚めやらぬ少女にソーイングセットを投げ渡す。
そのまま立ち去ろうとした時、やっと硬直から立ち直った少女が声をかけてくる。

「あ・・・・ありがとうございます」

「別に。
 忘れ物を届けに来たついでだ」

返したのは、やはり冷ややかな言葉と一瞥のみ。
肩越しに振り向ける頭を前へ戻す時、少女の自分を見る眼差しがやけに熱っぽいものになっているのが気にかかったが、どうでもいい事だった。
余計な時間を割く暇は持ち合わせていない。即刻、先ほどの店に戻り、監視を続けねばならなかった。

「・・・・ついでに言わせて貰うとな、自分にとって必要な物は肌身離さず持っていろ。
 霊符を置き忘れる退魔士など笑い話にもならない・・・」

それだけ呟いて、朔夜は来た道を戻った。
余計な事と知りつつお節介を焼いた自分に苦笑する思いだったが、口端はピクリともさせていない。
ただ、内心で自分の取った行動に感心にも似た驚きを抱いていた。

他人の忘れ物を届けにいくなど、よもや自分はこうまで人に毒されたのだろうか。
しかも、畜生一匹を始末するなどと言う不必要な仕事をこなし、お節介を焼いて助言だとは笑わせる・・・
そう思いつつも、無駄な人死には彼の好むところではなく、悪い気はしていなかった。
加え、今ここで人がどんな理由であろうと死ねば、警察が立ち入るようになるだろう。
標的が警察が周囲を動き回るからといって怯むとは思えないが、行動を控えるのは確かな事で、それは今回の仕事を無意味に長引かせる結果にも繋がりかねない。
とした物の見方をする辛辣な考えも、朔夜の思考の一角には存在していた。

一人となったテーブルでコーヒーを啜る。
店の閉店時間8時まで店内に居て、それからはマンション近くの路地で待つ事8時間。
彼の獲物は、その日、現れず、手ぶらでホテルに帰る事となった。




次の日も、朔夜は喫茶店に足を向けた。午前11時だ。
同じ店の、同じ席へ。
彼の姿を見取ったオーナーは無愛想な一瞥を投げてきただけだった。

昼前の店内には客数は少なく、空席が目立ったが、ゼロだったわけではない。
本物の味を求めるコーヒー好きは朝から店内に入り浸り、趣向を凝らした味を各々に楽しんでいた。
落ち着いた音楽を流す、さして広くもない店。
そんな雰囲気とコーヒーの味を気に入り足しげに通い、常連となる客も珍しくないのだろう。
オーナーにすれば、朔夜も、そうしたリピーターの一人に見えるに違いない。

注文を聞きに来た昨日と同じウェイトレスに、昨日と同じメニューを頼む。
程なくして運ばれてきた一杯のコーヒーを喉に流し込む。変わらずに美味い味だ。

一杯を飲み終えるのに充分過ぎる時間をかけ、空になったコップをソーサーに戻す。
時計を見れば、午後12時を少し過ぎた辺り。
広く開けられた窓から見える景色に、何の気配も感じない。

「朔夜さん」

唐突にかけられた声に、だが、朔夜は驚いた素振りも見せずに振り返る。
背後からの人の気配を予め察していた彼は、声をかけてきた相手を確認して僅かに表情を崩した。
その表情の変化を、驚きといえないこともなかったが、動いたのは片眉がピクリと上がっただけである。

「また、会えましたね。
 運が良かったのかな?」

少しだけ悪戯っぽく笑う少女は、確か小矢と名乗った相手だったか。
朔夜はぎこちなく肩を上下させただけで声は出さずに挨拶した。

別に運が良かったから再会を果たせたわけではない。朔夜にしてみれば、運が悪かったからここに来ているのだった。
昨夜は標的が現れなかっただけ。だから、今日も同じ場所に居る。それだけに過ぎない。
彼がこの場にいるよりも、少女の方が二日続けてこの店に来ている方が余程奇異に思えた。

「相席、いいですか?」

イスに手をかけて訪ねるところを見ると、断られるとは考えていないようであった。
厚かましいとは感じなかった。そんなものさえも、この少女がやると礼儀知らずというよりも無邪気な子供のソレに思えてくるから不思議だ。
片手を空席に向けて閃かせ、促す。軽く会釈しながら彼女は朔夜と向き合うイスに座った。
空席の目立つ店内である。わざわざ相席をしなくても、好きな場所に座れる。それでも向かい側に座った彼女に、朔夜はやや不躾な眼差しをした。

「で、なにか用か?」

「もっとお話をしたくて。
 それと、昨日のお礼もちゃんと言いたかったから・・・」

あっけらかんと言った後で、続く二の句を言うのに彼女は照れ入ったように顔を下に向けた。
余りに素直な言葉に、一瞬、どう対応していいやら朔夜は迷った。
抜けた表情を浮かべる彼を邪気のない仕草で笑う少女は、どうやら、彼の反応を本当に面白がっている節がある。

適当な理由をつけてあしらうことも出来なくはなかったが、朔夜は不器用に肩を竦めて見せただけだ。
一人で何時間も窓の外を見張るより、二人連れで会話していた方が、店の人間から見て不審がられないに違いなかった。
標的はいつ、時塒(ねぐら)に帰ってくるとも知れないのだ。じっくり腰を据えて持久戦を決め込むのに、店員に不審を与えては甚だ不味い。

「話か・・・まぁ、それもいいかもしれない」

と、言った朔夜の答えに、小矢は笑顔を見せた。
何故か、彼に向けられる彼女の目からは、強い輝きが見て取れた。
それがどういった感情の表れであるのか、朔夜は知らないでいた。

それから2時間ほど会話を交えた。他愛のない会話。
喋るのは小矢の方で、朔夜は無難な返事をしているだけだ。
時折、からかうような事を言っては、朔夜が返答に詰まると、彼女はクスリと笑う。
対応に困惑する彼の様子を、少女はお気に召したようだった。

朔夜が六杯目のコーヒーを飲み干した時、小矢は席を立つ。
「また明日もここにいますか?」と聞いてくるが、答える言葉を彼は持っていない。
上手い具合に今夜、標的と接触できれば、それまでだ。この店に来る事は二度となくなるだろう。
逆に、今夜標的と対面できなければ、明日もこの場に居る。
不確定要素を多分に含む問い掛けに明確に答えられる言葉はなかった。少なくとも、彼は持っていなかった。

「運が良ければ」

昨日と同じ返答で口から出る。
無論、彼女と、それに、殺される側に立つ標的の運が良ければ、だ。
彼の運が悪ければ、また会う事になるだろう。

子供のような笑みで小さく笑うと、小矢は踵を返して去っていく。
小柄な後姿を向けられた時点で、彼の視線は少女から窓の外へと移っていた。

閉店間際まで窓際の席で粘り、店の明かりが消える頃には、路地に立つ。
どうやら、今夜も、彼の運は悪いようだった。

それから数日に渡り、彼の運の悪さは続いた。
小矢は昼を少し過ぎた辺りに店に顔を出し、朔夜と同じテーブルにつく。
他愛のない会話。それを彼女は楽しんでいるようだが、朔夜には理解出来ない。
話術に長けている訳でも、聞き上手でもない。殊更話題にするようなネタも、何一つ持たない。
一緒に居ても退屈なだけなのに、変わった趣味の持ち主だ。少女に抱く彼の感想はそんなところである。

「こうしてお話してると、なんだか落ち着きます。
 この頃、ゆっくり、誰かと会話なんてしてないから・・・・」

会話し、笑い、イスに深く腰掛ける小矢が呟いた。
言葉の後ろ半分が小声となって震えていた。
伏せ眼がちになった瞳は、長い睫毛に悲しみの色を隠している。

会話・・・か。
口の中で、短く反覆する。
胸に去来する複雑な感情が朔夜の顔に発露していた。

最後に会話したのは、何時だっただろうか。
紗姫と、最後に言葉を交わしてから、どれくらいの時間が過ぎているのだろうか。

追憶の中の妹は、ベッドで眠ってはおらず、窓際に立ち、微笑んでいる。
触れれば砕け散ってしまいそうな儚げな美しさで、風に靡く長い髪をそっと片手で抑えながら、こちらを見つめ笑っている。
「朔夜」と薄紅の唇から滑り落ちた声は室内の空気に清涼な一滴となって、神聖なほど玲瓏と部屋に満ちる。

手を伸ばして、透き通るほどに白い頬に触れる。
少し熱を帯びる体温が掌に暖かく、心にまで温もりを与えてくれるようだった。

頬を包む手に自ら摺り寄ってくる紗姫が穏やかに微笑む。
心が満ちる。温もりを感じる。
それだけで、幸せだった。他の何もいらないほどに・・・・・
ただ、彼女が笑っていてくれれば・・・・・・

「朔夜・・・さん?」

呼びかけられた声に、はっとなった。
視線を左右に動かすと、木造の店内。鼻に付くコーヒーの香り。
目の前には、怪訝な顔をした少女。

少々長い間、記憶の回廊に並ぶ絵に心を奪われていたようだ。
ほんの一時の、幸せだった時間達に・・・

「どうか・・・したんですか?」

訝しがる表情はそのままで気遣う声をかけてくる。

「あ・・・あぁ、すまない。
 少し、ぼうっとしてた」

「どこか、お体の具合でも?」

「いや、そうゆう訳じゃないんだ。
 気にしないでくれ。すまない」

まだ多少怪訝そうにしていたが、納得はしてくれたようで、それ以上の追及を小矢はせず、コーヒーカップを手にした。
両手で包み込むように持ち、湯気をたたせる琥珀色の飲み物に小さく息を吹きつけ、冷ましてから飲む。
そんな子供っぽい仕草を、朔夜は無言で見ていたが、彼の視線を感じたようで、小矢はカップの縁から唇を離すと照れ臭そうに笑みを見せた。

この少女の髪の色も、髪の長さも、瞳の色も、肌の色も、紗姫とは異なっている。どれを取っても似ているところなんてない。
それなのに、朔夜は、あぁ、そうか。そうだったな。と納得する。
この娘の笑顔だけは、紗姫を髣髴とさせる。邪気の全くない、屈託な笑顔は、妹の微笑みと同じだった。
とても、良く似ている。子供のような無邪気で純粋な笑顔が・・・
窓際で唇を綻ばせる紗姫を幻のように思い起こさせる。

「似てる・・・な」

「はい?」

「いや、こちらのことだ。気にしないでくれ」

小首を傾げる小矢の頭の上にクエスチョンマークでも見えそうで、朔夜は小さく笑った。
口の片端だけ器用に吊り上げたような笑い方は、傍から見ればどう思えることだろうか。
その程度の変化、誰も気付かないに違いない。その程度のものだ。
彼自身、他人がしたなら、笑みとは認められない笑顔。
彼にとってはその苦笑めいた笑みが癖となっていた。
もう長いこと、心の底から喜びを感じて自然と浮かぶような笑顔などしていなかった。そんな風に笑う方法さえ忘れていた。
相手を小馬鹿にしているのか、それとも自分自身を嘲っているのか解らない苦く、誰も気付かないような薄い笑み。それが今の朔夜の笑みだ。
裏も表もない、ただ一つの笑い方だった。

「朔夜さんの笑うところ、初めて見ました」

小矢の喜色を帯びた声を聞いて、理由も解らずにギクリとする。
まさか、そんな細かい表情の変化まで見ているとは考えていなかった。

最初はギクリとし、次いで呆れ、最後に苦笑した。
微かなものではあるが、次々に変化していく朔夜の表情を小矢は不思議そうに見ていた。
まったく・・・・まったくこの少女の前では仮面のようなポーカーフェイスも余り役には立っていない。
乏しい表情の変化をこうも簡単に見破る鋭く観察眼を、一見和らいだ空気を纏(まと)う少女が持っているとは。
人は外見で判断できないな、と、思考を締めくくった。

壁にかかる古ぼけた時計に視線を向ければ、そろそろ3時を回ろうかという辺り。
何時もなら小矢が席を立つ時間だがと思った矢先、彼女はイスに下ろしていた腰を浮かせた。

「今日はちょっと外にいきませんか?」

「お、おい」

強引に手を取られ、バランスを崩しそうになった朔夜を一向に気にした様子もなく、小矢はグイグイと彼の手を引く。
休日の父親に遊園地に連れてけと強請る子供を思わせる強引さだった。



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