第弐章・裏/1





薄暗い室内。
生活するに当たって、凡そ必要最低限の家具さえ揃っていない部屋の中は、質素というより殺風景でしかなかった。
ざっと見渡して目に付く物といえば、部屋の雰囲気に相応しくない大きなクローゼットだけ。
壁に隙間無く置かれているクローゼット以外には、テーブルもなければイスもなく、ソファもクッション一つもなかった。

天井から吊り下げられている照明は一応新しい型のリモコンで操作するタイプだが、今は飾りとなって本来の役割を果たしていない。
夜の暗闇に部屋の様相は委ねられており、正方形の窓から射し込む街の灯火と月明かりだけが、重く垂れる夜の気配を薄く散じさせていた。

「あっ・・・あ・・・あぁ・・・」

微かな嬌声が、室内に陰々と夜の領域となっている部屋に尾を引いている。
耳から入れる媚薬のように緩急を付けて跳ねる女の声に、ベッドのスプリングが軋む音が被さっていた。

窓際に置かれたシングルベッドの上で、窓から垂れる一条の月明かりを浴びて男と女が重なっていた。
30半ばの男はスポーツジムに通っているのだろうか、歳を感じさせない肉体をしており、その体躯の上で若い豊満な女の体が跳ねている。
豊かな胸とその下の括れが描くラインが男の位置からは実に絶景であったが、それを鑑賞する余裕もないほど男は腰をバネ仕掛けのように動かしていた。

「はぁ! あはっ、あん、あっ、あっ。
 いいの、すごく、硬い・・・!」

スプリングの軋みが激しくなり、女の声にも一段と艶が増す。
ウェーブのかかる明るめの髪を振り乱す女の顔は恍惚に溶けている。
それまで腰を掴んでいた男の腕が唐突に、腰の動きに合わせて揺れるふくよかな乳房に伸びた。
下から持ち上げるように、見るからに重そうな胸を掌で弄ぶ。
つんと尖った乳首を指で挟むと、ルージュと唾液で淫らなほど紅く濡れる女の唇から悦に入った声が迸る。

「あぁん! 奥まで、来るっ」

女の声に気を良くしたのか、男は猛烈な勢いで腰を打ち付けてきた。
熱く滾った怒張を女の蜜壷は根元まで受け入れ、与えられる快感を膣全体が貪り食っている。
愛液にしとどに濡れる襞の一枚一枚がびっしりと絡み付き、さながら熱と蜜に溶かされているような感覚を男は脳髄で感じていた。

「くぅ!」

呻きを噛み殺す男の顔は眉間に皺を寄せてはいたが、女と同じように熱に酔っていた。
甘い靄のかかる脳裏で、この女は底無しか、と考えている。
営業回りを粗方済ませた足で女のアパートにしけこんだのは夕方頃、それからずっとだ。
間に休憩を挟んでも、かれこれ5回以上は互いを貪っている。
途中で止めようと考えたが、その度に甘い匂いを鼻が捉えて、女を貪らせた。
匂い。香水とも違う混じりっ気なしの純粋な女の体臭。
蕩けるまでに甘美で芳しい、本物の女の匂い。
男の理性は、その香りに勝てずに、女を抱き続けていた。

胎内を抉る怒張が急に締め付けられる。処女のソレに似た締め付けの強さに、一瞬、思考が焼かれた。
まだ若いと自分では思っていたものの、そろそろこちらの方が限界だった。

「うぉっ!!」

獣じみた叫びを放ち、男は女の最奥まで突き上げた。
外に出す考えは最初からない。女の了解も取ってある。
熱り立つ精を子宮の奥にまで届く勢いでぶちまける。

「あぁぁぁぁああぁああぁぁぁぁ!」

容赦なく吐き出される熱い迸りを胎内の奥で感じ取り、女は仰け反りながら喉から嬌声を放った。
脈動し精を放出する怒張に粘液塗れの襞は絡み付き、ギュッと締め付けた。
雌の本能が男から最後の一滴まで吐かせようとしていた。

「あ・・・・・あ・・・・・あは・・・・」

何度か痙攣したかにして腰をしならせる男に胸に、若い女の肉体が力尽きたように倒れ込む。
心地良い絶頂の余韻に浸りながら、やや気だるげながらも、どちらからともなく、口を触れ合わせる。
ゾロリと口内に入り込んだ男の舌が女の歯茎を舐め上げ、負けじと女の舌も絡んでくる。
甘い痺れに似た余韻を楽しみながら、男と女は深く唇を貪った。

「あん・・・」

充分にお互いの唇を堪能してから、女は男の胸から引き剥がれた。
胎内に精を吐き出して小さくなった男自身を膣から抜き出す時、鼻に掛かる吐息を漏らす。
男の足元で、まるで男に見せるようにして片膝を立たせながら足を大きく開き、細い指で恥丘を寛げる。
自らの愛液で濡れそぼったラビアからドロリと音が聞こえそうなほど、白濁に濁る精が泡を吹いて零れ落ちる。

「んふ・・・一杯出したね」

悪童を思わせる悪戯っぽい笑みを浮かべたが、朱に染まる唇をチロリと舐めた舌先の動きが妙に淫猥だった。
陰門から溢れる濁った粘液は次から次へと流れ落ち、尻の方はおろかシーツにまで垂れていた。

その光景を食い入るかにして凝視していた男の胸の内にザワザワとした性の衝動が再度湧き始める。
強烈な滾りと女を組み伏せたい本能を無理矢理に押さえ込む。
このまま朝まで性を貪り続けたかったが、流石に泊まりは不味い。彼には妻が別にいるのである。

軽くシャワーを浴び、肌に付いた女の匂いを洗い流し終えた男はそそくさと身支度を整えた。
その間、女は気だるげな表情で乱れたシーツの海に横になっていたが、男が帰り支度を整え終わると玄関まで見送ってやる。
汗に濡れた裸体の上にシャツ一枚を引っ掛けた状態でいながら、恥じらいもなく戸口に立つ。

明るい場所で見ると、女は20代前半で、隆起に富んだ体付きが明確に解り、暗がりの中にいるより扇情さが増している。
白人特有の白い肌が照明の下に晒され、先ほどの情事の直後とあって艶かしい艶を持っていた。
赤味のかかる髪質は、ブリーチで染めた紛い物とは一見しただけで異なる本物の赤毛。
端整に整った顔立ちは何処か愛嬌があり、妙に男好きするものだった。
チロリと出した舌先で真赤な唇を舐める癖が、男の本能を刺激して止まない。

汗を含む赤味のかかる髪を面倒そうに掻き揚げ、「また来るよ、グレモリィ」と言った男に蟲惑的な笑みを投げ与える。
大半の男ならクラリと来る色のある微笑の誘惑から逃れるのに、理性を総動員しなければならないほどであった。
初めてこの女に誘われた時もこの微笑で落とされたのだが、今夜はどうにか理性を保つ事が出来たようだ。

中年の男を見送った後、女――グレモリィは熱っぽい吐息を吐き出していた。
閉じたドアに向けていた溜息混じりの視線を引き剥がす。

あの男とは一ヶ月前にバーで知り合い、声をかけた。別に誰でも良かったのだが、体格が良く、目立っていたので選んだだけのこと。
妻子持ちだと言っていたが、そんな事はどうでもいい。この国の男の味を知りたかっただけなのだから。
好奇心からであったが、関係を持ってみて解ったことがある。実に具合がいいのだ。今まで交わってきたどの雄よりも。
自国の雄よりも、この国の男の方が硬さがあって良い。
それで今まで関係を続けてきたのだが、最近は満足出来なくなりつつあった。

「もう一人、若いヤツを増やそうかしらね・・・」

性に猛る若い雄の方が生きが良さそうだし、と、含み笑いを浮かべながら続ける。
無論、今の雄も手放す気はない。年齢的に衰えを感じるだけで、それ以外に不満はないのだ。
ただ、人数が増えればそれだけ満足出来そうだから、若い雄が欲しいのであった。

裸の上にシャツを羽織ったままに姿でキッチンに行く。
折角のシステムキッチンも使ったことが無いのか、生活臭というものが全く感じられず殺風景なものだ。
殆ど申し訳程度に小さな冷蔵庫から冷えた赤ワインを取り出して、グラスに注ぐ。
ワイングラスの中で鮮やかな朱色が血のような波打ち、芳醇な香りを漂わせてきた。

グラスの足の部分を指で摘み上げ鼻先に近づける。香り高い芳香に鼻先が心地良く擽られた。
香りを楽しむ仕草も、彼女は実に様になっていた。
豊満な身体を惜しげもなく晒しながら赤いワインを嗜む美女として、著名な画家が是非にとモデルを願い出るだろう。

朱色のアルコールを満たしたグラスの淵にワインに負けないほど艶やかなルージュに染まる唇を付ける。
良く冷えた液体を口に流し込もうとグラスを傾けたグレモリィの腕が不意に止まった。

形の良い眉が跳ね上がり、鋭い視線が先ほどまで男と同衾していた寝室に放たれた。
壁一枚挟んだ向こう側から、風の音が聞こえてきたのだった。

窓は閉めていたはず・・・・と、訝しがりながら、慎重に足を運んでいく。
物取りにせよ、何にせよ、相手が人間であるなら遅れを取る事はない。
相手が刃物を持っていたとしても、例え、銃を所持していたとしても、だ。
一撃で叩き潰す。その自信はある。人間相手に脅える理由など一分子もなかった。

まぁ、殺しはしまい。ただ、ちょっとお灸を据えるだけだ。
他人の居住に無断で入り込んだら、それ相応の罰は味わってもらう。

と、表情は薄い笑みを引き延ばしていたが、内心では何故か拭いきれない悪寒が背筋を這い上がっていた。
金属を舐めているような嫌な予感めいたものを感じる。
漠然としすぎていて、言葉で表すことは不可能だったが、肌の表面を氷で作られた蟲が滑る不快感だけが現実として感じられていた。

火照った掌にノブを掴む感触が冷たかった。
殊更物音を立てないように気を配りながらノブを捻る。
隙間を覗き込めば、薄暗闇の部屋の窓が開いて、カーテンが強い風に煽られていた。
ざっと見渡してみたが、人影はおろか猫一匹も見当たらなかった。

風で窓が開いたのだろうか。鍵は普段からかけてない。物取りが入ったところで盗むような物は何一つ置いてないのだから。
しかし、吹き付けてくる風には窓を押し開けるほどの勢いはない。
不審に思いながら、一歩寝室に足を踏み入れた瞬間、目の前に振り下ろされる一閃。

鈍い音が鳴った。持っていたワイングラスが床に落下して朱色の液体と破片を撒き散らす。
次いで襲ってきたのは鈍い衝撃だった。

「え・・・?」

グレモリィが漏らした呆けた呟きは、場違いなようでもあった。
視界の下方に映る奇妙に拉げたものが自分の腕だと理解するまでに、半瞬ほどの空白が生まれる。

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁああぁぁぁ!!」

痛覚の中を鋭利な刃が暴れ狂う。
ありえない方向に折れ曲がる左腕は、手首の近くでもう一つ間接部を増やし、折れた骨が肌を突き破って露出していた。

痛みに前のめりに屈み込みながら、激しい視線を跳ね上がらせる。
窓から射し込む月明かりも届かぬ壁際の暗闇の中から、人影が浮かび上がっていた。
手刀で利き腕を圧し折ってくれた犯人の姿を視界に焼き付けた時、悲鳴に似た叫びがグレモリィの口から飛び出た。

仮面を被ったような無表情、熱のない黒い瞳。
暗闇から姿を見せた人影を、彼女は知っていた。
実際に会ったことはないが、その名だけは忌わしい呪詛として聞き及んでいる。

「さ、朔・・!」

放たれた一矢の朔夜の腕が伸び、グレモリィの口を抑えてしまい、叫ぼうとしていた言葉を途中で封じる。
顔の下半分をやけに体温の低い手で掴まれた彼女の足から、床の感触が失われつつあった。
人形でも持ち上げるかにして、朔夜は片手でグレモリィを持ち上げていた。

床と足の距離が40cm以上も開き、片手一本で宙に持ち上げられたグレモリィは無論抵抗した。
拉げた左腕はダランとぶら下がっていたが、残る右腕を水中でもがくようにばたつかせ、朔夜の腕にマニキュアを施された爪を食い込ませた。
本物の怯えと怒りに歪んだ瞳で人形細工を思わせる朔夜の顔を見据えるグレモリィは、封じられた口で必死になって言葉を吐き漏らしていった。

「なん・・で、アナタが・・・・アタシがな、にした・・っていう・・・のさ」

「別に。何も。これが仕事だ。
 ・・・・運が悪かったな」

冷厳な口調で呟いた直後、グレモリィの顔半面を掴む腕が捻られる。
若枝を圧し折る音が暗い室内に流れる風の音にアクセントを入れた。
分子単位ほどの僅かな躊躇もなく、朔夜は彼女の首を圧し折ってしまったのだ。

途端、女の四肢は、動かしていた糸が切れたようにして力なく垂れ下がった。
朔夜の手に隠された顔の下半分から血が細い筋となって流れ、グレモリィの顎先から赤い水滴となって落ちた。

何の興味も持たない冷めた目付きをした朔夜が、ゆっくりと、右腕を肩の高さにまで上げ、肩と水平に腕を寝かせた。
位置こそ違うが、空手でやる正拳付きの構え。だが、指先を揃えた五指は張り詰めた糸のように伸ばされている。手刀の構えだ。

朔夜の右腕は張り詰める弓だった。手刀は放たれる矢。
引き絞った弓から矢が放たれようとした刹那、あらぬ方向に首を折り曲げたグレモリィは両眼を大きく見開かせた。

自分を持ち上げる彼の左腕に腕一本でしがみ付き、両足を揃えて朔夜の胸を蹴り上げた。
瀕死の獲物から思わぬ反撃を受け身体を仰け反らせたが、床に背中を打ち付ける無様な姿は見せず、空中で両手を突き出し床を叩く。
長身を優雅に回転させた朔夜は、先ほどの位置から数歩後退した場所に着地した。

朔夜の胸を蹴った反動で宙に弧を描いて着地したグレモリィも、彼と似たような体勢だった。
片手の指先を床に付き、腰を低くして両足を大きく開いている。
裸身のグレモリィのその体勢は、さながら獲物を狩る直前の女豹を髣髴とさせる。
彼女の首から上が肩に接吻するように垂れ下がっていなければ、だが。

頚骨が折れて首は頭の重さを支えられなくなっていたが、グレモリィはさも面倒そうに片手で項垂れる自分の頭を掴むと、無理矢理折れた頚骨に繋ぎ合せた。
形と大きさの異なる歯車が噛み合うように骨が鈍く鳴り、頭は首の上に戻る。
首の太さが折れる前と同じとはいかず、些か小太りになったが仕方が無い。

「くっ」

形の崩れた首に手をやり、軽く舌打ちしながら、パズルのワンピースをはめ込むようにして、彼女は奇妙に出っ張る頚骨を押し入れる。
完全とはいかないまでも、これでようやく格好が付く。
一息ついて、熱い吐息を吐き漏らした。

B級ホラー映画のワンシーンをそっくりそのままやってのけた女を目の前にしながらも、朔夜は何の興味も覗えない表情を崩さなかった。
音もなく立ち上がり、先ほど蹴られた胸に指を持っていく。少々痛むが肋骨に異常は無さそうであった。

至って素気ない手振りで胸に置いた指を離す。
立ち上がった姿勢のままで何の構えも取ろうとしない朔夜の姿は墓場に佇む幽鬼を連想させる。

「このまま大人しく逃がして・・・って頼んでも、無駄よね」

頚骨を整合させた女がやわら身を屈めながら聞いてきたが、朔夜からの返答は無言のそれだった。
無表情で冷気さえ纏わり付かせる冷たい視線を投げかける朔夜を見ながら、落胆した様子もないのに芝居じみた溜息を付く。

「やっぱり、ね。
 ・・・・じゃ、力付くで逃げてみせるわ」

ルージュと己の血に染まる艶やかな唇が艶然と微笑の形を取った。
眉は苦しげに寄せられ、表情に余裕は無かった。その中で唇だけがねっとりと朱を引いて歪んでいる。
無傷の右腕と、拉げた左腕を肩より高く持ち上げ、軽く左右へ広げる。
揺るやかに両腕は振り下ろされ、フワリと風が巻いた。

不意に朔夜の鼻孔が擽られた。
甘く軽やかな香りは、ついぞ嗅いだ事が無い種類の芳香だった。
視界の中で、裸の女は両腕を蝶のように羽ばたかせている。
芳香は、この女が発しているものなのか。

と、考えた瞬間、自身の身体に異変を感じた。
指先が痺れ、思うように動かない。
内心で舌打ちを鳴らした時には、視界がグラリと傾いた。
片膝が崩れたのだと悟る。

妖艶なほどに淫らがましい笑みを貼り付けるグレモリィも、朔夜の異常を見取り、幾許かの余裕めいたものを顔に浮かばせている。
クスクスと笑う仕草は無邪気な子供のようでもあったが、吊り上がった唇だけは別物で、卓絶した色気を醸し出している。

「良い香りでしょう・・・・?
 まるでまどろみの夢に落ちる感覚に囚われているような・・・。
 夢の坂道を転がって、そのまま眠りなさいな」

幼子に子守唄でも聞かせる口調が、朔夜の聴覚に甘く雪崩れ込んで来る。
朦朧となりかける意識の淵で、なるほど、と、一人ごちた。

体臭。匂いの源はそれか。
媚薬のように甘い体臭で思考を狂わせる。
神経毒の効果を持つ体臭。それがこの女の能力と言う訳か。
女は蝶ではなく、蛾であった、という事か。
しかも極彩色の羽から舞い散る鱗粉には毒の効果を持っている。
ならば他に能力はない。一人、一つ。それが能力の鉄則だ。

冷静に状況分析する思考にさえ、靄がかかりつつあった。
自分自身の油断を罵る言葉を口の中に閉じ込めながらも、意識を侵食する靄が濃度を増してくる。
意識は急速に輪郭を失い、腕や足といった体の末端部分は、本当にそこにあるのかさえ危うげになってきている。
地に足が着かない中、頼りなげに片膝を付いて床に踏み止まり、何とか転倒するのを堪えているのが精一杯だった。
それを、相手の女は充分知悉しているのだろう。顔に浮かぶ余裕と笑みは、相手の状態を看破しているからこその代物だった。

「本当はこんな事、したくはないのだけれど・・・・ごめんなさいね。
 ここで私が逃げても、貴方、絶対追って来るでしょうから・・・。
 だから、仕方がないの・・・。
 本当に・・・殺したくはないのだけれど・・・・」

心底すまなそうな声音で謝るグレモリィの顔には、浮かんでいた微笑が苦く変じている。
床に散らばるワイングラスの大きな破片を拾い上げ、膝を屈する朔夜に近寄った。
朔夜の薄靄が落ちる視界の端に、彼女の素足が入ってくる。

「・・・・ごめんなさい」

頭上で、小さく呟いたグレモリィが、ガラスの破片を振り上げるのを感じた。
馬鹿が・・・口の中で低く罵る。自分に対してではない、女に向けて、だ。

覚束ない感覚に苛まされながら、朔夜は体内に残る力を右腕に掻き集め、視界に映る彼女の素足を横殴りした。
叩き付けた拳に骨が砕けた感触が伝わる。確実に相手を片足を奪った確かな手応えに朔夜はひっそりと笑う。

「うあっ!!」

短いが鋭い苦痛に呻きながら裸体の女が横転した。
無様な格好で床に倒れた彼女を尻目にしながら、朔夜は感覚の鈍い四肢を引き摺るようにしながらグレモリィの上に馬乗りになる。
咄嗟に反応し、喉元へ向けて蛇のようにしなったグレモリィの右腕を握り固めた拳で叩き潰す。

「ひぐぅ!」

抵抗してきた女の腕を確実に圧し折った感触は、朔夜の拳には伝わらなかった。感覚が鈍く、感じたのは実の詰まった西瓜を軽く殴った程度の感触。
聞こえてくる女の叫びを無視した。そんなモノにいちいち構っている余裕はない。
拳を一つ振るうだけでもかなりの労力を要し、気を抜けば全身が崩れ落ちてしまいそうな脱力感の中、朔夜は呼吸を整えるだけで必死であった。
主人の意思に逆らって前のめりに倒れ掛かる上半身を、両手を突いて支える。額に女の柔らかい乳房を感じたが、それすらもどうでもいい事でしかない。
鼻孔に侵入してくる甘い匂いが不快で堪らなかった。

この女の至近にいくほど、甘美な香りは強く匂いたち、麻薬同然に意識の楔を断ち切ろうとしてくる。
だからといって女から離れれば、真綿で締め付けるようにしてジワリジワリと全身を蝕んでくる。
離れれば勝機など無い。自我を攫おうとする芳香に耐えながら至近で確実に仕留める一撃を放たなければならないのだ。

「ふぅ・・・・ふぅー・・・・」

深く呼吸する。臓腑の奥にまで香り高い体臭混じりの酸素を取り込んで必殺の一撃を打つ力を蓄える。
屹然とした形相で女を見下ろす。振り上げた右腕は強く痺れ、震えていたが、女の生命を刈り取るだけの力は充分に感じられた。

「なんで! どうしてアタシなの!?
 何もしてないよ! 何もしてないのに!!
 死にたくないの!!」

泣き叫ぶグレモリィの喉元に、振り下ろされた手刀が突き刺さる。
その瞬間、彼は眼を瞑り視界を閉ざしていた。
標的とはいえ、女が絶息する瞬間を見たくはなかったのだ。

手応えなど最早感じられない。指先の感覚は既に失われている。
ゆっくり開けた視界に映る女の喉に食い込んだ自分の右手と、耳に聞こえて来た肉を貫く音だけが、仕留めた証しであった。

肩を振るうようにして腕を女の首から引き抜くと、血の泡がゴボリと濁った音をたてながら赤い唇から零れた。
殆ど地を這う虫同然に床を這い、朔夜は女から離れた壁に背を預ける。

「はぁ・・・はぁ・・・・はぁ・・・はぁ・・・・」

荒い呼気を続ける。
鼻孔を擽る甘い匂いは最早しなかったが、全身に纏わり付く女の体臭が神経に錘を課してきている。
残り香とも言うべき体臭が外気に散じて、四肢の感覚が戻るまでこの場から動けそうになかった。

今夜の仕事の内容自体、それほど大した事は無かった。
が、終わってみれば、今までこなしてきた中で五指に入るほど苦労させられた結果になった。
仮に、今夜のターゲットだった女が妙に人間臭い甘さを持っていなければ、床に無残な屍を晒していたのはこちらであっただろう。

床の上で倒れる女の死体は、依然としてそこにあった。
やはり、生命の核となる部分を破壊しない事には、完全に死んでいるとはいえない。
この状態で放置していても、生き返る心配は無いのだが、人間に発見されると面倒な事になる。

毒素の抜けきらない足を無理に起こして立ち上がると、引き摺るようにして女の傍らに近づく。
悲痛の形相で固まる女の顔は安らかとは程遠い。悲哀の念だけが表情を満たしている。
僅かに一瞥しただけで、疲弊した顔付きの朔夜は何時も通り、相手の胸に手刀を打ち込んだ。

動かなくなった女の心臓を掴み出し、握り潰す。
彩りも鮮やかな真紅の心臓からは、鮮烈なほどに赤い血が迸った。
慎重な手付きで流れる血をガラスの小瓶に納めていく。

ガラス瓶を血で満たすと、何時ものように取り出した携帯電話をプッシュする。
数コールで接続され、やはり何時もと同じように電話の相手に向けて、朔夜は後始末を頼んだ。
その旨を告げ、連絡を切る。携帯電話を仕舞い込んで、彼は血の池に倒れ込む女に向けて一瞥を投げ与えた。

「・・・死にたくない、か。
 それはこちらも同じ事だ・・・・」

呟きは、誰に対しての言葉だったのだろうか。
肉感的な女の身体は心臓を抉り出された大穴から流れ出る血によって赤く染まっている。
真紅のランジェリーをつけた女に対しての言葉か、それとも、自分と自分以外の誰かに向けてなのか。
ただ言葉だけが、床に広がっていく血の上に落ちた。



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