第弐章・表/6
家に着いた光琉を出迎えたのは、玄関脇に腰を落としていた季夕だった。
光琉の背に親友を見つけるなり、驚いて立ち上がり駆け寄って、小矢の姿を見て更に驚く。
羽織っている男物のシャツの下からボロ切れとなった布地が見え隠れしていて、一見しただけで只事ではないと察したのである。
忙しなく説明を求めてきたが、まずは意識のない小矢を寝かせる方が先決とばかりに光琉は家に上がる。
小矢を、彼女自身の部屋のベッドに寝かせ、後を季夕に頼んだ。
流石にきちんとした外傷の確認は自分ではできない。同性の季夕に任せたのである。
どのみち、小矢を着替えさせる必要もある。
小矢を季夕に任せ、部屋を出ると、扉の前で待つ事にした。
そういえば、瑠香はどうしたのだろうか。
玄関には鍵がかかってあったし、家の中に入った時、人の気配はなかった。
彼女はまだ帰宅していないのか。
あの日以来、外出が多くなり、前にも増して何処で何をしているのか皆目検討がつかないでいる。
夜になればひょっこりと帰ってきているのだが、家に居ない時は、携帯電話も持たない少女と連絡を取る手段がなかった。
「もう入ってきてもいいわ」
ドアの内側からの声に応じ、室内に戻る。
パジャマ姿の小矢がベッドに横たわり、その横では小矢がクッションに座っている。
「傷は?」
「あ、うん。傷は無かったわ、安心して。
お腹の辺りにちょっと痣だけはあったけど、跡は残らないと思う・・・」
「そっか・・・」
胸を撫で下ろし、机のイスを引っ張って腰掛けた光琉へ、季夕は怪訝そうな視線を投げ与えた。
「で、どういう事なのよ?」
と、改めて説明を求めてきた幼馴染に、先ほどの事を大まかに話し始める。
隠していてもしょうがないし、彼女は無関係でもないのだから。
小矢が誰にも告げずに化物の相手をしていた事。自分が偶然見つけた時には意識を失っていた事・・・。
その旨をありのまま季夕に話して聞かせる。
静かに耳を傾けて聞き入っていた季夕は、光琉が話し終えると溜息のような長い吐息を吐き出した。
「そう・・・」
と、だけ呟いた言葉に、万感の想いが篭められていたように光琉には思えた。
それ以上は言葉を重ねずに俯いた季夕の双眸は、緩やかな呼吸を繰り返す親友に向けられる。
彼女の横顔から視線を滑らせ、光琉も季夕に倣って小矢を見やる。
幼い容姿の少女は白い寝顔で規則正しく呼吸しているが、時折愁眉を顰め、寝苦しそうな呻きを小さく漏らした。
額に浮かぶ寝汗を季夕がそっとハンカチで拭うと、小矢の表情は幾分和らぐ。
「無理・・・してるのよね、この娘・・・」
独り言のように漏れた季夕の小さな呟きは、光琉にも聞こえていたが、だからといって答えられるものでもなかった。
無理に答えたとしても「ああ・・・」や「そうだな・・・」と極短い一言を口に出来る程度でしかない。
何より、季夕の口調は返答を求める意味合いよりも、自分自身に向かって語っているような雰囲気があった。
「サヤの身体にさ・・・・傷、沢山あった・・・・
小さくて、あんまり目立たないけど・・・切り傷に、擦り傷、痣とか、沢山・・・」
「あぁ・・・知ってる・・・・この前、プールで、偶然、見た・・・・」
「・・・・・・私、知らなかった・・・こんなの・・・・全然、知らなかった・・・・・・」
何時も強気な幼馴染の声が震えていた。
俯き加減の顔。光琉の位置からでは目元は前髪に隠れて表情が読み取れないが、泣くのを我慢するようにキュッと噛み締めている唇だけは確認できた。
「無理、してる・・・・・」
小さく、本当に小さく、一陣の風にさえ吹き飛ばされそうなほどに小さく低く、季夕は呟いた。
相槌も打てずにいる光琉はただ堅苦しい表情で口を閉ざしている。
内心で燻る「自分は一体何をするべきか・・・」との悩みは、光琉だけでなく季夕にとっても共通する思いだっただろう。
「どうしよう?」という質問を、お互いに口にしようとはしない。
そんなもの、今更出しかないのだ。今日に至るまでに何百と自分に問い直している。
結論が出ていないから、相手に聞く気にはなれない。
その言葉を聞いた時、相手から同じ言葉を返されれば返答に窮してしまうと解っていたから。
自分の中で答えが未だ見出せずにいるからこそ、これ以上の言葉が続かないのだ。
自分達の一番身近な少女が華奢な身体で無理をやっている。それに対し、自分はどうするべきか。
幼馴染の幼い寝顔に目を向けながら、ただただ思いを燻らせ、もどかしさに囚われていた。
にしても・・・。
奇妙に身体が重い。全身がいやにだるい。鉛を溶かしたプールで一泳ぎした後のようだ。腕に足にと鉛の水滴が絡まっていて重くて仕方が無い。
軽い眩暈に襲われて、光琉は額に指を当てた。眩暈ではなく、眠気だろうか。それも強烈な。
先ほど・・・正確には、化け猫の血の池で正気に戻ってから疲労感は続いている。
化け猫と殺りあった所為だろうかとも思わなくもないが、全身の気だるさと疲労感は些か度を越えている気がした。
何度か頭を振ったが、頭の芯が痺れているような疲れは取れそうになかった。
「ん・・・ぅ・・・」
ベッドで横になっていた小矢が小さく身動ぎし、閉じていた瞼を僅かに開けた。
未だ完全に覚醒しきってない様子の瞳は薄い靄を張り付かせており、やや鈍い動きで左右を見渡す。
一瞬「ひっ」と小さく呻いて身体を強張らせる。
次に口から放たれたのは、叫びだった。
「いやぁ!」
「サヤ、落ち着いて!」
「こないで!」
伸ばされた季夕の腕を、小矢は必死になって打ち払う。
小奇麗な少女らしい顔には紛れも無い恐怖が張り付いて、叫んだ口調には怯えが聞き取れた。
幼馴染の意識は未だ、化け猫に蹂躙される寸前の悪夢の中を彷徨っているに違いなかった。
見ていて痛々しいほどに取り乱す少女の様子は、光琉と季夕の知る、少し天然の入った幼馴染の面影とは異なり過ぎていた。
彼女のそんな様子が、見ている光琉の胸をまた痛ませた。
殆ど半狂乱状態同然で両手両足をばたつかせて抵抗していた小矢だったが、季夕が覆い被さるようにして抱き締め、宥めていると、次第次第に抵抗も弱くなってくる。
数分ほど、季夕は我慢強く抱き締め、小矢が暴れなくなるまでそっと話しかけていた。
「大丈夫。大丈夫だから、安心して」
子供を宥める優しい口調で小矢の耳元に囁く。
抱き締めた手で彼女の背中を何度か擦ってやると、ようやく落ち着きを取り戻したようだった。
「き・・・ゆう・・?」
弱々しくおぼつかない声で問い掛けてきた小矢に、季夕はゆっくりと頷いた。
幼馴染の顔と、周囲を交互に見渡し、辺りが自分の部屋らしいのを理解して、小矢は緊張を解した。
全身から力がどっと抜け落ち、季夕の腕に身を預けるようにして大人しくなる兆しを見せた。
が、次の瞬間には、再び身体を硬くしてしまう。
季夕の腕の中で、小矢はわななく手を自分の胸に置き、パジャマを握り締めている。
「私・・・・私・・・・・」
幼馴染が何を言わんとしているのか、光琉は察した。
小さな身体を更に小さくした彼女の肩に手を乗せると、ビクリと反応した。
「あの化け猫なら、俺が殺したよ。だから、安心していい」
化け猫が小矢を陵辱しようとしていたのか、それとも単純に捕食しようとしていたのかは定かではない。
どちらの意味からでも取れるように、彼は「安心しろ」と言ったのだ。
「そう・・・なの?」
「ああ」
光琉からの短い返答に、小矢はもう一度「そう・・・」と呟いた。
一応の安心は出来たようではあるが、微かに震えを残す身体は正直だった。
心に残る恐怖の爪痕を完全には払拭出来ていないのを如実に物語っている。
キャスター付きのイスに光琉が座り直し、小矢は起き上がってベッドに腰掛けた。
もう少し寝てた方がいいと窘める季夕に、「もう平気」と弱々しくながら、健気にも微笑みを浮かべたがやはりどこかぎこちない。
無理して作った笑顔は、見ている方の心に痛みを募らせる。
・・・居た堪れない。
「もう・・・やめろよ」
唐突な言葉は、光琉から飛び出たものである。
傍で季夕が僅かに息を飲む反応を示したが、声に出して彼を止めようとはしない。
彼女にしても、光琉と同じ思いを持っていたのだから。
すっと空気を吸い込んで、言葉を続ける。
「なんでこんな事してんだよ。
本当は、今日だって危なかったんだ。
恩を着せるつもりなんてさらさらないけどな、俺があの場に居合わせなかったら、お前・・・・」
後半の言葉を、彼は言えなかった。
例え仮定の話にしても、幼馴染の死を直接的な台詞として吐くのを是としなかったのだ。
冷たくなった幼馴染と対面する光景など、想像しただけで悪寒が走る。考えたくもない未来予想図だ。
結果として、オブラートに包み込んでほのめかすだけになってしまったが、この場に居る面子にはそれで充分であった。
「でも・・・」
と、低く漏れた小矢の言葉が被さる。
真摯な光琉の視線に見据えられながら、やや言い淀んだものの、小矢はそう言った。
今度こそ彼は溜息を隠そうともせずに吐き出した。頭を乱暴に掻いて、首を左右に振って向き直る。
「なんでだよ? 解らねぇな。なんでそんな事する必要があるんだよ?
放っとけばいいじゃんか。他人事だろ? 関係ねぇだろうが、そんなもん。
なんだってお前がンな事しなきゃならないんだよ? 理由があんのか?
父親の跡を継いで、母親の真似して、ああゆうのと戦っていたりするのがそんなに大事なのか?」
宿命だとか、運命だとかを口にしたら殴ってでも止めてやろう、と、それくらいに光琉は息巻いている。
実際、小矢がそんな馬鹿げた理由を述べたり、くだらない義務感を持ち出したら、平手打ちくらいは食らわすつもりだった。
女性には絶対に手をあげないと誓うフェミニストではない。女子供に手をあげて平然として笑える人種とも無縁でもあった。
必要とあれば、殴る事もまた然り、だ。
この場合、自分の幼馴染が、崇高な使命だとか、大儀だとかに盲信しているようであれば、殴ってでも止めてやるのが正しい選択だと思えた。
その結果、他の誰かが怪異の犠牲になっても一向に構いやしない。自分の知り合いが傷付くより全然マシだ。
息荒くした光琉に詰め寄られながら、小矢は少し曖昧な表情になった。
「誰かがしなくちゃならないじゃない」
「ンだよ、ソレは!」
吐き捨てた光琉が机に拳を落とし、室内を鈍い音が反響する。
長年の付き合いの中でここまで感情を露にする光琉は季夕にしても初めての事だったのだろう。
彼が机を叩いた瞬間、ビクリと肩を竦ませた。
それほどまでに、彼の表情は真剣だった。
激情を孕む光琉の視線に見据えられながら、小矢は少しだけ困ったように顔を俯かせる。
「でも・・・・でも、私、季夕も光琉も好きだから・・・・。
二人が普通に暮らせるようにしたいから・・・・。
だから・・・私がやらなきゃ・・・・」
そう言って彼女は二人に向けて微かに微笑んだ。
照れているようでも、やはり困っているようでもある笑顔を浮かべて。
これには流石に光琉も毒気を抜かれて唖然としてしまった。
まさか、こんな返答が返って来るとは露ほどにも予想していなかったに違いない。
「はぁ?」と場違いにも、気抜けした声音を思わず漏らしてしまいそうだった。
隣で座っている季夕も反応に詰まり、ただただ間抜けな顔になっている。
「でも、だからって、何でサヤが!?」
数秒の空白を縫って気を取り直した季夕が光琉の後に続いたが、それでも小矢を説得するのは無理だろう。
イスに座って傍観者となっている光琉の表情からは剣幕が消え、苦く崩れていた。
あぁ・・・コイツは、正真正銘の馬鹿なんだなぁ・・・
と、奇妙な感慨が、季夕と遣り取りする小矢を眺める光琉の胸中にふつふつと湧いた。
昔から何も変わっちゃいない。
一人で全部背負い込もうとして、危ない事も一人で引き受けて、それで友人を助けられればニッコリと笑っている。
「大丈夫? 怪我は無い?」・・・と。
怪我をしているのも、大丈夫じゃないのも、全部、お前の方だ、と、何度言ってきたか知れたものじゃない。
言っても聞かない性格なのだ、この幼馴染は。ただ困ったような笑顔を浮かべて「私は平気だから」とお決まりの台詞を言いやがる。
理屈ではないのだろう。無意識に身体が動くのだろう。親しい人間の危地には、殆ど反射的に飛び出す性質をしているのだろう。
傍で見ていると危なっかしい事極まりない。
自分は一体どうすればいいのか、何をすればいいのか。
答えは既に出ているように思われた。
最善は、一番良いと思える事を。
次は、二番目に良いと思える事を。
「サヤと一緒にやる。私も、一緒にやるよ」
その一言は、光琉の発した言葉ではなかった。親友の説得を断念した季夕の言葉だった。
数拍ほどの沈黙の後、光琉は苦笑した。彼と同じ結論に彼女も達したのを笑ったのである。
考える事は、似たり寄ったりだった。
「・・・だな」
短く応じ、頷く。
光琉の方へと顔を向けてきた季夕は苦みばしった笑みを噛み殺していた。
多分、光琉も似たような表情を浮かべている事だろう。
「何を言ってるの!? ダメだよ、そんなの!」
一番の反応を見せたのは、小矢である。
勢い良くベッドから身を乗り出させた少女に対し、だが、二人の幼馴染の反応は冷たい。
「何言ってんだ、お前。
その、“ダメな事”を止めろと言っても聞かないのはお前の方だろうが。
だから、俺達も付き合うんだぜ」
妙におどけた口調で光琉は嘯いた。
苦笑めいたものを口元に張り付かせていたが、表情から苦悩の影はなくなっている。
季夕も同じであった。
「そうよ。サヤが私達の事を心配してるのと同じくらい、私達もサヤの事が心配なの。
だから、一緒にやる。決めたの。もう、決めたのよ」
「だけど・・・・」
「私達を関わらせたくないんだったら、サヤもきっぱりと手を引いて。
それが出来ないのなら、私も・・・私達も一緒にやるから」
まるで自分の考えを代弁してもらっているようだ、と、季夕の台詞を聞く光琉は思った。
彼の視界の中で、親友にそこまで言われた小矢は無言のまま押し黙っている。
納得し切れてないのは、彼女の表情で一目瞭然だが、これ以上の言葉を重ねたところで光琉と季夕の言葉を裏返せるとは思ってないようだ。
拒絶の文句を紡げず、渋々ながらの不満顔で唇を引き結んでいた。
もしかしたら、自分は馬鹿なのかもしれない、度し難いお人好しなのかもしれない。
いや、多分、恐らく、間違いなく、自分は馬鹿な人種なのだろうと思う。
そんな疑念もあることはあった。光琉の中で皮肉屋の一面が現状に対し、冷ややかな眼差しを送っている。
好き好んで危険な場所に向かう人間と付き合う必要がどこにある? 自分自身も危険に晒されるんだぞ?
やめておけ。今ならまだ間に合う。
そう、皮肉屋の側面が耳元に囁きかけてくる。
だが、それでも、無関係を押し通すのは出来ないのだからしょうがない。
小矢一人に危険を押し付け、護られているだけは我慢できなくて、見て見ぬ振りも出来なくて、彼女だけが傷付くのも嫌で・・・
他に選びようが無い。仕方無い。そんな皮肉とは裏腹に、一人で考え悩んでいた時より、心は随分楽になっていた。
幼馴染一人を放って、冷たくなった彼女と霊安室で対面する、なんて、楽しくも無い未来を待つより、そうさせない為に自分が動く。
今日は、たまたまの偶然が重なって小矢を助ける事が出来たが、次も上手く行くとは限らない。
今回にしても、見つけるのが後数分遅れていたらどうなっていたか、想像するのさえ背筋に寒気が走る。
そうさせない為に、或いは、そうならない為に、彼女が一人で行動するのを禁じてしまえばよい。
最善は、一番良いと思える事を。次は、二番目に良いと思える事を、だ。
先ほどまでの張り詰めた空気は何処かへ散っていた。
肌を刺してくる重苦しい雰囲気よりも、こちらの方が彼等の性に合っている。
一番馴染んだリズムで、慣れ親しむステップを。
空気が和み始めると、途端に気が抜けてきた。
今まで堪えてきた疲労がどっと押し寄せ、波が引いた全身に睡魔が訪れる。
何故こんなに疲れているのだろう、との疑惑に思いを向けるよりも、とにかく眠りたい光琉だった。
頭の中では羊の群れが一匹一匹数を数えながら柵を跨いでいく。
一匹、二匹、三匹、四匹、五匹、六匹、七匹、八匹、九匹・・・・。
グラリと頭が揺れた。
そろそろ限界だ。瞼は今にも引っ付きそうで、細目を開けているのがやっとだ。
このままベッドに倒れ込めば、さぞかし深い眠りを久方ぶりに満喫できる予感さえ覚えた。
「何だか疲れたよ。先に休ませてもらっていいかな?」
欠伸を噛み殺してイスから重い腰を上げる。
今日は早々に抜けさせてもらって、詳しい話はまた明日にでもしてもらおうか、と、取り留めの無い思考で考える。
「じゃぁ、私も今日は帰るね」
と、光琉に釣られて立ち上がった季夕だったが、中腰のままでふと顎に指をやり、何やら思案気な顔を作った。
「ん・・・・やっぱり、今日はここに泊まるわ。久しぶりにサヤと一緒に寝たいし」
意識を取り戻した時に見せた小矢の取り乱し様を心配しての発言だろうが、屈託なく笑った彼女は、普段の凛とした雰囲気より子供っぽさが強く出ている。
「家から着替え取ってくる」と言った季夕は、光琉と一緒に、小矢を残して部屋から出ていった。
二人を背がドアに遮られて見えなくなるまで横目の視線を向けていた小矢は、一人になった室内で、喜びとは対極の影に表情を曇らせている。
ベッドに腰掛けた姿勢で、膝の上に置かれた両手にくっと力が入り握られる。愁眉となった顔付きは本来の明るさとは掛け離れていた。
「ダメだよ・・・・・」
ポツリと唇から零れた小さな呟きは誰の耳にも届かずに、室内の空気の中、拡散していく。
小矢は項垂れたように、顔を下げていた。
小矢の部屋を出た光琉はそのまま階段に向かおうとしたが、一緒に出た季夕は閉じたドアに背を凭れさせ、その場から動こうとはしないでいる。
背後から足音が無いのを訝しがり光琉が肩越しに振り返ると、ドアに背中を預けた格好の季夕は自分で自分を抱き締めるように、両腕を左右の肩に回している。
ひっそりと眉を寄せ、心持ち伏せ目がちになっている顔には、拭いようもない翳りが垂れていた。
「季夕?」
顔色を悪くした幼馴染に声を掛けた光琉だったが、彼女の肩の僅かながらの震えを見取った。
彼女はその震えを必死に抑えるようにして、自らの肩を抱き締めているのだ。
「サヤの前ではあんな事言ったけど・・・・やっぱり、怖いね・・・・」
光琉の視線を感じ、季夕は無理に笑顔を取り繕ったが笑顔と呼ぶには余りに固過ぎる表情だった。
ギュッと強く自分の身体を抱き締め、眼を瞑る。
「震えが止まらない・・・・・怖い・・・・怖いよ・・・・正直な気持ち・・・・・。
ホントは、もう二度とあんな事嫌・・・また、夢に見そうで・・・怖い・・・・。
でも・・・サヤ一人に任せておけない・・・あの娘一人放っておけないよ・・・・」
そう独白する季夕は、普段の気丈さも、凛とした強さも感じられない。
光琉の目の前にいる彼女は、儚く、弱い、一人の少女でしかなかった。
長年一緒にいて、初めて見た弱気な季夕に何と言っていいか躊躇われる。
だからといって、弱気になっている彼女を叱り付けることは、光琉には出来ない。
彼だって同じなのだ。出来るなら、あんなモノと二度と関わりたくない。
それが、嘘偽りのない本心。でも、幼馴染を放っておく事もできない。それもまた本音。
季夕の感じる不安も怯えも、光琉は手に取るように理解できた。同じ思いを抱いているから。
こんな時に相応しい言葉が浮かんでこない自分の無知を恨みながら、ただ、その肩に手を乗せた。
掌から彼女の震えが伝わってくる。それは怯えであり、恐怖。
肩に乗せられた光琉の右手の上に季夕の手がそっと乗せられる。
細く白い指にクッと力が入った。彼女の手が、光琉の手を握り締める。
「・・・ん。
・・・・・アリガト。もう、平気」
まだ些か弱い笑顔を見せた後、片手で自分の頬を叩い気合を入れる。
顔を上げた季夕の顔色はまだ多少精彩を欠いてはいたが、弱気さは消えて、凛とした雰囲気を取り戻しつつあった。
「覚悟、決めなきゃ―――――だね」
小走りに玄関まで行き、燕の機敏さでヒラリと階段を上がる途中の光琉に身体を向けての台詞。
少々無理に強がっている感は多分にもあったが、いかにも彼女らしい口調である。
「ああ。そうだな」
季夕の立ち直りの早さに感心しながら答えた光琉に、季夕はストレートの長い黒髪を片手で梳きながら笑う。
細い指先から零れた黒い絹糸一本一本が、照明に彩られて何とも言えない艶を放っていた。
幼馴染の馴染みの癖を、光琉は何だか実に久しぶりに見た気がする。
そして、彼女の持つ強さを、改めて肌で触れた思いだった。同時に、弱さも・・・。
自分でも良く解らない奇妙な感覚が湧き上がるのを感じ、肩を竦める。
長ったらしく考える気にもならなかった。
頭の芯から鉛を溶かしたスープの中にズッポリ浸されているかのように重く、細々と考えるのが出来る状態でないのだ。
何よりもまず眠い。身体が疲労しているだけだと思うが、それにしては、そこまで肉体を疲労させるような事はしていないつもりである。
それなのに、全身の筋肉が休息を求めている感は否めない。それに、脳髄まで憔悴し切っているような感覚はどういう訳だろうか。
背中に蝙蝠の羽を生やした小悪魔がケタケタと笑いながら頭上を飛び回り、眠りの園に誘う魔法の粉を撒き散らしているかのようだ。
考えるのも億劫になる。厄介な事は全部一纏めにして、頭の中から叩き出し、安眠を思う存分貪りたい。
幾分ふらつく足取りで踵を返し、階段を上ろうとする。
二歩分を上がったところで、不意に足を止め、クルリと反転した。
このまま部屋に向かって、ベッドに倒れ込む誘惑は抗い難いものであるが、小矢が少々心配であった。
寝る前に少しばかり様子を見ておこうという気になったのである。
鈍重な足を運ばせ、ドアの前に立つと控えめなノックを3回続けて鳴らす。
普段、小矢に用がある時は遠慮無しの手荒なノック音を響かせるのだが、流石に今夜は思慮に欠ける行動は慎んだ。
扉越しにノックに答える声が小さく聞こえ、ノブを捻ると室内に身体を滑り込ませた。
「なに?」
「いや、別に。ちょっと気になっただけだよ」
眠気を我慢しながら頼りない口調で答えると、ベッドに身を横たえる小矢から含ませるような笑声が流れた。
「心配性だね、光琉は」
「うるせーな。大人しくしてろよ、怪我人」
クスクスと小さく笑う声に、光琉は照れたように顔を背けると、不機嫌な口調を装って悪態を吐き出す。
それも僅かな時間の事であって、小矢が笑い声を収めるのと同じく、光琉も表情を改める。
2人とも、長く笑っていられるような心境にまではなっていないのである。
「今日は・・・ありがとね」
ぼんやりと天井を見上げながら、呟いた小矢。
何時ものノリが発揮されているなら、軽い調子で受け流し、適当な言葉を返していたかもしれないが、やはり、今夜はそんな気にもなれない。
「気にするな。無事で何よりだ。
・・・ったく、これからは、あんまり心配かけさせんなよ。あと、一人でムチャするんじゃねー。
今日みたいな事は二度とゴメンだ。心臓が止まるかと思ったぞ」
嘘偽りを一切含まない安堵の吐息を漏らす光琉は、子供を相手でもするように、伸ばした手で小矢の髪をクシャクシャっと撫でた。
寝汗を幾分吸って重くなった髪を少しばかり乱暴に描き回されるのに、首を微かに振って形だけの抵抗らしい仕草をしてみせる小矢。
だが、本気で嫌がっているのでもなく、汗臭い髪を触られるのが嫌なようであり、また、くすぐったく感じているようでもあった。
元々色素が薄く、黒と言うよりは黒色を帯びた赤黄色と言うべき小矢の髪。
撫でていた手をそのままにして、手櫛で髪を梳くすくように、さらさらと指の隙間に流していく。
柔らかく軽やかな髪質が指の間を通る感触は、それだけで心地良い。光琉はこの感触が好きだった。
昔から、小矢が熱を出したりする病気の時など、光琉が度々看病した事もあるのだ。
主に小矢の両親が他の予定があって、家に居ないときだが、そういう時は、良くこうしていたものだ。
夢現の中、熱に魘(うな)されている小矢の頭を優しく撫で上げる。懐かしく感慨深いに捕らわれる。
クルクルと、手触りの良い髪を指先に絡めるようにして遊んでいると、冷ややかに咎める視線が見上げてきた。
口を尖らせる小矢の眼差しに、光琉は冷や汗交じりに苦笑した。
「あ・・・いや、こうしているとなんだか懐かしくて」
眼を心持ち三角に吊り上げて睨んでくる小矢だったが、一頻り光琉の困惑した表情を眺めると、クスリと小さな笑みを零す。
そこでようやくからかわれたと気付く光琉である。だが、不思議と穏やかな気分だった。
「私が熱を出すと、良く傍にいてくれたものね。
・・・私もちょっと思い出してたよ」
告白でもするかのように、照れ臭げに呟いた小矢である。訳も無く気恥ずかしくなって、光琉は何とも言えないくすぐったさを味わう。
決して不快なものではありえない感覚が胸中に広がっていく。
懐かしさと、暖かさを感じさせる感覚は、まるで、穏やかな温もりを宿す夕暮れの残照を浴びているようでもあった。
あまり和んでいられるような状況ではなくなっている。
彼等はもう、あの時と同じ子供ではないのだ。そして、彼等を囲む世界も、普通のものとは違っている。
そうした事は誰よりも2人自身が理解していたに違いないが、少なくとも、この時だけは忘れたかったのかもしれない。
前後の状況はどうあれ、今この瞬間は、光琉も、小矢も、共通の思い出を通わせながら、懐かしい感傷に浸っていたのである。
「あんまり心配させるなよ・・・」
光琉の無意識の中から零れた言葉。
彼自らも全く意識していなかった言葉は、実に自然に呟き落とされた。
心の底から滲み出てきた本音は、このような場合でもなければ気恥ずかしくて到底言えないものだ。
追憶が育む懐かしさが、普段であれば言えないような言葉を自然と言わせたのだろうか。
言った後からそれに気付き、あけすけに本心を晒してしまった気恥ずかしさに襲われた光琉は、必死に理性を総動員させ、紅くなる頬を最小限に留めた。
「ん・・・・・」
どこかぽんやりとした声が返ってくる。
縁側で昼寝を楽しむ子猫の風情で、安心しきった感さえ感じさせるトロンとした表情の小矢。
その表情は光琉を頼れる男性として認めているのではなく、家族の一員・・・引いては兄代わりに見ているのではないだろうか。
果たして、小矢はどう見ているものか。不明瞭なものが多々あって、半瞬ほど、光琉の首を捻らせたが、考え込んだのはほんの僅かな時間でしかなかった。
どうでもよさそうな疑問に思えたのである。小矢にどう見られていようと、信頼されているのは確かなのだ。
家族の一員として認められているなら、それはいっそ喜ぶべき事ではないか。と、光琉は納得したのだった。
暫くして、玄関先から物音が響いてくる。
泊まる為に必要最低限の荷物を取りに戻った季夕が帰ってきたのだろう。
玄関から聞こえる様々な種の物音は、やがてスリッパの音に取って代わられる。
「ごめん。準備に思いの他手間取って」
ドアを開けた季夕の第一声である。
肩に担いでいたスポーツバッグをクッションの上に放り投げるといやに軽そうな音がした。
まぁ、泊まりとは言え、たった一日だけなのだ。荷物と言っても着替えくらいしか持って来ていないのだろう。
「んじゃ、後は任せたな」
「解ってるわよ、任せなさいって」
入ってきた季夕と入れ替わるようにして、光琉は椅子を立った。
抑えていた睡魔だが、いよいよもって我慢も限界だ。とっととベッドに潜り込まないと、廊下で倒れ込む羽目にもなりかねなかった。
異常なほどの眠気が全身を余す所無く侵食していた。最早、頭の先から爪先までずっぽりと睡魔の底無し沼にはまり込んでしまった感覚に包まれていた。
グズグズしていたら、所構わず崩れ落ち、そのまま朝まで高いびきをかいてしまいそうなほどの眠気に襲われ、光琉はさっさと小矢の部屋から退室していった。
一体何が原因でここまで疲労して、消耗しきっているのか不可解だった。皆目見当も付かない。
そもそもまともな思考力は既に忘却の落とし穴に叩き落されているのだから、不思議には思ってみても、何が原因であるかを考え込む気力も無かった。
何かに誘われるようにでも、フラフラとかなり危なっかしい足取りでベッドに向かう為、階段を上っていく。
自室に戻ると、一も二もなく、光琉は着替えもせずにベッドに倒れ込む。
重い。身体中が重い。瞼が馬鹿みたいに重かった。
開いているのが非常識であって、閉じ合わさっているのが通常なのだと詐欺師に言われても、今ならば信じてしまうかもしれない。
全身の血管に、血液ではなく溶かした鉛でも流れているかのように、血の巡りそのものも妙に重ったるく感じる。
一度ベッドに横になると、もう、腕を動かすのさえ酷く気だるい。何もかもが面倒になる。
意識を睡魔の侵食に任せ、瞼を閉じ合わせる。
眠りは、実に迅速に思考を蝕んできた。
ベッドに寝転がってから物の数分もしない内に、彼の思考は途切れる。
・・・・夢を、見た。
【第弐章・表 完】