第壱章・表/1
気だるさを誘う午後の陽気だった。
日差しはさして強くもなかったが、湿気を多く含んだ空気は蒸し暑さを醸し出している。
梅雨は終わりかけ、これから本格的な夏が到来する準備期間だろうか。
全開に開けた窓から全く心地良い風が入って来ない事に不満を覚えながら、
水城 光琉(みずしろ ひかる)は教卓の前で古文を解説する老教師の声をぼんやりと聞き流していた。
起伏のない日常は平穏ではあるがそれはそれで物足りない。
飽きた、と、一言の元へ蹴ってしまえるほど退屈してもいないのだが、満足とは程遠く、もう一味ほど変化が欲しいところ。
要するに、無い物強請り。
良く言われる考え無しの若い世代と一緒にされるのは不愉快だが、恐らく大人側から見れば自分も他の生徒も五十歩百歩なのだろう、
と、光琉は面白くもなさそうに自嘲する。
窓からグラウンドを覗くと、トラックを走る生徒の姿が見える。
そんなありふれた光景にノスタルジックを感じたり、感傷を抱くほど人生経験豊富でもないのに、
何故か、こうした平穏そのものの景色を見ていると、ふっ・・・と頭を過ぎるものがある。
――――――疎外感、とでも言うのだろうか。
自分の周囲にある現実が、水面に映った幻の虚像のように思える。
こちらから積極的に近寄らなければ確かに其処にあるのに、手を伸ばして掴もうとすればたちまち霧となって霧散してしまう。
掴めるのに掴めないような・・・
頼りの無い不確かなものとして感じてしまう。
其処にある景色。其処にある現実。確かに其処にある存在。目にも見え、触れる事も出来る。
なのに、何か違う。
切り取られた騙し絵からの略図を見せられているような奇妙で曖昧な感覚が付き纏ってどうしようもない。
それは半分が黒雲に隠された半月。欠けた三日月が月の真実であると誤認しているようなもので満月を知らない子供と同じ。
理論に囚われない“勘”のような感覚が違和感や疑問を感じるのだが、形式化された言葉で薄霧にも等しい薄弱な感触を説明するのは無理だった。
感覚的なものを説明するのに、言葉は余りにも表現する語句が少なく、不自由に過ぎた。
気付けば、毎日毎日同じ感覚を覚え、似たような事を考えている。
癖なのかもしれないが、認めてしまうと自分が年齢以上に老けている気がしてどうにも嫌だった。
そんあ事を考えている自分も何だかバカらしくて、結局は有耶無耶にする。
気にしてもしょうがない。
自分はもっと別のことができる、はずだ。
自分にはもっと相応しい場所がある、はずだ。
なんて事、きっと誰でも考えている、感じている。大なり小なりは。
真面目に考えるだけ、恥ずかしい。
光琉が何時もと同じ考え事に興じていると、授業終了を告げるチャイムが校舎に響いた。
机の上に広げていたノートや教科書と机の中に入れてある教科書類を一緒に鞄に詰め込む。
「帰る用意だけは速いんだよねぇ・・・光琉って。
普段からそれくらい動いてくれれば・・・ねぇ?」
手早く、そして乱暴に帰り支度を整えた光琉に幾分苦笑を含ませた快活な声が飛ぶ。
声の主も声と同じに快活な雰囲気で、苦笑を浮かべ立っていた。
「悪かったな、小矢。
どうせ俺はこんな事だけには機敏だよ」
「あらっ、自覚はあったのね。
だったら、改善する努力をしてみれば?」
「いいんだよ、俺はコレで」
「そうね。勤勉な光琉なんて光琉らしくないかもね」
少々不貞腐れた口調で光琉がぼやくと、小矢は何が面白いのか笑い声を噛み殺す。
クスクスと口元を綻ばせる小矢の様子に、光琉は「ちっ」と舌打ちした。
此花 小矢(このはな さや)。
男子であれ女子であれ、決まったメンバーと群れる事のない光琉にとって彼女は数少ない既定のメンバーの一人である。
同時に、居候先の同居人でもあった。
とある事情から一つ屋根に住み、幼少時からの幼馴染の一人で、狭い街では選り好みできるほど学校の数もなく、
光琉と小矢は小学校、中学校と共にし、同じ高校まで進み、クラスメイトでもある。
線の細い体躯は華奢な体付きで一見すると病弱そうにも思えるのだが、身体が弱くもない。
成長が遅れがちな身体とは反対に温厚な性格で大人っぽく、柔らかな笑みが良く似合い、男女両方から人気も高い。
光琉の両親は幼い時に死別した。いや、正確に言うなら、彼がまだ赤子同然の頃、父と母が仲違いし離婚したそうだ。
そのまま母親とは生別となり、数年を待たずに父は他界した。病死であったと聞かされている。
両方の親を亡くしてからと言うもの、光琉は親戚縁者の家を点々とし、ある時は施設などにも入れられた経験もある。
過去はそうらしいが、本人には皆無と言って良いほど当時の記憶は覚えてない。
何しろ、物心が付く以前の事なのだから仕方ないが、これはこれで幸せなのだろう。
記憶に残っていたところで、ろくでもない思い出に違いないのだから。
記憶の無い幼少期が過ぎて、小学校の低学年に上がった時からは、代々神宮を務める此花家に引き取られ、小矢の家の居候となった。
光琉の水城家と小矢の此花家は遠縁の親戚らしく、両親たちの間に親しい交流が合ったらしい。
親同士の交流は親同士の間だけで、光琉自身に覚えはない。
幼い頃の記憶過ぎて、あったとしても覚えてないだけかもしれないが、小矢や、彼女の妹である瑠香とは、此花家に引き取られて、初めて面識を持ったようなものだ。
此花という名前も、引き取られる時、殆ど初めて聞いたようなものだった。
光琉の覚えている限り、小矢の両親に関する記憶は僅かしかない。
かなり仕事の忙しい人達だったようで、そう何度も顔をあわせ、対面した記憶が無かった。
優しそうな顔をしていた、と、印象としてはその程度だった。
別に小矢の両親が苦手であったり、嫌いな訳ではなく、個人的には好感を持っていたといっても差し支えがない。
父親の方は、眼鏡をかけ、知的な雰囲気を漂わせる顔には常に微笑みが浮かび、色白でどこか頼りなかったと思う。
妻には頭が上がらなかったようで、何かと尻に敷かれていたような気がする。
穏やかな人柄で頼り無さそうな旦那とは反対に、人を引っ張るだけのリーダーシップを持った頼りがいのある奥さんだったので、バランスは丁度いいのだろう。
光琉にとって親といえば、小矢の両親を指す。
本当の親の顔などろくに覚えていない。優しさだとか暖かさに包まれた麗しい記憶もない。
そのようなものを覚える前に早々と他界してしまったのだから。
顔のない絵画、その辺りが本当の両親に持つ光琉の感想だった。
姿形の解らない実の両親より、現実の記憶として残り、穏やかに接してくれた小矢の父と母が彼にとっての両親であった。
だが、今から二年前になる。小矢の父親が亡くなった。事故死であった。
二年前の春、姉妹を祖母に預け、母親の海外転勤が決まり、それに合わせた結婚記念日に海外旅行に出掛けた先で交通事故にあって他界した。
小矢の父親が他界し、母親はそのまま海外――どこの国に転勤になったかは光琉は聞いていない――に移住し、
今では神社とそれに連なる広い自宅に此花 小矢、瑠香、水城 光琉の三人だけで暮らしている。
そのような事情から、光琉にとって何かと気心の知れた馴染み深い知り合いの一人であり、家族の一員となった。
「でも、もう少しやる気のあるところを見せれば、先生達からの評判も上がると思うよ?
なんなら、活力が出るお守り、あげようか?」
邪気のない顔で笑う小矢を見ながら、また始まった、と光琉は内心小さな溜息を付く。
光琉が見るところ、何かと世話焼きで可愛い幼馴染という、
世の男性諸氏からすれば理想を体現しているかもしれない小矢ではあるが、オカルティックな趣味は勘弁して欲しいところだ。
かなり小さな頃から、所謂「心霊」関係に興味を持っていた彼女は年を重ねるごとに知識の造詣を深め、今ではお守りやらお札なんかの類いまで網羅している。
「幸運を呼ぶお呪い」だとか、「金運が上がるお守り」だとか、「快眠できるお札」だとか、小中学生が好きそうな知識が豊富で、実際に自分で作る領域まで来ている。
しかも、それが中々効果あるらしく、良く女子生徒からお願いされている光景を光琉も見た覚えがある。
最初は寝不足や不運続きのクラスメイトの悩み事を聞き、それで気休め程度にお守りを渡したら、本当に効果があったそうだ。
それが口コミ広がり、ほぼ全学年に行き渡り、身体の不調や金運以外にも恋愛運、運気上昇、美容などといったお守りまで頼まれるようになっていた。
下は最下級生から、上は最上級生を飛び越え、女性教師まで、小矢印のお守りやお札は好評である。
尤も、お守りをもっている時に幸運に出会えば、お守りのお蔭だと考えるだろうし、
お守りを持っていながら不運に当たれば、お守りがあったからこの程度で済んだ、と、そう思うだろう。
実際、そのお守りが本当に効果があるかどうかなんて解りはしない。
ただ、それを持つ事によって多少でも心にゆとりが生まれ、物事に対して少しでも余裕のある態度で臨めはするだろう。
冷静な思考は余裕のある時に生まれる。ゆとりをもって対処した結果、良い方向に物事が向かう。
結局、大半の運勢など自分の手で変えられるのだ。お札やお守りなど、その為の小道具に過ぎない。
そんな考えを持つ光琉は、お守りの類いは必要だと思った事は一度もない。
所詮気休めなら、あってもなくても同じ事。
第一彼は、余計なものはアクセサリーから腕時計に至るまで一つも持ち歩きたくない性分だった。
時折、小矢が「夢見が良くなるお札」、「健康運が上昇するお守り」などを用意してくるが、苦笑するだけで受け取った事は一度もない。
「いらねぇよ。
だいたい、紙切れ一枚で簡単に人の性格や運気が変わるかっての」
「ん・・・まっ、確かに気休め程度だけどね。
それに、光琉のズボラがそう簡単に変わるはず無いとは私も思うよ。筋金入りだし」
と、無邪気にもニッコリ笑う幼馴染の笑顔に、「いい度胸だ」と怒った素振りを見せつつ苦笑した光琉であった。
「全くだね。
勤勉なヒカルなんて薄気味の悪い。
このだらしない性格が変わったら、その日が人類最後の日になるかもしれないな」
「・・・ヲイ」
痛烈な言葉が背後から飛び込んでくる。
水晶の鐘が響くような透き通る声ではあったが、容赦のない言葉が飛んで頭痛を覚えてしまった光琉である。
後ろを振り向かなくても声の主が誰だか解るだけに、指を額に添えて頭痛を耐える仕草さえしてみせる。
しかし、向こうからの態度はそれで優しくなりはしなかった。
「なに? 真実を指摘されて頭が痛くなった?
だったらもう少し生活態度を改める事だね。
そうすれば私も見直してあげるし」
殊更冷たく指摘されるのと同時に、小さく鼻で笑われる。
ストレートの長い髪を細い指で梳かすと艶のある髪が光沢のウェーブを作り出す。
この仕草は彼女の癖だった。
相手の手酷い対応は光琉の予期していたところであったが、待ち受けるのに準備不足であったらしく咄嗟には言い返す事ができずにいた。
何とか上手い文句を考えて切り返してやろうと思うものの、どうやら今日は創作の思考野が休日に入っているようで独創性が品切れ状態にある。
結局、この日は素直に負けを認める事にした。
「悪かった、悪かった。
しかし・・・直そうと思っても簡単には直らないよ、この歳じゃな」
「かもね」と軽く同意しながら唇を綻ばしたのは、御岳 季夕(みたけ きゆう)。光琉のもう一人の幼馴染である。
小矢とは対照的なまでに大人びていて、容姿もスラリとした男子並の長身。
陸上部に籍を置き、有力な短距離ランナーで校内の記録保持者でもあった。
無駄な脂肪の一切ない身体は、小矢とは違う意味で細く引き締まっている。
綺麗に整った顔立ちは、ややきつめで何事に対しても物怖じせず、それに伴って性格も甘くは無かった。
甘くはないが責任感があり、実行力に富み、決断力にも優れているので昔から何かと人から頼られる事多々である。
そうした性格などからなる内的要因と容姿や雰囲気からなる外的要因が合わさって、
下級女子生徒からの人気は高く、また、男子生徒の中でも憧れている生徒は多いらしい。
「不貞腐れしなくてもいいわよ、別に。
子供の頃からの付き合いだからね、私やサヤは慣れてるわよ、ヒカルのズボラさには。
だから、無理に矯正する必要もないから安心して」
季夕の言葉は、フォローを入れたのか容易に判断できないものであった。
悪くは言われてない気がするが、ただ、光琉より繊細な心の持ち主が聞けばフォローの形を真似た揶揄だと思うかもしれない。
実際はフォローか揶揄か、どちらかであるかはこの際どうでもいい事なのだ。
発言者である季夕は悪意とは程遠く、清冽な、という表現が似合う人柄なのだから。
「だろうな。
まっ、俺も今更自分の性格を改める気にもならないから、その言葉は有難く受け取っておく事にするよ」
「そうそう、素直にそうしなさい。
ついでに私の優しい心遣いにも感謝してね」
冗談めかした口調で季夕はクスリと可笑しそうに笑った。
時々見せる季夕の裏表のない笑みは、清冽さをそのままに、きつさだけを取り除いたようなものだった。
水鏡を思わせる澄み切った清流の水面に春の日差しが反射して、飛沫一滴一滴さえも光の微粒子となって煌く光景を想像させる。
季夕が浮かべる屈託のない微笑は、長年一緒にいる光琉でさえもそれほど多く見た記憶がないものである。
幼馴染でさえ見慣れていない微笑なのだ、他の男子生徒にとっては希少価値がありすぎる笑顔であった。
ただ、見せる相手を選ぶようで、数人の仲の良い女子以外でも滅多に表裏のない笑顔は浮かべない。
男子に限っては殆ど皆無に等しい。光琉と小矢だけは別格なのだ。
「季夕、これから部活?」
「ん。そうだよ」
くるりと機敏な燕のように踵を返して、季夕は横に来た小矢に向き直る。
155cmの小矢と163cmの季夕では8cmの身長差があるので仲良く並んで会話している様子など、先輩後輩の間柄に見えない事もない。
更に突っ込んで言えば、それほど歳の違わない姉妹だといっても誰も不思議には思わないだろう。
顔立ちは似ていないのだが、姉妹と勘違いされるくらいに二人の仲は良かったので仕方がない。
余談だが、身長を見れば一歳二歳しか違わない姉妹であり、容姿を見れば三歳は離れた姉妹になると、光琉は言う。
なんにしても対照的な二人だ。特に外見は全く異なっている。
小矢は、可愛い、との表現が似合う容姿で、逆に季夕は、綺麗、と呼べる容貌をしている。
長年二人を一番傍で見続けてきた光琉であっても、窓際に立ち、初夏の夕日をバックにしている光景など見ると見惚れてしまう事もある。
著名な画家が描いた人物画を鑑賞するよりも魅力のある女性を眺めた方が余程有意義に違いない。
などと、流石に二人を前にしては口が裂けても言えない事であるが。
にわかに光琉と彼以外の生徒の胸に芸術を愛でる心を植えつけた二人の少女達は、
映画のワンシーンの洒落た会話ではなく、一学生そのままの平凡な会話に興じている。
「部活動も大変ね。
でも無理しないでね、季夕」
「解ってるよ。
大会も近いからね、無理はしないよ。
にしても、相変わらず心配性ねだな、サヤは」
軽く肩を叩き、片目を瞑ってみせる季夕。
付き合いが長いせいか、季夕にしても、小矢にしても、互いの傍が一番落ち着くようで、学校の内外を問わず良く二人一緒に行動しているようである。
たまにその中に光琉も混じる事もあったりするが、やはり子供の頃のようにそう何度も一緒に遊ぶ事は少なくなってしまった。
それでも基本的に関係は変わっておらず、十年以上も仲が良い状態を維持していられるのは世間一般的に見れば、珍しい事なのかもしれない。
光琉以外の男子生徒からすれば、学年の華と言える二人と知り合いであるだけでなく、
休日も貴重な資源を彼が独占している現場を見ればそれこそ過剰に沸騰した怒りの所為で脳の重要な血管が切れかねないのであった。
ただでさえ男子からの嫉視の針で背筋がチクチクと痛むのである。
これ以上敵を作りたくもないし、余計な恨みを背負い込むのもしたくなかった。
平穏無事な、などは望まないが、必要以上に波風が立ち、波乱な学校生活など遠慮したい光琉だったが、さて、彼の悩みの原因を作っている彼女達がどうするか。
しかし、実際には、本気で彼に悪意からちょっかいを出してくる生徒はいないだろう。
過去、体育で柔道の授業の一貫として試合が行われた。彼の相手は現役も現役のレスリング部員。
誰もが光琉の不運を慰めたが、試合開始の掛け声から30秒で観戦者の予想は大きく外れることとなった。
プロの試合を録画したビデオでもこれほどのものがあるかどうか、というほどに実に綺麗な払い腰を決めた。
投げられた現役レスリング部員は、余りに綺麗に投げられた為、
自分が「投げられた」という事にも気付かず、受身なしでマットに叩き付けられて昏倒してしまったほどだった。
大の字になって無様にも気絶する若手最有力の格闘部部員と、汗一つ掻かず、呼吸一つ乱さずにいる模範的帰宅部部員。
その光景は、それを見る人間の思考を一瞬白紙にするには充分だった。二人の立場が逆なら違和感なく受け入れられる映像だったのだろうが。
現役の格闘部部員が、相手を運動部にすら所属していないどが付くほどの素人だと思い油断していた。決して実力だけの結果ではない。
と、観戦者達は自分を納得させた。納得するしかなかったのかもしれない。
実際には、運に寄るものが大きかったのか、真実、掛値なしの実力の差であったのか、当人も解っていない、というより、関心が無いので追求していなかった。
ただ、どれほどの偶然と幸運が重なっても、長年蓄積された経験の差がそう簡単に埋まるものではない。
幸運は幸運として別にしても、光琉自身が平均より高い身体能力を有していると考えるのが自明であったし、
その後行われた身体能力テストでも裏付けるだけの結果が出ていた。
現役レギュラー格闘部員と闘える帰宅部主将、なるキャッチフレーズはクラスメイトの一人が言い始めたものであったが、今では学年中に広がっている。
些か事実を誇張してはいるが、決して虚構ではなく、事実、身体能力テスト後には各運動部からの勧誘が幾つも来たのであった。
そうした身の回りの騒がしさも、今となっては結構昔の事でしかない。
結局、光琉はどこの勧誘にも乗らず、プラプラと悠々自適な帰宅部の部活動に精を出して励んでいる。
にしても、背中や首筋に感じるチクチクとした嫉視の針は痛い。
進んで周囲に敵を作りたいと願う特殊な性癖とは光琉は無縁であったから、あまり歓迎できる状態ではなかった。
一度気にすると、悪寒さえも感じてしまう。
さっさと会話を打ち切らして、学年の華を独占する状況から離れた方が良さそうである。
・・・無論、二人が会話を打ち切らせてくれれば、だが。
何も言わずにこの場から退散すると後が怖い。そこまでの勇気は、彼にはなかった。
「大会が終わったら三人で遊びに行こうよ」
「それいいね。ね、光琉。
季夕の都合の良い日に合わせるから、空いてる日が解ったら教えてね。
光琉もその日は遅刻したり忘れたりしないように」
「ぐあ・・・」
思った傍から物の見事に撃沈されてしまった。
掌の中に蒼褪めた顔を隠した彼は低く呻いていた。
予測通り、教室内に居残っていた男子生徒から冷ややかな視線が背中に集中砲火となって突き刺さっている。
半ばやっかみだと解っていても、十数人分の無形の矢で首筋がチリチリ痛みだし、軽い眩暈を覚えてしまいそうだ。
小矢も季夕も、解っていながら面白がってやっているのか、それとも、完全に素の状態で言っているのか微妙なところだった。
額に指を当てる光琉は考えたが、どうにも結論が出せずじまいのようである。
両方とも解っていながら言っている場合も、片方は天然な場合も、両方とも天然って事も十二分に有り得るのだから。
二人の性格の中でこうした部分に関わることだけは、未だ熟知するに至ってない光琉であった。
「ん? どうしたの、ヒカル。顔色悪いよ?」
「えっ? 病気? 大丈夫?」
「もういい。俺に振るな。黙っていてくれ。マジで」
一人はニヤリ顔で、一人は演技か素か判断しがたい表情で、それぞれに光琉の方を向いて来る。
そこはかとない悪意の臭い嗅いでいる光琉は、二人の視線を当てられながら、そろそろ真面目に帰りたくなってきていたりもする。
これ以上自分の社会的地位を危うくする会話に付き合いたくないのが、彼の本音であった。
次の日登校してきたら、自分の机が無くなってました、なんて状況は、シャレにもならない。
「あっと・・・遊びすぎちゃったな。そろそろ部活にいかないと」
「あっ、ホント。私も用事が・・・・」
ふと時間を思い出した季夕が自分の机から鞄とバッグを掴み上げ、小矢も鞄を取る。
「んじゃね」
暇潰しを堪能したらしい季夕が憎たらしいほどの微笑みを浮かべ、手を振った。
当然というべきか陸上部期待の部員。帰宅部に徹する光琉とは違い、真面目に部活動に打ち込んでいるようだ。
季夕と同時に小矢も微笑んで別れを告げるのだが、部活には所属していない。それなのに、こうやって時間を気にする事もしばしば。
昼休みや放課後など、ふらりと一人で何処かへ消えるのである。
彼女に関しては昔から光琉でも解らない事が多々あり、時折の消息不明も彼が認定する「小矢七不思議」の一つに数えられている。
やっと解放された光琉はごっそりと疲れた表情で、肺が空っぽになるくらい盛大な溜息を吐き出した。
「あ〜、カバン忘れた〜」
光琉が教室から出ようとした矢先、見送った筈の小矢が半べそかきながら戻ってきた。
パタパタと小走りに教室の中に飛び込んでカバンを探す幼馴染の姿に、光琉は「はぁ」と聞こえないような小さな溜息を付くのであった。
小さい頃から装備している彼女の天然振りは高校生になった今でも健在であるようだった。
靴を履き替え玄関を出れば、渡り廊下まで聞こえて来た運動部の掛け声が煩いほど耳に飛び込んでくる。
遠くの街並みで、夕日はビルとビルの狭間に落ち込みながら金色の線を彼方まで引き伸ばし、柔らかな黄昏に全てが塗り替えられていく。
柔らかい色彩に眼を細め、一つの色に染まっていく人工物の海を仰ぎ見た。
午後の黄昏とでも言えるこの時間帯は、光琉にとってお気に入りの一つである。
空も大地も人も建物も何もかもがたった一つの色に溶け、隔たりを失くす僅かな時間。暫く経てば宵闇が迫り、夕暮れも色を深める。
「逢う魔が時」と呼ばれた時間が音も無く忍び寄り、入れ替わるまでのほんの一時。
意識して目をやらなければ、気付かない間に過ぎ去っているであろう時間ではあるが、この短い一時を、光琉は好きだった。
何故かとても優しい時間に感じて・・・
街の中心部からは離れた場所に高校が建っている為、帰路についてもそれほど多くの人間を見掛けはしない。
道すがら同じ制服を着た生徒を数人ちらほらと見つけれる程度。
そもそもこの街が高層建築物とは無縁であり、今も自然が割りと多く残っている。
風光明媚と言えば聞こえは良いが、そこまで壮観な眺めも無い。単に時間の本流から少々外れた小さな町でしかなかった。
更に、光琉の居候先である此花家は小高い山の上にある神社。
かなり古くから続いていると聞くが、一体何を奉っているのか知らない。
境内と森を合わせた敷地面積は広い方だろうが、何分古い。
しかも登下校の際に坂を越えなければいけないのがどうにも面倒であった。
とは言うものの、面倒ではあるが気に入っている部分もある。
街の中心から離れている所為もあり静かなのだ。
夜ともなれば車の通行音一つ聞こえない。
騒音が苦手を通り越し大嫌いな光琉にとって、静寂に包まれた家屋は実に好ましいものだった。
30分ほど歩けば、なだからな坂道が続き、その上に雑木林が広がる。
閑散とした林。
ここから住宅は極端に少なくなり、人と擦れ違う事さえ滅多に無い。
木々の緑が多く締める区域の中、此花の白城神社と、他数軒があるだけだ。
坂の途中、光琉の脚は動きを止めた。
頭の奥で何かがチリチリ燻っている。
耳鳴り似た音が「キィィ・・ン」と脳裏の地平にまで長く尾を引いている。
不快ではないが奇妙な音。酷く神経を絡め取る音。
耳を塞いでもその音は消えない。
耳鳴りは、頭の内側に直接響いていた。
時折、あるのだ。この感じ。
幼い子供の時から、何度か覚えがある。
小さい頃の方が今より明確に感じられた気がするが定かではない。
どうせすぐに掻き消える違和感だ。
短くて十数秒、長くても数分以内には頭の中から跡形も残さずに消える。
そう・・・・何時もなら。
耳鳴りも、脳裏にちらつく奇妙な感覚も、神経網にこびり付いて離れない。
キリキリキリキリキリキリキリキリキリキリキリキリキリキリキリキリキリキリキリキリ・・・・
小さな、小さな蟲達が頭の内側で蠢いているような感じ。
フラリ・・・と、光琉の足が動いた。
特殊な匂いに誘われる羽虫ように。
抗えぬモノに引き寄せられてフラリフラリ歩を進めていく。
坂道を登り、脇の小道に入る。
石の歩道に雑多な木々が作るトンネルを抜ければ、割と開けた空間が広がる。
木々の間を刳り貫いて作られたようなドーム状の空間。
「つっ・・!」
一歩足を踏み入れた瞬間、軽く弾ける感覚と共に、光琉の耳元で「パシリッ」と火花散る音が鳴った。
肌の表面にも静電気のようなものが走るが半瞬もしない内に痺れは消えていた。
首を傾げつつも、足を更に踏み入れていく。
夕闇が送る金色にたゆる光の帯を排し、包み隠された空間は、陰鬱なヴェールを下ろして薄暗よりも尚昏い空気に沈んでいた。
深く鬱葱と生い茂り、至る場所に伸ばされる枝葉の碧は、その濃度とこの時刻によって濃い灰色か濁った黒にさえ見え、
黒々とした天蓋となって辺りに立ち籠める空気にうそ寒いものを加えている。
無論、それは感覚的なものだ。
天然の天蓋で日差しが遮られているとは言え、初夏の気温で汗ばみこそすれ、本当に肌寒い訳はないのだから。
薄ら寒い気はするものの、それだけだった。
普通よりも確かに日光量は少ないが、だからと言って恐怖感を煽られはしないし、心胆が冷えたなんて事もない。
未開未踏の森でもなければ、異界魔境の地でもない。
近所の雑木林。
見渡してみても別段注目する何物もありはしなかった。
なのに依然として耳鳴りは続き、脳裏では奇妙な感覚がちらついていた。
釈然としないものを抱えつつ、来た道を戻ろうとした光琉の身体がピタリと止まる。
視線を走らせる乱立した木々の向こうに、幹を縫うようにして黒い塊が蠢いていた。
背筋が氷の腕に愛撫され、脊椎の中を氷が駆け上がってくるようだ。精神的な寒気で光琉は身震いした。
無意識に強張る身体。だが、良く良く目を凝らして見れば近寄ってくる塊は犬のようだった。
「なんだ・・・」
喉から滑り落ちる安堵の溜息。過敏に反応し過ぎた自分が小心者に思えて恥ずかしくもあった。
こちらに寄ってくる犬の毛は点々と紅く染まっている。
傷を負っているようだが体毛を濡らす血の量から考えるに、それほど深くはないだろう。
犬に向けられている光琉の視線に、犬から向けられる視線が重なった。
何処にでも見かける雑種の犬は、目線の先に見える人間を警戒してか動きを止めてじっと見つめていた。
奇妙な対峙の膠着は、すぐに消え失せる。
傷の所為で凶暴性が増しているのであろう犬は「グルル・・・」と喉鳴りを唸らせ攻撃態勢に入る。
咄嗟に周囲に視線と焦りを撒き、光琉は武器になるような物を探した。
そう都合よく手頃な物が落ちている筈もない。見渡した視界の中、確認できた物は朽ち掛けた木の枝と石コロ程度だけだ。
それでも何も無いよりはマシと、枝の一本を手にした。
太くはないが長さがあり、柔軟性を失ってはおらず、さながら釣竿のように先端部をしならせる。
鞭と同じ使い方で攻撃できるかもしれない、と、期待したのだ。
甲高く枝をしならせながら大地や樹木を叩き音と土埃で威嚇するのだったが、犬は図太い神経の持ち主らしい。
木々や地面を打ち付ける音に対して犬は怯んだ様子もない。
光琉の威嚇を全く気にした様子もなかった。
「グルル・・・」
短く喉を鳴らせた。大きくはなかったが腹に響く唸りを合図でもするかにして犬が飛び掛ってくる。
牙を剥き噛み付こうとする犬に対し、光琉は手にする枝切れを縦に振り下ろす。
犬の対応は、飛び掛かる前に光琉の行動を予め予期していたとしか思えなかった。
脚力を抑えての飛び込みで、枝の先端がしたたかに地面を打った手前で着地した。
引き戻される前の枝に噛み付き、光琉の手元から引っ手繰る。
咥えた枝を彼方に放り捨てると、素手になった光琉へと改めて向き直る。
―――――違う。
一つ、鼓動が高鳴った。
犬からの視線を一身に受ける光琉の脳裏で奇妙な感覚は強くなってきている。
無意識の緊張は徐々に身体を締め付けてきて、筋肉にも過剰の力が込められる。
じっとり汗が滲む肌とは裏腹に思考には冷えた空気が流れ込んできた。
――――違う。
鼓動が焼け付くほどに痛く脈打ち、脳裏では相変わらず嫌な警告音が合唱していた。
犬から視線を離したいのに、視神経は最早制御から外れて独自に動いているように固定されて動かせなかった。
―――違う。
何の感情も覗えない、或いは、何を考えているか解らない黒く澄んだ犬の瞳。
だけど、警告音は確実に犬に反応して音量を増していた。
――違う。
頭の片隅で自分の声が危険信号となって響く。
直後、怪異は突然にして起こった。
静かな視線を送ってきた犬の表情に人間臭さが混じり、牙を生やす口が「ニヤリ」と裂けるかにしてイヤらしく笑ったのだ。
―――コレは犬だけど、犬じゃない。
光琉の脳裏で、何か、閃光に似たモノが脳裏を駆けた。
――コレは―――別のモノだ。