(序章)
――――夜。
黒漆を幾重にも塗り重ねた艶やかな夜。
星の輝きもなりを潜め、月も厚い雲に隠れ闇夜のスクリーンから消えている。
深窓の皇女の静謐さと清楚さを携えた夜を邪魔する無粋な輝きは、人が生んだ人口の灯火だけであった。
混じりっ気のない黒の中に、点々と小さな灯火が鬼火のように浮かぶ。
街灯や24時間営業のコンビニから洩れる明かり。
それ以外に目立つ照明はない。
田舎と呼べるほど自然は多くないが、都会と言えるほどには開発されてもいない。
どこにでもあるような少し寂れた感のある街並みだった。
人気も疎らな街路の中に、一人の男は駆けていた。
「はぁはぁはぁ・・・・・」
息遣い。忙しない呼吸。
黒い夜に溶け、聞こえる音。
黒い海に飽和し、音は波紋となって輪を広げる。
「はぁはぁあはぁははぁはぁはぁ・・・・」
半ば狂乱を感じさせるほど激しい呼吸は何処か嬉々としているようにも聞こえたが、実際に楽しめる状況は分子単位もありはしない。
精神のバランスは均衡を欠き、表情と感情は最早同一ではないようで、常軌を逸した呼吸運動が笑声を孕む声に聞こえているだけだった。
狂った笑い声にも聞こえる呼吸音を響かせ、男は風体も乱したまま走り回る。
時折、横切った男を振り返る通行人がいたが、狂人を見る蔑みの視線だけを投げ、すぐに前を向いて歩き出す。
路上で屯している若者達のグループも、走り逃げていく男の後姿を見送っては、あからさまな侮蔑の会話を重ねていた。
精神病院から、患者が一人脱走したのだろう、と、彼等はそう認識するところだろう。
深夜の脱走劇。慣れるほどに起こることでないが、別に目新しい出来事でもない。
寝苦しい初夏を迎えた病室で、外気を取り込もうと看護婦が開けた窓から逃げ出し、街中を彷徨っている患者を見ることも時折ある事なのだ。
自分達が夜の住人だと思っている若者達と、連日のように飲み歩くサラリーマン達にとって、それは夏の夜を飾る風物詩のようなものだ。
風体を乱れに乱したままに走り去る男の背中に、
あぁ、またどこぞの病院から狂人が逃げ出したな、くらいの感想しか持ち得なかった。
逃げ惑う男が、必死に背後を気にする素振りを見せるのも、追って来る警備員を恐れてのことだろう、
と、彼等は結論付けては、薄気味悪そうな視線を男の姿から逸らすのである。
「はぁあぁはぁはぁはあぁ・・はぁはぁあははあぁ・・・」
背後を仕切りに気にした様子で、肩越しに振り向こうかと顔を動かしてはすぐに前へ戻す。
その繰り返し。
確かな怯えがあった。男の表情に、眼に、それはありありと浮かんでいる。
両手をばたつかせ、だらしなく開かれた口は酸素を求めて、逃げる。
背後から来る、何か、から。
「はぁあはぁはぁあはぁはあぁは・・・」
何か、と言うのは正しくなかった。
この男は、自分を追うモノの正体を知っている。
だからこそ、ここまで取り乱し逃げ惑っているのだ。
気配が、頭のすぐ後ろから感じるようだ。
振り返れば、背後にいる。
氷塊の冷気漂わせる瞳で見据え、昏黒と染まる黒い手を伸ばしているに違いない。
そんな恐怖が脳裏にこびり付いて、振り返る事もできない。
例えようもない恐怖と圧迫感。
とにかくも逃げなければという強迫観念。
一時でも後ろを振り向けない。
振り返れば追いつかれる。
ヒタヒタと何処からともなく聞こえてくる足音が、恐怖感によって生み出された幻聴なのか、現実の音なのかすら判断できない。
ただ、精神の最奥から這いずり上がる根源的な恐怖に突き動かされ、逃げる。
駆け出す足が路上の空き缶を不用意に蹴り上げた。
アルミ缶が転がっていく甲高い音にすら、男は「ひっ」と呼吸を凍らせ脅えた。
身体を竦ませながら、反射的に大地を蹴り付け、塀の上に飛び上がり、更に屋根を越えていく。
さながら身軽なカモシカのように、2mのブロック塀を一飛びでまたぎ、連なる家々のスペースも越えてみせる。
男の能力は、“人”と言う種を超越していた。外見だけ見ればとても人並み外れた能力など持ち合わせていそうもない長身痩躯。
針金を思わせる細い胴。蜘蛛を連想させる細長い手足、不健康そのものの青白い顔。
この身体の何処にそれだけのバネや力が秘められているものか、と、疑問に思うほどだ。
三つのアパート棟を飛び渡り、高所に張り巡らされた電線すらも踏み台にして、影は中空に跳ねた。
20秒ほどで3区画ほど飛び越え、人気の無い路地裏にまで逃げ果せた足を止める。
素早く周囲に険しい視線を走らせて、人の有無の確認を急ぐ。視覚に、聴覚に神経を張り巡らせる。
人の姿はおろか、足音一つも聞こえない。
どうやら、彼の近くには他の人間は一人もいないようだった。
壁に背を寄せ、その場に座り込んだ直後、どっと疲労が襲い掛かり全身を鉛に変える。
頭上では電球の切れた街灯が薄暗い明暗を繰り返し、世界の陰影を浮き彫りにしていた。
今夜は空に月など見えず、街灯の明かりが消えると陰鬱とした闇だけが世界を形成する主要素となろう。
「はっ・・・はっ・・・はっ・・・」
肩で忙しなく呼吸しながら、ふと、蹲った男が顔を上げる。
視界の端に、何かの影が揺らいだような気がした。
確認する前に、街灯の明かりは途切れ、夜色のヴェールが周囲に垂れた。
僅かにではあるが、ようやく荒かった呼吸も静まってきて、次から次へと流れていた汗の勢いも弱まる。
嘆息にも似た長い呼気を一つ吐き出すと、余剰加熱気味だった精神状態も落ち着きを取り戻した。
頭上の街灯がジジッと電気特有の言い草で明かりを回復させ、視界を覆っていた暗幕を剥ぎ取っていく。
瞬間、男の呼吸は瞬間にして氷結した。
「あっ・・・」
喉に転がり落ちた茨の飴を吐き出す思いで一言を口から外に押し出す。
少しは収まってきた汗が堤防を決壊させ一気に噴き出してきて、背中と首筋に冷たい滝を作る。
左右に揺れ動く瞳孔。血走った眼に映るのは、T字になった路地の一角から見えた黒い影法師―――若い男の人影だった。
上下を黒で整えた服装。布地に身体の殆どは隠れ、だが、露出する首や顔と言った肌は抜けるほどに白い。薄気味が悪いほどに。
人間とは思えない機械人形を思わせるほど無表情に黙る顔は、人間とは思えないほど端整さを誇っていた。
まるでマネキンのようだ。その整いが逆に人間味を失わせ、人形然としていて不気味ですらあった。
黒く染まる前髪は長く、その隙間から黒瞳が覗いているが、それすらも、気味が悪い。
自分が何を見たのかを正確に認識した時、安定しかけた男の思考回路は容易く崩壊した。
「あぁぁぁぁ!!」
迸る咆哮。
精彩さと覇気を大きく欠いた雄叫びはとても闘争の気合と呼べる代物ではなかった。
単なる恐怖から来た条件反射に近い。
『轟』と空気の壁を打ち抜いて繰り出された拳。
吹き抜けていた風さえも男の突き出した腕によって切り裂かれ、「キィィ・・ン」と耳を劈く断裂音を発していた。
それだけでどれほどの威力を秘めた攻撃なのかも容易く想像できる。
男が握り固めた拳は、人間の肋骨程度、軽々と粉砕できるパワーを持っているだろう。
凄まじいまでの速度で打ち出された拳の弾丸が若者の顔面に狙いを定められ、着弾する瞬間、一閃。
鈍器と化したそれが描く直線に、更に速い速度で横に弧を描く線が重なる。
小気味のいい、本当に小気味のいい音が軽やかなまでに鳴った。
男が放った拳が自分の顔に届く直前、若者は男の拳を肘から薙いだ。
文字通り、手刀によって肘から下を切り落としたのだった。
「あぁあああああっぁぁぁあああぁぁ!!!!」
羽虫でもあしらう感で右手で男の腕を軽く叩き切った若者は、肩で風を切りユラリと近付いて来る。
本能が求めるままに背を向けて走り出そうとした両足が急に軽くなり、視界の高さが低くなる。
ゴロリと妙に重たい音で左へ右へとそれぞれ転がった物体が自分の両足だと気付くのにそうは時間がかからなかった。
それが解ったところで、喜ぶべき何物もありはしないが。
膝から下が綺麗に切断された足で逃げようと試みて、バランスを崩してそのまま前のめりに倒れる。
顔から地面に突っ伏しながら、男はもがきながら、立つ事が出来ない赤子同然の姿で這い蹲りながらもこの場から逃げようとしていた。
その首筋を、男の上から伸びてきた白い指が掴み上げた。
首を後ろから掴まれ、持ち上げられる様は馬鹿でかい猫を持ち上げている光景にも似ている。
捕らえられた人間大の猫は恐々とした目を相手に送りながら、仕切りに首を掴み上げる手を払い除けようと足掻いていた。
首を捕らえる白い五指が万力じみた力で食い込んでいく。
呼吸は頚動脈と共に圧迫され、苦しさよりも、軽く意識が遠のく。
完全に意識が白く染まってしまう前に、若い男の右腕が黒い矢となって胸を貫く映像が網膜を焼いた。
「ぐおお」
肋骨を圧し折り、肉に抉り込んでくる感触はまるで氷の剣に貫かれたかのように冷たかった。
背中を抜けて貫通した腕が引き戻され瞬間、男の意識はそこで完全に途絶えた。
人形師の指から放り出されたマリオネット同然に男の身体は崩れ、地面と熱烈な抱擁を交わす。
両足と胸に空いた風穴から、音も無く血のシーツが円を描いて静かに広がっていく。
男の胸を貫いた若者の右手には、赤黒い物体が握られていた。
弱々しいながらも規則正しく脈打ち鼓動するソレは、心臓。
千切れた血管は少し真新しい鮮血を吹いており、生々しいものであった。
普通の心臓より、色彩が些か強い紅に染まっており、一見するとまるで病に侵された臓器のようだ。
肉と血の暖か味を持つ柔らかい臓器を掌の上で弄び、何の躊躇も無く一気に握り潰した。
朱の雫が若者の熱の無い頬に飛び、白い肌に薄紅を引いていく。
自身の顔を汚す生暖かい返り血にも一向に関心を向ける様子もなく、心臓を握り潰す手にもう一つ力を加えた。
肉を潰す独特の音。
不快感を促進させる実に耳障りな粘液質っぽい嫌な音を粘つかせる。
左手で素早く懐から小さなガラスの小瓶を取り出し、右手を傾け、掌にある物を小瓶へと垂らしていく。
ガラス瓶に流れ込む真紅の血に混じり、鮮やかな真紅に彩られた液体が確かに浮かんでいた。
透明な小瓶に血がなみなみと注がれ、点滅する街灯の光を鮮烈な朱の液体が鈍く吸収していた。
それが果たしてそうと呼べるものかどうかはともかくとして、若者は初めて表情らしいものを顔に横切らせた。
限りなく無いに等しい薄い微笑で、真に微笑みと呼べるものであったかどうかは解らないが、口端が軽く上がったのは確かだった。
小瓶を灯りに翳す彼の横では、胸を貫かれた男の身体がおこりのように痙攣している。
見えない糸に反応しているかのように震えていた手足もやがては静まっていく。
血の海で完全に動かなくなった死体へと冷え切る視線を投げ与え、青年は胸ポケットから携帯電話を取り出した。
「・・・・終わった。後始末と掃除にかかってくれ」
短く告げると、相手の返答など待たず一方的に通話を切る。
後はもう、死体に一瞥も与えなかった。
死体を濡らし、周囲の路面に広がっていく血から強い血臭が放たれて、鼻に付く。
この場に長く留まっていたら喉の奥まで血の臭いが絡み付いてくるように思える。
血の臭いに吐き気を覚えた訳ではないだろうが、次第に濃厚になる臭いを肺に満たしつつ、青年は足を動かし始めた。
足を前へ出す直前に、掌の中の生き血を納めたガラスの小瓶に目を落とし、慎重な手付きでポケットに仕舞い込むのだった。
身体を反転させ、足を一歩踏み出したが、二歩目は出なかった。
曲がり角からヒョコッと飛び出てきた犬が彼の進路を邪魔していたのである。
整った短い薄茶の毛並み。起立した耳。巻かれた尻尾。
何ら珍しくも無い柴犬。
だらしなく開かれた口から舌を垂らし、荒い呼吸を繰り返している。
ガラス球を思わせるクルリとした可愛らしい目が若者に向けられている。
犬の人懐こっそうな無邪気な顔立ちに何の前触れもなく人間臭い表情が浮かび、醜悪な顔に変化した。
左右に大きく開かれ、牙を覗かせる口からは、酷くしわがれた人間の声と言葉が吐き出される。
「裏切リ者・・・・」
人間で言う「憎悪」の感情を顔全体に広げた犬は、搾り出すかにして罅割れた声で吠え立てた。
地獄から響く怨嗟の声だ。冥府から聞こえる呪詛の声だ。
地響きと間違う重く低い声は、死霊や悪霊の類いが出した声だとしても可笑しくないものだった。
気の弱い者ならこの場に居合わせただけで失神しかねない状況の中、
怪異そのものである犬に睨まれた若者は竦むでもなく、怯むでもなく、ただ、怪異に対して一瞥を与えただけ。
研ぎ澄まされた鋭い切っ先の一瞥。滑るでも、投げるでも、向けるでもない、切り裂く視線だった。
殺傷能力さえ備えているような一睨みを受け、犬は動物本能に従い遠吠えを発しながら逃げ出していった。
「卑シキ血ノ末裔ヨ、ノタレジネ!」
遠く離れる犬が振り返り、呪詛を吐き出した。
叫んだ直後、二度とは振り向きもせずに闇夜に逃げ散っていく畜生を、男は冷徹な眼差しで見送る。
闇夜の中に完全に掻き消えたのを確認し、彼――朔夜(サクヤ)は足を動かし始めた。
その進む先に、一切の濁り気を取り払った純然な闇が口を開けているかのようだった。